スポーツ・グラフィック・ナンバー1000号

 朝日夕刊の7面社会欄にそんな記事があった。

「スポーツの秘話刻みナンバー1000号」

 文芸春秋が発行する日本初のスポーツ総合誌「スポーツ・グラフィック・ナンバー」(隔週発行)が26日、創刊から千号を迎えた。勝ち負けの先にある人間ドラマに迫る文章と決定的な瞬間をとらえた写真を軸にした作りで、多くの読者の心をつかんできた。

 

 懐かしい雑誌である。今はほとんど手にとることもないが、かってはかかさず買っていた雑誌でもある。そう昔はスポーツジャーナリズム的なものが好きだった。スポーツノンフィクションも沢木耕太郎の『敗れざる者たち』とかが好きだったし、ノーマン・メイラーキンシャサの軌跡を取材した『ファイト』なんかも好きだった。もともとニュー・ジャーナリズムの作品が好きでそこからスポーツジャーナリズムに入ったのかもしれない。

 この雑誌が創刊された時、ちょうど自分は新卒で大学内の書店に勤めたばかりだった。当初、文庫、新書、文芸書、雑誌などを担当させられた。もともと専門書を売るのがメインな本屋だったから一般書や雑誌は新人がやることになっていた。ちょうどその時にナンバーが創刊されたのだ。

 「スポーツ・グラフィック・ナンバー」という誌名とともに、ちょっとオシャレなスポーツ雑誌が出た。スポーツ誌といえば野球雑誌やプロレス雑誌、あとは車系などがメインで同じようなレイアウト、同じような写真、同じような情報が羅列されたスポーツをやっている者だけが読者というような雑誌ばかりだった。そこにレイアウトに凝り、スポーツ競技の一瞬を切り抜いたような美しい写真、さらに一流のライターによる文章がのる、まったく新しいコンセプトの雑誌が出た。

 たしかそれはアメリカで出ていた『 Sports Illustrated』と提携しているというのが売りだったと記憶している。そして『 Sports Illustrated』特約の写真が使われていた。オシャレなオシャレな雑誌だった。しかし、この新聞記事の中にもあるようにこのオシャレなスポーツ雑誌の売れ行きは芳しくなかった。起死回生のヒットとなったのは、10号の長嶋茂雄特集だ。これは記事にもあるとおりに売れ行きがよく完売となった。

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 記憶ではこの号が出る前後からアメリカナイズされた紙面構成を脱し、日本の土壌にあった記事内容に変わってきていたようにも思う。『Sports Illustrated』との提携も解消したのはだいぶ後かもしれないが、その影響が薄れた頃から売れ行きは良くなったように思う。

 そして長嶋茂雄である。彼は間違いなく昭和のヒーローだった。天皇美空ひばり石原裕次郎らとともに昭和の大スターだ。自分はずっと長嶋ファンだった。彼の引退とともに野球への興味が薄れ、江川が入団した年に完全なアンチジャイアンツとなった。でも、長嶋だけは別だった。つかこうへいが描いた長嶋茂雄、病気の子の枕元で長嶋がすぶりをすれば病気は治る。彼とキャッチボールができたら夢見心地になる。彼はフィールド・オブ・ドリームスを体現するような存在だった。

 だから、丸ごと1冊長嶋賛歌となったこの号は当然購入しずっと持っていたように思う。長嶋茂雄によって『スポーツ・グラフィック・ナンバー』の売れ行きが回復したとういのは、ある種の神話だとさえ思える。

 しかし懐かしい時代であり、自分の書店人1年生の悪戦苦闘していた頃の記憶とがダブル。1980年の創刊誌と覚えているのはこの『スポーツ・グラフィック・ナンバー』、『写楽』、『ビッグコミック・スピリッツ』、『25ans』、『ブルータス』『とらばーゆ』などなど。とりわけ覚えているのは『写楽』、『ビッグコミック・スピリッツ』あたりか。

 『写楽』はたしか篠山紀信をメインにしていた。『ビッグコミック・スピリッツ』は「めぞん一刻」や「ちゃんどらー」なんかが連載されていたようにも覚えている。『写楽』のジョン・レノン特集が出た何か月して、ジョンが撃たれた時に自分がまず最初にしたのは、取次に電話して『写楽』のバックナンバーをかき集めることだった。取次の雑誌担当が、「今頃なんですか」と言ってきたので、「ジョンが撃たれたんだよ」と答えたのを覚えている。その後、自己嫌悪に陥って帰りに新宿まで1人で歩き、その夜は飲んだくれたんだった。

 1980年、今から40年も前のことになる。それはそのまま自分が社会人としての第一歩を踏み出した時でもある。自分はそれからずっと本や雑誌を扱う仕事を続けてこれた。もともと本屋が好きで、本棚をずっと眺めて時間を過ごす子どもだった。そういう人間がなんだかんだいって本や雑誌の周囲で仕事をしてこれたのだから、まあまあ満更でもない人生だったのかもしれない。

コロナ感染者数の疑問

 オリンピックが3月24日、1年程度延期となった。遅きに失する決断だと感じたし、1年以内にコロナウイルスの世界的流行が収まるという可能性はない。さらにいえば、国内の感染症対策はオリンピックによって奔走されてきたし、対策は先送りされてきた。オリンピックを行うために感染者数は不当に低く抑えられてきた。

 感染症に対する水際対策というのは一般的には国外からの流入を抑えることを意味するのだが、この国では感染者数を抑えるための対策だ。とにかく症状があっても医者にかかれない、医者に相談しても保健所に相談しろと言われ、保健所は多分なかなか相手にされない。各保健所に設けられた帰国者・接触者センターに電話してもおそらくほとんど電話はつながらない。幸運にもつながっても検査には至らずかかりつけの医師をという。かくして発熱や咳症状があっても、たらい回しにあう。

 生活保護などの福祉にあっても役所は窓口での敷居を高くして、申請者を窓口で諦めさせる。これが日本の福祉における窓口水際作戦だといわれるが、それがそのまま今回の感染者対応にも適用されているような感じがする。

 さらにはPCR検査は精度が低い、擬陽性、偽陰性の結果が高いという検査自体を貶めるような言説がまかりとおり、さらには検査による感染者数が増加すると医療崩壊につながるという主張がネットやテレビでまことしやかに、しかも強固に主張されてきた。その結果、日本の感染者数は世界の数字とあまりにも乖離した少なさとなっている。

 すべてはオリンピックを今夏に開催するという目的のためだったといっても過言ではないと思っている。オリンピックには大きな金が動く。そこには様々な利権が生まれる。その維持のためには感染症をとにかく低く抑える必要があったのだ。

 しかし、世界の感染爆発の状況はもはやオリンピックを行えるような状況にないことが明らかになっている。その結果が24日の1年程度の延期という結果になった。実際、開催を強行してもほとんどの国が選手派遣することはありえない状況、それほど新型コロナウイルスの世界的流行は拡大している。

 朝日の夕刊にコロナウイルスについて、主要7ヵ国首脳会議(G7)の対応が紹介されている。

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 この各国の感染者数をみて愕然とした。

米国   感染者数6万4764人(死者 947人) 死者率1.5% 

日本   感染者数   1307人(死者   45人) 死者率3.4%

ドイツ  感染者数3万7323人(死者 206人) 死者率0.6%

フランス 感染者数2万5600人(死者1331人)   死者率5.2%

イギリス 感染者数      9632人(死者  466人)   死者率4.8%

イタリア 感染者数7万4386人(死者7503人)    死者率10.0%

カナダ  感染者数     3400人(死者    35人)  死者率1.0%

 これが実際の数だとしたら日本は感染を完全に抑えられているということになるのだが、誰もそう評価してくれていない。日本はあまりにも検査が行われていないので、感染者がもっともわからない国、あるいは感染症に関してもっとも信頼のおけない国ということになっている。

 隣国である韓国はどうか、同日の数字でいえば感染者数は9241人、死者数131人。死者率は1.4%。韓国はPCR検査を積極的に行いながら、感染者数の増加を抑えた成功した国という評価を受けている。人口が日本の半分の580万ぐらいなので、この数字は感染爆発を抑えられているのではないか。

 それらを受けて改めて日本の数字である。なんだか感染症対策だけに限っていえば、G7の席を韓国に譲ったほうがいいのではないか。各国が協調して新型コロナウイルス対策を話し合うというときに、日本はちょっと席外してといわれるのではないのかとさえ思えてくる。人口比率からしてもこの日本の感染者数は、医療や検査がほとんど劣った開発途上国みたいなものだ。一緒に議論する相手とはみられないと思えてくる。

 こういうのは多分、都合の悪いデータについてはそもそも検査しない、数字は隠蔽し、情報は操作する、そういうことがまかり通る国になっているということじゃないかと思う。これがあからさまに可能となったのは、多分2011年の原発震災からだろう。未曾有の原発事故を起こし、原発の爆発、メルトダウンとあらゆる事故が重なり、放射能をまき散らしたのに、その影響を過少にしてきた。なぜか、原発の利権を守るためだけだ。その手法が今回の新型コロナウイルスでも使われている。オリンピックの利権を守るためだと思う。

 オリンピックが1年延期となったのを受けて、日々の感染者数は増加してきている。1日40人程度で増えてきている。しかしこれも多分に管理された数字だと思う。なぜか一気に感染者数が拡大することは政権批判につながり、今の統治システムの危機となるからだ。しかし、世界の状況をみるにつけ、国内は情報操作、隠蔽により被害の実相をごまかすことができても世界の目が塞ぐことはできないということになる。

 今一度、上の各国の感染者数との比較を見て思うのはたった一言だ。

 そんな訳ないじゃん、日本!

子どもの卒業、親の子育ての一里塚

 子どもが今日、学校を卒業した。

 新型コロナウイルスのため講堂に卒業生を集めた大掛かりな卒業式は中止。学生が学部単位で時間を決め、教室か研究室で担当の教官から卒業学位記を受け取るという簡素なもので、親は原則として学内に立ち入りできないというものだった。

 当初は卒業式自体すべて中止になる可能性もあったのだが、小規模でもこうした形をとったため、女子学生は予約しておいた袴を着ることができるということになった。しかしすべての卒業行事を中止した大学もあるようで、そうなると貸衣装の業者はキャンセルの嵐となっているようだ。大学生協に務める知人に聞くと、キャンセルがかなりの数にのぼり、返金処理とかが半端ないという。

 うちの子の場合は、とりあえず袴を着ることになった。まあ記念ということもあるし、多分一生で一度のことだからということもある。学校に10時に行くことになっているので、着付けやヘアメイクの時間を逆算して、朝の7時に呉服屋に向かう。家を出るのは6時である。親は卒業式に出ることもないので、ただただ子どもを呉服店に、それから学校まで送り届けるだけということ。そこまでするかというと、まあ基本親バカだからしょうがない。子どもに関してはもうこれはどうしようもないということ。

 朝7時台、裏木戸を通って入った呉服店内である。袴はレンタル、着物は成人のときにこの呉服店で買ったもの。着付けとヘアメイクは別室で、そこには男性は入れないので、こっちはただひたすら待つだけ。その後で写真撮影する。基本料金では写真は1枚、追加は1枚6000円也である。多分、一番標準的な3カットのものにする。聞くと6カットまでいけるらしいのだが、そこまでするかとなると逡巡する。成人式の時にはアルバム仕立てにし、撮った写真を全部DVDに焼いてもらったところ、とんでもない顎になったことが頭の片隅にある。

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 学校にはほぼ定刻に着いた。正門前で子どもを降ろし、近くのコイン駐車場に車を止めてから、妻の車椅子をおして学校のある街を散歩する。子どもの用事が全部すんだら、また子どもを拾って呉服屋に戻る。袴は返却し、着物はそのままクリーニングに出す。多分、その後着物を着る機会なんておそらく当分ないだろうとは思う。

 この4年間は多分これまでの子どもの学校の期間ということでいうと、感覚的には一番短い感じがした。本当にあっとういう間のことだった。子どもは学内でのサークルとかに入ってもいなかったので、学校の友人も少ない。大学に対しての思い入れもさほどないようだが、それでもこじんまりとした学校をけっして嫌いでもないようだったし、4年間多分社会に出てもまったく役立たないような学問をまあまあ気に入っていたようだ。

 そして中学時代からの吹奏楽を学外のサークルで4年間続けた。親も学祭だの定演だのといった演奏会にはほとんど足を運んだ。継続は力なりだ。けっして楽器が上手い訳でもないのだが、辞めることはなかった。

 学校を卒業しまがりなりにも4月からは社会人となる。まだまだ結婚だのなんのと世話を焼く機会は沢山あるのだろうけど、子育てという部分ではある種の一里塚を超えた思いもある。子どもの学業の卒業と親の子育ての卒業だ。

 一人っ子だったので、思い切り甘やかしてしまった。とんでもない我儘である。まあしょうがない。子育てはリセットできるものでもない。ずっと共稼ぎだったので、1歳になる前から保育園に入れた。自分も妻も正社員だったのと、仕事の面であまり融通がきかなかったこともあり、かなりの長時間保育だった。朝8時に保育園に送っていき、帰りは基本7時まで預かってくれるのだが、延長保育で8時までは大丈夫なところだったので、当然のごとく毎日8時まで預かってもらった。時には8時をだいぶ回ることもあった。

 うちの子どもの長時間保育は保育園の中でも多分一番だったし、親御さんたちの間でも有名だったみたいだ。そういう意味では子どもには申し訳ない思いもある。とはいえ家事労働は不払い労働、親は社会に出て金を引っ張ってくる、そのことでそれなりの余裕のある生活を送りたいみたいな意識もあったし、自分も妻のそこそこ責任ある立場だったので、これは致し方ないところもあった。

 幸いなことに預かってくれた保育園は親切の認可私立保育園で、園長先生を始め保育に情熱をもっているうえ、それぞれの親の事情にも理解をしめしてくれた。この保育園に預けていれば安心という思いもあり、少し甘えすぎたかと思うくらいに利用させていただいた。

 子どもの送り迎えを妻と分担していたのだが、自分の方が多少仕事に融通が効くこともあり、多分6対4くらいの割合で自分の方が多かったと思う。子どもの送り迎えでいろんな思い出がある。雪が降ってかなり積もった日、マンションの機械式駐車場が雪でストップしたため、子どもを自転車に乗せて、自転車を押して送って行ったこともある。途中で二回ほど転びかけた。子どもはスカートだっただろうか、寒かっただろうにと思うが、泣きもせず我慢してくれていた。

 お迎えに行くと、いつもニコニコとして出迎えてくれた。ときには保育士の先生の膝に乗って、先生が読んでくれる絵本をじっと見ていた。帰りに自転車に乗せて二人で大きな声で歌を歌いながら帰ったこともある。本当に可愛い子どもだった。

 子どもが小学校に上がると学童問題が生じる。それまで7時とか8時まで預かってくれる保育園に変わって学童保育となると、たいていは6時までとなる。そのへんに頭を悩ませる頃、保育園は学童保育も併設して行うようになったので、迷わずお世話になることにした。子どもが小学校の後、そのまま学童に通うお友達と歩いて通園した。親は安心して仕事をすることができた。

 転機となったのは、母親が脳梗塞で倒れた時だ。子どもは多分小学二年生だっただろうか。自分が迎えに行き家で子どもと過ごしていたとき、妻の会社の同僚から、妻が仕事の後食事をしている時に倒れて意識不明だという連絡が入った。気が動転しながら身支度をして、子どもを連れて都内の病院まで行った。多分一過性のことかなにかだろうと簡単に考えていたのだが、病院に着くと妻は集中治療率にいた。脳梗塞とくも膜下に出血があり、かなり大きな梗塞巣だという。妻は文字通り生死を彷徨っていた。

 医師からは状態がよくない。回復してもよくて車椅子、場合によっては寝たきりの状態のままといわれた。呆然としてもう何をしていいのかわからなかった。子どもは待合室で借りた毛布をかけたまま寝ていた。明け方まだ暗い病院の中庭に出た時、涙が止まらなくなった。ほとんど号泣状態だった。どうしていいかわからない状況で、心理的にたぶんかなりヤバいところに追い詰められていたのだと思う。

 入院二日目には脳浮腫で頭蓋を外して脳の腫れを逃す解頭術を受けた。その時が多分生死の境目という点では一番危機的な状況の頃だった。それからじょじょに持ち直し、その病院には二ヶ月近く入院していた。仕事を終えると子どもを迎えに行き、それから都内の病院に見舞いに行くという日々が続いた。

 保育園の先生が心配してくれていて、週に一度くらいだったか学童で9時近くまで預かってくれたこともあった。妻のママ友が家で子どもを預かってくれたこともあった。多くの人の善意があり、ギリギリのところでなんとか踏みとどまることができた。

 それからは長く続く子育てと介護の日々が続いた。

 幸いなことに、妻は寝たきりのような状態にはならなかった。左上肢機能、左下賜機能全廃、いわゆる片麻痺となった。前頭葉から右側頭葉にかけて大きな梗塞巣があるため、注意障害がある。いわゆる高次機能障害というやつだ。でも、転院した病院は国立の急性期リハビリでは定評があるところだったこともあり、PT、OPにより、よくて車椅子だったのが、短い距離であればつたい歩きや4点杖で歩くことができるようになった。OPの先生と一緒に料理を作ったという話を嬉しく聞いたことがあった。

 妻が頭蓋骨の形成手術を受け、リハビリ病院に都合で6ヶ月近く過ごした。その間、仕事、子育て、見舞いという日々を過ごした。退院してすぐの頃はまだ下の世話なども必要だったし、今、思うとよく凌いでこれたと思う。

 子どもにとっても小学生の低学年の頃、大好きだった母親がいきなり障害者となってしまい、最初の頃は涎を垂らし、食べるその場から口からだしてしまうような状態で、とんちんかんなことばかりを口にするのである。相当なショックだったのではないかと思う。

 それでも子どもはかなりひねくれた部分もあるにはあるが、思いの外まっすぐに育った。いわゆるグレたりということもなかったと思う。車椅子に乗った母親を恥いるようなこともなかったし、親子三人で出かけることを嫌がることもなかった。

 自分は、子どもの頃かなり貧乏な家に育った。父と母は自分が幼い頃に離婚しているので、自分には母親の記憶がない。父と祖母と兄との4人暮らしだった。父は自分が小学校に上がるか上がらないの頃に事業に失敗した。おそらく借金もあったのかもしれないが、4人で六畳一間暮らしというの何年も続けた。その家は外見もかなりのボロ屋で、学校の友達とかにそれを見られるのがとても嫌だった。

 父はまあ普通に肉体労働をし、兄も中学を出て仕事をしていた。二人の働き手がいるのだから家計は上向くかというと、そういうこともなかった。祖母がとんでもないくらいの浪費家だったこともあり、いつも金のない生活を続いた。

 貧乏暮らしが長かったからか、自分が所帯をもった時には家族に金のことで苦労をさせない、子どもに貧乏をさせないとどこかで誓ったいたところがある。だからこそ、夫婦共稼ぎに拘ったのであり、結婚してすぐにマンションを購入し、それから7年くらいで一軒家を建てた。それからすぐに妻が倒れたけれど、その家を売り借金を返した残りで今の家を買った。なので家の借金もない。

 子育てと妻の介護との両立という点では、かなりあぶない部分もあったが、職場と自宅を近接させたこともあり、なんとか凌いでこれた。いくつかの幸運もあり、リストラとかいう目にもあわず還暦を過ぎてもまだ仕事をありついている。日本経済が一気に下降化した例の失われた30年をどうにかすりぬけて、気がつけば年齢の割りには比較的収入の良い部類の方ある。まあこれは自分の収入がいいというより、周りの落ち込みが激しかったというだけのことだ。

 そういう点では持ち家もあり、借金もなく、金銭面での苦労を子どもにさせることだけはしてこなかった。子どもを私立の高校から私立の大学に通わせることができた。高校のことでいえば、入学が決まってから学食がないことに初めて気づいて愕然とした記憶がある。三年間弁当を作り続けなくてはいけなくなったからだ。毎日、同じような弁当をひたすら作った。

 子どもは特に文句をいうこともなく弁当はきちんと残さず食べた。ただしあまりにも冷凍食品を続けたせいか、だいぶ経ってから冷凍食品はほぼ一生分食べたから、もういらないと言っていた。知るかとだけ答えたけど。

 吹奏楽部だけは懲りずに続けた。そのおかげでほとんど勉強らしい勉強をしない。高校3年の秋まで部活までやり、慌てて強制的に予備校に通わせた。親的にいかせたい学校は全部E判定という状態のまま受験を迎え、幸いとまぐれで今の学校にだけ受かった。そこももちろんE判定だったのだが。

 子どものこと、障害をもった妻のこと、思い出せば様々な記憶が蘇ってくる。このダイアリーでも妻が倒れてすぐの頃の危機迫るような日々のことがそのまま残っている。そのようにして20数年の日々を過ごしてきた。

 取り敢えず、あくまで取り敢えずなのだろうとは思うけど、今日子どもが学校を卒業し、親は子育ての一里塚を卒業した。

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墓参り

 珍しく、妻だけでなく子どもが墓参りに行こうと言う。雨か、雪でもふるかと思うくらい意外なことではあったのだが、まあせっかくだからということで出かけることにする。

 うちの墓は神奈川県の山の中にある。場所は神奈川だが、愛甲郡という所。本当になにもない山の中である。近隣では宮ケ瀬ダムやら、津久井湖や相模湖など観光地がある。もともと横浜に住んでいる時に父親が亡くなり、葬儀屋に墓はどうしますと言われ、まったく考えていなかったので、葬儀屋がすすめてくれたところに決めたというだけのことだ。

 現地に行ってみて驚いたのが、父が亡くなる一月前に父と二人でドライブをした。その時に相模川の河原でしばらく遊んだ。遊んだといっても河原に座って、たわいない日常的な話をしたり、川向うの山をぼーっと見ていたりしただけだ。

 その時、見ていた川向うの山の裏側を切り開いたなだらかな傾斜に西洋風の墓石を並べた墓地公園が案内されたところだった。何かの偶然か、あるいは父にはなんとなく自分が葬られる場所がわかっていたのか、そんなちょっとだけ因縁めいた部分がある。

 いつも墓参りにいくと必ず斜面の一番下のところから写真を撮る。その景色はほとんどといっていいくらいに変わらない。こういう風である。

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 春彼岸の翌日だが、時間が遅いせいか、墓参りの人もほとんどいない。家を3時少し前に出て着いたのが4時くらいである。高速道路が延伸したこともあり本当に便利になった。以前、下道だけで行っていた頃には、道路の込み具合によっては3時間近くかかることもあったのだが、今では本当に1時間である。とはいえ近くなっても墓参りに行く頻度が増えた訳でもない。お彼岸ですら行かないことも少なくない。まして子どもとなるとあまり一緒に来ることはないので、家族三人で来たのは多分4年ぶりくらいになるのかもしれない。

 父の墓は50メートルくらい登ったところにある。購入した当初はまばらだった墓石も今ではほとんど空きがなくなっている。さらに上の方も山を切り崩して墓石が連なるようになってきている。

 墓に入っているのは父と祖母だ。何気に墓誌を見てみると、父が亡くなったのは1986年10月。もう34年も前のことになる。そして祖母が亡くなったのは1996年2月でこちらももう24年も経っている。そりゃ自分も歳をとる訳だという妙な得心がある。

 墓を建てたのは父の亡くなった翌年だから、もうこの墓も33年も経っていることになる。その割にはわりとキレイな状態だ。父が亡くなった翌年に、父とは腹違いの父の姉が亡くなって、多分幾つかの偶然が重なったからなのだろう、父の墓の4つか5つ手前に墓がある。自分たちの代ではまったく行き来のない親戚である。いまさら連絡もとることなどはない

 墓参りに行ったときにはいつもしきみと線香を二組購入し、自分のところとその見知らぬ親戚の墓に手向けるようにしている。これは特になにもなく、かれこれ三十年ずっと続けてきている習慣だ。先方でも墓参りの際には、うちの墓に線香をあげてくれているようで、時々の燃えかすを見つけたりすることもある。

 自分はほぼ完ぺきに無宗教で信仰心もないので、いわゆる法事というものはやらないできた。墓参りに来たときはしきみと線香をあげて、墓石を簡単に掃除して手を合わせ、心の中で近況を報告し、家族の健康とか願い、見守って欲しいとお祈りする。ただそれだけのことだ。

 今回は子どもが妙に生真面目に墓石の〇〇家の文字についた汚れを掃除してくれていた。今年で大学も卒業となり社会人になる。子どもなりにそういう節目ということもあり、墓参りにということもあったのかもしれない。

 小1時間、子どもと自分とで墓石の掃除をした。主には子どもが小さな歯ブラシを使って文字についた汚れを落としていた。妻はというと、杖で少し先まで歩いて戻ってきた。本人がいうには少し体を動かしたいということだ。

 そのようにして5時を回ると、チャイムがなり閉園知らせてきた。春彼岸ともなると陽も長くなり、夕刻とはいえまだまだ明るかった。最後にもう一度墓の前で手を合わせてから岐路に着いた。公園墓地の正門は閉鎖されていたので、傾斜を少し上った先の裏から車を出した。

 帰り道、もう一度墓誌に刻まれた父と祖母の亡くなった年月を反芻した。父は1986年、祖母は1996年。10年のサイクルということだ。そしてそれからもうずいぶんと年月が流れた。この後、この墓に入るのは誰なんだろう。年齢の順番であれば兄が先か、あるいは自分か。そんなことが割合に現実的な話と思えてくるほどに、自分も兄も歳をとったということだ。

 あと30年もすれば、この墓を守ってくれるのは多分子どもだけということになる。その時、子どもに家族がいれば、家族を連れて墓参りをしてくれるだろうか。そんなことを考えるほどに、自分も小さく老いてきている。

『パラサイト 半地下の家族』を観る

 金曜日、三連休の最初の日。新型コロナウイルスのこともあるので、出来ればあまり出かけたくないのだけれど、夕方退屈したカミさんが散歩に行こうというのでご近所をうろうろ。その後、やっぱり近所の小さなショッピングモールに行って、そこには小さなシネコンがあるので、上映スケジュールを見てみると『パラサイト』がレイトショーでやっている。アカデミー賞受賞で話題になったからだろうけど、そろそろ公開も終了かもしれないし、前日『グエムル』を観ていたこともあり、観ようかということに。

 でもって、館内に入ってみるとこれである。だあれもいない。

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 地方都市のレイトショー、しかもコロナもあって映画館とかも敬遠されているのだろうが、この貸し切り状態は凄いなとか思っていたのだが、予告編とか始まった頃からポツリポツリと人が来始めて、結局は自分らを含めて10人くらい。地方都市だし、コロナだし、それを考えるとけっこう上出来かもしれないなどと思ったりもした。しかし、この劇場内で10人足らずでは、感染リスクはかなり低いとは思って。

 そして『パラサイト』である。

パラサイト 半地下の家族 - Wikipedia

 面白かった。事前情報でだいたいの粗筋は知っていたのだが、ラストの展開はこちらの予想をはるかに超えた感じだった。格差社会が深刻な韓国にあって、全員が失業状態にあり半地下生活を強いられた家族が、富裕層の象徴のような金持ちの家に身分を偽って寄生していく。それを面白おかしく戯画化して描いた作品という情報を得ていただけに、あらかたのストーリー展開がだいたい1時間で出尽くししまった後、これはどうなるんだろうと正直訝しく思ったところもある。自分でも時計で1時間経過時点を確認したりもした。

 そこからパラサイトのさらなる複層化と、そのハチャメチャ、ドタバタな展開、それがある種のカタルシスへと導かれた先にさらなる結末が待っているのである。これは脚本の力、ストーリーテリングの勝利だと思わざるを得ない。

 この映画がカンヌのパルムドールから、アカデミー賞の大舞台で、作品賞、監督賞、脚本賞の三冠を成し遂げたの頷ける。この映画は格差社会をダイレクトにとらえた真面目な社会派ドラマではない。そうした実相を斜に構えて黒い笑いにくるんだコメディ映画である。だからあまり深刻にならずに観ていくことができる。この黒いコメディ仕立てというところが、この映画の成功の一つだと思う。

 さらにいえば、この映画はストーリーが寓意的、戯画的であり、また登場人物も作為的なまでに類型化されている。半地下の家族たちもみなある部分類型的、寄生される富裕家族にいたっては漫画かと思わせるほど、主人、妻、娘、末息子ともプロトタイプ化されている。それでいてどことなくリアリティがあるのは細部の描写が妙に細かく現実感があるように思える。

 半地下の家や金持ちの豪邸もリアリティに溢れている。アカデミー賞監督賞を二度受賞しているイニャリトゥがポン・ジュノにロケケーションをほめたところ、それがすべてセットであることに驚くというエピソードがウィキペディアの中にあるが、それほどこのセットには奇妙な現実感がある。同時にあの豪邸は作り物のような、どこか非現実的な雰囲気もあるのだが、でもそれは富裕層の生活のある種の浮遊的な非現実性を表現しているようにも思える。

 自分もあれは確実に存在すると思ったし、セットは意外だった。現実を作り物のように見せるのも映画であり、作り物を現実めいて見せるのも映画なのだ、ということ。これもまた演出の勝利ということができるかもしれない。

 映画が戯画化してみせた人物や設定は現実の様相がそのまま活写しているのかもしれない。だとすれば実はリアリティがないのは現実の方なのかもしれない。

 映像、様々なカット、モチーフには、監督のある種の意匠がある。それらは過去の作品群のなかでも繰り返し描かれていることが多くある。キューブリックスピルバーグにも繰り返し用いられるモチーフがあったように思う。そういう意味では、ポン・ジュノにもそうした志向がある。

 前日に『グエムル』を観ていたせいもあるからか、地下や水には独特の感覚があり、繰り返されるモチーフがあるようにも思えた。さらにいえば、リアリティと非リアリティの混濁やハチャメチャ、ドタバタ的な混沌とそこからの復帰も二本の映画に共通していたようにも思えた。

 『パラサイト』はブラックコメディのパッケージをもった快作だと思う。とはいえ、この映画がカンヌとアカデミー賞の栄冠に輝いたのは、いくつかの幸運と偶然が重なった産物かもしれない。時流は世界レベルでのグローバル化や多様性が求められる時代でもある。その中でアカデミー賞は白人文化を基底にした選考が続いてきた。そろそろ非欧米系の商業作品にもスポットを与えるべきではないのか。そんな潮流の中に、うまくはまったのが本作ではないか。アジア映画にしてはセンスもよく、泥臭さや異文化を全面にした部分が少ない。アジア映画にしてソフィスティケートされている。

 もちろん時代の流れの中で、受賞がイラン映画でもインド映画でもよかったのである。たまたまそこに韓国映画がうまくはまったということ。多分、30年とかそういう長いスパンでこの映画が回顧されたとき、未来の映画ファンたちからすると、なぜこんな映画がもてはやされ、カンヌ並びにアカデミーの三冠をとりえたのかと疑問視されるかもしれない。そこには一定の評価として、いやいい映画には違いないと思うけどと付け加えられるにしてもだ。でも、それはしょうがないことかもしれにない。時代的な限界もあるだろうし、黒澤明の『羅生門』であっても、現代ではそういう評価を浴びたりもするのだから。

『グエムル-漢江の怪物』を観る

 『パラサイト』が何かと話題になっている。そりゃアジア映画で初のアカデミー作品賞、監督賞、脚本賞という三冠を成し遂げた映画だけに、映画は日本でも大ヒットしているのは当然だ。それで監督のポン・ジュノの作品って、何か観たことがあったかと思い返していきあたったのがこれ。 

グエムル-漢江の怪物-(字幕版)

グエムル-漢江の怪物-(字幕版)

  • 発売日: 2015/04/02
  • メディア: Prime Video
 

 で、これを子どもと一緒にリビングで観てみた。

 いや、面白い。単なる怪獣映画でも、単なるパニック映画でもない。怪獣はにさらわれた子どもを助けるために家族が立ち向かうという家族愛に立脚した映画でもある。しかし正攻法なそれではなく、歪な家族愛。そしてあり得ないほどのドタバタ、ジェットコースター・ムービーのようなハラハラドキドキの連続。

 映画には様々な伏線やメタファーが満ちている。漢江というソウル市内を南北に流れる大河は国境を連想させる。そして怪物は北朝鮮の何かを、怪獣に捕まる人々は拉致を思わせる。

 そして韓国において優越的地位をもっているアメリカに対する風刺も効いている。韓国人にとっても在韓米軍を含めアメリカは特別な存在なのだろう。その優越的地位に対する反発とともに、北から自国を守ってくれる装置でもある。そう、そのへんは日本と安保、在日米軍とほとんど一緒なのである。アメリカに対する意識は黒船によって凌辱され、敗戦によって敗北に包まれた国である日本の倒錯した親米主義と似通ったものがあるのだろう。

 この映画の怪物は意外と早くから姿を現し人を襲う。そのへんのところはスピルバーグの『ジョーズ』とかとは逆である。これは多分にポン・ジュノ監督はあえてそれを狙ったのだろう。見えないモノ、なんだかわからないモノに襲われる恐怖とは異なる。ほぼ最初から怪物は実体として描かれる。そのグロテスクでややもすれば安っぽい姿は、アメリカ版ゴジラなどと同様に戯画化されている。なんというか巨大なカエルかサンショウウオのような姿は恐怖よりも笑いを誘う。でも、これも多分に計算されている。

 ややもすれば安っぽい怪獣映画のパロディのような風もある映画を支えているのは、監督の演出と役者たちの演技でもある。主役なダメ親父を演じているソン・ガンホは存本当に上手いなと思わせる。怪獣にさらわれる女の子を演じたコ・アソンも存在感溢れるうえ、表情が抜群にいい。協力して娘救出のために動くダメ親父の兄弟たち、パク・ヘイルとペ・ドウナもそれぞれ存在感がある。ただしいずれの役柄もけっこうハチャメチャだ。アーチェリーのメダリストでもあるペ・ドウナが弓で怪物に立ち向かうところなどは、ちょっとバカバカしさに思わず笑わせるものさえある。でもそれをペ・ドウナが生真面目に好演しているので、なんか普通に見てしまうのだけれど、けっこうへん。

 さらに多分失業中らしいパク・ヘイルの役柄もかなりへん。おそらく反政府運動を関わった元学生、活動家らしいことが匂わされているからか、最後彼は火炎瓶を作って怪獣に立ち向かう。なんだよ、モロトフ・カクテルかよと突っ込みを入れたくなったりもする。

 そういう意味ではこの映画には韓国の社会問題的な部分が通底しているようだ。漢江の川岸の公園で売店を営む家族は貧困にあえいでいる。前述したように失業中の若者も。さらには怪獣もどことなく北の脅威のメタファーでもあり、米国によって流された劇薬品による突然変異というのも風刺的だ。

 日本的な怪獣映画に慣らされた者からすると、この映画はかなり異質なものを含んでいるし、とっつきにくい部分もある。荒唐無稽な部分や様々な省略によるご都合主義もある。それでいてもきちんと最後まで観れてしまうのは、やっぱり監督の演出力によるものかと思ったりもする。一緒に観た子どもからは感想を聞いていないが、どう思ったのだろう。

 

旅行とコロナウイルスについて

 アメリカ旅行が近づいてくるとやはりコロナウイルスのことがけっこう気になってはいた。旅行代は暮れに全額払っていたのだが、念のためキャンセル保険にも入っていたので正直真剣に悩んだ。とくにニューヨークだったかで、東洋系の女性が地下鉄でマスクをつけていただけで黒人男性から暴行を加えられたという動画がSNSで出回ったことや、特にヨーロッパで東洋系の人が差別的な言葉を浴びせられたという被害が取り上げられたことなどで、場合によってはかなりハードな旅行になる可能性もあるのではと心配したこともある。

 一番楽しみにしていた子どもとも何度か話し合い、場合によってはキャンセルやむなしということにもなっていた。そんなとき子どもの友だちで何人かがヨーロッパやアメリカに旅行しているという話があり、ラインとかで話を聞くとそうした被害はまったくないということだった。特にニューヨークにいる仲の良い子からは、現地ではコロナの話題などまったくないということだった。結局それが後押しされて旅行は決行することにした。

 2月の中旬頃にいろいろと情報をとっていくと、その時点ではアメリカはインフルエンザが猛威をふるっていて、感染者が2600万人、死者が14000人以上というようなことだった。今となってはその何割かは実は新型コロナウイルスだったのではという疑惑もあるようだ。ただし、アメリカでは病気になった場合、基本的には家で療養するようで、マスクをして外出するという習慣はないとのこと。また国民皆保険ではないので、貧困層医療保険に入れずきちんとした医療が受けられない。死者の多くが貧困層に集中しているということもわかってきた。

 なのでアメリカではコロナよりはインフルエンザを注意した方が良さそうだということ、とはいえ向こうではマスクをしない方がいいいというようなことを話した記憶がある。なので成田や飛行機内ではマスクを着用したが、ロスに着いてからはマスクはしないということだった。さらにいえば、ロスでもアナハイムでもまったくマスク姿が見かけなかったし、東洋系ということでなにか差別されるようなことはまったくなかった。

 ということで、旅行中はコロナウイルスのことなどまったく危惧することはなかったし、事前に心配したことは全部杞憂だったとは思っている。とはいえそうしたお気楽な気分は帰国とともに一掃されたような感じだった。実際、帰国する前日の27日には安倍首相が全国の学校に休業を要請し、それがSNSで話題になっていた。そして28日に帰国すると同時に、日本のディズニーリゾートやユニバーサル・ジャパンが29日から3月15日までの休業発表(さらに継続されている)、29日には安倍総理の緊急記者会見、3月に入ると国内感染者は1000名を超える。

 さらに欧州ではイタリアで感染者、死亡者が激増し、スペイン、フランス、ドイツ、イギリスなどにも感染者が拡大した。3月11日にはWHOが新型コロナウイルスの世界的感染拡大について「パンデミック」を宣言した。アメリカでも感染は拡大し、カルフォルニアのディズニーランドも3月14日には3月末まで閉鎖された。

 そうした世界的な感染拡大の状況からすると、2月末の旅行はほとんど最後の機会というかある種絶妙なタイミングだったのだなと思ったりもする。さらにいえば旅行から帰宅してすぐに子どもは37度台の熱を出した。まいったなと思ったが、幸い咳症状は一切なく、子どもも単なる疲れだと言っていて、風邪薬を飲むとほぼ1日で平熱に戻った。それからすでに二週間近く経つけど、本人にも家族にもまったく異常はないので、多分アメリカでの感染がないのではないかと思っている。

 とはいえこれからは国内での感染の可能性はだんだんと大きくなってきていると思う。日本は中国や韓国、またヨーロッパに比べて異常なほど感染者が少ない。これはすでに喧伝されているとおりに、日本では検査件数が極端に少ないことに起因している。韓国がドライブスルーなどの方式を含めて、とにかく検査件数を増やしている。その結果、感染者数は8000人を超えるものとなっているが、とにかく検査数が25万件と多く、その結果として感染拡大はある程度抑えられている。

 それに対して日本の感染者はまだ1300名前後だが検査数もまだ2万数千件と極端に少ない。検査を増やすと医療崩壊を招くといった意見が政府周辺から沢山流されているが、これはどうみても五輪対策のためとしか思えないところがある。夏にオリンピックを開く開催国で新型コロナウイルス感染者が拡大するというのはイメージ的まずいという思惑が、検査を控えさせているのではないか。実際、37.5度以上の高熱があっても相談センター=保健所ではなかなか取り合ってもらえず、医療のたらい回しにあうことが多いという事例もある。感染していても、感染者かどうかわからない事例が多数あるのではないかと思われる。

 実際のところ近隣の韓国で8000を越す感染者が出ていることや、2月まで中国からの観光客が普通に訪れていたことを考えると潜在的な感染者は現在5〜6倍あっても普通ではないと思う。ヨーロッパやアメリカでの感染拡大を考えればそれは十分考えられる。

 ということは市中には潜在的な感染者が多数いるとみなしていいと思う。いくら不要不急の外出を控えてといっても、普通にみんな仕事に出ている。時差出勤やテレワークが増え通勤電車の混雑率も普通より緩和されているとはいえ、まだまだ満員電車であることは間違いない。仕事をしていれば、普通に多数の人との接触がある。マスクは感染者がウイルス飛沫させることを防止する助けにはなるが、空気中のウイルスを防御することはないともいう。そういう状況ではいつ感染してもおかしくない状況はまだ当分の間続くということだ。

 会社に復帰して最初にしたのはコロナ対策である。すでにその対応策については社内に周知させるため3回告知を出しているし、時差出勤のために終業規則改正もした。話はだいぶそれてしまったが、今回の新型コロナウイルスについての対応はこれまでとは異質なことが強いられると思う。景気もジリ貧状態になっていくだろう。いざ感染者が出たとなれば消毒体制や休む者の代替をどうするか、業務の縮小と継続などBCPを強いられることにもなる。休業の補償とか諸々も考えなくてはならない。

 なんともため息の出るようなことばかりだけれど、あえて能天気にいえば海外旅行に行くにはラストのタイミングだったなとつくづく思うばかりだ。