新聞の訃報欄を見ていて目に入ってきた。なんとも懐かしい名前である。
NHKプロデューサーから作家に転身。ベ平連の中心メンバーの一人として活躍した。
そうだった、この人はベ平連の人として記憶していたんだった。割と温和な話ぶりをされる人だった。彼の経歴をウィキペディアで改めて見てみると、作家、ジャーナリスト、大学講師などを続けていたが、一貫して在野の人だったのだと思う。そしてなによりもベ平連のメンバーとして記憶される人。
改めてベ平連についてもウィキペディアを確認する。ちょっと笑ってしまったのが、いま「べへいれん」とIMEに入力しても「ベ平連」と変換されないのである。時代は変わったのかもしれない。
60年安保の時に思想の科学研究会メンバーだった小林トミを中心に自発的な市民団体として生まれた「声なきこえの会」。思想の科学の中心メンバーだった鶴見俊輔と「声なきこえの会」の事務局をしていた政治学者高畠通敏が中核となってベ平連のは生まれた。そのリーダーに小田実を持ってきたのも鶴見俊輔だったと、何かで読んだ記憶があるな。
ベ平連は1965年4月に正式に発足した。多くの文化人が集ったなかで比較的中心メンバーに近かったのは小説家の開高健、哲学者の久野収などだった。
さらに共産党を除名されていた吉川勇一が事務局長に就任した。吉川は東大を退学になったあとは共産党の専従として活動を続けていたが、原水爆禁止世界大会で共産党の方針に反対意見を表明したことで除名処分を受けていた。
のちに不破哲三は吉川勇一がソ連共産党のスパイだったと激しく非難している。吉川からすると、ベ平連の活動の一つとして米兵脱走支援を行うとき、シベリア経由での脱走を行うために、使えるものはソ連共産党でもKGBでもなんでもありというプラグマティックな理由を述べていた。
ちなみに吉川勇一は1931年生まれ、不破哲三は1930年生まれ。二人とも同時期に東大で共産党員として活動する秀才であった。
またベ平連には新左翼党派共労党からいいだももや武藤一羊、花崎皋平も加わった。吉川勇一も共労党のメンバーだった。
吉川勇一の職業は長く予備校講師だった。そういえば小田実も吉川勇一も長く代々木ゼミナールの講師を続けていた。元東大全共闘の議長だった山本義孝はその後長く駿台予備校の講師を続けながら、市井の物理学者として物理学、科学史の分野で魅力的な著作を続けていた。
ベ平連が生まれたときに、その中心メンバーはいくつだったのだろう。
氏名 生没年 1965年当時
鶴見俊輔 1922-2015 43歳
高畠通敏 1933-2004 32歳
小田 実 1932-2007 33歳
吉川勇一 1931-2015 34歳
小中陽太郎 1934-2024 31歳
いいだもも 1926-2011 39歳
開高健 1930-1989 35歳
佐藤忠男 1930-2022 35歳
久野 収 1910-1999 55歳
戦前から京大学派の哲学者として活動していた久野収以外はみんな戦後に活動した学者、文化人たちである。ある時期にベ平連を中心に活動した学者、文化人たち、「あの時、きみは若かった」と。そしてみんな鬼籍に入ってしまった。