とりあえず一本作成したレポートの草稿みたいなもの。多少手直しして出しちゃおうかと思っている。
日本の音楽は、遣唐使の時代に唐から中国の雅楽が輸入され、宮廷音楽として日本独自の雅楽が発展した。また中世には琵琶楽、平曲、謡曲、能、歌舞伎桶などが生まれ、総称として邦楽が成立した。また明治期には西洋の音楽=洋楽が流入して、邦楽と洋楽の二本建てとなった。
しかし実際には、江戸時代に、中国由来の音楽が日本に伝来して、大衆的にも一定の広がりがあった。この中国伝来の音楽が明清楽であり、明治の初期から中期までは、日本の音楽は邦楽、中国伝来音楽、新たに流入した洋楽の三本立てが実態に近かった。しかし日清戦争(1894-95年)以来、中国由来の音楽は廃れていった。
中国伝来の音楽は、琴楽、御座楽、路地楽、明楽、清楽などがあり、それぞれ伝来ルートが異なる。琴楽は杭州から長崎に伝わり、東皐心越の系譜で文人などインテリ層に広まった。御座楽、路地楽は福建から琉球、薩摩に伝来した。明楽は明王朝から長崎、京都に伝来した明王朝の廟堂音楽(宮廷音楽)であり、支配層や文人の間に広まったが、明治初期には清楽に吸収された。清楽は寧波から長崎に伝来した大衆的な謡曲で全国的に広まった。特に「九連環」や「茉莉花」などの曲は、明治初期の一般向けの楽譜にも盛んに収録されていた。
明清楽とは、江戸時代に中国から日本に伝来した音楽で、明王朝の廟堂音楽(宮廷音楽)である明楽と、清朝時代の民間謡曲である清楽との総称である。
まず明楽は声楽を主体として、楽器伴奏や舞を伴う荘重な音楽である。音楽のジャンルとしては中国雅楽や燕楽等が中心である。日本には明末清初に、明の商人で福建省出身、後に日本に帰化した魏之琰が伝えたもので、魏之琰は長崎だけでなく京都にのぼって内裏で演奏した。魏之琰から四代目にあたる魏皓は、自身の家で伝承されていた明楽を広めたいと考え、京都にのぼって諸侯の前で明楽を演奏して評判となった。姫路藩主の酒井雅楽頭は魏皓を庇護したため、魏皓は京都で100人もの弟子を抱えるようになった。また姫路藩でも明楽は伝承されたが、魏皓の死後は衰退していった。
清楽は民間謡曲で、明楽とは異なり特定の個人がもたらした音楽ではなく、来日した唐人によって何度も伝えられた。清楽を伝えた唐人は、金琴江、江芸閣、林徳建などがいる。こうした唐人や中国商人から、通訳である唐通事や役人、丸山の遊女などを介して長崎市中に広まり、庶民から文人階層まで幅広く愛好された。清楽は、明楽が内裏や諸侯など支配階級に伝わったのに対して、広く大衆の間に広まっていった。
日本伝承された清楽は、小調(小曲、俗曲、時調)や江南糸竹などであり、代表的な曲は「九連環」、「茉莉花」などがある。清楽で用いられる楽器は、月琴、唐琵琶、三弦子、古琴、清笛、嗩吶などであった。
明治初期から中期まで、清楽は大衆音楽として普及しただけでなく、常磐津や清元節など比べ品行正しい雅な遊びとして中産階級以上の子女の習い事としても流行した。
しかし日清戦争以後、国内ではナショナリズムの勃興とともに、中国への蔑視感情が高まり、清楽は敵性音楽ということもあり急速に廃れていった。