トーキング・ヘッズ-STOP MAKING SENSE

 

 Amazonプライムで観た。

 トーキング・ヘッズはもちろん知っている。ニューウェーブ系とかなんとか。デイヴィッド・バーンの神経症的なボーカルとパフォーマンスとかを見たことがある。でも考えてみたらきちんと聴いたことがない。どちらかといえば苦手なタイプだったか。

 Amazonプライムでは音楽系のビデオ、ライブだったり、ドキュメンタリーだったりがけっこう配信されていて時々観る。ウェストコースト系のフォークロックのドキュメンタリーだったり、ザ・バンドのものだったり、モータウン・ミュージックものだったりとか。

 トーキング・ヘッズ「Stop making sense」のタイトルが目に入ってきてずっと気になっていた。「意味づけすな」というのがけっこうくすぐる。まあ通して観る、聴くのではなく、ちょっと流していてしんどかったら止めてしまおうぐらいの気持ちだ。深夜なので退屈だと止めるかそのまま寝てしまうか。よくある話だ。

 でもこのライブのドキュメンタリー、けっこう食い入るように観てしまった。まず最初にラジカセとともに登場したデイヴィッド・バーンが、ラジカセから流れるリズムボックスとともにアコギ一本で代表曲「サイコキラー」を歌いだす。実際はバックでドラムマシーンが使われているようだ。続いて「ヘブン」をバーンが歌いだすと、ベースのティナ・ウェイマスが登場する。次の曲、次の曲でそれぞれドラムのクリス・フランツ、ギターのジェリー・ハリソンが登場する。面白い演出。

 それからキーボードやギター、パーカッション、バックコーラスが加わっていく。このライブは1984年にハリウッドのパンテージズ・シアターで行われた4回のライブをまとめたもだ。監督はまだメジャーデビューする以前のジョナサン・デミ。『羊たちの沈黙』の監督だ。そして1時間27分のライブ演奏が続く。

Stop Making Sense - Wikipedia

 1984年のライブを40年を経て観ている。このへんの感覚がなんとも不思議だ。そしてトーキング・ヘッズの音楽はけっして古びていない。ところどころ時代性を感じさせる部分があるにはあるが、さほど気にならない。この40年、さほどミュージック・シーンは変化していないのかもしれない。

 いわゆるニューウェーブ系はなんとなく苦手にしてきた。そして80年代というと、いわゆるベストヒットUSAではないが、ヒット曲を適当に聴いていることが多く、聴きこむようなことはなかったのかもしれない。なので当時としては尖がっていた、ある意味先進性のあったトーキング・ヘッズはすり抜けてしまったのか。

 でも今、聴いてみると、ギターリフがいいし、パンクやニューウェーブというよりもファンキーな音楽が多い。なんとなくだがシンセサイザーを多用したポップ系ファンキーバンドみたいな感じだ。まあ今更なに言っているんだよと、まあそういうことではあるけれど。

 改めてトーキング・ヘッズについておさらい。

トーキング・ヘッズ - Wikipedia

Talking Heads - Wikipedia

 1975年に結成され1991年に解散。メンバーはデイヴィッド・バーン、クリス・フランツ、ティナ・ウェイマス、ジェリー・ハリソン。何よりリード・ボーカルのデイヴィッド・バーンのキャラクター、才能が全面に出たバンドだった。そして途中でプロデューサー、ブライアン・イーノとのコラボ作品が生まれていく。ミュージック・シーンではバーンとイーノの環境音楽みたいなことで括られることが多い。自分もそんな情報をいろいろと読んだり、聞いたりした記憶がある。

 そしてバンドの後半及びソロになってからデイヴィッド・バーンはワールド・ミュージックに傾倒する。トーキング・ヘッズの曲でも大胆にアフリカ系のリズムが取り入れらている。

 バーン以外ではベースのティナ・ウェイマスが異彩を放っている。ジャンプスーツから一転フェミニンなミニスカートでグルーブ溢れるベースを弾く。この人のミニスカート姿はなんていうんだろう、男に媚びる感じがない。「あたしが何着ようと勝手でしょ。別に可愛くするの嫌いじゃないし」みたいな。そしてベースラインがけっこう攻めてるというか、多分トーキング・ヘッズのグルーブ感、ファンキーな雰囲気はこの人のベースによるところが大きいみたいだ。70年代から80年代、バンドでベースを女性がやるのは珍しかったし、けっこうこの人のスタイルがロールモデルになったかもしれない。そんなことを思ったりもした。

 ティナ・ウェイマスは結成当時ドラムのクリス・フランツの恋人で、もともとベースがいなかったので彼女が練習してベースを担当するようになったという。フランツは彼女にスージー・クアトロのレコードを聴いて練習するようにとアドバイスしたとか。のちにウェイマスとフランツは結婚し、トーキング・ヘッズの活動と並走してトム・トム・クラブというユニットでも活動する。

 ティナ・ウェイマスのベースは多分、その後の女性ベーシストにけっこう影響を与えているとは書いたが、そのさらに先行したアイコンがスージー・クアトロだったとは。確かに彼女の登場はけっこうインパクトがあった。ただしクアトロとウェイマスは二人とも1950年生まれの同い年で74歳になる。なぜか遠い目になってしまうけど。

 ということで今更ながらにトーキング・ヘッズがなんとなくマイ・ブームになりつつあるのだが、食わず嫌いだったせいか実は1枚もCDもない。なのでとりあえずベスト盤を入手することにする。

ベスト・オブ・トーキング・ヘッズ

ベスト・オブ・トーキング・ヘッズ

Amazon

 

 中古盤である。2枚組で33曲を収録。ヒット曲、有名な曲はほとんど網羅されている。多分、これで十分かなとも思ったりする。しばしトーキング・ヘッズがマイブーム的に聴くことになりそうだ。

 しかし1956年生まれのジイさんが、1975年結成1991年に解散したもはや歴史に記録されるようなバンドを新たに聴く、ハマる。あらゆる音楽は同時代性を帯びている。そんなようなことを言ったのはブライアン・イーノだっただろうか。

1月の日誌的

1月7日(火)

 夕方、妻とバーミンヤンで夕食。

 

 暮に新聞の折り込みチラシに入っていた割引クーポンがあるのでかなり割安にいろいろ頼めた。特に生ビールが半額が嬉しい。おまけにこのクーポンは番号をオーダータブレットに入力するので、何度でも利用可能。期限は1月22日までなので、もう一回くらいいけそうな気がする。

 

1月8日(水)

 通信教育で続けている大学の履修についてまとめる。これまでの取得単位は60単位で、卒業要件の62単位まで残り2単位。なので冬期に卒業研究を出せば2単位取得で卒業できる計算になる。でもよくよく履修要綱を観てみると、取得単位60単位のうち専門科目58単位取得が必要なのだとか。そして自分の場合、専門科目は53単位しか取れていない。ということで今期での卒業はできないということらしい。

 

 思えば3年次編入で2年で卒業のはずが、すでに3年目。そしてさらに1年必要ということで結局4年かかるということ。もっとも卒業研究が認められなければさらにもう1年である。通信教育の難しさを実感しているところ。

 

1月9日(木)

 午後、早めに家を出て妻と坂戸のビオトープへ。寒いが気持ちのいい冬の日という感じ。とはいえ日が暮れるのは早く、高麗川大橋を過ぎたところにあるコミュニティパークでトイレを借りて出た頃にはもう辺りは暗くなっていた。そして駐車場に戻った頃にはもう真っ暗になっている。

 

1月10日(金)

 終日、自室に籠り一応学習。TSUTAYA図書館、美術館と図書館を融合した太田市立図書館、撤退した商業施設を図書館にリノベーションした都城市立図書館、そして自治体が経営する書店、八戸ブックセンターについてメモをとる。これも一応学習なのである。

1月11日(土)

 Netflixで『6888郵便大隊』なる映画を観る。第二次世界大戦中、黒人女性だけで編成された郵便大隊のエピソード。当時ヨーロッパ戦線で郵便の遅配が恒常化していたため、その改善のために投入され、半年以内に改善するよう求められたところ、90日で遅配を改善したという話。なかなかよく出来ていた。

6888郵便大隊 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト

1月12日(日)

 毛呂山のデンキチという埼玉だけで展開する家電量販店にエアコンを見に行く。妻の部屋のエアコンは2006年に購入したものですでに18年経過している。10数年特に問題なく使えていたが、さすがに最近は冷房、暖房とも利きがかなり悪くなっている。

 

 そして自分の部屋のエアコンもここ数年は利きがめっきり悪くなっている。たしか2012年にリビングのエアコンと一緒に買ったものでこちらは12年経過している。いずれも富士通製でリビングのものは18畳タイプで、10年保証が切れる直前に上下、左右に動くファンが故障。サービスを呼んだところモーターの交換。ついでに冷媒ガスがほとんど抜けていたということで入れてもらた。なのでそれ以降も割と調子よく動いている。

 大型だし、当時としては珍しいお掃除機能もついていたので、ある意味富士通フラグシップ系だったように記憶している。

 それに対して自室につけたのはエントリータイプの廉価版。こっちは最初から室外機がキュルキュル音がするとかして、サービスを呼んだこともある。そのときはこの音は故障ではないので、保障外とかいわれた。多分に外れ躯体だったのではないかと疑っている。

 そういうこともあり、そろそろ買い替え時かなと思っていた。今回は、正月の特売チラシを見ていて、この量販店が一番安そうだったので行ってみることにした。

 一応、チラシに乗っている目玉品を2台リストアップ。一つは東芝製でお掃除機能とかもついているもの。もう一つは富士通のものでとにかく安い。工事費込みで6万弱とか。一応、その日はかんたんな見積もりを出してもらった。

 その後はまた坂戸のビオトープの遊歩道をぐるりと回った。

1月13日(月)

 世間的には成人式かつ三連休の最終日。リタイアした高齢者にはなにも変わりのない普通の日。

 午前中、前日に行った家電量販店に再び行く。昨日決めた東芝製、富士通製を購入するつもりだったが、売り場の担当と話しをしているうちにだんだんと違うものになっていく。まず富士通が落ち、次に絶対にこれは買うつもりでいた東芝製の新型機種でお掃除機能やWi-Fiがついたものが落ち。変わりにダイキンが浮上。さらに東芝のエントリーモデルを勧められ、工事費込みで2台で16万くらいになった。

 いずれも2階に設置だが、自分の使うものはベランダに室外機を設置できるのだが、妻の部屋のものは室外機は1階に置くため延長工事が必要になる。多分それはプラス3万~4万くらいかかる予定。まあこれは仕方がないな。

購入したのはこの2台。

ダイキン AN224AES  77000円

東芝   RAS-N221M  57750円

これに既存のものの取り外し、リサイクル、高所作業台などが加算された。

 家の家電製品は、リビングのエアコンが12年購入で12年経過。洗濯機が2013年に購入で11年経過。そして冷蔵庫が2016年購入なので8年目。いずれ近い時期に買い替えである。そして外壁塗装、屋根の塗装も一度目が2014年にやったので10年経過している。いろいろ物入りが続くことを思うと、もうため息しか出ない。

 これから1~2年で買い替えラッシュがあったとして、次の10年となるともう80歳超えになるから、たぶんこの世にいない可能性が高い。いろいろと淋しいね、先のことを考えると。

 

 午後は車のディーラーへ。予約していた半年点検を受ける。走行距離は6ヶ月で8500キロくらい走っている。このペースでいくと1年17000キロ、3年で5万キロオーバーだ。3年後の車検時にまた買い替えみたいなことになるのだろうか。

1月14日(火)

 終日自室にいる。

 夕方、妻がデイサービスから帰宅後にアイブロウが欲しいというので買い物に。スーパーの化粧品売り場で、メディアのアイブロウを2本購入。ついでに口紅も欲しいというのでこちらはたしかケイトのやつを買った。

1月15日(水)

 午前中、自室にこもる。

 午後はAmazonプライムで『オッペンハイマー』を観た。ずっと観たかったやつで確か去年のアカデミー賞を総なめしたもの。

 アメリカの原爆の父オッペンハイマーの伝記映画で重厚な作品。たしかにアカデミー賞に値する作品だとは思った。

 ただし唯一の被爆国である日本からすると微妙な感じもしないでもない。結局、アメリカ的には広島、長崎への原爆投下は戦争を早く終わらせた、兵士を必要以上に死なせることなく、早くに帰還させることができたという成果があった。ゆえに原爆投下は正しいという論理に貫かれている。

 まあ白人国家的には、原爆落としたのは有色人種の国だから痛痒は感じないとそういうことになるのだろう。

 深夜、「新しい図書空間」についてのレポートを書く。3200字以内という指定なのだが、多分3500字くらいになった模様。

1月16日(木)

 富士美に行く。これについては別に書いた。

 夜、ヤフオクでシャープのブルーレイ・レコーダーを落札する。先週だったか、リビングで使っていたマクセルのIVRレコーダーが動かなくなった。画面に「ER FAN」と表示される。おそらく冷却ファンの故障らしい。ネットで調べると、けっこうそういう症状が出るのだとか。冷却ファンを交換すれば直るらしいのだが、すでにIVRレコーダーは製造中止になっているし、部品の製造も終わっている。もはや打つ手なしだ。

 IVRレコーダーはカセット式のHDDを別の機種で使える、撮りためたものを視聴できるということで、一部にファンも多かったのだが、普及しなかったようだ。さらに録画コンテンツを別の機種でも使えるというのが、著作権的にも問題ありということで、推進していた日立、マクセルともに撤退してしまった。

 ネットでは完動品の中古が10数万で取引されていたりする。発売当初は3万~4万くらいのものがだ。なので壊れた機種もヤフオクやメルカリに出したら、1万以上で値がつくかもしれない。まあやらないとは思うけど。

 ちなみにIVR機種は実は自室にも1台ある。なのでカセットHDDは大事に、大事に使うつもりだ。

 ということで別にレコーダーが必要になった。リビングにはまだパナソニックのレコーダーがあるのだが、妻にはそれでは足らない。妻はとにかくテレビ番組を録画する人。そして録画するだけ録画してそのまま放置する人だ。生き残っているパナソニックのレコーダーは2番組録画できるのだが、それでは足りないのだとか。

 なので今回のシャープの中古機種は3番組同時録画できるものにした。2015年製で落札額が送料込みで12000円くらいだったか。まあこれで2~3年持ってくれればいいのだけど。

1月17日(金)

 終日、自室にいる。

 夕方、妻が帰宅後にデイの友人と東松山のライブハウスに行くというので送っていくことにした。ライブはアマチュアのジャズバンドの演奏だったらしい。自分も以前、そのバンドの演奏は何度か聴いたことがある。まあ可もなく不可もなくだ。

 妻と友人をお店に送ってから、自分は一人でマクドナルドに行きちょっとした自習。9時半過ぎに迎えに行った。

1月18日(土)

 ヤフオクで落札したレコーダーが届いたので、午後はそのセッティングをした。いろいろあったがまあ問題なく動く。

 ついでに取り外したマクセルのIVRレコーダーも中を開けてみる。冷却ファンも少し埃がついていたので、それを拭いてから、コードの接続部分を外してまたはめてみる。そして電源を入れると、エラーは出ないで画面表示ももとに戻る。でも少し経つとまたエラー表示がでる。

 ということでこっちは箱に入れて庭の物置に持っていく。なんとか冷却ファンの交換品が手に入らないものかどうか。難しければ、そのうち内臓のHDDを外して再利用しようかと思っている。

 その後は妻が前日行ったデイサービスに折り紙を忘れてきたというので一緒に取りにいった。

東京富士美術館「愛しのマン・レイ」展 (1月16日)

 東京富士美術館(以下富士美)で11日から始まった「愛しのマン・レイ」展に行ってきた。

 富士美は圏央道で一本で車で30分くらいで着く。いわば自宅からもっとも近い美術館の一つだ。なので行く頻度も多く年明けすぐによく行くところでもある。去年も1月11日に訪れている。そのときは何を観たとかよりも、1000円の福袋が盛り沢山な内容だったことを覚えている。今年はというと、早々に売り切れたそうだ。「去年はけっこう売れ残ったんですけど、今年はすぐ売れちゃいました」とはグッズ売り場のおねさんの弁でした。

「愛しのマン・レイ

https://www.fujibi.or.jp/exhibitions/3202501111/

 

 マン・レイ(1890-1976)のことはもちろん知っている。海外の著名な写真家といえば、とりあえずロバート・キャパマン・レイ、あとはアンリ=カルティエブレッソンアンセル・アダムス、ドアノーあたりか。ということで多分、20代の頃からこのくらいの名前は覚えている。まあ書店員やってたから、写真集とかそのへんのタイトルで知ったのかもしれない。

 とはいえ実はマン・レイがどんな写真撮っているのかというと、あまりよく知らなかったりもする。そういう意味じゃ写真家で作品まですぐに「ああ、あれ」みたいに出てくるのはキャパくらいだったりかもしれない。

 美術館巡りをしていると、時々写真家の作品を観ることもある。それだけでなく写真以外の作品だったりとかも。そういう意味じゃマン・レイはシュルレアリズムの絵画を多数描いていたりして、「へ~、マン・レイ、絵も描くんだ」みたいなことを思ったりもする。今回も最初に開催概要を見ると、写真家、画家、オブジェ作家、映像作家など多様な顔を持ち合わせたマルチアーティストだということがわかる。そして何よりも盟友ともいうべきマルセル・デュシャンとの交友の中から、さらにシュルレアリストのメンバーとして、アンドレ・ブルトントリスタン・ツァラらとヨーロッパで交流していく。ある意味、シュルレアリストの中心メンバーの一人でもあったという。

 今回の企画展では、富士美のコレクション、多くのシュルレアリズム作品をコレクションしている岡崎市美術館、さらにマン・レイ作品のコレクター、研究者として著名な石原輝雄氏のコレクションなどにより、マン・レイの足跡をたどるものだという。

 しかし富士美は西洋美術の充実したコレクションだけでなく、日本絵画の名品も多数有している。さらに写真のコレクションも多数あり、今回も常設展示のミニコーナーで、アンドレ・ケルテスの作品展をやっていたりする。そういえば去年は、ロバート・キャパの回顧展をやっていたような。

 

 マン・レイは1890年にフィラデルフィアで生まれ、7歳の時に家族でニューヨークn移住した。両親は父親がウクライナ出身、母親がベラルーシ出身で互いにユダヤの家系でラドニツキーという姓だったが、1912年にユダヤ人への差別を逃れるために、姓を「レイ」と改名した。マン・レイはエマニュエル・ラドツキーからマン・レイ改名した。

 高校卒業後、独学で絵画を学び、1912年に画家ロバート・ヘンリに習い画家としてのキャリアをスタートし、当時先進芸術の博覧会アーモリー・ショー*1や前衛的な写真家アルフレッド・スティーグリッツが経営する画廊「291」*2などに出入りしてキュビスムなどに傾倒する。そして1913年に生涯の盟友となるマルセル・デュシャンと出合い、ダダやシュルレアリズムに傾倒していく。

 1921年マン・レイはパリに渡り、アンドレ・ブルトン、フランシス・ピカピア、マックス・エルンストエリック・サティ、ポール・ボワレ、アーネスト・ヘミングウェイなどの文化人と交友を重ねながら、新進気鋭の写真家として注目されるようになる。作品は前衛的な作品からポートレイト、ファッション写真など多岐にわたる。

 第二次世界大戦の戦火を逃れるためアメリカに帰国し、ハリウッドで活動を始める。その頃からじょじょに写真から離れ、絵画、オブジェなどの造形作品に注力するようになる。そして1950年代、再びパリに渡り以後は自作のリメイク作品を量産、各地で回顧展が開かれるなか、1976年に86歳で亡くなった。

 

ゲイシャ・ガール

ゲイシャ・ガール》 1906年頃 油彩・キャンバス 74.9×48.9

 以前にも富士美で観たことがある作品。驚くことにこれマン・レイ16歳のときの作品。早熟な天才が浮世絵を見ながら習作したものだろうか。

《うずくまる裸体》

《うずくまる裸体》 1912年頃 油彩・ボードに固定したキャンバス 24.1×30.2cm

 22歳の頃の作品、この頃のマン・レイは女性を描くことに執着してモデルを探していたという。表現、構図といい、観るものに強く訴求するものがある。マン・レイの構成美の天才性を感じさせる凄い作品だと思う。

スパニッシュ・ダンサー

《スパニッシュ・ダンサー》 1918年 油彩・石膏板 81.2×91.4cm

 これも常設展示でお馴染み、マン・レイ28歳の作品。じょじょに抽象性、記号化された画面構成。カンディンスキーではないが、画面から音楽が聞こえてくる。

《セルフ・ポートレイト》

《セルフ・ポートレイト》 1924年 ゼラチン・シルバー・プリント
《アングルのヴァイオリン》

《アングルヴァイオリン》 1924年 ゼラチン・シルヴァー・プリント

 モデルはモンパルナスの女王と呼ばれたキキことアリス・プラン。ブルゴーニュで私生児として生まれた彼女は、10代前半からパリで多くの画家のモデルとなり、自由奔放な性格から有名になった。マン・レイとは1921年の暮れにカフェで知り合い恋人となった。この作品はシュルレアリスムの象徴的作品といわれているが、この背中のすべすべ感はまさにアングルのそれだ。

サルバドール・ダリ

サルバドール・ダリ》 1929/31年 モダンプリント

 ダリは1904年生まれなので、このポートレイトが撮られた頃は25~27歳くらい。薄く口ひげをはやしているが当時のダリは映画俳優顔負けの超イケメンだった。

《ポール・ポワレのモード》

《ポール・ポワレのモード》 1930年頃 モダンプリント

 ポール・ポワレはファッション・デザイナーで当時パリのファッションを一新させた。ポワレマン・レイにモード写真を依頼した。ファッション界における斬新なモード写真はポワレマン・レイによって生まれたのかもしれない。そしてまマン・レイを売れっ子写真家にしたのは実はこうしたモード写真ではないかと、密かに思ってみたりする。

ポール・ポワレ - Wikipedia

《モード、下着/メレット・オッペンハイム》

《モード、下着/メレット・オッペンハイム》 1935年 モダンプリント

 メレット・オッペンハイムはスイスの芸術家、画家、写真家。マン・レイのモデルを勤めた。

メレット・オッペンハイム - Wikipedia

《オブリビア

《オブリビア》 1947年 油彩・キャンバス 85.1×100.3cm

 オブリビアスペイン語で忘却、忘我、無意識などを意味するとか。

*1:1913年にニューヨークのレキシントン厓にある武器庫を会場とした初の大規模な国際展。アーモリー(Armory)武器庫の意味。

*2:ギャラリー291は写真だけでなく、マティス、ルソー、ピカピアなどの画家のアメリカでの初の展覧会を開催したり、彫刻家プンクーシの個展を開き、ヨーロッパの現代芸術をアメリカに紹介した。なおアルフレッド・スティーグリッツはのちにジョージア・オキーフと結婚する。

茨城県近代美術「中村彝展」(1月5日)

 もうだいぶ日が経ってしまったが、茨城県近代美術館で開催されていた中村彝の回顧展について。

「没後100年 中村 彝 展―アトリエから世界へ」。

没後100年 中村 彝 展―アトリエから世界へ | 茨城県近代美術館 | The Museum of Modern Art, Ibaraki

 

 

 中村彝という画家どのくらい知られているのだろう。近代以降の洋画家で重要文化財に指定されている画家の一人なので、美術史上においても重要な作家であることは事実なのだが。

中村彝 - Wikipedia

洋画重要文化財指定

高橋由一(1828-1894)

《鮭》1867年指定、《美人(花魁)》1872年指定

山本芳翠(1850-1906)

《裸婦》2014年指定

浅井忠(1856-1907)

《収穫》1967年指定、《春畝》1970年指定

原田直次郎(1863-1899)

《騎龍観音》2007年指定、《靴屋の親父》2002年指定

黒田清輝(1866-1924)

《湖畔》1999年指定、《舞妓》1968年指定、《智・感・情》2000年指定

藤島武二(1867-1943)

天平の面影》2003年指定、《黒扇》1969年指定

青木繁(1882-1911) 

《わだつみのいろこの宮》1969年指定、《海の幸》1967年指定

和田三造(188/3-1967)

《南風》2018年指定

萬鉄五郎(1885-1927)

《裸体美人》2000年指定

岸田劉生(1891-1929)

《道路と土手と塀(切通之写生)》1971年指定、《麗子微笑》1971年指定

関根正二(1899-1919)

《信仰の悲しみ》2003年指定

小出楢重(1887-1931)

《Nの家族)2003年指定

中村彝(1887-1924)

エロシェンコ氏の像》1977年指定

 洋画で重要文化財指定されているのは全部で21作品のみである。そして明治から大正時代にかけての作品で昭和になってからの作品で指定になったものはない。日本画に関しては上村松園安田靫彦の昭和になってからの作品が指定になっている。ちなみに戦後の作品は日本画、洋画ともにないという現状だ。

 重要文化財に指定された洋画21作品のうちの一つが中村彝のものだということでも、近代日本洋画史において中村彝が重要な画家の一人であることは多分間違いではないとは思う。もっとも重要文化財指定がそれほどの権威なりをもっているか、指定されている作品、画家の価値が他の画家に比して秀でているのかというのは、たぶん別の話になるのかもしれない。

 そして今回も出品されており、目玉的作品でもあるのがこれだ。

 

 《エロシェンコ氏の像》 1920年(大正9) 油彩・キャンバス 45.0×43.0cm 
東京国立近代美術館

 重要文化財に指定された際は「ルノワールを思わせるような黄褐色の色調と柔軟な筆触によって詩人の内面まで描き出し」(『月刊文化財』164号、1977年5月)と評され、大正期洋画史における西洋絵画の受容作例とされたものである。

 モデルのワシリー・エロシェンコは盲目の詩人で、当時日本に亡命して中村屋に身を寄せていた。目白駅エロシェンコを見かけた画家鶴田吾郎がモデルを依頼し、鶴田と中村彝が競作したものだという。鶴田も中村彝も当時中村屋に援助を受ける画家だった。

 『月刊文化財』の批評にあるとおり、明らかにルノワール的な色使いと筆触である。ルノワールに強い影響を受けた中村彝はその作例、雰囲気を完全に受容していたといえる。まさに西洋絵画の新思潮であるルノワールの作例を自身のオリジナリティに取り込んだ作例といえるのかもしれない。

 彝は西洋絵画に憧れ、その技術、画風を学び、自らの画風に取り込むことに生涯をかけた画家だったといえるかもしれない。もともと旧水戸藩士の家に生まれ、軍人になることを志し、陸軍の幼年学校に進学する。しかし結核に罹患し軍人の道を閉ざされ、画家の道に進むことになる。

 その後は白馬会、太平洋画会などに参加しながら、独学で画業を進めていく。彝にとっての絵の習熟は主に高価な洋書の画集だった。彝は陸軍の幼年学校時代にフランス語を習熟していて原書を読めたのだとか。幼年学校に在学していたのは14歳から17歳までの3年間。早熟かつ語学に特別な才能があったのだろうか。

 

 中村彝は画集を通じて西洋絵画のさまざまな思潮に影響を受ける。もっとも影響を受けたのはレンブラントだという。レンブラントの影響を最も強く感じるのはこの自画像である。この絵を彝は生涯手元に置いていたという。

 

《自画像》 1909-10年(明治42-43) 油彩・キャンバス 80.5×61.0cm 
石橋財団アーティゾン美術館

 

 そして次に影響を受けたのはセザンヌのようだ。セザンヌから構図、特に構成美を学んだようである。

 

 《生物》 1911年(明治44) 油彩・キャンバス 43.0×53.3cm 愛知県美術館

 

 陰影のつけ方や色調はレンブラント、構図やモチーフの構成についてはセザンヌ。そして彝が最も影響を受けたのが、《エロシェンコ氏の肖像》などにもあるようにルノワールである。 

 

 中村屋のアトリエに寄宿していたが、モデルを勤めた中村屋の娘淑子との恋愛が破局し、失意のなか彝は伊豆大島に旅立つ。しかしルノワールの実作が太平洋画会展に出品されるという話を聞き、急遽その実作を観るために帰京する。彝は図版などでは伺えないその質感に驚嘆し、「これまで随分無駄をやって居たなァ」と述懐したという。

 

《泉による女》 ルノワール 1914年 油彩・キャンバス 92.5×73.7cm 大原美術館

 この絵は大原美術館の創設者であり実業家にして社会改良家であった大原孫三郎が、当時孫三郎の支援でフランスに留学していた洋画家・満谷国四郎を介してルノワールに購入の意思を伝えた作品で、戦前に日本にもたらされたルノワール作品のなかでは最大の作品だったという。

 彝はこの作品の前に半日も立ち、監視員の眼をぬすんで画面の一部に唾をつけてその色調を確かめようとしたというエピソードも残されている。とんでもない不届き者ではあるが、常軌を逸するほどにルノワールに傾倒していたのかもしれない。

 

 この絵を観る以前から彝はルノワールに傾倒し、ルノワールの描いたような膨くよかで健康的、かつ丸みを帯びた容貌の女性をモデルとした肖像画を多数描いている。中村屋の長女相馬俊子の自画像は9点描いているが、そのうちの8点が今回の企画展に出品されている。膨っくらとして健康的な肢体、丸顔の彼女はルノワールのモデル、アリーヌ・シャリゴやシュザンヌ・ヴァラドンのように彝には思えたのかもしれない。喜々として短期間に多くの自画像を描いたのには、そういう部分もあったのではないかと思ったりもした。

 中村屋裏のアトリエは、中村屋を経営する相馬愛蔵・黒光夫妻の支援のもとで萩原守衛が整備して作られたのだ。萩原の死後は柳敬助が使っていたが、柳が結婚してアトリエを出たことから彝が引き継いで移り住んだ。当時、中村屋には萩原守衛を中心にして彼を慕う戸張孤雁や高村光太郎らが集い中村屋サロンと称されるようになっていた。彝も鶴田吾郎らと萩原を訪れるようになっていた。

 中村屋のアトリエに住んだ彝は、相馬家の家族と親しくするようになり、子どもたちをモデルに作品を描くようになる。とくに結核に蝕まれた彝を親身になって看病した長女の淑子とは親密な関係になり、いつしか恋愛感情へと発展する。当時俊子は15歳、彝は11歳年長である。そして彝は淑子に求婚する。

 相馬夫妻からすれば、新進洋画家として注目されていたとはいえ、自ら支援してアトリエに住まわせた彝の前で、長女が裸体をさらしていることに当惑する。さらに彝の病気や娘の将来を心配した母親の相馬黒光は、結婚に反対して淑子を彝から遠ざける。彝が失意のうちに伊豆大島に転地したのはそういう理由があったとされている。

 

《少女》 1913年(大正2)頃 油彩・キャンバス 53.0×45.5cm 横須賀美術館

 

《婦人像》 1913年(大正2)頃 油彩・キャンバス 80.4×116.7cm メナード美術館

 

 《少女裸像》 1914年(大正3) 油彩・キャンバス 80.2×60.6cm 愛知県美術館

 この絵は東京大正博覧会に出品され、ルノワールを思わせると話題になる。当時、淑子が通っていた女子聖学院の校長が、教え子の裸体が展示されていることに驚いて出品撤回を申し出たとうエピソードも伝えられている。

 

《少女》 1914年(大正3) 油彩・キャンバス 69.5×65.5cm 中村屋所蔵

 こうやって観ていると、彝の肖像画ではなにか手が異様に大きく描かれている。遠近感を強調するためだろうか。こういう人物表現はどこかセザンヌ的なものを思わせる。セザンヌも人物を描くときに、身体の一部分を人体比率からすればあり得ないような長さ、大きさに描くことが少なからずあったように記憶している。《赤いベストの少年》や《カード遊びをする人々》の腕が妙に長いあれである。

 

 それにしても彝の作品の中の相馬俊子は、まったく恥じらいを感じさせることなく、食い入るように画家の眼に迫ってくる。ある種の信頼感とともにこの少女の強い意志の力を感じさせる。

 

 中村屋はその後、右翼の大物頭山満の依頼でイギリスから追われていたインドの革命家ラス・ビハリ・ボースを匿うことになる。ボースは17回も隠れ家を転々と移り住む。このとき隠れ家のボースとの連絡係となり、ボースの世話をしたのが淑子である。

 そして頭山のすすめもあって俊子はボースと結婚することになる。彼女が20歳のときだ。そしてボースは日本に帰化し、二人は一男一女をもうけるが、淑子は26歳のときに肺炎により死去する。

 このボースが中村屋に伝えたのが本格カリーであり、今も中村屋の看板メニューになっているあれである。芸術家を支援し、亡命革命家を匿うという中村屋の戦前の活動はただのパン屋、商店とははっきり違っている。そんな家に生まれ数奇な人生を歩んだ相馬俊子は中村彝の作品の中で永遠に生き続けることになる。

防須俊子

 

 今回の企画展は、中村彝の出身地茨城・水戸の美術館であり、別館として中村彝のアトリエを再現して展示する茨城県近代美術館として、かなり力の入った回顧展だったと思う。展示作品は国内の美術館や個人蔵などを網羅して118点、さらに大原美術館からルノワール作品の貸し出しも受けている。彝の生涯をその作品の変化も含めて系統的に展示してあり、まさに中村彝の画歴を俯瞰できるようになっている。

 今年もこれからいくつもの展覧会を観ることになるとは思うけど、この回顧展はすでに自分的には五指、あるいは三本の指に入るような優れた企画展だったように思えた。

 閉館ぎりぎりまで粘って館を後にした。正月明けの日曜日の閉館ということもあったからだろうか、関係者数名が入り口のドア横で観覧者に挨拶していた。思わずその人たちに声をかけてしまった。

「いい回顧展でした。埼玉から来たのですが、来た甲斐がありました。ありがとうございました」

2024年の物故者

 個人的メモとしてここ数年ずっとつけているもの。

1月4日  グリニス・ジョーンズ(100)

この人の訃報で、なんとなく名前知ってる女優さん、何に出ていたっけとしばし考えた。『メリーポピンズ』のバンクス家のお母さん役でした。女性参政権に熱心で子育てはナニーまかせのオバサン。もっともこの映画の頃はまだ41歳くらい。そして20代の頃は美人女優さんでした。

1月4日  篠山紀信(83)

「激写」で知られる髪もじゃもじゃの写真家。この人は十代の美少女をよく撮っていた。なんとなく和製デヴィッド・ハミルトンみたいな感じだったか。文庫サイズの美少女写真集「激写文庫」なんてのもあったな。当時書店で文庫担当だった頃で、同僚とバックヤードでこれにリクルートの就職情報誌の試供品で大量に送られてきたティッシュペーパーをつけて売ろうかなんて、よからぬことを言い合ったものだった。

そしてこの人は我がアイドルであった南沙織をかっさらっていった人でもあった。

1月4日  デヴィッド・ソウル(80)

テレビドラマ『スタスキー&ハッチ』の人か。映画では『ダーティー・ハリー2』で悪党を私的に制裁する白バイ警官役をやっていたっけ。大型の白バイに乗り、サングラスを外すと、「おっ、ハッチだ」みたいに思ったものだった。

1月5日  マリオ・ザガロ(92)

サッカーブラジル代表の監督だった人。選手としても活躍しウィングとして活躍し、ワールドカップスウェーデン大会、チリ大会でセレソン優勝に貢献、監督としても1970年メキシコ大会で優勝している。選手と監督の両方でワールドカップ優勝を経験しているのは、ザガロのほかにはベッケンバウアーとディシャンしかいない。自分のようなオールドファンからすると、ブラジル代表監督はなんとなく反射的にザガロとなる。

1月7日  フランツ・ベッケンバウアー(78)

華麗なテクニックとチップキックの名手。リベロという存在をこの人で知った。もともとはフォワード、攻撃的MFだったが、じょじょに後ろに下がり最後尾でゲームをコントロールした。とにかく読みにするどい。そしてボールテクニックにも優れていたが、対人プレーでもひるむことなく抜群のバランス感覚でボール奪取にも優れていた。この人とクライフは70年代の欧州サッカーを比肩する存在だった。

訃報一つ ベッケンバウアー - トムジィの日常雑記

1月12日  高橋春男(76)

『いわゆるひとつのチョーさん主義』の人か。いしいひさいちの亜流として出てきたような印象があるし、あまり面白いと思ったことはないけど、『週刊文春』連載ということもありそれなりの人気があったか。

1月19日  庄司歌江(94)

かしまし娘の長女。かしまし娘の活動期間は1956年から1981年までとか。

1月20日  ノーマン・ジュイソン(97)

職人気質の映画監督。なぜかこの人の作品はけっこう観ている。『シンシナティ・キッド』、『アメリカ上陸作戦』、『夜の大捜査線』、『華麗なる賭け』、『 ジーザス・クライスト・スーパースター』、『ローラーボール』、『月の輝く夜に』。本人は一度もオスカーを取っていないけれど、『夜の大捜査線』でロッド・スタイガー、『月の輝く夜に』でシェールがそれぞれ主演賞取っている。名前からもわかる通りにユダヤ人。カナダ出身だったか。

1月23日  江戸京子(86)

ピアニスト、三井財閥の令嬢。小澤征爾の最初の奥さんだったか。

1月23日  メラニー(76)

メラニー、いたなあ女流フォークシンガー。ネットぐぐると2015年にマイリー・サイラスと共演していたりする。マイリーはこういうかってのシンガーをけっこうレスペクトしているところが割と好きだったりもする。


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1月29日  桐島聡(70)

東アジア反日武装戦線のメンバー。1975年、一連の連続企業爆破事件に関与したとして指名手配されるも逃走。以後逃亡犯として49年追及を逃れ、最後はガンで入院し自ら桐島であると自白したとされている。長く全国の交番の指名手配掲示板に「おい、桐島」という写真が掲示されていた。たぶん捕まっていたら、とっくに刑期を終えていたのだろうと思うが、本人的にはどうだったのだろう。革命家、政治犯という意識で行動していたのだろうか。

2月6日  小澤征爾(88)

世界のオザワである。この人の評伝をたしか雑誌の付録かなにかついていたのを読んだ記憶がある。小学生高学年くらいの頃だっただろうか。なので単身フランスに渡りスクーターで移動し、指揮者コンクールに1位となり、カラヤンバーンスタインに師事したことなどけっこう覚えていた。亡くなったときに何か聴こうと思ったがCDが2枚くらいしかないのに驚いた。意外ともってなかった。そのときはとりあえずブラームスの1番を聴いた。

2月10日  クリス・マルコフ(85)

銀髪のプロレスラー。1969年4月の日本プロレスの『第11回ワールドリーグ戦』で、頭角を現し、馬場、ボボ・ブラジル、猪木、マルコフの4人が同点で決勝戦となり、馬場とブラジルが引き分けたなか、猪木がマルコフに卍固めで勝ったことをけっこう覚えている。猪木がスターダムにのし上がったのはある意味この試合からだったかもしれない。

2月17日  志賀浩二(93)

数学者。岩波や朝倉から多数著作が出ていた。高校生向けのやさしい入門書的なシリーズも多数あったように記憶している。

2月20日  山本陽子(81)

美人女優さん。山本海苔のCMでも有名。

2月20日  アンドレアス・ブレーメ(63)

80年代のドイツ代表で不動にして最強のサイドバック。1990年のワールドカップ決勝では、たしか決勝点となるPKを蹴ったのがブレーメ。マテウスがビビってブレーメにお鉢が回ってきたとか聞いたことがある。63歳、早すぎる。

2月24日  仲宗根美樹(79)

いたなあ、そんな歌手。『川はながれる』、『島育ち』とか。なんとなく沖縄出身というイメージがあるが本人は東京生まれだったか。

3月1日  鳥山明(68)

Dr.スランプ』、『ドラゴンボール』の人。『Dr.スランプ』が連載開始されたジャンプは読んだ記憶がある。ポップな絵柄が新しいなと思った印象が。しかしこれほどの売れっ子、ある意味巨匠になるとは思わなかった。彼の出現により、一時期ジャンプにはポップな絵柄の漫画がいくつも連載された。そのなかの一人が職場の同僚だったような。その方は最初けっこう売れたけど、それきりになったような。

3月10日  明武谷力伸(86)

身長189cm、当時としては長身の力士。長身、やせ型で彫りの深い顔立ち、けっこう好きなお相撲さんでした。

3月11日   リサ・ラーソン(92)

売れっ子陶芸家。ユーモラスな動物の置物はよく見る。

3月11日   エリック・カルメン(74)

ラズベリーズのフロント。「ゴー・オール・ザ・ウェイ」は名曲。ソロになってからも「オール・バイ・マイセルフ」が大ヒットした。


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3月14日  寺田農(81)

濃い顔が特徴的で悪役、わき役として活躍した俳優さん。

3月29日  鈴木健二(95)

NHKアナウンサー。『クイズ面白ゼミナール』などで人気司会者となった。著作では『気くばりのすすめ』がベストセラーになった。ほかに『男は20代でなにをすべきか』などがよく売れた。当時、大学内の書店に勤めていたけれど、この『男は20代~』が学生さんによく売れた。一種の自己啓発本、就職本みたいなことだったのだろうか。たしか出版社は大和出版だったか。当時、同僚とこういう本を学生が買うのは世も末だねとバックヤードでよく話したものだった。

3月29日  ルイス・ゴセット・ジュニア(87)

『愛と青春の旅立ち』で士官候補学校の鬼教官役でオスカー助演男優賞を取った人。

4月2日   ジョン・バース(93)

『酔いどれ草の仲買人』、『やぎ少年ジャイルズ』が有名。前者は集英社、後者は国書刊行会から出ていた、いずれも分厚い箱入り本。両方とも持っていたけど読んだかどうかは不明。ピンチョンとともに戦後アメリカ文学では一度は読まないといけない人だったのだが。

4月10日   O・J・シンプソン(76)

アメリカン・フットボールのスーパースター。選手引退後は俳優としても活躍。「タワーリング・インフェルノ」の警備員や「カプリコン1」の宇宙飛行士役などが印象的。そして何よりも、妻とその友人を殺害した容疑で逮捕されたスキャンダルが有名。

4月15日  ベルント・ヘルツェンバイン(78)

元西ドイツ代表のフォワード。1974年優勝メンバーの一人。得意技はダイブ。オランダとの決勝戦でもPKを獲得している。

4月18日   ディッキー・ベッツ(80)

デュアン・オールマンとともにツィン・リードギターでならしたオールマン・ブラザーズのフロントギタリスト。「エリザベス・リードの追憶」、「ランブリン・マン」、「ジェシカ」は彼の曲でもある。

4月19日   マイケル・カスクーナ(75)

ジャズ・プロデューサー、ライター。この人のライナーノートは多分たくさん読んでいる。

4月23日  笠谷幸生(80)

札幌オリンピック70メートル級ジャンプの金メダリスト。「飛んだ、決まった」という実況が忘れられない。

4月30日  ポール・オースター(77)

『幽霊たち』などニューヨーク三部作が有名。80年代から90年代にかけて、アメリ現代文学が流行し、その流れの中でこの人の翻訳本もけっこう売れた。雑誌の『スイッチ』とかにも載ったし、主に新潮社が翻訳本を出していたか。そうそう映画「スモーク」の脚本もこの人だった。

5月4日  フランク・ステラ(87)

画家、彫刻家。この人の作品はまもなく閉館となる川村美術館で観た。

5月4日  唐十郎(84)

劇作家、演出家、小説家。紅テント主宰。異形な面相が印象的。小説『佐川君の手紙』は芥川賞を受賞している。

5月9日  ロジャー・コーマン(98)

B級映画の巨匠と呼ばれる映画監督。実はこの人の映画『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』、『血まみれギャングママ』くらいしか観ていない。この人のもとで若い映画監督、俳優がキャリアをスタートさせたことは有名。才能ある若手を発掘し育てたということになっているけれど、低予算で映画を撮るために安い無名の若者を使っただけという話もある。

5月13日  アリス・マンロー(92)

カナダの作家。2013年のノーベル文学賞受賞。なんでこの人を覚えているかというと、たしか2013年は村上春樹が本命視されていて、そこにこの人の受賞で、「アリス・マンロー、誰」みたいな話を友人たちとしたような記憶があるから。短編小説の名手ということで、いくつか読んだけれどぜんぶ忘れてしまった。

5月31日  吉田ルイ子(89)

写真家、ジャーナリスト。ハーレムに取材した『ハーレムの熱い日々』が有名。

6月8日  小田光男(73)

文筆家、出版評論家。この人のブログ「出版クロニカル」を毎月楽しみにしていた。出版界の状況を知る道標でもあった。また出版業界の現況についての著作もいくつも読んだ。

小田光雄氏が亡くなった - トムジィの日常雑記

6月14日   白石かずこ(93歳)

詩人。70年代から国際的にも活躍していた。いくつか詩集を読んだはずだし、当時愛読した雑誌にもよく詩が載っていた。こういう人の作品がきちんとアーカイブされ、電子書籍なりで読むことができるようになって欲しいものだ。

6月15日   斎藤栄(91)

70年代から80年代に活躍した売れっ子推理小説家。一度、この人の家に伺ったことがある。著作に100冊くらいサインしてもらったのだったか。けっこう気さくな人柄の人だったな。

6月17日  山田宗睦(99)

哲学者、評論家。1978年の横浜市長選挙において「市民の市長をつくる会」を主導したのがこの人だた。

山田宗睦氏死去 - トムジィの日常雑記

6月18日  ウィリー・メイズ(93)

走攻守揃ったメジャーのスーパースター。60年代から70年代初頭にかけて活躍した人。中学生くらいの時になぜか大リーグに興味があったのでけっこう印象的に覚えている。

6月18日   アヌーク・エーメ(92)

美しい、美しい女優さんだった。「男と女」で大人の女性の色気というものを知ったような気がする。

アヌーク・エーメが死んだ - トムジィの日常雑記


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6月20日  ドナルド・サザーランド(88)

カナダ出身の名優。というより自分的には怪優とでもいうべきか。「M★A★S★H マッシュ」のホークアイ、「戦略大作戦」のオッドボールなどなど。1976年はこの人の当たり年でベルトリッチ「1900年」、フェリーニ「カサノヴァ」、ジョン・スタージェス「鷲は舞い降りた」など印象的に覚えている。


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7月8日  庄司照枝(91)

かしまし娘の次女。長女が1月19日に亡くなっている。

7月10日  徳田虎雄(86)

徳州会グループの創設者。医師会からひどく嫌われていた。

7月11日  シェリー・デュヴァル(75)

痩せて目の大きな女優さん。「シャイニング」で狂気のジャック・ニコルソンに襲われる妻役、あの絶叫シーンが印象的。あと「ポパイ」のオリーブもはまり役だった。

7月12日  小原乃梨子(88)

吹き替え声優さんの代表選手みたいな人。この人が吹き替えたのは、ジェーン・フォンダブリジット・バルドークラウディア・カルディナーレシャーリー・マクレーンなどなど。テレビドラマでも「それゆけスマート」の99号バーバラ・フェルドンなどを覚えている。

7月14日  竹本信弘(84)

新左翼の活動家・理論家。滝田修というペンネームも有名。朝霞自衛官殺害事件の共同正犯として指名手配され10年におよぶ逃亡生活を送った。この人、普通に学者生活していたらそこそこの研究成果をあげたかもしれない。そんな気がする。

7月22日  ジョン・メイオール(90)

ブリティッシュ・ブルースロックを牽引した。彼のグループ、ザ・ブルースブレイカーズには、クラプトン、ピーター・グリーン、ミック・テイラー、ジャック・ブルースジョン・マクヴィー、ミック・フリートウッドらも在籍した。フリートウッド・マックの初期のバリバリのブルースバンドだったのはこのへんの影響なんだろうな。

7月26日  園まり(80)

「逢いたくて逢いたくて」「夢は夜ひらく」などがヒットした。中尾ミエ伊東ゆかりとの三人娘も人気があった。多分当時的には20前後だったからアイドル的存在でもあったのかと思う。

8月1日  桂歌丸(99)

新作落語一筋の人。どこかモダンな感じがした。2018年に81歳で亡くなった桂歌丸がの師匠だったというのがなんとなく信じられなかった。年齢的にも11くらいしか違わなかったはずなのだが。たしか兄弟子だった歌丸の門下に入ったとかそんなことだっただろうか。

8月7日  田中美津(81)

フェミニストウーマン・リブ運動の初期の主導者。彼女の書いた手書きビラ「便所からの解放」のインパクト、問題提起は今だに乗り越えられていないかもしれない。そして左翼運動、新左翼運動が女性を男性活動家の姓処理の道具に貶めてきたことにも目を瞑ったままなのかもしれない。

8月12日  松岡正剛(80)

工作舎創立者にして編集者。博覧強記の人。

8月14日  ジーナ・ローランズ(94)

女優、夫は監督ジョン・カサヴェテス、息子のニック・カサヴェテスも映画監督になった。この人の主演映画では夫が監督を務めた「グロリア」をよく覚えている。女性を主人公にしたハードボイルド。とにかくカッコよかった。あと2004年には息子のニックの監督作品「君に読む物語」にも出演している。


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8月16日  荒井献(94)

聖書学の第一人者。最初「あらいけん」と読んで恥をかいたことがある。

8月17日  高石ともや(82)

フォークシンガーの走りというか第一人者というべきか。「受験生ブルース」を深夜放送で聴いたのは自分は中学生くらいだったが、この人が最初に歌ったのは1968年、まだ小学生の頃だった。マラソントライアスロンなども積極的に行う人だった。

8月18日  アラン・ドロン(88)

二枚目俳優の代名詞みたいな人だったか。昔、「暗黒街の二人」を観たときに、ラストでアラン・ドロンが死刑に処せられるのだが、一番前で観ていて席を立とうとしたら、客席の女性の多くが落涙していたのが印象的だった。それほど人気ある人だった。日本では絶大な人気だったが、フランス本国ではジャン=ポール・ベルモンドジャン=ルイ・トランティニャンの方が人気があるみたいな記事を読んだこともあった。

8月28日  宇野鴻一郎(90)

「あたしかんじちゃうんです」みたいな一人称的官能小説で一世を風靡した。もともとは純文学の人で『鯨神』で芥川賞を取っているとは、ずいぶん後に知った。

9月3日  岡田太郎(94)

テレビプロデューサー。というよりも吉永小百合の夫といったほうがわかりやすいか。ということは吉永小百合は未亡人になってしまったということか。

9月3日  ピーコ(79)

おすぎとピーコのおすぎである。映画評論はおすぎで、ピーコはファッション評論家のほうだったか。1990年代のどこかで青山の出版社に勤めていたことがあるのだが、ピーコも青山近辺に住居か事務所があるようで、よくすれ違ったのを覚えている。軽く会釈をすると向こうも会釈してくれた。

9月5日  セルジオ・メンデス(83)

「シュビシューバー」でお馴染み、セルジオ・メンデス&ブラジル'66のセルジオ・メンデスだ。日本でボサノヴァがヒットしたのはこの人の功績大だったかもしれない。今でも時々ベスト盤などを聴くこともある。ビートルズやS&Gの楽曲も積極的にボサノヴァアレンジでカバーしていたっけ。この人の直接の死因はコロナによるものだったとか。

9月9日  ジェームズ・アール・ジョーンズ(93)

ダースベイダーの声の人。

9月17日  J.D.サウザー(78)

ウェストコースト・ロック・シーンのソングライター、ミュージシャン。イーグルスリンダ・ロンシュタットに楽曲を提供したり、バックコーラスとしても参加。ソロとしては「You're Only Lonely」が一番ヒットしただろうか。


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9月18日  サルヴァトーレ・スキラッチ(59)

ワールドカップで得点王に輝き、のちにジュビロ磐田でも活躍したトト・スキラッチが59歳で亡くなった。若すぎる、残念だ。結腸癌を患っていたという。

9月21日  ベニー・ゴルソン(95)

サックス奏者としてよりも編曲家、ジャズ・メッセンジャーズ音楽監督として有名。ゴルソン・ハーモニーという二管、三管でのユニゾンとハーモニーの微妙な組み合わせの心地よさが際立っていた。一方、サックス奏者としてもけっこう豪放に吹きまくる。そういうジャズメンでした。

ベニー・ゴルソン死去 - トムジィの日常雑記

9月27日  マギー・スミス(89)

ハリー・ポッター・シリーズのマクゴナガル先生役として有名だが、もともと「ミス・ブロディの青春」でアカデミー主演女優賞、「カルフォルニア・スイート」で助演女優賞を受賞している名女優。「カルフォルニア・スイート」ではアカデミー賞にノミネートされながら落選する女優役で出演して、実際には受賞というのがちょっと楽しかった。

9月28日  クリス・クリストファーソン(88)

「ミー・アンド・ボギー・マギー」を作曲したカントリー・シンガーだったが、いつのまに映画俳優として定着していった。ペキンパーの「ビリー・ザ・キッド/21才の生涯」、「スター誕生」、「コンボイ」、「天国の門」などに主演した。マイケル・チミノの「天国の門」は酷評され、興行的にも低迷したけど、それほど酷い映画ではなかった。というかけっこう名作の部類に入ると今でも思っている。


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9月29日  大山のぶ代(90)

ドラエモンの声の人。もともと俳優としても長いキャリアのある女優。俳優座養成所出身で、同期には田中邦衛山本学らがいる。

9月30日  山藤章二(87)

「ブラック・アングル」など世相風刺と皮肉の効いた似顔絵の人。

9月30日  ピート・ローズ(83)

元祖安打製造マシーン。常勝レッズの一番打者。通算4193安打を記録するも、引退後野球賭博に手を染め、球界を永久追放された。しかしイチローの通算安打は4367本。これもまたすごい記録でもある。

10月4日  猪俣猛(88)

日本を代表するジャズ・ドラマーだった、かな。

10月5日  白井佳夫(92)

映画評論家、長く『キネマ旬報』の編集長を務めたが、オーナーだった右翼総会屋の上森小鉄によって解任された。70年代、左翼系雑誌の版元のオーナーが右翼の大物だったりとかはよくあることだった。

10月6日  ヨハン・ニースケンス(73)

クライフのいたオランダ代表黄金期の中盤を形成した一人。クライフの右腕的存在。PKスペシャリストでもあったと記憶している。

10月14日  中川李枝子(89)

ぐりとぐら」のカステラはやっぱりホットケーキだと思う。

10月17日  ミッツィ・ゲイナー(93)

女優、ダンサー。多くのミュージカルに出演した。「ショウほど素敵な商売はない 」、「魅惑の巴里」、「南太平洋」など。「魅惑の巴里」こそMGMだったけど、どちらかというと20世紀フォックスのスターという印象。


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10月17日  高階秀爾(92)

美術史家・美術評論家。たくさん著作を読ませていただきました。

10月17日  西田敏行(76)

いつのまにか名優になってしまった。昔、松崎しげるとの掛け合いを深夜放送でよく聞いたことがあったな。「今、やろうと思ったのに、言うんだもんな~」というセリフが好きだった。

10月21日  勝俣恒久(84)

東電のドン。福島第一原子力発電所事故の責任もろくに取ることもなく悠々自適な生活を送ったのは残念なことかもしれない。

10月22日  フェルナンド・バレンズエラ(63)

ドジャースのスーパースター。2年目に破竹の8連勝し、最終的に13勝7敗。以後、エースとして君臨した。太っちょなイメージがあったっけな。

10月28日  楳図かずお(88)

まことちゃん」よりも気色の悪い怪奇ものの印象が強い。

10月29日  テリー・ガー(79)

コメディエンヌ、気さくなおねーちゃん役とかをよく覚えている。『ヤング・フランケンシュタイン』、『未知との遭遇』などなど。あとテレビドラマ『警部マクロード』のフィリス巡査。いい女優さんでした。


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11月1日  上村淳之(91)

祖母上村松園、父上村松篁。そして父と同じ花鳥画を得意とした。けっこうプレッシャー感じていたんだろうなと想像する。三代にわたって文化勲章を受章。自宅にたくさんの鳥を飼っていたことでも有名。

11月3日  クインシー・ジョーンズ(91)

プロデューサー、アレンジャー。マイケル・ジャクソンとのコンビで大ヒットを連発した。大手レコード会社マーキュリーのニューヨーク支社の副支社長をしていたというが、なぜか日本ではマーキュリーの副社長と紹介されていたように記憶している。

11月9日  ルー・ドナルドソン(98)

ジャズ・ジャイアントの一人。哀愁漂うアルト・サックスを奏でる一方、ジャズ・ロックやR&B路線でもヒット曲を出した。

ジャズ・ジャイアントの訃報 - トムジィの日常雑記


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11月12日  ロイ・ヘインズ(99)

ジャズ・ドラマー。コルトレーンドルフィーとも共演した。

ジャズ・ジャイアントの訃報 - トムジィの日常雑記

11月12日  北の富士勝昭(82)

ライバル玉乃島が急逝したときに男泣きしていたのが印象的だった。あとは大横綱千代の富士の師匠だったこととか。

11月13日  谷川俊太郎(93)

戦後を代表する詩人。10代から詩作を行い評価された天才。父親は哲学者。

谷川俊太郎が亡くなった - トムジィの日常雑記

11月19日  猪熊葉子(96)

児童文学者・翻訳家。ローズマリー・サトクリフフィリッパ・ピアスはこの人の訳だったか。

11月24日  久里洋二(96)

アニメーション作家の草分け。『みんなのうた』の楽曲映像を多く手掛けた。

11月27日  マイティ井上(75)

国際プロレスのレスラー。ラッシャー木村サンダー杉山グレート草津とともにスター選手として活躍した。木村、杉山、草津、そしてストロング小林に井上と国際プロレスのスター選手はみんな鬼籍に入ってしまった。

12月1日  中平穂積(88)

新宿のジャズ喫茶「DUG」の店主。ジャズミュージシャンを被写体とした写真家。「DUG」にはよく通ったし、何度か言葉も交わしたような記憶がある。

12月3日  小中陽太郎(90)

作家、評論家、元ベ平連の中心メンバー。

小中陽太郎死去 - トムジィの日常雑記

12月6日  中山美穂(54)

ミポリンがなあ。54歳、早過ぎる死だ。80年代を代表するトップアイドルの一人。

12月9日  小倉智昭(77)

東京12チャンネルからフリーアナウンサーに転身して成功を収めた。フリーになることを勧めたのは大橋巨泉だったという。

12月19日  渡邊恒雄(98)

ジャーナリスト、新聞人が政界のフィクサーに堕するとはね。

12月20日  川田順三(90)

人類学者。『無文字社会の歴史』は名著なんだろうな。結局読まなかったけれど。あとレヴィ・ストロースの『悲しき熱帯』の訳者でもある。こっちは半分くらい読んだような記憶がある。

12月20日  リッキー・ヘンダーソン(65)

メジャー、シーズン最多盗塁130、通算盗塁1406という最強のリードオフマン

12月23日  森田拳次(85)

漫画家、『丸出だめ夫』の人だったか。

12月27日  オリヴィア・ハッセー(73)

ロミオとジュリエット』で清純派的イメージがずっとついて回った女優さん。以後のキャリアでは『ナイル殺人事件』くらいしか記憶にない。あとこの人はディーン・マーティンの息子と結婚したり、布施明と結婚したことでも知られている。


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12月29日  ジミー・カーター(100)

ピーナッツ農園の経営者からジョージア州知事に転身。そこから一気に大統領候補となり、現職のフォードを破って大統領となる。しかし一期だけで、再選はロナルド・レーガンに敗れている。

2023年の物故者 - トムジィの日常雑記

2022年の物故者 - トムジィの日常雑記

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2020年の物故者 - トムジィの日常雑記

プリンター複合機からスキャンできない

 いつ頃だろう、去年の11月くらいからどうもプリンター複合機のスキャンがうまくいかない。以前は複合機側の操作でスキャンできたのが、通信エラー等が画面にでてしまう。それでもパソコン側からはスキャンできるので、なんとか凌いでいたのだけど。

 年が明け、長野から帰ってきた2日、画像をスマホからHDDに移したり、いくつか図録からスキャンをしていたところ、やはり複合機側からはスキャンできない。さらにパソコン側からでもスキャナーが見当たらないというメッセージがでたりした。いろいろいじってもうまくいかず泥沼にはまった。

 

 使っているプリンター複合機はブラザーのDCP-J968Nというもの。発売は2016年とからしい。たぶん発売してすぐに買ったのだが、去年ヘッドの不具合でオシャカになった。けっこう使い勝手のいい機種だったので、同じものをヤフオクでゲットして使っている。これはけっこう当たりでずっとノープロブレムだった。

 今回の症状はプリンター側ではなくなんとなくパソコン側、あるいはスキャンに使うユーティリティソフトにあるのではないかと疑う。ずっと使っているのはブラザーが提供しているCONTROL CENTERというソフト。これもけっこう使い勝手がよくかれこれ10年近く使い続けている。

 このソフト上でもスキャナが見つからないという不具合。設定やスキャナを変えたり、新たにWindows上でスキャナを追加したりしてもダメ。仕方なく一度ソフトをアンインストールして、ブラザーのサイトから新たにダウンロードしたのだが、今度はこのソフトがインストールできない。

 ブラザーのサイトにもあたったが有効な解決策がない。なんとなく万事休す的な感じになる。いろいろ当たったなかにこんな回答もあったりした。

 

 OSに標準装備されているソフトってなんだ。マイクロソフトのサイトにいくとこういうのがでてくる。

 

 Windowsスキャン、これうちのパソコンには入っていないのでダウンロードしてインストールする。するととりあえずパソコン側からはスキャンはできるようになった。と、ここまでが2日に数時間かけての結論。

 その後、小旅行から帰ってきて再び今回のスキャン問題に取り組む。いろいろ検索してそういう事象の対応がないか当たるも有効な解決策がない。しかたなくWindowsの復元ポイントで去年の暮の状態に戻してみる。

 とりあえずこれでブラザーのCONTORL CENTERはアンインストールする前の状態に戻るが、スキャナーが使えないのは依然として同じ。ようするに暮からずっとそういう状態だったんだな。考えてみれば最近スキャナー使った覚えもなかったか。

 仕方なくCONTORL CENTERの利用は諦め、Windowsスキャンでの利用に切り替える。あとはWindowsスキャンの設定をいろいろといじくる。初期設定だと取り込んだ画像がbmpになるので、これをjpgに変えるとか、解像度の初期値を300にするとか諸々。

 さらにパソコンだけでなく複合機側からの操作ができないかをいろいろといじってみる。そしてたどり着いたのがコントローパネルのデバイスとプリンタ、プリンタとスキャナーの設定に入り、スキャナーのプロパティから既定のスキャナーのプロパティに入り込む。するとイベントの指定で「スキャン」を指定すると解決することが判る。

 どうでもいいが、長くWindowsを使っているけれど、この階層構造、深く深く入り込まないと解決策が見つからないのはどうにかならんかと思う。そのときはいいのだが、あとからあの対応はどうだったかと探すとなると、たいていの場合、一発でそこに行きつかずに右往左往する。きちんと対応策をドキュメントしておけばいいのだろうが、パソコン操作はできれば直感的に対応できないのはUI的におかしいだろうとは、数十年思っているところだったりする。

 

 

 今日、試しにXでブラザーの不具合について検索すると、こんなポストを見つけた。

https://x.com/ya4gani/status/1869601675176239394

 

 そうかWindowsのアップデートのせいか。24H2はたしか去年の10月くらいにリリースされているので、たぶんその頃からこの症状でていたのか。結局、Windowsのセキュリティ対策によってサードパーティーのユーティリティソフトが排除されていくと、そういうことのようだ。そして純正ソフトなら問題なく動きますという囲い込みか。

 とりあえず複合機によるスキャンは問題なくできるようになった。長く使ってきたブラザーのユーティリティソフトにおさらばすることになったが、これでしばらくは年季の入った複合機を使えそうだ。

 2日と7日、この問題に費やした時間は延べで・・・・・・、いやこれは言いたくない。残された人生あまりないのに、こういうことに費やされるのはどうかと思ったりもする。

田母沢御用邸記念公園(1月4日)

 日光には何度も来ているが一度も訪れていなかったところ。

 

 

 神橋のT字路を左に入って1.5キロくらいいったところにある旧御用邸を整備した公園。明治以降に作られた御用邸としては全体がほぼ残され維持管理されている。

施設の紹介 | 日光田母沢御用邸記念公園

日光田母沢御用邸記念公園 - Wikipedia

 大正天皇御用邸としては1893年に沼津御用邸が造営され、1899年にこの日光田母沢御用邸が設けられた。新設の沼津に対して日光は、日光出身の銀行家小林年保の別邸に赤坂離宮の元となった紀州藩中屋敷の一部(三階の展望部屋のあたり)を移築したものだとか。

 冬の静養先が沼津、夏の静養は日光ということだったようで、これは今でいえば葉山と那須のようなものだろうか。

 沼津の御用邸は空襲により本邸を焼失したが、残った西付属邸が公開されている他、海岸に隣接した広い庭園を散策できる。この西付属邸だけでも迷路のような建物を巡るのはなかなかなものだ。

 これに対して田母沢御用邸はかっての建物が現存しており、栃木県が取得後に改修工事を行い記念公園として2010年に開園している。建物の規模も大きく、沼津に比べてきれいで保存管理と修復がなされているように思えた。今回は前日に降った雪の影響で、庭園は入ることができなかった。なんでも落雪があるためとか言われた。

 

 

 

 
大正天皇撞球

 奥に見える手洗いも明治のままだそうな。

 

 

天皇の謁見室

 沼津もそうだったが当時の御用邸の室内は基本的に和室。なのに照明はシャンデリラだし、奥には書院造りの違い棚があったりと、和洋折衷も甚だしい。明治という時代は、作られた伝統と進取の西洋文明がごった煮になっていたということだ。

 

天皇の厠

 
二階からの景色

 同じく二階からの景色

 

 

 

 三階からの景色

 この三階部分が紀州中屋敷から移築されたようだ。

 

さまざまな障壁画

 

廊下の先の障壁画

 

 

 

 

 

 

 田母沢御用邸には初めて訪れたのだが、遠い記憶を辿るとこの場所の近くを訪れている。というのは小学校の時の修学旅行が日光だったのだが、宿泊した旅館は大正天皇がお泊りになった由緒ある施設というようなことを、当時説明された記憶がある。子ども的には古めかしい、それこそ廊下を歩くと音が鳴るようなところだった。

 あれはいったいどこだったのだろうと、日光を訪れるたびに思っていた。そういう皇室に関わるような旅館があったのだろうかと。そして調べていくと、どうもこの田母沢御用邸に近接した別館が戦後払い下げられて宿泊施設として利用されていたということのようだ。

サンデー毎日:児童が皇后の寝室に宿泊 日光・田母沢御用邸の民主化 社会学的皇室ウォッチング!/92 成城大教授・森暢平 | 週刊エコノミスト Online

 

一方、田母沢川を挟んだ対岸には御用邸の「付属邸」があり、親王内親王その他皇族の宿泊場所として使われました。現天皇が戦時中に学習院のご学友と集団疎開していたのも、この付属邸です。
この旧付属邸が戦後民間に払い下げられ、改修されて「田母沢別館」という宿泊施設となり、主に修学旅行生の宿泊に使われました。

この田母沢別館は大正5年(1916)築の木造建築で老朽化が激しく、付属邸とはいえかつての皇室の御用邸だったとは思えないほど荒れたオンボロ旅館でした。
このため昭和53年(1978)に解体され、翌昭和54年(1979)に鉄筋コンクリート建の「田母沢ホテル」に改築されています。
しかしこの改築後の田母沢ホテルも平成18年(2006)に取り壊され、現在その跡地は更地になっています。<Yahoo!知恵袋

日光「たぼざわ別館」について質問です30年前修学旅行で日光へ行きました宿の名... - Yahoo!知恵袋

 田母沢川の対岸に建つ付属邸は正式には澄宮附属邸というらしい。御用邸内に展示してあった地図ではこんな感じである。

赤丸部分が別邸、水色が田母沢川

 小学校の修学旅行というと12歳くらいなのでおそらく1968年のこと。おおよそ57年も前のことになる。半世紀以上前である。そのときの写真は数枚残っているが当然モノクロ写真で、東照宮や眠り猫とかの写真などで宿の写真はない。ただうっすらと古い木造の建物に泊まったことだけは覚えている。そうか当時この地に泊まったなのかと、ちょっとだけ感傷的な気分になったりもした。

 この田母沢別館はYahoo!知恵袋の回答にもあるとおりに取り壊され、しばらくは更地となっていたが、東武鉄道の所有となり、そこを借り受けたレジャー企業カトーレジャーグループが高級宿泊施設「ふふ日光」を運営しているということだ。

 ということで修学旅行の思い出の地にはレジャー施設が建っている。昭和の遠い記憶を辿るには田母沢御用邸のここを訪れ、今は亡き幻影のような木造施設に思いをはせるだけということかもしれない。