サンダルを買う、あるいは購入履歴とか

 先日、久々にスポーツサンダルを買った。これまで使っているものがだいぶヘタってきていたので、そのうち買わねばとは思っていた。とはいえ今はスポーツサンダルもけっこう高い。だいたい7~8千円は普通にしていてなかなか手が出ない。最近はスニーカーでもそのくらいの値段のものは躊躇する。まあ高齢者なので、スポーツブランドみたいなものに拘る必要もないのだろうが。

 買ったのは特売品で4千円くらいだったか。エドウィンのスニーカータイプでかかとが硬いハンズフリーで履けるもの。まあそれはどうでもいい。

 それまで履いていたサンダルは多分中国製。いや今売られているスポーツサンダルはたいてい中国かあるいは東南アジア製だとは思うが。そして買ったのはAmazonだ。さていつ頃買ったのだろうか。なんだかんだで10年近く経っているのではないか。試しにAmazonの購入履歴をつらつら眺めることにする。適当にあたりをつけて2017年あたりから遡るとビンゴである。2016年の8月にAtikaという中国製のアウトドアサンダルを買っている。

 ジャスト10年前か。なんかまた遠い目になってしまうな。しかし10年前に買ったスポーツサンダルがいまだ現役というのも凄い。というかあまり履いていなかったのかもしれないな。サンダルはこの中国製とハイドロテックの涼風爽快というドライビングサンダルを併用している。涼風爽快は3~5年に一度買い替えているから、こっちの方を履く機会が多いのかもしれない。

 10年前のサンダルを買った前後にAmazonで購入しているものはというと、ティンバック2のメッセンジャーバッグなどやたらと自転車用品が多い。多分、その頃にルイガノのシティサイクルを買ったのだろうか。夢の自転車生活に憧れていたのかもしれない。とはいえあまり自転車には乗らなかったような。

 ルイガノはまだ持っているが、ほとんど乗っていない。あまり出番のないまま10年経過してるから、これはもう廃棄することになるんだろうな。しかし自転車自体に乗らなくなっている。なんだろうね。出不精だし、買い物の類は車を使うし。

 一度、自転車で転倒して頭を打ったことがあった。夜だったけど、特に段差とかでもないのに。ちょっと心配だったので翌日には病院でCTをとったりもした。それが契機になったかどうかは判らないけれど、なんとなく自転車を敬遠する部分もあるかもしれない。年取ると諸々リカバリーができない。

 その他、購入履歴をみるとだいたいのパターンが決まっている。まずはガジェット類。これはイヤホンだったり、メモリだったり、スマホのケースだったり、プリンターのインクだったり。あとは充電式の電池なんかも。当時的にはブルートゥースイヤホンが出始めだったようで、中華製をいくつか購入しているみたい。そういえばAirPodsも2016年に発売されたんだったか。

 CDもけっこう買っている。ニルフ・ロフグレン、スタン・ゲッツの廉価版CD4枚組セット、ボブ・ジェームスのベスト盤、ロス・インディオス・タバハラスのベスト盤、ローラ・ニーロなんかも。ときおりレイ・コニフとか訳の分からないものも購入している。たぶんこれってほとんど聴いてないな。

 この頃から美術史に目覚めたみたいで、『カラー版西洋美術史』といった西洋美術の教科書や入門書も買っている。

 いやはや10年ひと昔とはいうものの、ちょうど還暦を迎えた頃なんだが、今と基本的にはあまり変わっていないような気もする。

 ちなみにAmazonの購入履歴は2004年まで遡れる。この頃はほとんどが書籍ばかり買っている。Amazonのサイト自体が2000年にオープンし、本・洋書の販売を開始している。2002年にマーケット・プレイスを開始、2003年に家電販売を開始している。なので最初は書籍以外の商品の扱いはかなり限定的だったのだろう。自分の購入履歴が2004年なのは、ひょっとするとAmazonのシステム上、購入履歴が見れるようになったのが2004年からなのかもしれない。新しもの好きだから、試しに本の注文をオープン当初にもやっていそうだが、その頃はなんとなく本はあくまで本屋で購入みたいな意識が働いていたのかもしれない。

 Amazonの購入履歴が2004年からということで、20数年の自分のネットでの購買行動が見て取れるということになる。これってけっこう凄いことかもしれないと思う反面、なんでそんなもの買ったんだというような気恥しい部分や突っ込みもあったり。そのうちどこかでつらつらと、あるいはじっくりと眺めてみようかと思ったりもしないでもない。

 ちなみに購入日、購入商品、購入金額はわかるけれど、例えば何年に合計いくら買ったかというのはわからないみたいだ。もっとも合計金額が一目瞭然となったら、無駄遣いの数々にそれこそ発狂するかもしれない。さらにいえば購入履歴をダウンロードすることもできない。これはあくまで個人の記録というよりもAmazonがマーケティングのために使用するデータだからだろう。

 しかし個人の購入記録が20年以上も閲覧可能にしているというのもある意味凄いことだと思う。たぶん日本の通販サイトであれば、データはすぐに消却してしまうだろう。サーバーには容量の限界があるとか、プライバシーの問題があるとかなんとか。でもきちんとセキュリティを確保したうえで、個人の購入履歴を全部残しておく。このへんが通販サイトとしてAmazonが独り勝ちしてきた理由かもしれない。徹底したデータ主義、そしてデータを保存し活用するためのシステム構築。それが例えばAmazonのクラウドサービスAWSなどにも繋がっているのだろう。大規模データーセンターによるデータの蓄積とその運用・活用。

 AmazonのAIはECサイト向けの「Rufus」や、クラウド部門AWSを通じた生成AIサービス「Amazon Bedrock」や企業向けAI「Amazon Q」などがある。これらを支えているのは、世界中の個人の購入履歴の蓄積とその活用だったかもしれない。Amazonは徹底して巨額の資金を設備投資に回し、キャッシュフロー的には常に赤字ということを続けている。Amazonがどんどんと巨大化していく過程で、とにかく目先の利益を追わない、利益確保による株主配当などよりも設備投資を続ける。各国、各地での配送センターの増設、そして世界中に巨大なデーターセンターの建設を続けているとは、以前なにかで読んだ記憶がある。

 技術や設備への果断なき資金の投入。だからこそ、東アジアの一個人の20年かそこらの購入履歴程度のデータは簡単に保存し続けることが可能なんだろう。

 サンダルの話から脈絡もなくずいぶんと飛躍した大規模な話にとんできた。

 しかしAmazonが米国ナスダックに上場したのが1997年。日本上陸は2000年である。アップルがiPodを発売したのが2001年、iTunesの配信は米国で2003年、日本では2005年にサービスが開始している。たかだか30年経っていないのに、世の中はえらいこと変わった。それでいて個人の購買行動は、こと自分自身に限定していえばこの30年、ほとんど変わっていないというオチ。

 しかしなんだなあ、2000年代初めにアップルやAmazonの株でも買っていたらなあ。再び遠い目をしてみる。

パゾリーニ『テオレマ』を観る

 

 Amazonプライムを逍遥していたら、パゾリーニの『王女メディア』がまもなく配信終了とあったので覗いてみた。ところがいざ視聴すると「お使いの地域での視聴はできません」みたいなメッセージが。ちょうど配信が終わったタイミングだったみたい。

 なので他にパゾリーニはないかとつらつら眺めていて見つけたのが『テオレマ』だったので、ちょっと勇気がいるのだけど観てみた。そうパゾリーニを観るのには、ちょっと身構えるというか、姿勢を正さないと、けっこうハードルが高いというか。そういう映画。難解さ、寓意性、そしてぶっちゃけ意味不明性、このへんではタルコフスキーに匹敵するのではないかと、そんな気もしている。

 昔々、たぶん20歳を少し過ぎたあたりで、鶴見の名画座でパゾリニーの三本立てかなにかを観たことがある。『豚小屋』、『アポロンの地獄』、『テオレマ』だったか。これに『デカメロン』あたりもあったかどうか。観終わった感想は一言でいえば、「頭おかしくなる」でした。もっとも了解可能なのが『アポロンの地獄』。まあオイディプス譚だし。そしてもっとも難解だったのが『テオレマ』だった。そして『豚小屋』はなんでジャン=ピエール・レオみたいな二枚目がわざわざ豚と獣姦しておまけに最後は豚どもに・・・・・・。

 それでも『テオレマ』は理解不能ながら、なんというか惹きつけるものがあるというか、そのパゾリーニ祭の中では一番印象に残った。おそらく映画の出来という点では『アポロンの地獄』なんだろうけど、自分的には『テオレマ』がベスト。そしてそのままパゾリーニの個人的なベストワンであり続けた。

 その頃のイタリア映画という点でいえば、巨匠フェリーニ、ヴィスコンティを筆頭にミケランジェロ・アントニオーニ、マルコ・フェレーリとかいたような。ロッセリーニは少し前の世代、そしてベルトリッチは後の世代みたいな感じだろうか。

 個人的にはずっとフェリーニが一番なんだけど、ある意味でパゾリーニはその斜め上を少しいくような感じもしないでもなかった。なぜかといえばやっぱり『テオレマ』の衝撃が大きかったからかもしれない。

 改めて『テオレマ』。

 

 

テオレマ - Wikipedia

 

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 ミラノ郊外に住む大工場のオーナーのブルジョワ一家。有能かつ当時のイタリアでは労働運動やイタリア共産党の影響もあり、盛んに話題となっていた労働者の経営参加にも一定の理解を示す経営者の父親、美しく貞淑な妻、陽気でやんちゃな長男、おとなしい性格の長女という四人家族。さらに信仰深い家政婦。

 表面的には絵に描いたような幸福なブルジョワ一家もそれぞれに精神的な闇を抱えている。父親は妻との性的関係がうまくいかない。そのことで妻はある種の欲求不満的なストレスを感じている。

 長男はふだんは友人たちとも気さくな付き合いをしているが、芸術的欲求や男性への性的関心を内に秘めている。最初、彼が謎の青年とリビングで寛いで座っているときに、二人で見ている画集はフランシス・ベーコンである。それは二人が性的関係に陥ることがすでに暗示されている。

 そして長女は父親への強いファザー・コンプレックスを抱いている。いやそれどころか、父親と長女の間にはもっと闇深い近親相姦的なものが見え隠れしている。彼女は青年と性的関係に陥ることで、父親の呪縛から逃れ、あたかも解放されたかのようでもある。

 そんな胡乱なものを通底する家に一人の若者が現れて同居し始める。なんの説明も理由もないままに。そして若者の不可思議な魅力に翻弄されるかのように、家族は一人一人若者の魅力の虜となり性的な関係を結ぶ。そして映画の途中でこれもまたとくに説明もないままに、若者は忽然とその家を去っていく。

 若者が去った後に家族はそれぞれが精神的、身体的に崩壊していく。その様が具体性と寓意性を絡み合わせながらエピソードとして描かれていく。

 まずは信仰深い家政婦。彼女は最初、謎の青年に性的な興味を抱いたことを恥じてガス自殺を図ろうとするも青年に助けられ、そのまま性的関係に陥る。青年が去った後、彼女は母親の元に戻り、そこでただ椅子に座り動こうとしなくなる。周囲の人々は彼女が聖女となったのだと思い、彼女の元に集まってくる。彼女は病気の子どもを直し、その後で空中に浮かぶようになる。そして最後には地中に穴を掘りそこに横たわる。母親に土をかけてもらいながら、私の涙は泉になると告げる。

 

 

 長女は青年が去った後、あたかも自ら意思でそうなったかのように金縛り状態で動かなくなる。医者に診せてもさっぱり原因もわからず、医者も匙を投げ、病院に搬送される。

 長男は芸術に目覚め、アトリエを借りる。彼はキャンバスに小便をかけ、それから制作を始める。

 貞淑で美しい妻は上半身裸で犬と遊ぶ青年に欲情し、屋外の小屋で自ら裸身になって青年を招き入れる。そして青年がいなくなると、彼女は街を車で流しながら、若い男に声をかけ見境なく、見知らぬ小屋や屋外で男たちに身体をゆだねる。

 

 

 工場主の主人は様々な煩悶の後、ミラノの駅で全裸となる。それから映画の中で何度もインサートされる砂漠、あるいは荒涼とした火山地帯を彷徨う。

 

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 さまざまな解釈が可能な寓意劇。あるいは一切の解釈の余地を与えない不条理性によって構成された作劇。

 もっとも妥当かつ了解可能な解釈は、ブルジョワジーの精神的な崩壊過程あたりだろうか。傍目には裕福で幸福な家庭は、ちょっとした契機によってガラガラと崩れてしまう砂上の楼閣のごときものである。家族もまたその精神性は、かんたんに破綻してしまう。

 70年代の社会的、政治的状況という側面でいえば、構造改革論を主導したグラムシ、トリアッティ、さらにその流れでマルクス・レーニン主義を捨て去ったベルリンゲルのイタリア共産党の指導のもと労働者による経営参加、自主管理を掲げた労働組合の台頭により、ブルジョワ階級に大きな危機意識があった。それはある意味ではブルジョワ資本主義と市民社会の危機でもあった。

 そうした社会情勢、ブルジョワジーの経済社会的危機意識とそこからくる精神的な切迫感。それが外部的な要因によって瓦解する様を寓意的に描く。無知蒙昧な家政婦は盲目的なカトリック的信仰に回帰する。青年は芸術に逃避し、少女は外的世界を意識的に遮断する。貞淑で美しい妻、母の役割を担った女は、自らの欲望に回帰する。そしてブルジョワジーを体現した工場主は、自らがまとった虚飾性を廃して荒野を彷徨う。

 単純な、単純な解釈はブルジョワジーの崩壊する様を描いた寓話劇。そんなところか。でもパゾリーニはそんな簡単な図式でこの映画を作っていないだろう。もっと複合的、あるいは重層的な意味性が包含されている。そんな風に考えたほうがカッコよくないか。

 実はたいした映画ではないのかもしれない。それはパゾリーニの死が政治的な暗殺であったのか、いまだに解明されないことに呼応しているかもしれない。でも単なる痴話げんかのもつれだったのかもしれない。そう簡単に謎解きを許さない哲学的な難解さ、安易な理解を許さない、あるいはさまざまな解釈を許容する重層性。

 意味不明だが、なにか奥が深そう、たぶん20代の自分はそんなこの映画の難解な寓話劇に面白味を感じたのだろう。おそらくその年のベストワンだったかもしれない。そのくらい自分的には衝撃的な映画でもあった。当時的にはフェリーニよりもパゾリーニが上みたいな感覚があった。実際のところ『アポロンの地獄』や『デカメロン』は『サテリコン』よりも面白かった。

 そして50年近く経ってから改めて観てどうだったか。面白かった。映像はいささか古びていて、いかにも60年代風だ。そして当時も思ったことだが、テレンス・スタンプのどこにセクシーな趣を覚えるのか、それは当時も今も同じだ。

 テレンス・スタンプは個性的な俳優だが、彼を個性的と言わしめたのは多分に『コレクター』や『世にも怪奇な物語』の「悪魔の首飾り」の怪演にあったのかもしれない。あれでキャラクターが固定化されてしまったためか、その後は常に個性的な怪演技の役者のレッテルを張られたままだったかもしれない。『テオレマ』でも謎めいた若者を好演しているのだが、実はどこが謎めいているのかが今一つなようにも思えた。この映画の謎の闖入者は特異なキャラクターがない。むしろ空気のような存在感の希薄さとともにいつのまにか訪れて、いつのまにか消えていく存在のようでもあった。

 22歳かそこらで観て、けっこう評価の高かった映画を50年近く経ってから観る。普通ならとてもじゃないけど、ちゃんと観ていられないみたいなことが多そうだ。青臭い青春映画やメロドラマ系はそういうことが多そうだ。よくこんな映画を喜々として観たものだ的な感想。それでなくてもすでに当時のような、それこそみずみずしいとでもいうような感性は持ち合わせていない。枯れた感性。それでいてどうでもいい映画、どうでもいいシーンに簡単に落涙したりもする。

 枯れた感性と弛緩する涙腺。

 とりあえずかって意味不明ながら衝撃を受けた映画を古希を過ぎても観ることができのが驚き。深夜に観たのにさほど睡魔にも陥ることもなかった。そして今回の感想はというと、やっぱり意味不明、了解不能、だけどなんとなく凄い映画かもしれないと。

 まあ経験値あがっているから、実はこの映画はたいして深くない、浅い寓話劇かもしれないなと思う部分も実はあるかもしれない。でもまああえてそうやって映画をつまらないものにしてもしょうがない。けっこう楽しく観ることができた。それで充分だ。

 最後にテオレマの意味は「定理」である。

定理とは、数学や論理学において、すでに正しいと証明された重要な命題(性質や法則)のこと。ルールや意味をそのまま決める「定義」とは異なり、筋道を立てて正しさを説明(証明)できるものを指す。

 証明可能な命題。筋道を立てて正しさを説明できるものが、この映画の中にあったかどうか。パゾリーニも相当に食わせものだ。56年前に制作された映画を観て、51年前に痴情のもつれか、あるいはネオファシストによって政治的に暗殺されたか、今をもって謎めいたまま亡くなっている映画監督に、ちょっとした突っ込みを入れてみたくもなる。

 どこが「定理」やねん。

徒然なるままに、まさに雑記あるいは夢の話

 書くネタがないとかそういうのではないのだが、なんとなく思いついたこと、感じたことなどをとめどなく。

 

朝のサンマルク

 木曜日だったから6日の日だったか。妻の健康診断のつきそいで朝から出かける。9時台のクリニックは滅茶苦茶混んでいる。そういえば木曜の診察は午前中だけなので、それでみなさんいらっしゃるのか。とにかく駐車場もほとんどいっぱいだし、待合室もほぼ満席状態。たぶん30人以上いるのでは。

 健診の受付をすませてからは、自分はほとんど待っているだけなので、妻を待合室に残してクリニックをあとにして、近くのショッピングモールへ。まずはATMで金を下ろす。店舗の営業時間は10時からなので、9時台のショッピングモールは閑散としている。

 開いていたサンマルクに入ると、ここはけっこう混んでいる。特に中高年、いや率直にいって高齢者の客が多い。一人で新聞を読んでいる男性、本を読んでいる女性などなど。あまりスマホを見ている人は少ない。あとは学習をしている学生がチラホラ。少ししてから高齢の男性二人組がやってきたのだが、耳が遠い同士なのか、けっこう大きな声で話をしていた。こういうのも老害というのだろうか。そんなことを思ってる自分も高齢者の一人ではあるが。

 サンマルクの電源コンセントはところどころ壁の下の方にある。パッと見渡した限りだと3~4カ所だったか。空いている席でコンセントに近いところがあったのだが、テーブルに置いたノートパソコンからコードを延ばしてもうまいこと届かない。コードは1.5mくらいだったか。2mなら届くのに。しかたなく電源コードでの使用を諦めてバッテリー駆動で。どうせメールをチェックして返信したりとか、そんな程度の作業。

 1時間半くらいすると妻から連絡がきたので席を立った。

人気のイタメシ屋

 クリニックでの健診終了後の受付をすませる。妻は健診までは食べる量を控えていたので、解禁とばかりにランチは美味しいものをという。そこで少し車を走らせてグルグルと。それから川越の郊外にあるイタリアンレストランPISOLAなるところへ。ここは前から妻が行きたいと行ってたところ。でもいつも混んでいて、前に一度通りかかったときには、店の外にも少し列ができていた。

 店は12時半過ぎに行ったのだが、まず駐車場がほとんど満杯状態。幸い車いす駐車場が空いていたのでなんとか止めることができた。店内で受付を済ませると14番目とか。入口付近の待機場所の椅子は待つ方々でいっぱい。その他にネットで予約した人たちが、時間になると入ってくる。それでも30分かそこらで自分たちの番になる。

 ランチは前菜、主食、フリードリンクがついて税込みで1800円弱。主催はピザ、パスタ(三種類から一つ)、リゾットから選ぶ。自分はピザ、妻はパスタにした。

 オーダーはすべてモバイルオーダーで用意されたテーブルごとのQRコードをスマホで読んで表示されるメニューから。この手の客のスマホをつかったモバイルオーダーは今一つの印象。さらにいうと、一応店内にはフリーWi-Fiがあるのだが、通信状態が悪いのかオーダーしようとすると通信エラーとなる。仕方なくWi-Fiをオフにしてモバイルデータ通信にすると問題なく使える。

 客の機器を使って注文させるうえにさらに客のパケットで商売するというのがなんとなく納得いかない。人のスマホで商売するなと。まあいちいち文句垂れたりはしないけど。できればテーブルごとにきちんと端末を置いて注文させるべきだよな。

 大手のファミレス系でスマホ使って注文するのは、例えばサイゼリヤなんかがある。あそこも店舗によってWi-Fiが繋がりにくかったりする。おまけに紙のメニューを見ながらメニュー番号を入力するのだけど、レスポンスが悪い。人のスマホを使い、操作性や反応も鈍いというのは、いくら安いファミレスとはいえ、なんとも微妙だったりする。

 ということで今回のPISOLAも料理の注文のところでちょっとばかりもやもやとする。それでも料理はまあまあ美味しい。ただし、周囲がけっこう煩い。今回座ったのは個室タイプの二人がけのテーブル。通路を挟んで右側には4人がけのボックスがあるのだが、そちらに中高年の御婦人4人組がいらっしゃる。この人たちの声がやたらと大きく、なんていうのだろう、居酒屋の若者グループみたいな感じで大声で話したり、笑ったり。

 おかげで料理どころでなく、なんとなく辟易してしまった。結局、これって料理のあとに長いこと談笑ができるフリードリンクのシステムがいけないのだろうな。ドリンクを一杯だけの別料金にしたら、長いこと居座ることもないのでは。

 お店は混むこと必須なので、いちおう2時間とおおまかに決めている。ご婦人グループのテーブルには食事の皿とかはなかったので、おそらく2時間近く、あるいはそれ以上在席されている様子。しばらくすると店員から「次のお客様がお待ちですので、そろそろ」と帰るよう促されていた。

 と、なんとなくずっと御夫人グループをウォッチングしてたみたいに思われるかもしれないけれど、それくらい煩くて、聞こえないようにしていても耳に入ってくる状態だった訳。

 妻的には料理はまあまあ満足していたようで、また来たいということらしいが、自分はというとあまり良い印象がないので、次は来世の棚に入るかもしれない。

日記のこととか

 Google keepでつけている日記はかれこれ2年くらい続いている。ほぼ欠かさずつけているは自分的にはちょっとした驚きだ。なにをやらせても三日坊主の人生歩んできた人なのにね。まあそれだけ暇なのかもしれない。

 以前にも書いたことだが、Google keepはスマホでもパソコンでもアクセスしやすいし、メモ的につかうのには優れている。日記として利用するのにも適しているように思える。ただし過去の記録を読み返す際には、けっこう手作業で画面スクロールをひたすらしなくてはならない。ラベルを細かくつけるとしても、確かラベルの上限は50までなので際限なくという訳にはいかない。

 しかたなく記録をGoogleカレンダーに転記している。予定をdb(daybook)として、説明欄に記録をコピーしている。Googleカレンダーだと日記をつけた日を探すのは簡単だし、ひと月単位で一目瞭然的だ。これなら数年前とかですぐに検索が可能だ。ただしあくまでメインはGoogle keepなのでマメに転記する必要がある。

 このやり方を始めたのは1年くらい前からなので、まとめて転記作業をしなくてはならない。けっこうやったつもりだったのだが、去年の6月から9月くらいがまだやっていなかったので、これをまとめて行った。なんだかんだで2時間くらいかかっただろうか。これもまたけっこう暇なんだねと、突っ込まれるような話だ。

 そもそも日記を読み返すのは恥ずかしい話かもしれない。そんな風に突っ込まれるかもしれない。でもまあこういうのはある種の記録、日誌みたいなものだ。これまでの日記はたいてい三日坊主だったけど、業務日誌的なものはけっこうマメにつけている方だった。だいたいがシステム手帳だったけど、ある時期からパソコンのカレンダー機能とかを併用するようにもなった。

 これは経験則になるけど、仕事なんていうのはだいたいが経験の蓄積だ。そしてそういう不定形の蓄積を可視化させるのは業務日誌だ。そこから作業手順なり、意思決定の方途をマニュアル化していく。おおまかにはそんなプロセスだろうか。なので日々の単調な記録も実はけっこう役に立つ。

 会社でも社員全員の日報を義務付けしたときには、かなり反発もされたけど、めげずに続けさせた。職制には日報、週報、月報を義務づけた。軌道にのると、月次会議も記録に基づいているので、ただの感想や印象みたいな説明ではなくなったり。まあかなりレベルの低い会社ではあったけれど、それなりに向上させようとはしていたつもり。

 ということで日々続けている日記は、ある意味リタイアした老人の日誌のようなものかもしれないし、残された日々の記録的ななにかだ。

 読み返していると、なんとなく記憶が蘇ってくる。どこそこへ行ったのは、けっこう前のことだったんだなとか、そういうことも判る。まったく忘れていた事柄、こんなことあったかということだけでなく、付随したことまで思い出したりもする。

夢の記録

 逆にまったく記憶もなにもない事柄というものある。ときどき見た夢を記録するなんてこともした。夢なんていうものは、だいたいが起きるとすぐに忘れてしまうものなので、それをわざわざテキストにしようというのは、けっこう奇妙な夢だったりする訳だ。

 夢はほぼ全員見ている、でもすぐに忘れてしまう、あるいは見たことすら忘れてしまうものだとは、そんな話をきいたことがある。夢は忘れるもの。

 自分はというと、まあけっこう見ているし、起きてすぐは覚えている。でもすぐに忘れる。たいていはかっての仕事がらみのことで、登場人物も務めていた会社の同僚だったり、上司だったり、部下だったり。

 すぐに忘れてしまうので二年間の日記でも、夢について記述したものはわずか数回くらいだ。それが書かれた日記を読み返すと、本当に奇妙な夢、訳の分からない夢であることが多い。

夢その①

 地方でなぜか新聞配達をしていて、配達しているのが政党の機関紙で、一緒に配達するのが以前の会社の同僚役員で、いざ出かけるとなると、忘れ物に気がついて何度も取りに戻るので、いっこうに配達ができない。

 そうこうしているうちに昼食の時間になり、坂道を上ったところでやたらと奥行きのある中華料理屋に入る。炒飯を頼んだのに出てきた料理はナス料理。そのナスがデザートみたいにキレイなので写真を撮ろうと思うのだが、スマホはカバンの中に入っていてしかもジプロックの中にある。それを取り出そうとしているところで目が覚める。

夢その②

 小さな小屋のようなトイレに数人の男が順番待ちをしている。自分の後ろに男の子がいて、その子がオシッコが漏れそうなので、順番を前にしてあげようとすると、父親らしき人が必要ないですと言う。

 いよいよ自分の番になると、便器はなくそこはカウンターになっていて、尿検査をすることに。小水をシャーレみたいな器にするがなんの反応もない。カウンターの女性が「変ですね」と言いながら別のカウンターに誘導する。そこで渡された紙には「原発性不明呼呼吸器系のガン」とある。

 自分は一気に憔悴する。女性から内科を受診するように言われて、途方にくれる。それからどうも診察を受けたようだが、医師は「ガンの診断は誤診。その検査で判明するガンはある種のバグです」と言う。自分はホッとする。

 気がつくとなぜか駅にいて電車を待っている。駅は少年時代に一時期住んでいた京浜急行の上大岡駅だ。急行電車がやってきたので、押し込むようにして乗り込むのだが、なにか忘れ物をしたみたいで降りてしまう。駅は東武東上線の鶴瀬駅になっている。ずいぶんと閑散としていて、電車は1時間に数本くるらしい。そこに特急列車がやってくる。なぜか新幹線、東武のスペーシア、おまけにドクターイエローまでが連結していて、駅を通り過ぎたところで止まり、切り離された数両が戻ってくる。車両はガラス張りで、中には遠足の子どもたちが乗っていて、さかんに手を振っているので、自分も手を振り応える。

 列車は行ってしまったのだが、自分の乗りたい電車はいつ来るのだろう。どうも自分は上大岡駅に戻りたいようだ。と、そこで目が覚める。

夢判断とか

 昔、夢判断の本を何冊か読んだことがある。たいていの夢は潜在意識に根差していてきちんと説明付けができる。そしてその多くが性衝動やコンプレックスが元になっているとか。最初に読んだのは中学生くらいのときで、夢判断から得られるのが、ペニスだの女性器や女性のバストへの性的な関心や欲望に紐づけられるものという説明を読んだときに、なにか自分がとても嫌らしい存在に思えた気がした。

 しかし奇妙な夢の類は、みたことすらすべて忘れてしまう。なので日記に綴られた夢だか、夢の断片のようなものは、それを読んでもまったくなんのこっちゃみたいな感覚であったりする。夢は夢を見たことすら覚えていない。なのでそれを記録してあとから読んだとしても、無味乾燥なものでしかない。

 

   

ワーナーブラザース・スタジオツアーに行く(8月8日)

 豊島園の跡地にあるワーナーブラザース・スタジオツアー(ハリーポッター スタジオツアー)、正式には「ワーナーブラザース スタジオツアー東京 ‐ メイキング・オブ・ハリー・ポッター」(長い長い)に行ってきた。

 ここは去年の9月にも来ている。妻の誕生日が8月なので、ひと月遅れで子どもが招待してくれた。そして妻のリクエストで今年も招待してくれた。

ハリー・ポッター・スタジオ・ツアーへ行く(9月20日) - トムジィの日常雑記

 

 実はこの雑記にも書かなかったが、去年訪れたときにちょっとした事故があった。というと大それたことになるが、珍しくスカートをはいていたためか、トイレが間に合わずトイレ内で盛大に粗相してしまった。

 トイレ内がけっこう酷い状態だったこともあり、後始末にはけっこう時間もかかった。当然、それは全部自分がやらなくてはならないし、実際けっこう大変だったけど、全部やった。まああまり思い出したくもないことだが、自分的には密かに「ハリーポッターの惨劇」として記憶している。

 自分的にはその記憶があるので、実はここは二度とは来たくない場所ではあるのだが、妻的には今度は失敗しない、リベンジしたいと日ごろから言っていた。自分があまり取り合わないので、子どもにそれを言っていたようだ。なんとなく自分の知らないところで、妻と子どもの間で誕生日プレゼント、8月のリベンジ計画が進行していたようだ。

 まあそうなると自分は運転手兼介助者ということで付き合わざるを得ない。まあそういうことだ。

 妻の粗相について。まあ障害者で半身麻痺、しかも高次脳機能障害も抱えているので、そりゃ生理現象にもすぐに対応できないのしょうがないことだ。自分がそういう立場だったら、やっぱり事故は起きるだろうなとは、容易に想像がつく。とはいえ、いざそういうことが外出先で起きて、その後始末をしなければならないとなると、やっぱりいろいろ思うことはある。

 まあ考えようによっては、まさに惨劇的だし、対応する側的にはほとんど地獄図的である。そういうときに自身徹しているのは、これは仕事であるということ、一切感情移入しない、事務的な業務、仕事として割り切ること、感情的な部分を遮断するということだった。

 思えば自分がそういう意識でそうした汚れ仕事ができるようになったのは、20代の後半で寝たきりの祖母のお世話を何年もしていたからかもしれない。祖母は寒い時期になると寝たきりになる。夜中に布団の中に寝たままできる便器を持ち込み、そこに排泄していた。それを朝、トイレに流すのも自分の仕事だった。

 今思うと、仕事しながらよくやったものだとは思う。あの時も、これは業務だと自分に言い聞かせ、感情面を遮断した。なんなら寝たきりの祖母の排泄物を片付けるのは、ペットかなにかのお世話をするのと同じみたいな意識だったかもしれない。

 思えばずっとケアラーしている人生だ。

 

 妻が病気になってからもそういうトラブルは何度も経験している。通算すれば軽く両手は超えるだろう。特に病気発症の後、半年の入院を終えて自宅に帰ってきてからはけっこうな頻度でそういうことがあった。まだ身体的にも、精神面もリハビリの途中だったのだからまあこれは致し方ないのだろう。

 でも次第に自身でそうした生理現象を含めてコントロールできるようになった。そのようにして20年、彼女は身障者として生きてきたし、自分は配偶者として、介助者として一緒に暮らしてきた。

 それでもたまに、たまに、そういう事故は起きる。45歳で病気となった妻は、どこへ行っても病気のことになると、「まだお若いのに」と言われてきた。40代、50代でデイケア、デイサービスを利用していれば、周囲の利用者は20歳、30歳も年上の高齢者ばかりだ。でも今や彼女も60代の半ばとなった。まだまだ施設では若いほうだけど、それでもいまは身体の不自由な高齢者の仲間入りしている。

 そうなると今までできていたことも、今度は加齢により次第に難しくなってくる。今はたまにしか起きない事故もまた頻度が増してくるのかもしれない。問題は、介助する自分が比例するように歳を重ねていることか。

 まああまり考えないようにしているが、どこかでそれらのことも意識していなければいけないか。

 

 ということで今回のスタジオツアーは何事もなく無事に楽しめた。前にも書いたが、自分は『ハリー・ポッター』についてはあまり興味がない。本も読んでいない。映画は家族でだいたいは観ているのだが、ほとんど覚えていない。きちんと覚えているのは、初期の『賢者の石』、『秘密の部屋』、『アズカバンの囚人』あたりだろうか。子どもはけっこうよく覚えているようで、妻が質問したことにもたいていの場合は答えられる。

 なので途中から車いすの妻は子どもにまかせて、自分はところどころに置いてあるベンチで休み休みしていた。ちなみベンチは後半の方が設置個所が増えている印象がある。まあそういうものだな。最初にキャストではなくインタラクターが言っていたけど、じっくり見るとだいたい4時間くらいかかるという。そりゃ疲れるわな。

 こちらはというと、さらに妻がけっこうパネルのキャプションなどをじっくり読んだりしていたこともあるし、途中できっちり昼飯も食べたりしたので6時間以上滞在していた。妻はというと、リベンジ成功とご機嫌な様子だった。こういう部分は童女のようになっている。もっともそうでなければ、とても彼女の置かれている身体的状況は耐え難いものだろうなとも思う。

 自分はというと、まあ基本的に映画が好きなので、スタジオツアー的なもの、映画の裏方みたいなものが覗き見ることができるのは、まあまあ嫌いではないし、もっとマニアックなセットや撮影シーンの再現とかあってもいいと思ったりもする。

 スタジオツアーは大昔、オーランドのUSJに行ったことがあるが、あれは本当に楽しかった。大阪のUSJにも開幕当初は何度か行ったけれど、当時は本場のそれを再現していた。次第に日本的にカスタマイズされてしまい、今では本来のスタジオツアーとは程遠い遊園地になってしまったような気もする。

 個人的にはヒチコック映画のスタジオツアーとかMGMミュージカルのスタジオツアーみたいなテーマパークがあったら、ぜひとも行きたいと思うが、そんなものに本国でも日本でもニーズはほとんどないだろうな。

 ハリーポッターはまた来年も来るだろうか。妻的には本当はディズニーに行きたいのだろうが、さすがに夏休み時期に行くのはちょっとばかりしんどい。まあもし舞浜に行くならホテルに泊まってとなるのだろうな。子どもが17歳の時、20歳の時、卒業の時、それぞれアンバサダー、ディズニーランドホテルに泊まっている。なんならアナハイムにだって二度行っている。でも個人的にはもうネズミの王国はもう卒業的な気分ではある。とはいえ、子どもは無類のディズニー好きで、そのせいか一時期京葉線沿線にも住んでいた。まあそういう風に育てたのは間違いなく親の問題だ。

 なのでまた自分のいないところで、母と子でよからぬ計画を立てるかもしれない。

 とりあえず2年続きでスタジオ・ツアー、妻的にはリベンジ成功でめでたしめでたしということになった。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 

 
 

 
 

 

 
 

 

 

 

西洋美術館へ行く② 常設展~【特集展示】クロード・モネ没後100周年(8月1日)

常設展ー駆け足での鑑賞

 西洋美術館に行った話の続き。

 企画展「レンブラント」展が意外に面白く、常設展の方に回ったのは7時過ぎ。正味で50分あるかないかということになってしまった。なので端折って、流して、みたいにしたいのだが、それを許さないのが常設展の名品タチ。じっくり観て鑑賞ということではないにしろ、スルーを許さない趣のある作品ばかり。

6分間ルーヴル

 まったく話が逸脱するが、昔、コラムニストのアート・バックウォルドのコラムに「6分間ルーヴル」というのがあった。いかに短時間でルーヴル美術館を回るかを真面目に論じるというウィットの効いたコラムだった。1950年代、強いドルを背景に大挙アメリカ人観光客がヨーロッパを訪れ、あちこちを観光していた時代だ。ろくに芸術などに興味もなさそうなヤンキーが、とりあえずルーヴルに行っておこうみたいな風潮を揶揄したものだ。

 2007年にアート・バックウォルドが亡くなったときに、そのことに触れた。当時、すでにほとんど本が品切れ、絶版になっていたということもあるが、手持ち本から全文掲載した。まあこんなどうでも良い雑記なので、とりあえず権利関係からは大目に見てもらえたのか、雑記はそのままだ。しかし19年も前のことだ。

 6分間でルーヴル美術館を見学することが可能なら、西洋美術館は何分で回ることができるだろう。もちろんきちんとクラーナハの「ユディト」やカペの自画像に月並みな台詞を口にするとか条件を設けないといけない。

 

六分間ルーヴル
  スポーツマンならだれでも、ルーヴル美術館で必見の陳列品は三つだけ、すなわち「翼ある勝利の女神」と「ミロのヴィーナス」と「モナ・リザ」だというだろう。それ以外の彫刻や絵画はこのビッグ・スリーを引き立たせる飾りにすぎず、ほかに見るべきものが山ほどあるパリにいながら、ルーヴルで時間を浪費するのは利口ではない。
  ルーヴルがこれらの美術品を入手して以来、世界じゅうのアマチュアたちがその鑑賞に要する時間を短縮すべく努力してきた。戦前の世界記録保持者は、全コースを七分三十三秒で走破した三人のスカンジナヴィア人だった。この記録は1935年に、ウェールズ人の妻をペース・セッターにして、七分フラットで回った英人マーゲンセイラー・ウェイズリーウィローによって破られる。ウェイズリーウィローは第一回のトライで六分四十九秒という記録を出したが、「ミロのヴィーナス」を完全に一回りすることを忘れたために失格した。
 1938年にいたって、「スウェーデンの韋駄天」と呼ばれたストックホルムの男が、スニーカーを採用して六分二十五秒という新記録を樹立した。
この記録は戦時中ずっと保持され、戦後の「スウェーデンの韋駄天」に対する挑戦は1947年ににはじめておこなわれた。このときはヨーロッパにおける旅行制限のために、アメリカ人がコースを独占した。アメリカに最初の栄冠をもたらしたのはオクラホマ出身のテックス・ヒューストンで、記録を二秒短縮した。1949年にはマイアミ大学<オハイオ州>のトラック競技の花形選手が六分十四秒という新記録を立てた。1951年にはオーストラリア人が六分十二秒という新記録でタイトルをアメリカ人から奪った。
 このころにはだれもが六分間ルーヴルについて噂するようになっていた。科学者たちはなめらかな床と、理想的な照明と、無風という完璧な条件が揃えば、この大記録の樹立は可能であろうと予言した。しかしそれから四年間はだれもオーストラリア人の記録を破ることができなかった。
やがてある日曜日のこと、わたしは一人のアメリカ人観光客が記録に挑戦するという噂を耳にした。彼の名前はピーター・ストーンといい、すでに数回トライしたものの失敗に終わったという経歴を持っていた。ミスター・ストーンはその有名な言葉を多くの雑誌や新聞に引用されていた。「翼ある勝利の女神」を一時間にわたって観察したあとで、彼はこうのたもうたのである。「こいつは飛びそうもないね」
  彼はまた、『モナ・リザ』を眺める一群の観光客を前にして、「おれはこいつのオリジナルを持っているやつを知っている」と大声でいったために、ルーヴルから追い出された経歴を持つ人物でもあった。
 ストーンは専属トレーナーを一緒に連れてきた。彼は特別製のインドア・トラック・シューズをはき、少しでも負担を軽くするためにポケットをからっぽにしていた。テストに日曜の朝を選んだおかげで、いくつかの利点に恵まれた。一つは入場切符が不要なために、切符売場で貴重な数秒を失わなくてもよいことだった。
 もう一つは日曜の朝のルーヴルがいたって閑散としていて、ほとんどの部屋に邪魔者がいないことだった。あらゆるルールに従うために、ストーンはタクシーからおりて運転手を待たせておかなければならなかった。それから館内に駆けこみ、コースを一巡して、ふたたびタクシーに戻る。タクシーは公式計時が開始される前に歩道の縁石から四フィートはなれていなければならない。アメリカン・エクスプレスとトーマス・クック・アンド・サン旅行社と、フランス観光局の計時員が立ち会った。
  ストーンはトレイナーから最後の指示を受けた。
「なにはともあれ、『サビーヌの凌辱』には近づかないようにしろ、さもないと新記録は難しいぞ」
  ストーンはルーヴルが観光客用に入口に用意している松脂の箱にトラック・シューズを突っこんでから、タクシーに乗りこんだ。やがて号砲一発、彼はタクシーからとびおりて館内に突進した。ルールでは走ることが禁じられており、挑戦者は歩くことを義務づけられていた。彼はまっすぐ前方に視線を向けながら、ドノンの間を急いで通りすぎた。ダリュ階段の下で、「翼ある勝利の女神」にちらと一瞥をくれて左に曲がり、短い階段を二つおりて円形広間を抜け、一直線に「ミロのヴィーナス」に向かった。ヴィーナス像を完全に一回りしてから「翼ある勝利の女神」のほうへとってかえし、ローマとギリシアの古美術陳列室を通って近道をした。「ミロのヴィーナス」までの所要時間は一分五十ハチ秒という好タイムだった。
 ストーンは階段を一度に二段ずつのぼって、「翼ある勝利の女神」の前で二秒間立ちどまった。それから先は二つのルートがあった。まずナポレオン一世の戴冠式がおこなわれているダリュの間を通るか、イタリア派の作品が展示されている七巨匠の間を通るかである。彼はダリュの間を選び、ナポレオンの絵の前に一秒間だけ足を止めてから、「モナ・リザ」が待っているグランド・ギャルリーへと急いだ。三十秒後にはこの絵の前に達していた。ルールによれば、挑戦者はこの絵についてなにか観光客らしい月並みな台詞を口にしなければならない。
  ストーンはいった。「この絵のどこがいいのかさっぱりわからんよ」それから、くるりと回れ右をして今度は七巨匠の間を通り抜けた。大急ぎで階段をおり、帰りは「翼ある勝利の女神には目もくれずドノンの間を通り抜けると、レオナルド・ダ・ヴィンチと発音する間もあらばこそ、通りを出てタクシーに乗り込んだ。タクシーが走りだすと同時に号砲が鳴り響き、ストーンのタイムは五分五十六秒の世界観光新記録と認定された。かくて栄誉はアメリカに奪回された。
  この快挙を記念する広告に彼を使いたいという雑誌や旅行社からの申し入れを断って、ストーンは謙虚にも栄誉の大部分をトレイナーに与えた。
「わたしがつぎに狙うのはローマのサン・ピエトロ寺院です」と、彼は独占インタビューで語った。「そしてそのつぎは−そうだな、ロンドン塔にでも挑戦してみますか。四分以内では無理だといわれてますが、ま見ててください」
  新チャンピンオンは母親の肩を抱き、カメラマンたちが写真を撮りはじめた。

『だれがコロンブスを発見したか バックウォルド傑作選1』文藝春秋社刊 P15

 まあ与太話はおいといて、とりあえず気持ち的には駆け足で常設展を回った。

【特集展示】クロード・モネ没後100周年

 そして新館の印象派の部屋に来るとこういう特集展示が行われている。

 

【特集展示】クロード・モネ没後100周年|国立西洋美術館

 

 西洋美術館が発行している情報冊子『Zephyros]』第96号に特集展示についてこんな風に紹介されている。

【特集展示】クロード・モネ没後100周年

会期:2026年7月22日(火)-9月23日(月・祝)

会場:常設展示室(新館2階)

印象派を代表する画家クロード・モネ(1840-1926)は、こんにち世界で最も親しまれている芸術家のひとりでしょう。今年2026年は、この画家がその長い画業と生涯を閉じてからちょうど100年にあたります。これを記念して当館では、<睡蓮)やく陽を浴びるポプラ並木)をはじめとするモネ・コレクションを常設展示室にて一挙公開します。

 

********* 中略 *********

 

本特集展示では、1959年の開館後に加わった購入・寄贈・寄託作品も合わせた20点近くのモネ作品が一堂に会します。そのなかには保存上の観点から展示頻度が少ない素描や、近年寄託された絵画も含まれています。この機会にぜひ、モネの描く風景に囲まれながら、移ろう光や揺らめく水面に心をたゆたえてみてください。

 

 そうか、西洋美術館でもモネ没後100周年企画か。

 春にもモネ没後100年企画として、アーティゾン美術館で「モネ没後100年 クロード・モネ —風景への問いかけ」が開かれていた。こちらはオルセー美術館の所蔵品に、アーティゾンの所蔵品、さらに国内の美術館から貸し出しなどを含めて58点のモネ作品が展示されていた。

 そして今現在、箱根のポーラ美術館でも「モネ没後100年・開館25周年記念 あたらしい目 ― モネと21世紀のアート」が開かれている。こちらはポーラ美術館の所蔵するモネ作品19点と、現代の作家によるインスタレーションをコラボさせた、かなり攻めた展覧会だ。

モネ没後100年・開館25周年記念 あたらしい目 ― モネと21世紀のアート | 展覧会 | ポーラ美術館

 そしてポーラ美術館の所蔵点数と同じ19点を所蔵する西洋美術館が企画展示を行う。そういうことになる。これってけっこう凄いことなのだが、金曜日の夜間開館の展示室は平常運転で、鑑賞者はいつもどおりである。

 春に開催されたアーティゾンのモネ展は大盛況で、日時指定予約もすぐに埋まる状況で、実際展示室には多くの鑑賞者で賑わっていた。実際に観に行ったときに思ったのは、モネの日本での人気の高さと、東京駅からほど近い上野の西洋美術館に行けば、いつでもモネの名品と出会えるのに、というものだった。

 ということで、西洋美術館所蔵のモネをすべて観ることができるという、有難い機会なのだが、時間はもう7時半を回るくらいになっている。ということで今回は、軽く流して観ることに。特集展示は9月23日までなので、その間に1~2回は来たいと思うし、なんならモネだけを観にきてもいいかと思ったりもした。

 

国立西洋美術館-モネ所蔵作品 

  実際の展示は19点のようだ。それについては西洋美術館のHPでも確認できる。

所蔵作品検索|国立西洋美術館

 

《柳》 クロード・モネ 1897-1898年頃 油彩・カンヴァス 71×89.5㎝ 寄託作品

 

《睡蓮》 クロード・モネ 1897-1899年頃 油彩・カンヴァス 73.3×101㎝ 寄託作品

 

《並木道(サン=シメオン農場の道)》 クロード・モネ 1864年 
油彩・カンヴァス 西洋美術館

 

《舟遊び》 クロード・モネ 1887年 油彩・カンヴァス 145.5×133.5㎝ 西洋美術館

 

《波立つプールヴィルの海》 クロード・モネ 1897年 油彩・カンヴァス
 73.5×101㎝ 西洋美術館

 

《雪のアルジャントゥイユ》 クロード・モネ 1875年 油彩・カンヴァス 
55.5×65㎝ 西洋美術館

 

《睡蓮》 クロード・モネ 1916年 油彩・カンヴァス 200.5×201㎝ 西洋美術館

 

《陽を浴びるポプラ並木》 クロード・モネ 1891年 油彩・カンヴァス 
93×73.5㎝ 西洋美術館

 

《しゃくやくの花園》 クロード・モネ 1887年 油彩・カンヴァス 65.3×100㎝ 西洋美術館

 

《チャーリング・クロス橋、ロンドン》 クロード・モネ 1902年頃 油彩・カンヴァス 65.3×100㎝ 西洋美術館

 

《ウォータールー橋、ロンドン》 クロード・モネ 1902年 油彩・カンヴァス 65.7×100.5㎝ 西洋美術館

 

《ラ・ロシュ=ギュイヨンの道》 クロード・モネ 1880年 油彩・カンヴァス
 60.5×73㎝ 西洋美術館

 

《ヴェトゥイユ》 クロード・モネ 1902年 油彩・カンヴァス 90×93㎝ 西洋美術館

 

《セーヌ河の朝》 クロード・モネ 1898年 油彩・カンヴァス 73×91.5㎝ 西洋美術館

 

《黄色いアイリス》 クロード・モネ 1914-1917年頃 油彩・カンヴァス
 200×101㎝ 西洋美術館

 

《睡蓮、柳の反映》 クロード・モネ 1916年 油彩・カンヴァス 
199.3×424.4㎝(上部欠失) 西洋美術館

 

《積みわら》 クロード・モネ 189-91年 木炭・紙 23.3×29.2㎝ 西洋美術館

 

《ベリールの海》 クロード・モネ 1890-91年 木炭・紙 23.4×31.5㎝ 西洋美術館

 

《雲の習作》 クロード・モネ 制作年不詳 パステル・紙 21.0×32.0 西洋美術館

クロード・モネ 国内所蔵作品

 以前も言及したことがあるが、モネの国内所蔵品について検索すると、Wikipediaで「日本にあるクロード・モネ作品一覧」というリストがあり、おおよそ136点の作品が国内にあるようだ。

日本にあるクロード・モネ作品一覧 - Wikipedia

 

 所蔵点数でみてみるとこんな感じである。

所蔵 点数
国立西洋美術館 19
ポーラ美術館 19
個人所蔵 13
大山崎山荘美術館 8
アーティゾン美術館 7
山形美術館(吉野石膏コレクション) 7
地中美術館 5

 

試しにWikipediaのリストを表にしてみた。

モネ 国内所蔵作品一覧        
作品名 制作年 技法・素材 サイズ 所蔵
ヴェトゥイユ 1902年 油彩・キャンバス 90.0×93.0 国立西洋美術館
ウォータールー橋、ロンドン 1902年 油彩・キャンバス 65.7×100.5
しゃくやくの花園 1887年 油彩・キャンバス 65.3×100
セーヌ河の朝 1898年 油彩・キャンバス 73×91.5
チャーリング・クロス橋、ロンドン 1902年 油彩・キャンバス 65.3×100
ベリールの海 1890-91年 木炭・紙 23.4×31.5
ラ・ロシュ=ギュイヨンの道 1880年 油彩・キャンバス 60.5×73.0
黄色いアイリス 1914-17年 油彩・キャンバス 200×101
舟遊び 1887年 油彩・キャンバス 145.5×133.5
睡蓮 1916年 油彩・キャンバス 200.5×201
睡蓮、柳の反映 1916年 油彩・キャンバス 199.3×424.4(上部欠失)
積みわら 1890-91年 木炭・紙 23.3×29.2
雪のアルジャントゥイユ 1875年 油彩・キャンバス 55.5×65
波立つプールヴィルの海 1897年 油彩・キャンバス 73.5×101
並木道 (サン=シメオン農場の道) 1864年 油彩・キャンバス 81.6×46.4
陽を浴びるポプラ並木 1891年 油彩・キャンバス 93x73.5
エプト川の釣り人 1889年 油彩・キャンバス 81×100 国立西洋美術館寄託-個人
睡蓮 1897-99年頃 油彩・キャンバス 73.3×101
1897-98年頃 油彩・キャンバス 71.0×89.5
ヴァランジュヴィルの風景 1882年 油彩・キャンバス 64.9x81 ポーラ美術館
エトルタの夕焼け 1885年 油彩・キャンバス 81.1×100.1
グラジオラス 1881年 油彩・キャンバス 100.4×41.5
グラジオラス 1881年 油彩・キャンバス 99.2×41.6
グランド・ジャット島 1878年 油彩・キャンバス 56.3×74.5
サルーテ運河 1908年 油彩・キャンバス 100.2×65.2
サン=ラザール駅の線路 1877年 油彩・キャンバス 60.5x81.1
ジヴェルニーの積みわら 1884年 油彩・キャンバス 66.1×81.3
ジヴェルニーの冬 1885年 油彩・キャンバス 65.3×81.5
セーヌ河の支流からみたアルジャントゥイユ 1872年 油彩・キャンバス 51.3×65.9
セーヌ河の日没、冬 1880年 油彩・キャンバス 60.6×81.1
バラ色のボート 1890年 油彩・キャンバス 135.3×176.5
ルーアン大聖堂 1892年 油彩・キャンバス 100.4×65.4
花咲く堤、アルジャントゥイユ 1877年 油彩・キャンバス 53.8×65.1
貨物列車 1872年 油彩・キャンバス 48.1×75
国会議事堂、バラ色のシンフォニー 1900年 油彩・キャンバス 82.0×92.6
散歩 1875年 油彩・キャンバス 59.4×80.4
睡蓮 1907年 油彩・キャンバス 93.3×89.2
睡蓮の池 1899年 油彩・キャンバス 88.6×91.9
セーヌ川の柳 1876年 油彩・キャンバス 71.5×60.0 個人蔵
花咲くプラムの木 1879年 油彩・キャンバス 65×54
白いポピー 1882-85年 油彩・キャンバス 128.5×37
セーヌ河畔の朝 1897年 油彩・キャンバス 65×92
本曇りのウォータールー・ブリッジ 1904年 油彩・キャンバス 66×100
スミレの花束をもつカミーユ 1876 - 77年 油彩・キャンバス 116×88
断崖から見下ろした海 1881年 油彩・キャンバス 60×75
ヴェトゥイユの庭 1881年 油彩・キャンバス 60×73
フェカン近くのグランヴァル 1881年 油彩・キャンバス 61×80
プティット・ダルの道 1884年 油彩・キャンバス 65×81
ウォータールー橋、曇天、煙 1899 - 1901年 油彩・キャンバス 65×100
国会議事堂、ばら色のシンフォニー 1900 - 1901年 油彩・キャンバス 81×92
国会議事堂、夕暮れ 1900 - 1901年 油彩・キャンバス 81×92
アイリス 1914-17年 油彩・キャンバス 200.0×150.0 大山崎山荘美術館
エトルタの朝 1883年 油彩・キャンバス 65.0×81.0
睡蓮 1907年 油彩・キャンバス 90.0×93.0
睡蓮 1914-17年 油彩・キャンバス 130.0×152.0
睡蓮 1914-17年 油彩・キャンバス 200.0×200.0
睡蓮 1914-17年 油彩・キャンバス 150.5×200.0
睡蓮 1914-17年 油彩・キャンバス 180.0×200.0
日本風太鼓橋(日本の橋) 1918-24年 油彩・キャンバス 89.0×93.0
アルジャントゥイユ 1874年 油彩・キャンバス 43.0×70.0 アーティゾン美術館
アルジャントゥイユの洪水 1872-73年 油彩・キャンバス 54.4×73.3
雨のベリール 1886年 油彩・キャンバス 60×73
黄昏、ヴェネツィア 1908年頃 油彩・キャンバス 73×92.5
睡蓮 1903年 油彩・キャンバス 81×99
睡蓮の池 1907年 油彩・キャンバス 100.6×73.5
霧のテムズ川 1901年 パステル・紙 31.0×47.5
ヴェトゥイユ、サン=マルタン島からの眺め 1880年 油彩・キャンバス 60.4×79.40 山形美術館(吉野石膏コレクション)
ヴェルノンの教会の眺め 1883年 油彩・キャンバス 64.8×80
ジヴェルニー近くのリメツの草原 1888年 油彩・キャンバス 65.0×92.0
サンジェルマンの森の中で 1882年 油彩・キャンバス 81.0×65.0
テムズ川のチャリング・クロス橋 1903年 油彩・キャンバス 73.0×100.0
睡蓮 1906年 油彩・キャンバス 81.0×92.0
日傘をさす婦人(デッサン) 1890-91年 黒鉛筆・紙 30.5x23.5
睡蓮 1914-17年 油彩 200×200 地中美術館
睡蓮-草の茂み 1914-17年 油彩 200×213
睡蓮-柳の反映 1916-19年 油彩 100×200
睡蓮の池 1915-26年 油彩 200×300(各)
睡蓮の池 1917-19年 油彩・キャンバス 100.0×200.0
ノルマンディーの断崖 1857年 鉛筆・灰色の紙 22.8×30.7 おかざき世界子ども美術博物館
森の散歩道 1857年 鉛筆・紙 30.7×22.8
水車小屋 1857年 鉛筆・淡黄褐色の紙 22.8×30.7
ウォータールー橋、曇り日 1901年 油彩・キャンバス 65×100.5 サントリーコレクション
クルーズ川の岩場 1889年 油彩・キャンバス 65.5×81
ディエップの岸にて 1897年頃 油彩・キャンバス 65×100
アムステルダムのヨットハーバー 1871-74年 油彩・キャンバス 37.5×43 笠間日動美術館
ヴェトゥイユ、水びたしの草原 1881年 油彩・キャンバス 61.7×74.0
テムズ川の橋(チャリング・クロス橋) 1900年頃 油彩・キャンバス 63.8×80
エトルタの波の印象 1885年 油彩・キャンバス 60.0×73.0 松岡美術館
サン・タドレスの断崖 1867年 油彩・キャンバス 54.0×79.5
ノルマンディの田舎道 1868年 油彩・キャンバス 81.0×59.5
ジヴェルニー付近のセーヌ川 1894年 油彩・キャンバス 53×80.5 上原美術館
雪中の家とコルサース山 1895年 油彩・キャンバス 64.2×91.2
藁ぶき屋根の家 1879年 油彩・キャンバス 48.5×64.5
プールヴィルの断崖 1882年 油彩・キャンバス 59.0×71.0 東京富士美術館
海辺の船 1881年 油彩・キャンバス 82.0×60.0
睡蓮 1908年 油彩・キャンバス 101×90
アムステルダムの眺め 1874年 油彩・キャンバス 60.0×72.6 ひろしま美術館
セーヌ河の朝(ジヴェルニーのセーヌ河支流) 1897年 油彩・キャンバス 82×93.5
地中海の岸辺、曇り日 1888年 油彩・キャンバス 73×92 ユニマットグループ
霧のルーアン大聖堂 1893-94年 油彩・キャンバス 106×73
ラヴァクールのセーヌ河 1879年 油彩・キャンバス 54×65 愛知県美術館寄託-個人
アンティーブ岬 1888年 油彩・キャンバス 65×92 愛媛県美術館
春、エプト川の柳 1885年 油彩・キャンバス   京都国立近代美術館寄託
積み藁、ジヴェルニー、朝の印象 1889年 油彩・キャンバス  
ジュフォス、夕方の印象 1884年 油彩・キャンバス 59.5×81 群馬県立近代美術館(群馬県企業局寄託)
睡蓮 1914-17年 油彩・キャンバス 131.5×95.5
ラ・ロシュ=ブロンの村(夕暮れの印象) 1889年 油彩・キャンバス 73.9×92.8 三重県立美術館
橋から見たアルジャントゥイユの泊地(橋から見たアルジャントゥイユの船着き場) 1874年 油彩・キャンバス 62×81
プティ・タイイの岬、ヴァランジュヴィル 1897年 油彩・キャンバス 73.8×92.6 三菱一号館美術館寄託-個人
草原の夕暮れ、ジヴェルニー 1888年 油彩・キャンバス 80.2×80.5
サン=シメオン農園の道 1864年 油彩・キャンバス 52.5×72.5 泉屋博古館分館
モンソー公園 1876年 油彩・キャンバス 56×69.5
睡蓮 1906年 油彩・キャンバス 72.5×92.0 大原美術館
積みわら 1885年 油彩・キャンバス 64.5×80.4
プールヴィルの税関吏の小屋、波立つ海(ヴァランジュヴィルの漁師小屋) 1882年 油彩・キャンバス 58.0×81.0 日本テレビ放送網
道(サン=シメオン農園の前) 1864年 油彩・板 37.0×22.0
睡蓮 1907年 油彩・キャンバス 73.5×92.5 2025年までDIC川村記念美術館
エプト川のポプラ並木 1891年 油彩・キャンバス 91.5×81.5 イセ文化基金
チャリング・クロス橋 1899年 油彩・キャンバス 65.0×81.0 メナード美術館
アムステルダムの港 1874年 油彩・キャンバス 60×81 ヤマザキマザック美術館
ポール=ドモワの洞窟 1886年 油彩・キャンバス 65×83 茨城県近代美術館
ルエルの眺め 1858年 油彩・キャンバス 46×65 丸沼芸術の森(埼玉県立近代美術館寄託)
睡蓮 1903-19年頃     光ミュージアム
ジヴェルニーの積みわら、夕日 1888-89年 油彩・キャンバス 65.0×92.0 埼玉県立近代美術館
睡蓮 1897-98年 油彩・キャンバス 89.0×130.0 鹿児島市立美術館
ウォータールー橋 1899-1901年 油彩・キャンバス 65.0×82.0 松下美術館
コロンブの平原、霜 1873年 油彩・キャンバス 52.5x72 新潟県立近代美術館
ルーアンのセーヌ川 1872年 油彩・キャンバス 49.2×76.2 静岡県立美術館
アヴァルの門(ポルト・ダヴィルと針岩) 1886年 油彩・キャンバス 65.0×81.2 島根県立美術館
サン=タドレスの海岸 1864年 油彩・キャンバス 30.6×69.5 栃木県立美術館
ル・プティ=ジュヌヴィリエにて、日の入り 1874年 油彩・キャンバス 54.0×73.0 姫路市立美術館
プールヴィルの崖、朝 1897年 油彩・キャンバス 64×99 福田美術館
ジヴェルニーの草原 1890年 油彩・キャンバス 65.1×92.4 福島県立美術館
アルジャントゥイユ、冬の印象 1875年 油彩・キャンバス 50.0×65.0 法人
睡蓮、柳の反映 1916-1919年 油彩・キャンバス 130.0×197.7 北九州市立美術館
睡蓮 1907年 油彩・キャンバス 100.0×81.0 和泉市久保惣記念美術館

西洋美術館へ行く① 「版画家レンブラント」(8月1日)

 西洋美術家へ行く。5月以来だろうか。

 二日前にも上野の美術館に来ているのだが、東美の「百花繚乱」、上野の森の「大ゴッホ展」の混雑にちょっとばかり閉口してる部分もあり、たぶん西洋美術館ならさほど混んでいないかなと思ったり。しかも週末の夜間開館ならばかなり期待できるのではないかと。

 家を出たのは4時15分過ぎ。そう、西洋美術館は金、土、日は夜間も開館していて夜8時まで。上野駅に着いたのがだいたい6時ぐらいだったので、ジャスト2時間鑑賞可能。

 最初は常設展だけと思ったのだけれど、いざ門をくぐって屋外展示のロダンの間を後追って切符売場にたどりつくと、やっぱり企画展示もいいかなと。

 

 

 展示室に入ると空いているという印象。いやこれは全然人がいないというのではない。鑑賞者はそこそこいる、ウィークデイの常設展なんかよりも多分人は多い。でもなんていうか人がバラけていて、ほどよい隙間がある。じっくり観ている方の後ろをすり抜けてその次の作品を観て、それからまた戻るとか、そういうのが自在にできる。これが美術館の理想的な鑑賞だよなと、二日前の東美と上野の森の喧騒、長蛇の列を経験しているだけに、西洋美術館の夜間開館はもうなんていうか、天国の美術館にいるような感じになった。

 今は国立美術館は独立行政法人なので、たいていの美術館が週末の夜間開館を実施している。なので西洋美術館や近代美術館では至福の時間を味わうことができる。まあ今回のように正味2時間というのはちょっとギリっぽいので、できれば5時前後に入るといいのかなと思ったりもした。

 「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」

版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト|国立西洋美術館

 今回の企画展は、オランダ、アムステルダムのレンブラント・ハウス美術館の所蔵するレンブラントのエッチング作品や資料約と西洋美術館所蔵の20点余、さらに国内外の美術館、大学図書館、個人所蔵品などで作品、資料約130点で構成され、それが同時代および続く時代に与えた影響を見ていく企画。

挨拶抜粋

このたび「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」展を開催する運びとなりました。
レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レイン(1606-1669年)は、集団肖像画く夜警〉)をはじめ数々の傑作を残した17世紀オランダの代表的画家であると同時に、版画史上最大の巨匠とも評されます。
版画家としてレンブラントが取り組んだエッチング技法は、17世紀初頭当時、歴史的な転換期を迎えており、伝統にとらわれない新しい表現が兆しつつありました。彼はそれを自身の造形言語の基盤として深化させ、みずからも同技法の可能性を拓いていきます。
尽きせぬ探究心から生み出された300点の作品は、エッチングのあり方を変容させ、以降の展開を導くものとなりました。その影響は17、18世紀のヨーロッパ各国へ広く波及し、さらに19世紀には、自由な精神を重視する芸術家たちに高く評価されます。20世紀美術の双璧をなすマティスとピカソも、過去の巨匠にオマージュを捧げました。

 

 まずは基礎知識についてのおさらい。今回の企画展では、エッチングについての解説パネルがあり、基本知識をおさえることができる。以下引用します。

 

エッチングとは

エッチングは、木版画やエングレーヴィングとともに、17世紀ヨーロッパで広く普及した版画技法である。
原版に銅板を用いる銅版画の一種であり、腐蝕によって銅板にイメージを刻む手法を用いるため、腐蝕版画とも呼ばれる。

【制作プロセス】

  1.  銅板を耐酸性の物質(グラウンド)でコーティングする。
  2.  グラウンドの被膜の上から、針状の先端を持つ道具(ニードル)で引っ掻くように描画する。すると、描画した箇所の被膜がはがれ、金属の表面が露出する。
  3.  2の状態の銅板を酸性の液体に浸すと、露出した面の金属が腐蝕され、描画した線に沿って溝が生じる。このとき、腐蝕時間が長ければ長いほど線は太くなる。また、部分により腐蝕時間を変えて、画面上で線の強弱をつけることも可能である。
  4.  完成した原版の溝にインクを詰める。余分なインクは拭き取る。
        5. 原版に紙を乗せてプレス機にかける。圧力で紙が溝に食い込み、中のインクを引き出し、イメージが転写される。

【エッチングの線描表現】
エッチングの最大の特徴は、ペン素描のように自由な線描表現である。これは、17世紀ヨーロッパで普及していた版画技法において、決して一般的な特徴ではなかった。エッチングと同じ銅版画技法であるエングレーヴィングでは、硬い銅板に直接ビュランと呼ばれる盤でイメージを刻んで原版を作るため、線描はシャープで直線優位、ともすれば機械的ですらある。
これに対してエッチングでは、銅板に描画する際の制約が小さく、ゆえに自在な線描表現が可能である。レンブラントは、その可能性を追究するとともに、力強いエングレーヴィングの線や、ドライポイント(専用のニードルで銅板に直接描画する技法)を用いることで生まれるインクのにじみの効果も組み合わせ、エッチングの線描表現をより豊かなものとした。

【エッチングの歴史】
エッチングは、1500年頃、ドイツのアウクスブルクで誕生した。もっとも、その後約1世紀は、主としてエングレーヴィングの代替技法として扱われた。硬い銅板をビュランで彫る困難で時間のかかるプロセスを腐蝕作用によって行うエッチングは、いわばエングレーヴィングの簡易版とされ、制作にあたっては、同技法の規則正しく直線優位な線描の再現が目指された。一部では、エッチング特有の表現を追究する動きも生まれたが、それが大きな流れになることはなかった。
17世紀オランダでは、こうした状況に変化が生じる。きっかけとなったのは、版画家としての訓練を受けた経験のない画家たちがエッチング制作に参入したことであった。彼らは伝統にこだわらず、エッチングならではの表現を自由に探求する。1625年頃エッチング制作に着手したレンブラントは、そうした潮流に倣い、やがて自らが牽引者となってエッチング技法の可能性を拓いていった。その多様な試みは、国境、世紀を超えて、多くの作家たちに重要な感化をもたらすこととなる。

西洋美術館「版画家レンブラント 挑戦、継承、インパクト」より

 パネルの下にはモニターで解説動画もある。これはYouTubeでも閲覧できるようになっている。

 

 

 とにかく細かい作業の連続。これはなんていうのだろう、クラフトワーク(工芸)の範疇といっていいのか。ある意味職人芸。多分、この制作工程は実際には、彫る人、腐食させる人、刷る人と分業制で行われていたのかもしれない。浮世絵版画がそうであるように、まず下絵職人がいてオリジナル作品から下絵を作り、これに彫師がいて、ひょっとして腐食師とかもいて、さらには摺師があのプレス機を使って一枚、一枚摺り上げていく。おそらくそうした工房があり、それぞれに徒弟的な職人がいたのだろう。

 レンブラントは画家としてでだけでなく、エッチングに早くから目をつけ、自ら絵師として下絵制作を行うようになった。そしてエッチングの様々な表現技法を試行錯誤していったのだろう。

 なぜエッチングに目をつけたのか。たぶん適当に想像するのだが、金になったからだろう。画家は一点ものの注文作を描いて生計を立てている。当時の画家はほぼ全員そうである。大口の注文を受けて、数をこなすことで評判が評判を呼び、さらなる注文が次々と舞い込む。レンブラントは比較的早くから評判を呼んでいたから、おそらく工房を構えて、次々と注文を受けいったに違いない。

 画家の工房はおそらくルネサンス期あたりから成立し始めたのだろう。売れっ子の画家のもとには弟子として若い画家志望の子どもたちが集まり、丁稚奉公のようにして様々な制作作業を分業していったのだろう。

 おそらく大先生は素描だけして、色付け、彩色は弟子にやらせる。大きな工房であれば、彩色も下塗りから仕上げまで分業されていて、最後に大先生がちょっと手を加えてみたいな。まあ適当に想像しているだけなので、本当かどうかは判らない。そういうことに詳しい書籍があったら、読んでみたい。ここまで書いていて、これって日本のマンガの売れっ子作家のプロダクションと同じだなと思った。

 中世、近世、近代、画家が一枚一枚、それこそ素描、下絵から実作の制作まで一枚、一枚描いていったのかどうか。近代の画家、たとえばバルビゾンや印象派の画家たち以降は、ほぼ全行程を一人で描いていったかもしれない。でも中世、近世は分業体制で行っていたのではないかと、そんなことを思う。そうでなければ例えばリューベンスやベラスケスみたいに、大画面の作品を多数描けるのかどうか。

 中世、近世を通じて、画家たちの注文主は、教会や王侯貴族たちだった。しかし宗教改革を経て、教会権威が低下し、また王侯貴族の権力、地位も低下していく。それに呼応するように新興的な商人や官僚たちが相対的に地位権力をつけ、ブルジョワジーが勃興していく。おそらく近世から近代にかけてはそうした社会情勢の変化が生じていた。

 当時のオランダはプロテスタント社会だったので、偶像崇拝が禁止されていた。そのため教会による画家への注文がなかったはずだ。おそらく絵の注文は新興ブルジョワが担っていた。でも彼らが大画面の巨大絵画の注文などはしなかったはずで、自宅に飾ることができる小品が中心になった。

 それまで教会や王侯貴族が潤沢な資金で注文していたようなものに変わって、小型の作品を次々を描き続けなくては、画家の生活は豊かになっていかない。そうなるともっと割りのいい、効率のよい販売方法を考えなくてはならない。そこで目をつけたのが、小口木版画に変わる銅版画だったわけだ。そこでも日々技法、技術が刷新され、エングレービング、エッチング、ドライポイントなどの技法、手法が生み出される。

 それを15世紀オランダで主導したのがレンブラントであり、今回の展覧会での版画家レンブラントというテーマの背景にあるものかなと、まあこれも適当な思い込みとあてずっぽうとではある。

 それでもレンブラントのエッチング作品は割安だったのかというと、そうでもないようだ。それはやはりレンブラントが超売れっ子画家だったからでもある。今回の企画展でのレンブラントのエッチング作品のハイライトともされるのが《百グルデン版画》(1648年)である。これは『マタイによる副申書』19章の諸場面を一枚の絵の中に描いた異時同図的作品だ。

 この作品が《100グルデン版画》と呼ばれたのは、当時の版画としては破格の100グルデンの高値で取引されたことに由来している。

 試しに、AIに1600年代の100グルデンを現在の円に換算するとどのくらいか聞いてみた。

1600年代の100グルデンを現在の円に単純換算することはできません。当時の銀含有量(1グルデン=銀約3.4〜5.6匁)や、江戸時代の元禄期(100グルデン=元禄小判約5両)との比較、現代の購買力に直すと数万円から数十万円程度の価値に相当すると推測されます。

貨幣量・当時レートによる換算
  • 銀の重さ: 1600年代後半の記録では、オランダの1グルデンは銀約3.4匁〜5.6匁に相当しました。100グルデンであれば銀340〜560匁となります。
  • 江戸時代との対比: 元禄年間(1695年〜)の相場では、元禄小判1両が約20グルデン(100グルデン=約5両)に相当していました。当時の小判1両の価値(現代換算で数万円〜10万円前後)を基準にすると、5両分は約25万〜50万円程度の計算になります。

現代の購買力による目安

    • 歴史的な物価や日雇い賃金(当時1日の賃金が銀2.3匁前後)から逆算すると、100グルデンは当時の一般的な労働者の数ヶ月分の収入に匹敵する額でした。  

     ということで大量頒布可能なエッチング作品がアバウトに約25万~50万程度になるということで、これは画家にとっても工房にとってもいい稼ぎになったことだろうと思う。となると真筆の油彩画でそこそこ大型の作品をレンブラトに注文すれば、おそらく数百万以上はしただろうなということになる。まあこのへんは詳しい学者さんの領域になるので、あくまで適当なあてずっぽうです。

     そしてその100グルデン版画がこちら。

    《百グルデン版画》 レンブラント 1648年頃 西洋美術館

     

     レンブラントは油彩作品でも自画像がやたら多いのだけど、エッチングでも初期作品には自画像が多い。モデルを雇う金がなかった訳でもないだろうし、やっぱり相当のナルシストだったのだろうか。

     

    《自画像、口を開けた顔》 レンブラント 1630年 
    レンブラント・ハウス美術館

     

    《柔らかい帽子をかぶり模様つきの外套をまとう自画像》 レンブラント 1634年
     西洋美術館

     

     そして奥さんのサスキア大好きなレンブランド。

    《サスキアの頭部習作5点および年嵩の女性の頭部習作》 
    レンブラント 1636年 レンブラント・ハウス美術館

     

    《十字架降架》 レンブラント 1633年 
    レンブラント・ハウス美術館

     

    《司教の墓のある都市の眺望》 カナレット 西洋美術館

     

    《戦争の惨禍》79:真理は死んだ ゴヤ 1910-20年頃 西洋美術館

     

    《あばら家》 シャルル=エミール・ジャック 1843年 
    レンブラント・ハウス美術館

     

    《農場の中》 シャルル=エミール・ジャック 1845年
     横浜美術館(小島豊氏寄贈)

     

    《ヤン・シックスの肖像》 レンブラント 1647年頃 
    西洋美術館

     

    《版画を彫るアンリ・マティス》 マティス 1900-03年
     西洋美術館

     

    「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」を観た(7月30日)

     

     

    大ゴッホ展と2021年東美ゴッホ展

     上野の森美術館で開催されている「大ゴッホ展 夜のカフェテラス」を観てきた。

     東美の百花繚乱を観たあと、時間は4時くらい。閉館は5時半なのでワンチャンありかなと思って行ってみた。開幕当時はSNSの情報でも、滅茶混み状態ということで半分諦めていたのだが、できれば観ておきたいと。現在は日時指定予約だが、妻が身障者ということもあり、予約しなくても入れることは入れる。なので有難く恩恵に与ることにした。本当に申し訳ない。

     入ってみると閉館まで1時間半という時間帯だが、かなりの混みようというか長蛇の列でなかなか進まない。その前の東美「百花繚乱」ですでにストレスがマックスに達していたので自分は早々に列から離れ、空いていそうなところ探して作品を観ることにする。妻は音声ガイドを所望したので、そのまま列に並んでいた。

     しかしゴッホの人気は凄いなと改めて思う。今、美術館の企画展だと、海外だとゴッホ、モネ、フェルメールがダントツだろうか。日本だと若冲、北斎あたりか。今回も《夜のカフェテラス》を目玉にして、この作品のみ撮影可にするというあざとさもあってか、開幕当初から物凄い人なのである。どのくらい凄いかというと、会場内の混雑だけでなく、一度会場を出てから入るグッズ売り場での待ち時間が1時間もかかるくらい。まあこれはこの美術館の建物の構造みたいな部分にも問題があるのかもしれないけれど。

     いざ作品を観ていくと、どことなく既視感がある。作品はクレラー=ミュラー美術館の所蔵品である。これって、ひょっとして・・・・・・。そう、2021年に東京都美術館で開催された「ゴッホ展──響きあう魂 ヘレーネとフィンセント」に出品されていたものでは。家に帰ってから図録を引っ張り出して確認すると、7~8割の作品が東美での展覧会に出ていたものだった。

     前回の東美では特に目玉作品というものはなかったけれど、表紙にも使われていたのは《夜のプロヴァンスの田舎道》だ。月夜の夜道、青い夜空、細い三日月と妙に明るい星々の下、糸杉のある道を馬車と手前に二人の男が歩いている。これは今回の展覧会お目玉である《夜のテラス》と同様、ゴッホの青い夜空作品の一つである。

     結局なんだ、今回の展覧会は目玉作品を取り換えただけで、ほとんどが5年前の展覧会と同じクレラー=ミュラーの所蔵ゴッホ展であることに間違いはなさそうだ。そしてゴッホ展はだいたいどれも混むのだが、5年前のゴッホ展は今回ほどには混んではいない印象がある。結局のところ今回の企画展は《夜のカフェテラス》のみの撮影OKといったある種の煽りや過剰な宣伝の影響で混雑度が上がったのかもしれない。ただでさえゴッホ好きの日本人は「混んでいるとしてもやっぱり《夜のテラス》は見に行かなくては」みたいなことになるのかもしれない。自分はさほどゴッホ好きではないけど、やっぱりそんな感じもあったかもしれないから。

    気になった作品をいくつか

    ミレー

    《グリュシー村のはずれ》 ジャン=フランソワ・ミレー 1854年 油彩・カンヴァス
    46✕56㎝ クレラー=ミュラー美術館

     これも全回のゴッホ展でも出品されていた一品。今回は前回出品のないもう一点《パンを焼く女》を描いたものも出品されている。二点ともヘレーネ・クレラー=ミュラーが購入したものだとか。

     ミレーはバルビゾン派の代表選手みたいに思われがちだが、実はそうでもないようなとは、前期に受けた西洋美術史の講師が話していた。先輩格のコロー、同年代のミレーはどちらかというと、バルビゾン派の客分にあたるのだとか。そしてミレーは二月革命あたりから、労働者としての農民を描くようになり、アメリカで絵が売れるようになってから生活が安定したのだとか。

     この絵を観て思ったのは小さく描かれる農民の母子。特に母親の衣服の赤が、そそり立つ木との補色関係でワンポイントになっている。こういうほんのちょっと赤をポツンと置くのはバルビゾン派を主導したテオドール・ルソーがよくやっていたような記憶がある。

    ルノワール

    《カフェにて》 ルノワール 1877年頃 油彩・カンヴァス 35.7×27.5㎝ 
    クレラー=ミュラー美術館

     これも全回の展覧会に出品されていたもの。35.7×27.5㎝と小品ながらルノワールらしさが表れたいい作品だと思う。

     《音楽家の道化師》 ルノワール 1868年 油彩・カンヴァス 193.5×130cm
    クレラー=ミュラー美術館

     これは初めて観る作品。とにかくデカい。そして異彩を放つ。白塗りの道化師ジョン・プライスを等身大で描いたルノワール初期の大作。異彩を放つ、そしてルノワール的ではない。ある意味、この作品を観るだけでも価値ある展覧会かもしれない。それほどのインパクトを与えるのだが、どうにもルノワール的ではない。どちらかといえば苦手な作品かもしれに。それでも見入ってしまうのだが。

    ピサロ

    《2月、日の出、バザンクール》 カミーユ・ピサロ 1893年 油彩・カンヴァス 66.5×81.9㎝ クレラー=ミュラー美術館

     

     これも全回のゴッホ展で出品された作品。今回はこれとは別に《虹》という作品も出品されている。いずれも素晴らしいピサロらしい絵だ。しいていえばこの作品にはまだ新印象派的点描手法の名残りがあるかもしれない。

     

    ゴッホ

    《スヘーフェニンゲンの魚干し小屋》 ゴッホ 1882年5月頃 油彩・ペン・筆など 29×45.4㎝ クレラー=ミュラー美術館

     今回、ゴッホの素描作品も多数出品されている。そしてそのほとんどが2021年の前回ゴッホ展で出品されたもの。その中でもちょっと印象深かったのが来れ。明らかに遠近法を取り入れた習作っぽい。当時、ゴッホは遠近法の美術書を読んで勉強をしていたのだとか。それにしても建物と人物に微妙に違和感がある。さらには家とテラス、置かれた樽型の花壇などの位置関係がなんとなく多視点的だ。これは意図しているのか、あるいは習熟中の遠近法が微妙にパース的に歪んだのか。とはいえこれけっこう好きな作品だ。

     

    《麦わら帽子のある静物》 ゴッホ 1881年11月頃 油彩・カンヴァスに貼った紙 36.5×53.6㎝ クレラー=ミュラー美術館

     これも全回出品済み。というかほとんどの画像を前回のゴッホ展の図録から借用している。いい作品だが、ゴッホの発展途上の習作みたいな静物画。オランダの精密な静物画的ではない、どちらかといえばセザンヌ的だが、たぶんこの時期にゴッホとセザンヌの交流はないはず。そしてセザンヌほど構築的ではない。ある種の凡庸さを感じたりもする。

     

    《織機と織工》 ゴッホ 1884年6-7月頃 油彩・カンヴァス 61×93㎝ 
    クレラー=ミュラー美術館

     オランダ時代のやや暗めのゴッホ作品の一つかもしれない。それでもモノトーンの暗い作品群に比して、この絵には人物、織機のクローズアップ化など構図の意匠を感じさせる。さらに入り口や窓からの外景の緑の効果、明らかにゴッホは進歩している。

     

    《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》 ゴッホ 1886年10月頃 油彩・カンヴァス 38.4×46㎝ クレラー=ミュラー美術館

     ユトリロ風のゴッホといったら語弊があるか。もちろんゴッホの方がはるかに世代が上。ゴッホが亡くなったのは1890年で、1883年生まれのユトリロはまだ7歳かそこら。ユトリロがのちにゴッホの作品を見たり、そこから影響を受けたという話はほとんど聞いたことがない。それでいてこの絵にはある種の類似性があるかもしれない。それは都市生活者の孤独、寂莫感がにじみ出ているから。ゴッホもユトリロも孤独な人だったし、その感受性をカンヴァスに投影する点で非凡なもの、いやある種の天才性を兼ね備えていた。孤独な心象風景の共鳴。そんなことを思わせる作品。

     

    《青い花瓶の花》 ゴッホ 1887年6月頃 油彩・カンヴァス 61.5×38.5㎝
     クレラー=ミュラー美術館

     明るい、素敵な作品。これは東美のゴッホ展、あと2023年のSOMPO美術館「ゴッホと静物画展」でも観た逸品。この時期の妙に明るく妙に華やかなゴッホの絵を観ていると、この画家の気質とか、ある種の病を感じたりもする。そう、この作品の頃のゴッホは躁状態にでもあったのではないかと。まあ適当な思いつきだけど。しかし色彩の効果について様々な試みを行っている。そのうえでゴッホの才能が開化しつつあることが実感できる。もっともその才能は短く、一瞬のきらめきとともに終わってしまうのだろうけど。

     

    《レストランの内部》 ゴッホ 1887年夏 油彩・カンヴァス 46.5×56㎝
     クレラー=ミュラー美術館

     ゴッホがもっとも新印象派、点描技法に近づいた作品。1886年の第8回印象派に出品されたスーラの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》は大きく話題を集めた。おそらくパリの若い画家は我さきにとこの新しい技法に取り組んだのろう。これもゴッホの点描画法の習作といえるかもしれないが、見事に受容し消化している。そして翌年の1888年、アルルに赴き才能を爆発させる。

     

    《石膏像のある静物》 ゴッホ 1887年頃 油彩・カンヴァス 55×46㎝ 
    クレラー=ミュラー美術館

     

    《夕暮れの刈り込まれた柳》 ゴッホ 1888年3月 油彩・厚紙に貼ったカンヴァス 31.6×34.2㎝ クレラー=ミュラー美術館

     本展覧会でアルル時代の作品は2点。そして我々というか自分がもっともゴッホ的と思える画風の作品はこれかもしれない。黄色い太陽・黄色い空と赤い線描、オレンジと青で描かれた木々など、補色関係を意識した色彩の天才的狂気性。自分的にはこれぞザ・ゴッホだ。

    《夜のカフェテラス》と青い夜空
    《夜のカフェテラス》 ゴッホ 1888年9月 油彩・カンヴァス  
    81 cm x 65 cm クレラー=ミュラー美術館

     これが今回の目玉的作品。この絵にだけほぼ4重の列を行きつ戻りつし、初めて絵の前、正面鑑賞が可能になる。そしてこの絵だけ撮影可能。残念ながら自分には列に並ぶ根性も気力もなく、端の方から垣間見るようにして観た。まあ普通に良い絵だと思う。

     

     ゴッホの青い夜の絵は4点ある。

    《星月夜》 1889年 ニューヨーク近代美術館

    《ローヌ川の星月夜》 1888年 オルセー美術館

    《夜のカフェテラス》 1888年 クレラー=ミュラー美術館

    《糸杉と星の見える道》 1890年 クレラー=ミュラー美術館

     この《糸杉と星の見える道》は、2021年の東京都美術館の「ゴッホ展」では《夜のプロヴァンスの田舎道》として展示されていた。英語では「Road with Cypress and Star」または「Country Road in Provence by Night」と表記されるらしいのだが、こういうのは二つの呼称があるとキャプションで説明するか、もしくは国内では統一してくれてもいいかもしれない。美術館、学芸員の拘りとかがあるのかもしれないが、ニワカ鑑賞者を混乱させる玄学趣味だと思ったりもする。

     この4点の青い夜の絵は、屋外制作ではなくゴッホが記憶に基づいて描いた作品だ。そのへんがアルルで屋外制作を中心に描いた「昼間の絵」とは異なる。記憶に基づく制作は、ゴーギャンが提唱したものだという。

     記憶によって画家の印象、構想力、表現力、そこに込められた象徴性が体現される、そういうことなのかもしれない。

     

    《ローヌ川の星月夜》 ゴッホ 1888年 73×92㎝ オルセー美術館

     

    《夜のカフェテラス》 ゴッホ 1888年 81×65㎝ クレラー=ミュラー美術館

     

    《星月夜》 ゴッホ 1889年 73.7×92.1㎝ ニューヨーク近代美術館

     

    《糸杉と星の見える道》 ゴッホ 1890年 クレラー・ミュラー美術館

     この絵の制作は1890年5月。ゴッホは1888年の12月に耳切りの自傷事件を起こし、1889年5月に南仏の精神病院に自ら入院する。そして1890年の7月27日にピストル自殺を試み、2月後に死亡している。死ぬ直前の作品の一つとされている。

     《星月夜》とこの作品の線のゆがみ、微妙な湾曲はそのままゴッホの精神状態の投影なのかもしれない。

     

     展覧会は閉館の5時半きっかりに美術館を出た。外に出るとショップへの入場待ちの列は途切れることなく、最後尾の待ち時間は40分と女性がプラカードを下げていた。ということで今回は図録も購入できませんでした。