群馬県立近代美術館「江戸と上毛を彩る画人たち」

 9月18日から始まった企画展「関東南画のゆくえ 江戸と上毛を彩る画人たち」を観る。展示作品は谷文晁、金井烏州、高久靄厓、渡辺崋山、立原杏所、椿椿山、福田半香、菅井梅関、春木南香、矢島群芳、松本宏洞などなど。

 正直、谷文晁と渡辺崋山以外はほとんど知らない。そもそも関東南画とはというと、18世紀に文人画などの中国絵画に影響を受けておこった南画が当初は関西で始まり、それが江戸に伝播し、谷文晁を中心に江戸で広まったものらしい。そしてその流れで上毛で金井烏州、矢島群芳、松本宏洞が活躍したという、ご当地関連型の企画展ということだ。

 しかし南画とは何か。展覧会ガイドの冒頭にはこういう説明がある。

「南画」とは、江戸時代の画派の一つです。中国の文人画などの影響を受けて、日本で独自に発展した絵画様式です。日本の画家たちが、主に中国の「南宗画」を手本にしたことから「南画」と呼ばれるようになったといわれています。

 「南画」のうち、関西から江戸に持ち込まれ、様々な画風を取り入れながら関西とは異なる展開を見せたものを「関東南画」と呼びます。

「関東南画のゆくえ 江戸と上毛を彩る画人たち」展覧会ガイド P2

 「文人画」、「南宗画」っていうのはなんなんだ。ようは中国絵画の影響にあるということはわかったが画風や技法については説明がない。それは現物を観て理解しろということだろうか。

 しかたがないので日本美術の教科書的な本、美術出版の『カラー版日本美術史」巻末の用語解説を見てみる。長くなるけどそのまま引用する。

南宗画

中国明時代に菫其昌(とうきしょう)が提唱した画風。文人画とほぼ同義語。禅宗が唐時代に南宗禅と北宗禅に分かれたのち北宗禅がほろんだことになぞらえて、宮廷の画院画家による北宗画に対し、在野の文人高士らによる絵画の優位を示すために、自らを南宗画と呼んだ。始まりは北宋の菫源。巨然の絵画様式に求めた南宗画は明清時代に一般化した。

文人

文人の描く余技的な絵画をいう。南宗画とほぼ同義語。文人画はあくまで自ら娯しむ(自娯)ために描くものであり、職業的に絵を売ることはな行わない。中国の士大夫の自然主義的な生活態度を理想とし、日本ではいわゆる「南画」として発展した。実際には絵を売って生活するものが多かったが、武家としての生活を捨て脱藩したあと、飄々たる隠遁生活を送り、自分と友人と理解者にのみ絵を描いた浦上玉堂のような例もある。明治期には富岡鉄斎が活躍した。

 説明が冗長で的を得ていない。これって辞書によくあるカテゴリー問題ではないのか。あるいは適当に冗長巡回型語義って名付けているよくわからないやつだ。カテゴリー問題っていうのは、「カテゴリー」を辞書でひくと「範疇」とあり、「範疇」を弾くJと「カテゴリー」と出るやつ。冗長巡回はなんとなく音的な部分と堂々巡り的なイメージから適当に言ってるだけだけど。

 ようは「南宗画」と「文人画」は同義であり中国画の画風のようだ。しかしだ、日本画というやつはほとんど中国画の模倣から出発している。日本の南画だか文人画だかしらないが、それらが中国画の模倣しているといっても、例えば日本画のメインストリームの狩野派だって、「粉本」という形で中国の絵の徹底的な模倣で成立している。まあしいていえば中国では宮廷絵画と差異化すべく在野の画家たちが自らの絵を南宗画と呼んだとかそういうことだろうか。

 自分への理解のためにも、もう少し引用を続ける。今度は画廊さんのサイトからの引用。

心は仙境に遊ぶ ~南画・文人画~ | 美術品販売|東京銀座ぎゃらりい秋華洞

中国山水画において、在野の文人画家が取り上げた山水画である「南宗画」。
日本における「南画」とは、その「南宗画」を中心とした中国絵画の影響を受け、江戸時代中期頃の日本において盛んになった山水画を主とする絵画様式のことです。

描かれるのは、あるときは中国を起源とする理想の山間風景、
またあるときは憧れの隠遁生活、そしてまたあるときは自由な仙境世界といった山水画
引用や自作の漢詩を添えて描かれるものが多く、詩書画が一体として味わえるのも見どころ。

 この画廊の販売する絵の中には橋本関雪川合玉堂なんかも入っている。いわれてみれば玉堂の絵にはそういう雰囲気のものもあるし、けっこう詩文とかも入っていたりする。

 さらに他のサイトとかも参照してみる。

南画(水墨画)の技法一覧|はじめての日本画の描き方と技法講座 画材解説

南画の特徴は墨の濃淡で表現された禅的な表現や、中国や朝鮮の貴族文化を模倣した理想郷や欄や梅や松など大陸の貴族が愛でた縁起があり貴族にゆかりのある植物画によって儒教などの価値観を表現した作品がよく見られます。

 なるほどなるほど。「墨の濃淡で表現された禅的な表現」というのはよくわかる。ただし「貴族文化を模倣した理想郷」というのはどうか。確かに高貴な感じの人物を配して山や滝、渓谷などを描く風景画は貴族文化風ということか。自分にはなんとなく老荘思想や仙人がのいるような理想郷のイメージがあったのだが。さらにいえば「南画」と称される絵に描かれる植物-欄や松、動物-鶴などは、ある意味すべて貴族趣味を象徴しているということになるのか。

 

 日本画の解説における流派は技法の解説とその流派の歴史性や集団の特徴性とかがまざりあっていて、的を得ていないような気がする部分もある。例えばメインストリームの「狩野派」と「琳派」の解説においても、その画風についてだと「狩野派」が粉本をもとにした模写等による技術の伝承性とかをいうが具体的にはの説明が意外と不足している。

また「狩野派」が世襲や同門による技術の継承性に対して、「琳派」は私淑という言葉によって表現されることがあるが、時代や空間を離れた影響によって伝えられていくことが語られたりする。まああと「琳派」というとデザイン性といわれるけど、そのへんも今一つ理解できなかったりもする。ようは具象からデフォルメ化された形象とかそのへんのことをいっているのかどうか。

 まあいいか、ニワカの鑑賞者なので今一つ理解が足りていない。そのため今回の企画展でも絵もさることながらキャプション=解説を読む時間が多かった。そしてキャプションの情報量が多い。きっと解説好きというか、とにかく持っている知識を網羅して伝えたがりの学芸員の方が頑張ったのだと思う。ただちょっと意あまって・・・・・。

 結局、南画のなんたるかが今一つ理解が進まないまま現物を観ていく。でも今一つ南画についての理解が足りないというか、理解が深まらない。山水画との違いも今一つだしとか。

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赤壁図』(谷文晁)

 いい絵であることは間違いないと思う。こういう中国のある種の理想郷を描いた見事な絵という部分でなるほどこれが南画かということか。技術的には空気遠近法みたいなものがあるか。

 適当な思いつきだが、こういう中国の理想郷というのか、具体的な桂林のあたりの風景を描いた風景画。まあ実際にもある風景なんだけど、繰り返し描かれることによってある種の理想郷、原風景のようなテーマとなっていったのではないかと思ったりする。 

 そしてそれを日本の風景にあてはめて描いてみせたのが、実は川合玉堂の風景画とかではないかと。もちろん若い頃から奥多摩に写生のため訪れ終の棲家とした川合玉堂には、奥多摩の風景が慣れ親しんでいたとは思う。でも彼が描いた景色は単なる写実とは異なるある種の原風景みたいなものになっていったのかとも。まあ本当に適当な思いつきではあるけれど。

 展示作品については谷文晁も渡辺崋山、金井烏州、立原杏所、椿椿山などなどみんな画力があって見事な絵ばかりだ。後期展示には谷文晁の『富嶽図屏風』なども展示されるという。もう一度行きたいとは思っている。

 しかし、どうでもいいことだけど、渡辺崋山文人画として括られるのは、もちろん谷文晁の門下筋というのもあるけど、彼が田原藩の家老であったという出自もあるのではないかと思ったりもする。家老でありながら絵を嗜んでいた=文人みたいなところで括られたのではないかと。もっとも田原藩は碌高も低い貧乏藩だったので、家老という要職にあっても渡辺崋山は絵を売ることで生活していた部分もあるって何かで読んだことがあるけれど。