Twitterをやめてみる

 ツイ廃かもしれないというくらい、ずっとTwitterを続けている。いつ頃からやっているのだろうか。4~5年前にダウンロードしたデータをみると2010年の1月が初ツィートのようだ。

 

 ある意味、その時その時の気分みたいなものや、政治、経済、文化などへの感想、もっと直接的に、観た映画や読んだ本の感想などの記録みたいなもの、ようは個人メモみたいなことでずっと続けてきた。

 でも最近のTwitter、いやXはどうも違うものになってしまった。ある種のアルゴニズムや自分がフォローしたりフォローされたりという部分から、多分関心がありそうだなと思うものが多数タイムラインにのる。それと同時に膨大な広告が。この広告に興味がありませんとすると、すかさず有料にすれば広告が出ないという誘導になる。

 さらにいえば政治的なツィートは(あえてポストは使わない)、とんでもないような陰謀論や右寄りの偏った、よくいうネトウヨ的な論調のものが大量に流れてくる。その都度、「興味なし」、「ミュート」といった操作を果てしなくする必要もあったりする。

 広告とゴミのようなツィートは、イーロン・マスクの買収によって加速したのではないかと、そんなことを思ったりもする。まあ右寄りの人たちからすれば、左翼的な言説、ツィートも山のようにあるということになるのだろう。

 SNSにはそれを読み取り、真偽を含めて判断するためのネット・リテラシーが必要だとはよく聞く話だ。リテラシーは直接的には「読み書き能力」のことだが、ここでは情報の取捨選択する、真偽を判断する能力のことになる。それがないと、果てしなく流される偽情報、陰謀論、偏った情報を受容していく。人は簡単に陰謀論者や、偽情報に染まるということだ。

 よく子どもたちがネット利用する際には、フィルターが必要だという話がある。要は教育や社会経験によるネット・リテラシー能力に乏しい若年者は、簡単に偽情報を受容してしまうと、そういうことなんだろう。

 でも、実はそれは子どもたちや10代、20代の若者だけの問題ではない。「読み書き能力」、「情報の取捨選択能力」は、実は大人もないのではないのか。さらにいえば、十分に社会経験を積んだはずの中年層、高齢者も同じようにリテラシーに欠けるのではないか。

 ネット右翼陰謀論にはまった高齢者の話は沢山ある。父親や母親が偽情報にはまってしまったという話は、書籍でもいくらでもある。実は多くの人間は、膨大な情報が押し寄せてくる環境など経験していないし、その中での受容の仕方などの訓練はおそらく積んでいないのではないか。

 リテラシー能力はどうしたら身につくか。一義的には教育によるのだろう。でも今の受験や資格に受かるための技術となった教育で、そんな能力は身につかないのだろう。やはり読書、それも様々な教養書に触れることが必要なのだろう。哲学や思想、文学、などなど。リベラルアーツとしていわれる「自由学芸」、「教養諸学」といったものだ。端的にいえば岩波文庫講談社学術文庫、今日的には光文社の古典新訳文庫など。それらを若い頃にどれだけ読んでいるか。たぶんそういう読書経験が読み書き能力につながるのではないか。

 自分自身、長く出版業界にいたから判るが、それらの一般教養書がここ20~30年でどのくらい売れなくなったか、読まれなくなったかは、実感として判る。古典や教養書の凋落ぶりといったら。

 かってはよくいわれたことだが、お堅い本を出す老舗出版社岩波書店は、専門書出版社とされている。でも実はあそこが出しているのは主には一般教養書が中心だった。文庫や新書もそうだったし、単行本の多くも実は純然たる専門書ではなかった。専門書の出版社といえば、たとえば大学出版部や教科書系の出版社。法律でいえば有斐閣や弘文堂、自然科学書でいえば朝倉や培風館、工学書はオーム社などなど。そういう括りだったし、自分などはそう教わってきた。

 今の読書として消費されるのはどんなものなんだろう。教養書やビジネス書では、自己啓発的なものが多かったりするのだろうか。古い自分などからすると、ああいうのは『人を動かす』とかそんなものだけだったのだが。自分が文系だからということもあるが、例えばビジネス系の教養書といえば、日経から出ていた『ゼミナール日本経済入門』とかそれにあたる。『サムエルソン経済学』は教科書みたいな風だったか。

 

 まあいい。とにかく読書が実用書や自己啓発書などに集中し、文学もエンターテイメント系が中心になっている。そういう状況が何年も続いていれば、リテラシー能力はたぶん習得できないのではないかとそんなことを思う。

 でも多分反論もありそうだ。自分が今述べたような教養を身につける、それがリテラシー能力を高めるというのは、もう古い、古い感覚によるものだ。今や溢れかえるネット情報の中でもきちんと取捨選択は可能だ。逆に、子どもの時からネット環境に慣れた若い世代ほど、情報の真偽を判断する能力が身についている。多分、簡単に陰謀論のとりこになるのは情報弱者、主には中高年のおじさん、おばさんたちではないかと。

 

 世界は流れてくる情報により、個々の市民が投票行動にも簡単に影響を与えられるようになってきている。たぶん今回のアメリカ大統領選で共和党の候補者が圧勝したのも、ネット戦略をうまく使ったことが大きかったのだろう。ひょっとしたら、その準備は用意周到に何年も前から行われていたのかもしれない。イーロン・マスクTwitterの買収もその一環だったのかもしれない。

 

 今夏の東京都知事選で全国的な知名度がない中国地方の自治体の首長経験者が、躍進したのもネットを見事に活用したことによるとか。伝えられてきた情報によれば、ハラスメントで自殺者まで出し、議会で不信任された元知事が選挙で返り咲いたらしい。

 

 なにか世の中はとんでもない世界になりつつあるのかもしれない。おそらく民主主義が浸透した先進諸国では、今後ネットに資本力を注力して世論をつくり出せば、意のままに市民の投票行動を操ることができる。それが様々な場面で実証されていくのだろう。権威主義国家とされる中国やソ連はより直接的にネットを一元的に支配するが、それと同じことが多分民主主義国家でも行われる。

 

 アメリカ大統領選は、まさにイーロン・マスクが意図したとおりの結果になったといえるのかもしれない。それを思ったとき、なんとなくもうTwitter=Xの中に身を置くのはしんどいなとそんなことを思った。

 日々の記録、ちょっとした思いつき、生活の感想、それらはどうか。別に日記かなにかで表出していけばいいのかもしれない。とりあえず2年くらい前に作ったマストドンのアカウントがあったので、それを使っていこうかと思ったりもする。マストドンはいい。流通量も以前よりだいぶ多くなっているけど、基本的に平和だ。少なくともマストドンの中では、向こう4年間のアメリカ大統領の悪夢も伝わってこないはずだ。

 

 健康寿命でいれられのはあと3年くらい。たぶん本を読んだり、映画を観たり、音楽を聴いたり、それをこれまでのように続けられるのも同じくらいの年月だろうか。それでなくても最近は関心事が少なくなってきている。本を読む時間も以前に比べて圧倒的に少ない。映画も観ていて以前ほど面白く感じない。そもそも新しい映画を観ようという気も起きなくなっている。音楽も新しいものは聴かない。なんか最近は同じものばかりを聴いているような気がする。ボサノバとかビートルズとかばかり。

 

 いろいろなことへの関心がじょじょに薄れていく。能動的に何かをしてみる、受容することが少なくなる。これも多分、老いの一つなのかもしれない。

 

 今回、Twitterをやめようかというのも実は老いからくるものかもしれない。とはいえアカウント自体はまだそのままにしているし、ときどきタイムラインを眺める助平根性は残っているみたいだ。

 でも、アメリカ大統領選以来一度も投稿はしていない。シビアな世界に耳を塞ぐ。老い先短い人間には、この世界はいささかハード過ぎる。そんな感じだろうか。

 そしてマストドンに、草花や月の写真をアップする。そういうものだ。