玉堂美術館 (11月3日)

 この美術館を訪れるのは4回目。前回行ったのは去年の8月なので、ずいぶんと間が空いた。春先に行くと六曲一双の見事な《紅白梅》が観ることができるのだが、今年は都合がつかなかった。

 この美術館は季節ごとにテーマを決めて玉堂の作品を展示している。去年の夏は「水」がテーマだったが、今回はというと「山」をテーマにした作品だった。

玉堂美術館 只今の展示 :: 玉堂美術館 Web :: 東京の奥多摩(青梅)にある美術館:: 日本画の川合玉堂作品を展示しております (閲覧:2022年11月4日)

 幾つかの作品は1~2度観たことがある。そのなかでもやはり目玉的なこちらの作品。

《峰の夕》 1935年

 刻々と夕闇が迫ってくる一瞬を活写したような作品。前景、中景、後景を空気遠近法によって描いている。この時、玉堂は62歳。画風はやや抑えた色調で円熟味を増してきた頃のように思う。

 今回観た玉堂作品は、特に年代順にもなっていないのだが、キャプションの制作年を見ると、玉堂はけっこう若い時期から完成された感じで、若さや、習作的なものが今回の展示に限っていえばまったくない。ぶっちゃけどれも上手いと思える作品ばかりだ。

 玉堂の代表作でも《行く春》は42~43歳の作品で、いわゆる壮年期の名作だが色遣い、明るい雰囲気など若々しさを感じる。それに対して30代の作品はというと、意外と抑えた色調であったり。それがまた60代半ばの頃にも同じ作風であったり。

 そして最晩年の80代の作品、枯れた墨だけの作品が多くなるかというと、とんでもない。この時期の作品は、岩肌、木々、山などのモチーフに過剰に描かれていたり、色彩も豊かだったりもする。老境にあっても玉堂さんは、けっこうサービス精神旺盛にてんこ盛りの作品描いていたような感じがする。

 そういう意味で画風の変化による技術の深みとか、そういう年代順に高まるのではない。それこそ画題やモチーフによって自在に画風を変えることができるような、そういう名人だったようになんとなく思った。

 川合玉堂は、京都で四条派望月玉泉の門に入り、その後円山派幸野楳嶺に師事しする。さらに上京して狩野派橋本雅邦に入門する。そういうキャリアとともに写実的な表現で山河を描いたということで、円山四条派と狩野派のそれぞれの表現を取り入れたという風に、美術史の本では解説される。さらにいえば、それまでの日本画における風景画が、粉本による中国神仙の山河の模倣であったのに対して、初めてリアルな風景を写実的に描いた。

 それまでの日本の絵画においては、洋画や浮世絵風景画をのぞいては、実際の風景を写実したものはなかったということだ。そこから川合玉堂といえば、日本の原風景を描いた画家といわれるわけだ。その技法は樹木の写実的な表現、山肌、岩肌には狩野派的な伝統描法、皴法が多様されるし、時にはたらし込みなども使う。そういう技術については長けた人だったのだろう。

 美術館のロビーでは玉堂の人となりを紹介する15分のビデオが流されている。玉堂の画業をまとめたものだが、そこでは生前の玉堂が写生をしたり、画室で実際に絵を描く姿が残っている。それを観ていると、本当に筆先を自在に使って一気に描いていく姿が映されている。下書きもなにもない画材にスラスラと筆先を滑らしている。名人といわれる人なのだから当然といえば当然なのだが、その自然体ともいう姿で描いていく様にはある種感動すら覚える。

 

 玉堂美術館の魅力はもちろん川合玉堂の絵ではあるが、もう一つは庭園であり建物自体の美しさにある。ウィキペディアの記述によれば設計は吉田五十八である。数寄屋造り建築の第一人者で、確か岩波茂雄の熱海の別荘惜櫟荘の設計を手掛けている。岩波茂雄が戦況が悪化する時期に、思い入れたっぷりに建てたその建物については、安倍能成が書いた岩波茂雄の伝記に写真が載っていた。その吉田五十八である。そして庭園を設計したのは造園家中島健。中島は吉田茂田中角栄の邸宅の庭園を作庭した著名な人だ。ようするにこの美術館は由緒正しき名建築物なのである。

 まだ紅葉の見頃には早いが、ところどころに黄色や朱に染まった木々が散見する。もう1~2週間すれば、周囲の御岳渓谷ともども美しい紅葉に囲まれることになるのだろう。

 家からは車で小1時間の距離である。この美術家にはこれからも季節の折々に訪れたいと思っている。