小田光雄氏が亡くなった

 長く愛読していた「出版状況クロニカル」の著者である小田光雄氏が亡くなられた。

 「出版状況クロニカル」が4月1日に著者病気療養のため休載と告知されていたため心配していた。

出版状況クロニクル 休載のお知らせ - 出版・読書メモランダム

 早く快癒され、連載が再開されることを願っていたが果たされることがなかった。残念である。

 氏の論考は『出版社と書店はいかにして消えていくか』、『ブックオフと出版業界』、『出版業界の危機と社会構造』の三部作などを愛読していた。いずれも減衰していく出版業界の現在を活写し、様々に問題提起をされていた。

 もともとは編集者として出版業に関わり、そこから出版業、出版流通業について問題意識を広げられた他、古書や書誌について、さらにフランス文学での翻訳と活躍された。上述した三冊の本と、毎月アップされる出版状況クロニカルは、出版業界の今を知る基本情報として、多くの出版人が目にしていたと思う。もう氏の状況認識に触れることが出来ないのかと思うと、淋しい思いになる。同時にもはや出版業界について状況を見つめ、それをレポートしながら、問題提起をするような出版人がもはやいなくなったのではないかと、そんな思いにもかられる。

 出版業の業界紙としては『新文化』がある。『新文化』記者による出版レポートなどもいくつかあったが、やはり業界紙という性格上、どこか出版社や取次に遠慮がちなものが多かった。それに比すと小田氏の出版レポートはある意味、どこにも忖度しないものだったように思えた。そういう部分では信頼のおける著者だったと思う。

 さらに彼の得意とした著述はインタビューをまとめて読ませる内容にするものだったように思う。彼の多くの著述、特に後半に刊行したもののほとんどは論創社から刊行されていたが、論創社の社長森下紀夫氏との対話形式によるものが多かった。

 そうしたインタビュー集、対話形式による著述では、書店人や出版の編集者、経営者らにインタビューした『出版人に聞く』シリーズが白眉とでもいった内容であった。リブロの中村文隆氏や今泉正光氏、さわやの伊藤清彦氏、ちくさ正文館の古田一晴氏といった伝説の書店人、そして専門取次鈴木書店の小泉孝一氏、筑摩の菊池明郎氏らのインタビューからまとめられた内容は、まさに出版人のオーラルヒストリーの嚆矢となるものだった。

 書店人の多くは書店営業時に対応していただいた方々でもあり、小泉氏はよく酒を飲み交わし、お世話になった方でもあった。そうした人々の肉声がまとめられた得難い内容でもあった。

 出版業界ものは2010年代の論創社の一つのシリーズ化されたものだったが、それは小田光雄氏と森下紀夫氏の二人で作り上げてきたものかもしれない。大昔、森下氏が在庫品で会社や家に積みあがっている、でも捨てることはできないと、いくぶん嘆きつつも嬉しそうに話していたのを昨日のことのように覚えている。

 自分のような出版業界の片隅に生息したものにとっては、小田光雄氏のレポートを読むことで、今起きている業界の問題点などを把握してきた。仕事をやめ業界を去ってからも、「出版状況クロニカル」は業界のその後を知る一つの手立てでもあった。もはやそれに接することが永遠に失われたことに、大きな淋しさを感じている。

 73歳、超高齢化社会の今日にあっては、あまりにも早過ぎる。そしてずいぶんと業界の先輩と思っていたが、さほど年齢も変わらない、同じ時期に業界を生きてきた少しだけ先輩の一人だったのだと改めて感じたりもする。

 御冥福をお祈りします。

デロス同盟からペロポネソス戦争

 遠い遠い昔、高校生の頃の歴史は日本史だった。なので世界史の知識は皆無に近いかもしれない。ギリシアの列柱、オーダーとかについても、初めて知る言葉ばかりだ。博学な友人は高校が世界史だったからか、オーダーというと「コリント式はアカンサスだっけ」と即座に答えてくれる。自分はというと、ドーリア式、イオニア式、コリント式、「ええと、ええと」と覚束ない。

 さてと通信教育の一般教養科目には西洋史なるものがある。試しにとってみたが、テキストは個々の西洋史=通史というより、歴史観の変遷、いわば歴史学についての概説だった。まあそれなら、やはり大昔だけど学生時代にE.H.カーの『歴史とは何か』を愛読していたし、なんとなく判る。そのようにして、レポート課題もほぼ「歴史観と世界観の変遷」みたいなことをまとめた。素点は80点くらいだったからたいしたことでもなかったが。

 レポート提出とその採点のうえで、いよいよ試験となる。試験は五つのテーマのうちの一つが出題されるのだが、当然「歴史学」からの出題かと思っていたのだが、いきなり西洋史の個々の事象についての説明みたいなことになっていた。

  1. 都市国家アテネについて、「デロス同盟」結成から「ペロポネソス戦争」の敗北までについて
  2. フランク王国の王カール大帝シャルルマーニュ)の帝冠と「オットー一世の載冠」までをまとめる
  3. 「十字軍」の起こった原因とその結果について
  4. イギリス東インド会社の特徴、その設立から廃社までをまとめる
  5. ドイツ帝国(1871-1918)の外交的孤立について、1878年以降の外交上の経緯をまとめる

 この設問5つのうちから一つが出題される。テストはウェブ上で制限時間60分で、だいたい800字にまとめる。この800字というのが曲者で、論述に際して情報を盛り過ぎれば当然こんな文字数でまとめることは難しい。かといって情報を徹底的に制限する、あるいは学習不足で書く材料に欠ければこの字数もけっこう大変になる。

 さてどうするか、どれかにヤマをはるか、その場合外れた時の痛手は大きい。そうなると5つの説問それぞれについて学習しなくてはならない。それぞれを、独自で世界史の概説書などにあたる必要がある。ネタ本に使えるのは、大昔に買って処分せずに持っていた中央公論の『世界の歴史』全30巻だけだが、きちんと読み込んでノートを作るとなるとかなりの時間が必要。そしてそんな時間はない。

 結局、五日くらいでなんとなくそれぞれの説問についてメモを作った。試験はウェブ上なので、メモや参考書の類を参照するのは問題ない。

 そしていざ試験に臨んだ。というかメモが完全に作成したのが6月6日、いや日付の変わった7日だったか。そしてメモを読み込んで実際の試験はというと明け方にやってみた。このへんがウェブ試験のいいところだ。試験はだいたい1週間の間、どの時間帯でも大丈夫なのだ。でも明け方に受ける人なんて多分いないだろうなと思ったりもする。

 試験は一番最初の説問「アテネの衰退をデロス同盟からペロポネソス戦争までの経緯をふまえてまとめよ」みたいなものだった。

 しかしデロス同盟って、ペロポネソス戦争って、いったいなんだよということだ。まもなく古希を迎えようかというジイさん、初めて耳にする言葉である。

 紀元前500年くらいにギリシアには独立した小さな都市国家ポリスが生まれてきた。その中には大国スパルタや海運国として栄えたアテネなどもある。一方で大国アケメネセス朝ペルシアは版図を拡大し、イオニア地方のポリスを支配下にしていた。そしてミレトスで起きた反乱をアテネが支援したことから、ペルシアとポリス国家の連合との間に戦争が起きる(ペルシア戦争)。

 戦争はポリス国家の勝利を終わったが、いつまたペルシアが攻めて来るかわからない。それに準備するためポリス国家はアテネを中心にデロス同盟を組織する。しかし海運国家アテネはじょじょに覇権を確立し、事実上ポリスを支配するようになる。これに反発したポリスはスパルタを中心にしてアテネと覇権を争う戦争が起きる。まあそういう流れのようだ。

 このへんについてはもうほとんぞ全部、初めて知ることばかり。ようは世界史的教養がまったくないということだ。多分、高校生はみんなこれらを勉強するんだろうな。改めてえらいと思ったりもする。ということでオジイさん、慣れない勉強しながらまとめた解答はこんな感じである。事象を列挙しただけなので、多分あまりいい評価はないと思う。まあ割と緩いのでとりあえず単位はもらえるような気もしないでもない。

 ペルシア戦争では、当初、都市国家ポリスの同盟の覇権はスパルタが握っていたが、次第に制海権を握ったアテネに移行するようになった。ペルシア戦争後、アテネを中心とした約200のポリスは、再びペルシアが攻めてきたときに備えるため、前478年頃にデロス同盟を結成した。この同盟は、各ポリスが一定の兵や船を拠出して連合会軍を編成し、それが出来ないポリスは一定の納付金(フォロイ)を同盟の共同金庫に納入することになった。この共同金庫は、イオニス諸市の共同の信仰の対象であったアポロン神殿のあるデロス島におかれた。
 デロス同盟の義務の決定は、公正をもって知られたアテネの政治家アリステイデスに委ねられた。デロス同盟会議は平等の発言権のある代表者から成り、デロス島で開かれた。共同金庫の管理は10人のアテネ市民に委ねられた。こうしてデロス同盟の執行権は当初から大国アテネの握るところとなった。
 アテネでは軍船のこぎ手でもあった市民の発言権が強まった。アテネの政治家で指導者となったペリクレスは、成年男子に参政権を与え、彼らが参加する民会を国の議決機関とした。これによりアテネの民主制は完成し、アテネは全盛期を迎えた。アテネの影響もあって同盟のポリスの中でも民主制をとるものが増加した。次第にデロス同盟会議は開かれなくなり、共同金庫もアテネに移されることになった。
 アテネデロス同盟の盟主として繁栄をほしいままにし、アクロポリスアゴラを復興し、ピレウス港との間に長城を築き、地中海貿易を発展させた。アテネの発展はスパルタの反感を買い、これにコリントやアイギナなどの商業ポリスとの対立が深刻化した、アテネに反発するポリスはスパルタを中心にペロポネソス同盟を結成し、アテネペロポネソス同盟軍との間に戦争が起きた(前431~前404年)。同時期にアテネではペストの流行もあり、ペリクレスも罹患死去した。その後はデモゴーゴスと呼ばれる扇動家による衆愚政治に陥り、戦争に敗北した。
 アテネは、ペルシア戦争で得たものをペロポネソス戦争で失った。この時期のアテネは、戦争と平和の交錯する中で市民共同体を発展させ、文化、芸術を開花させた。デロス同盟からペロポネソス戦争を通じた時期にも、ソクラテスプラトンアリストパネスらが活躍していたのである。

 当然のことながら、試験後は右から左に詰め込んだ情報は消えゆく定めである。デロス同盟ペロポネソス戦争も、試験にはなかった十字軍も東インド会社カール大帝も。まあそういうのが全部頭に残っていたら、それはそれで楽しいことだろうとは思うけど、それはジイさんにはとても無理である。もっとも現役の二十歳前後の大学生だって、よっぽどそれを専攻にするのでもない限り、みな忘れゆく情報、知識かもしれない。

 思い起こせば、〇十年前の大学生の時にとった一般教養科目のなにを覚えているか、ほとんど壊滅に近い。いや専門だって、憲法、刑法、民法総則だの物権、債券総論、各論、まったく覚えていない。まあ法学部を出て良かったことといえば、法律の条文に抵抗がないことくらいか。仕事で様々な規則、就業規則とかそういうのを改訂したり、法律の変更に伴って新たな条文を付け加えるときに、割とスムーズにそういう条文をつくることができたとか、そのくらいだろうかと思っている。そういうものだ。

 なのでいまさら世界史の知識つけてどうなるか、あるいは単位のためにヒーヒーいいながら、関連書読んだりする。まあある種のM体質というか、自分をいじめているに等しい。とはいえ生い先短い人生にそういう無駄知識のために時間を割くというのは、まあちょっとした喜びであったりもするかもしれない。とりあえずジイさんの現在のマイブームは「デロス同盟」と「ペロポネソス戦争」である。

車を買うことにした

 またもオッチョコチョイにも車を買い替えることになった。

 今乗っている車は2021年に買った。3年目でちょうど1回目の車検を迎えるというタイミングだ。普通なら買い替えなどあり得ない。なんだけど走行距離がこれまでの自分のカーライフからすると半端ない。現在45000キロ超え、1年平均15000キロである。仕事している頃は1年1万キロもいかなかったのに。

 この調子でいくと2回目の車検の5年目には多少走る距離が減っても65000くらいはいく。そうなるとそうなると、3回目の車検時には9万とかそういうことになる可能性もある。車は多分5万キロ超すと下取りの価格も一気に下がるだろう。今ならまだ5万弱なのでそこそこの価格がつくはず。

 車検を前にしてそんなことを考えていた。もし5年目の車検時、走行6万キロ強で下取りに出して新車を買うとどうだろう。よくて90万前後で下取りとなっても、最近の車は高いし、値引き含めても軽く200万を超すだろう。7年目となると車格を思い切り下げないと300万はゆうに超えるか。

 そしてもう一つ、これが一番のファクターだけど、年齢的に今と同じように車乗り回せるのはせいぜいあと2~3年かもしれないなという思いがある。まあこれは前回も同じことを考えていて、多分これが最後と思っていたはずなのにね。それがこれまでの人生で一番車を乗り回している。まあ仕事辞めて時間があるというのが一番だろう。でも四六時中車でロングドライブしてるわけでもないんだけど。

 さらにこれも重要なファクターとして、今乗っている車がフルモデルチェンジした。なので旧型車は在庫品限りでかなりの値引きが期待できる。車の下取りは多分今がピーク、そして値引きも大幅に期待できる。安く新車が買えるラストチャンスみたいなことだ。「さあ、どうする、どうする」

 車検のこともありディーラーに行ったときにそういう話をしたのが、5月の終わりくらいだったろうか。それから1~2度交渉といえば交渉して、結局、買い替えることにした。下取り価格は140万、値引きは総額53万強。営業担当曰く、「今までで一番値引きしました」とのこと。

 しかし同じ車の買い替え。先々代とはマイナーチェンジしてるから微妙に違うが、ほとんど同じ車を三台続けて短期間で買い替えている。人によってはアホと思われるだろう。おまけに色とかも一緒である。子どもからは「バカみたい」と言われ続けている。

 まあそれでもいいや。あと数年、カーライフを続けられればいい。妻は日々、あそこに行きたい、ここも行きたいと、テレビで仕入れたネタをもとに言ってくる。そんな車椅子の妻を乗せてあちこち見て回る。そういう老後を選んできたのだし。

2023年にやめたモノとその後

 訳あって2023年に二つのモノ、コトをやめた。いずれも長く自分の生活の一部だったようなモノ、コトだ。

 一つは山下達郎の音楽を聴くのをやめた。多分、去年の7月くらいからだろうか。理由はまあ単純で、彼が昨年大きく問題となったジャニー喜多川氏による性加害問題について、喜多川氏を擁護したことからだ。

 彼は自分のラジオ番組で、自分にとって一番重要なことは「ご縁とご恩」であり、ジャー喜多川氏から受けた「ご縁とご恩」を大切にしたいと語った。そして自分のそのような立ち位置を批判する者には自分の音楽は必要ないのだろうと言い切った。ようは自分を批判するなら自分の音楽を聴く必要はない、聴くなということだったろうか。

 その時点(2023年7月)では、ジャニー喜多川氏の性加害は、BBCによるドキュメンタリー報道が問題になっていたが、まだ噂段階だった。しかし9月にジャニーズ事務所が性加害があったこと認め、その後の報道などではその被害は数百人にのぼるという、たった一人の有力なプロデューサーによる広範囲な性加害という、世界的にも類をみないような大事件でもあったことが判ってきた。結果としてジャニーズ事務所はその看板をおろし、別会社として出発することになった。

 いまではとりあえずジャニー喜多川氏がとんでもない性加害者であったということについては、それを否定するものはいない。一方で、山下達郎は昨年7月のラジオ番組以降はその問題について沈黙を守っている。

 まあ普通に考えれば、ちょっと勇み足したかなと思ったりもする。その後の情勢を考えれば、あんな発言をするべきではなかったのだろう。彼の周りにはきちんとしたスタッフがいなかったのか。もっとも彼のスタッフ、マネージメントに携わっていたビジネスパートナーと彼がいう小杉理宇造が、ジャニーズの業務全般を担っていただけに、ジャニーズ擁護をせざるを得なかったのだろうか。

 それ以来、彼の音楽は一切聴かない。もしもかかることがあれば止めてしまう。彼とはシュガーベイブ以来のつきあいだから、50年近くずっと聴いているのだろう。当然、レコード、CDもほとんど持っている。それこそ何かあれば、冗談めかして「俺たちは達郎がいる」みたいなことを宣っていた。かってジョン・レノンが死んだときに、矢作俊彦がエッセイ集のなかで「俺たちにはジュリーがいる」と宣った。あれと同じような感じだろうか。

 しかし長く聴いていた音楽を聴かなくなると、どういう変化が起きるか。実はなにも起きない。iTunesに入っている音源が12000曲から500曲かそこら減るくらいのことでしかない。山下達郎的なニューミュージックをなんとなく全般的に聴かない傾向はあるけど、まあそんなところだ。

 同じ頃かそれよりも少し前から、ユーミンの音楽も聴かなくなっている。なんでだろう。まあいろいろな意味で歳をとったからなんだろうか。

 iTunesでは基本ジャンルとプレイリストで音楽を管理している。プレイリストはジャズ、クラシック、ロック&ポッポス、ボサノバあたりが基本。他にアーティスト別でビートルズトッド・ラングレンローラ・ニーロジョニ・ミッチェルイーグルスマイルス・デイヴィスビル・エヴァンスなどなど。

 山下達郎も当然プレイリストを作っていたが、それは削除した。あと彼の楽曲のジャンルをそれまでのポップスからtaturouに変えた。ユーミンもジャンルをyumingにした。それで車やオーディオにつないでいるiPod classicに同期されない。ということで音源こそ削除していないが、すべての端末類から彼らの音源は消えた。音源自体を削除しないのは一抹の未練みたいなものだろうか。

 結論的にいえばアーティストの一人や二人の音楽を聴かなくなってもなにも生活は変わらない。そういうものだ。ひょっとしたらビートルズバート・バカラックなんかも聴かなくなればそれはそれで普通のことになってしまうのだろうか。いや、多分それはないだろうなと思ったりもする。

 例えばポール・マッカートニーが急に耄碌して差別主義や露骨なイスラエル賛美をしたらどうだろう。多分聴かなくなるかもしれないが、これまでのことを考えればその可能性はほとんどないような気がしないでもない。

 まあ音楽なんてそんなものなのかもしれない。

 

 もう一つやめたもの。それはまあバクチというか、パチンコの類だ。パチンコもまた大昔からやっている。多分、パチンコ屋に通うようになったのは高校生くらい。そして大学生の頃はけっこうはまった。社会人になってからもけっこうやってたな。仕事がけっこう遅くまであっても、それこそ9時過ぎからうちにいくみたいなこともあった。

 40代くらいの頃に、よく冗談半分にこれまでパチンコで負けた金額は、マンションの頭金くらいあるかもしれないなんて話していたが、あながち嘘ではないかも。まあ真面目に計算し始めたらきっと死にたくなるだろう。

 さすがに結婚して子どもができてからやる頻度もへったし、かけられる金もなかった。そういう意味では40代半ばからはほとんどやってないも同然だったかもしれない。それでもたまにやっては負ける、たいてい負ける。ごくごくたまに勝つこともあり、そうするとまた行くようになるが、負ける。まあバクチの類で儲かるなんてことはまずない。トータルすれば絶対にマイナスだ。

 去年、9月にiPhoneを新しくした。といっても8をすでにその時点で二代型落ちの13にした。それでも夫婦二台分だと20万近い買い物だ。年金生活の高齢者の生活なのでけっこうこれは痛い。ということで自分に誓いをたてて、せめてパチンコは金輪際やらないと決めた。感覚的に一か月1万とか2万負けているとすれば、一年やらなければiPhone分くらいはなんとかなるかみたいな、まあ適当な思いつきだ。

 そしてかれこれ9ヶ月くらいやっていない。もう店の前を通っても、何が面白いんだろうねくらいの感じで普通にスルーできる。タバコをやめて何年かしたら、もう近くで臭いをかぐだけでダメとなったが、それに近いものがあるかもしれない。

 こういうのもなんだ、結局は歳のせいなのかもしれない。さてと今年はなにかやめるモノ、コトあるだろうか。

『百年の孤独』のよもやま

 Twitterのタイムラインを眺めていたら新潮社のツィート(ポスト)が。

 そうかいよいよ『百年の孤独』が文庫化されるのかと、ちょっとした感慨を。

 そして同じタイムラインに映画評論家の柳下毅一郎氏のツィートも。

  思わず反応してしまった。「みんなつくるんだ」と。

 自分もあの本を読みながら、錯綜する人登場人物のことがごちゃまぜになり、やはり家系図、人物相関図的なものを作った記憶があった。あの悪魔的リアリズムと称される独特な文体と人物の入りくり。たしかホセ・アルカディオ・ブエンディーアとその妻ウルスラ・イグアランが出てきて、その長男のホセ・アルカディオと次男のアウレリャーノ・ブエンディーア、次女のアマランタなどなど。途中で何度もページを戻ってを繰り返し、自分も家系図・人物相関図的なものを作った。そうしないとどうにも前に進まないような感じだった。

 こういうのはロシア文学ドストエフスキーなんかでもやった記憶がある。『カラマーゾフの兄弟』でも出てきた登場人物を書き出していった。ドミトリイがミーチャになったり、アレクセイがアリョーシャになったりと、まあ混乱していく。混沌する読書というのはドストエフスキーだなと思いながら、途中でメモを作った。

 『百年の孤独』もそんな感じで登場人物の図式化が必要だった。でも多分途中からそういうのをあまり意識しなくなったような気もする。なんていうか物語の流れにのると、こいつは誰だったっけとか、確かとっくに死んでなかったっけとか、まあそういうのどうでもよくなる。

 誰かが『百年の孤独』は『聖書』なんだみたいなことを語っていたような気がする。それはまんま『聖書』のような物語構造をさしているのか、中南米では『聖書』のように受容されているということをいっているのか、そのへんは定かではない。

 いまではもう物語の筋もあまり覚えていないが、読後感の不思議なインパクトは強烈だったと思う。なのでかれこれ、うん十年経っても、まだこうやってこの本に関してのなにがしかを書いてみようと思ったりする。

   数十年も前だと、およそ読んだことすら忘れてしまっている小説などたくさんある。逆に鮮明に読後感の記憶が残っているなんていう方が稀かもしれない。読書なんて多分そういうものだろう。

 それは別に歳のせいとかではないと思ったりもする。なんなら三十代の頃でも、小説を読んでいてなんとなく既視感を覚えだし、結局全部読んでからこれ自分読んでたわ、みたいなことを思い出すなんてことだっていくらでもあった。さすがに同じ本でそれを何度も繰り返すなんてことはなかったとは思うけど。

 そういうことからすれば『百年の孤独』の読書体験というのは、ある種特別だったのではないかと思う。今ではストーリーも覚束ない、登場人物もあらかた忘れている。それでも『百年の孤独』を読んだという強烈な感覚、強烈な読書的達成感はいまだに記憶されている。

 まだ現物があるかどうか、試しに本棚を漁ってみた。何度かの引っ越しの中でたいていの本は捨てたり、処分してしまっている。なので中南米文学なんてほとんど残っていない。ガルシア=マルケス、バルガス=リョサカルペンティエールマヌエル・プイグとか、けっこう読んだし、ずいぶんと買ったと思う。集英社から刊行された『ラテンアメリカの文学』も途中まで定期購読していたように記憶している。さすがに『族長の秋』のあの独特な文体にはついていけず、途中で投げ出したような気もしている。

 でもそれらはたいてい処分してしまったはずだ。本棚をみていくと、カート・ヴォネガットの本の後ろに『百年の孤独』があるではないか。まだ持っていたか。そしてなんとなく思い出したのは、たしか横浜から埼玉に引っ越してきてすぐに、本を大幅に処分した。判る人には判ると思うけど、トーハンの9号ダンボールで6~7箱くらいの本をブックオフに持ち込んだことがあった。そのときに、自分的にはこっちの3箱は価値あるもの、値がそこそこつくこと期待、こっちの3~4箱はベストセラーとか推理ものとかで、まあ二束三文かとそんな風に考えていた。

 でもブックオフの判断は真逆で、自分的に二束三文のものは定価の半分とか三分の一くらいで買い取ってくれた。そして自分的に価値あり本は、「これは買い取れません。処分するだけということであれば引き取ります」ということだった。そこでまあ持ち帰るのもなんなので、処分してくれということで置いてきた。ただしなんとなく未練がましく、その処分してもら本の中から10冊程度持ち帰ったものがあった。そしてその中に『百年の孤独』もあったのだ。

 久々、懐かしさで少しページをくくってみる。自分の持っているのは1986年8月、第23刷のものだ。すると本の中ほどにノートの切れ端を折りたたんだ紙片が挟み込まれていた。開いてみると当時メモした家系図・人物相関図だった。そうそう、こういうの作っていたんだと、改めてその稚拙なメモを見てみた。

 

 懐かしいというかなんというか。そして表3のカバーをめくったところには読了日も記入してあった。

 

 1987年、37年前だ。自分は何をしていた頃だろう。31歳かそこらでまだ出版取次に勤めていた。前年に父親がくも膜下出血で亡くなった。多分、面倒をみていた祖母はそろそろ寝たきりになりつつあった。思えば自分は今でいうヤングケアラーだったようだ。

 その年の出来事というと、天安門事件があり、ブラックマンデーがあった。まだまだ昭和といわれる時代だった。ソ連邦も存在していたし、ベルリンの壁が崩れるのは2年後のことだ。そういう時代に自分はラテン・アメリカ文学の最高峰といわれる小説を読んでいた。そういうことだ。

 本の間から出てきた紙片メモを見ていると、なんとなく遠い目をせざるを得ない。

 さてと、文庫になるのだしせっかくだから読み返してみるかとは、多分ならないような気もする。手持ちの本は二段組でポイントも小さい。これは老眼の身には辛すぎる。文庫のポイントはどうなっているのだろうか。多分、読みやすくはなっているだろうとは想像する。まあ読むか読まないか、それは判らないけれど、多分文庫版の『百年の孤独』、多分買うような気もする。

5月~6月の日誌

5月27日(月)

 11時から歯医者の予約。駅に着くと8時頃に人身事故があり、電車は動き出したばかりという。だらだら運転の末、池袋に着いたのが11時過ぎ。歯医者に電話すると、別の時間の予約がいっぱいなので、別の日にと言われる。

 今回は歯周病のチェックなのだが、他に痛む部分もあったので、なんとか診てもらいたいと話して別の先生でたまたまキャンセルで空きがあるというので1時半に予約を入れる。さてと2時間と少しどうやって時間をつぶすか。

 本郷三丁目で降りて湯島聖堂のあたりをすこし歩いてお茶の水へ。そのまま丸善に入って時間をつぶす。今回も本屋に入っても何も買わない。食指が動かないというかなんというか。もう本好きとか趣味は読書とは言えないような気がしている。

 奥歯の痛みは基本知覚過敏なのだとか。左下奥歯に虫歯が見つかり、こちらの治療は次回ということ。しばらく歯科通院が続く。

 

 その後は神保町方面に歩く。食事をとっていないので、どこかで遅めの食事をとろうかと。すずらん通りを抜けて一つ向こうの通り、昔、小取次が軒を連ねたあたりだ。安達図書とか太洋社の店売とかがあったような記憶が薄っすらとある。

 そこになんとキッチン南海の看板を見かける。かってすずらん通りにあった定食屋だが、ずいぶん前に閉店したはず。いつ移転したのか。

 午後2時過ぎだが、店舗前には人の列ができている。とりあえず並んでみたがが、回転は早く5分も待たずに店内に。入る前に店のおばさんがオーダーを取りに来たのでカツカレーを頼む。昔、いつも食べていたもの。美味いのだが、量が多くいつも食べ終わると胸焼けして後悔したあれだ。すぐに出てきたカツカレーの味は昔のままで、なんていうか感傷的なカツカレーだった。

 

 夜、テレビを見ていたら、11時少し前に急にJアラートで、テレビは全局放送していた番組中断してきた挑戦ノミサイル発射報道一色になる。しかしよく聞いていると、またネットの上方を繋ぎ合わせると、北朝鮮人工衛星を打ち上げたもので、しかも事前通告済みという。それならば、打ち上げ確認次第にJアラートの警報を出すと事前に報道していてもいいはずなのに。

 こうやって危機を煽り、戦争への体制を作っていこうとしているのだろうか。

 

5月28日(火)

 朝8時過ぎに起きる。燃えるゴミの日。妻のインシュリンをうつ。妻のデイサービスを見送った後、郵便物や請求書類の整理。

 その後、冬用の合わせで使っていた掛布団を薄掛けにして布団カバーやシーツ類も取り換える。外した厚めの布団は圧縮袋に入れて掃除機で圧縮。交換した布団カバーやシーツ類は洗濯する。夕方から雨の予報が出ていたので、風呂場に干す。これから梅雨になると浴室乾燥機がフル稼働するようになる。

 本来ならGWあたりにやるのに、今年はずいぶんと遅れてしまった。年のせいかこういう作業がどうにもおっくうになってる。

 夕方、妻が帰ってきたので、その日は歯医者の予約が入っていたので車で送る。それからホームセンターに行き買い物。もろもろ買うとあっという間に1万ちかくになる。

 

5月29日(水)

 午後、妻の定期通院で近くの総合病院に。神経内科の先生は新しい人になっていた。最近、入れ替えが激しい。病院が中核病院になっているせいか、妻のような症状が固定されている患者は、あまり診たくなさそう。地元の医院にかかるよう促された。でも、妻は脳梗塞巣は大きい(右側頭葉の大部分と前頭葉)。発症当時にリハビリ病院に転院する際にも、こんな重症な人は簡単に転院させないほうがいいとまで言われた。

 それを思うと総合病院にかかっていた方が安心なのだが、病院の方針、多分国の方針としても、症状が固定(されたようにみえる)した患者は中核病院では診ないということになっているのだろうか。

 

5月30日(木)

 午前中、妻の皮膚科通院の送迎。今週は月曜に自分の歯医者、火曜は妻の歯医者、水曜は妻の神経内科通院と病院通いが続いている。

 通院後、地元のホンダディーラーに行く。今乗っている車は7月に1回目の車検になるが、すでに走行距離が45000キロに達している。このままだと次回車検時には75000キロくらいになる。7年目には10万キロだ。

 まあ70過ぎたら少し運転機会減るようにも思う。そして今の車が多分最後と思っていたのだが、やはりリタイアしてから車乗る機会は圧倒的に増えている。できればあと2~3年は今のペースで車に乗るかもしれない。なのでワンチャン買い替えも検討していもいいかとなる。

 乗っている車はまもなくモデルチェンジになるので、現行在庫車が格安になるかもしれない。一応簡単に見積だしてもらうと、値引きは47万くらいとやっぱり破格な感じだ。

 

 その後は都内へ。久しぶりに竹橋の東京国立近代美術館へ。

 美術館終了後は千葉に住む子どものところへ。先週行った京都の土産物を渡して夕食を一緒に食べてきた。

 

5月31日(金)

 雨模様の一日。

 自室でずっと学習したり、前日取った東近美での写真の整理をしたりして過ごす。

 夕食は妻が久々にカレーを作ってくれた。時間がかかったがけっこう美味しい。かれこれ18,9年前になるが、リハビリ病院のOTで片手で料理を作ることも訓練した。そういうこともあって、たまに料理を作ってくれることがある。

 そういえば退院した年だったか、OTで教わったという焼売を作ってくれたときはちょっとした感動だった。当初、よくて車椅子、悪ければずっと寝たきりと言われていたのに、よくぞここまで回復してくれたみたいな感じだったか。

妻、焼売を作る - トムジィの日常雑記

 

6月1日(土)

 午後、ずっと車を購入している以前住んでいた町のディーラーに行くことにする。新車買い替えについての相談。現在の車を下取りにして、総額いくらになるか。出てきた数字は、すでに出ている地元のディーラーより20万近く高い。まあ車の種類が6人乗りで、地元ディーラーのが5人乗りとが若干違うのとアルミ履いているということもあるのでこれは仕方がないかもしれない。

 同一車種で再度見積もりを出してくれるよう依頼して店を出た。

 

6月2日(日)

一日中雨。

 5月の中頃だったか、またまたヤフオクでノートパソコンを落とした。今度はLIfebook U938Sとかいうやつ。多分、他の入札つくだろうと1万くらいで入れたら落札になってしまった。よく見るとメモリ4ギガだし、core I5の7世代で11に対応してない。まあこのシリーズは軽いのでなんとか使い道はあるかと思ったりもした。

 届いたものはまあ法人流れらしいもので、そこそこ使用感ありのもの。メモリ4ギガ、SSD128では使い勝手悪すぎるだろうとアマゾンで格安のメモリ8ギガ、M.2 SSD256ギガを購入。二つで6千円くらいだったか。それを載せ替えた。

 メモリは空きスロットがあったので簡単に増設できたのだが、M.2の方は固定してるネジがなめてしまい泥沼状態に。数時間かけてネジ穴ごととることに。差し替え後は接着剤でネジ穴ごと固定したけど、とりあえず問題なく動いている。まあ次M.2をさらに大容量化することはまずないのでこれでOKだと思う。

 そしてこの日はバッテリもへたっていたので(満充電で30%とか)、これも中古で1800円で落としたバッテリに交換。とりあえず100%充電可能になり、3~4時間は使えそう。ということで日がな一日パソコン作業してた。でもこのノート、何に使えるだろうか。

 
6月3日 (月)

 出版健保に通院。三ヶ月に一度、糖尿病、高血圧などの薬を山ほどもらってくる。数値はほとんど変わらずなのだが、今回クレアチニンの数値が高く、来月もう一度血液検査を受けることになる。この数値が高いのは腎機能に問題ありということらしい。正直この数値で引っかかるのは初めて。いろいろあるなと思う。

 通院後はどこにもよらずにそのまま最寄り駅に戻る。昼食は丸亀製麺でかけうどんとかき揚げで合計570円というチープな昼飯。それからマックで本読んだり寝たりと、よくいる徘徊老人パターンだな。

 帰宅後は、なんか久々音楽を聴いている。オーディオは25年位前のミニコン、パイオニアのフィルというシリーズ。これにやっぱり10年位前のネットワークオーディオN-30にUSBで接続したSSDの音源を聴く。

 このN-30はiPodも接続可能なのだが、touchは対応しているけれどclassicは対応不可というクソ仕様。ふだんはSSD音源を聴いている。

 同時にONKYOのCR-N765というネットワークオーディオも置いていて、こっちにもiPodSSDを接続している。最近気が付いたのだが、この機種のフロントUSBはiPodを直接USBで接続できるらしい。背面にもUSBがあるのだが、こっちはiPodに対応していない。

 今まではフロントUSBにSSDを接続、iPodはDOCを使って接続していたのだが、今日は試しにフロントにiPod classicを接続、リアにはSSDを接続した。iPodはやっぱりDOC経由よりもなんとなく音がクリアなような気がする(あくまで気がする)。

 オーディオも25年選手とか10年選手ばかりで、いつ壊れてもおかしくない。ミニコンのCDプレイヤーはたしか10年くらい前に一度修理に出しているけれど、それ以降はまったく問題がない。

 多分新しいオーディオにする気などさらさらないが、オーディオの寿命と本人の寿命、どっちが先か。なんか年とるとこういうチキンレースが様々に続いているような気がする。

東京国立近代美術館へ行く (5月30日)

 久々の東近美である。前回行ったのが2月29日なので三ヶ月ぶりとなる。

TORIO パリ・東京・大阪 モダンアートコレクション

TRIO パリ・東京・大阪 モダンアート・コレクション - 東京国立近代美術館

(閲覧:2024年5月31日)

 実をいうと今回の企画展、まったくノーマークだった。予告されていることはなんとなく知ってはいたし、チラシやポスターを見たことは見た。でも「TORIO」が何を意味するのかもよく理解していなかった。マティスの《椅子にもたれかかるオダリスク》がポスターに使われているので、マティスのこの絵が来るんだくらいの認識。でもパリ市立近代美術館所蔵のこの作品、どこかで観ているような気もする。

 ということでまったくどんな企画展かをノーチェックで作品を観るという、あまりない経験をした。個人展、回顧展だと、誰この人みたいなことあるけど、企画展だというのに。たまにはきちんと美術館のホームページをチェックしないといけないなと。

 今回の企画展はというと、パリ・東京・大阪の近代美術館三館所蔵のモダンアートをテーマに沿って展示するというもの。東近美の作品にはけっこう見慣れたものがあるけれど、それをパリ市立近代美術館、大阪中之島美術館それぞれの所蔵品と並列することで、新たな視点、切り口、ある種の異化効果が生まれるということなんだろう。それをなんも考えずに観ているので、結局三点の並列展示はあまり考えず、とにかく一点一点を普通に鑑賞した。企画をたてたキュレーターには申し訳ないような気もする。

 とはいえまあ普通にそれぞれの作品を鑑賞する、けっこう著名な作家の名品揃いなので、それもまた楽しいということなんだろう。ただし企画意図を理解してないので、途中で意識が散漫化してしまったのは残念なこと。この3点の作品はこういうテーマで並んでいる、そして次はこういうテーマ、視点でこんな作品がと、綴れ織るようにして観ていくべきものが。

 なので出来れば会期中、もう一度くらいは来てみたいと思ったりもした。なかなか楽しい企画展ではある。さらにいえばパリ市立近代美術館、大阪中之島美術館の所蔵品など、なかなかまとめて観る機会もないので、それだけを意識してもいいかと思ったりもする。実際、東近美の作品は割と観慣れたものが多いので、途中からそういうことを意識していたかもしれない。

 まあ普通に考えてもこの企画展はこういう風に3点のセットで楽しむべきなんでしょう。

ユトリロ松本竣介佐伯祐三 「都市の遊歩者」 

 

マティス萬鉄五郎、モディリアニ 「モデルたちのパワー」

 まあそれはそれとして気に入った作品を単品で。

 

《髪をほどいた横たわる裸婦》

《髪をほどいた横たわる裸婦》 モディリアニ 1917年 大阪中之島美術館

 多分、この企画展の目玉的作品かもしれない。モディリアニという作品の希少性からすると、現在だったら数十億、いやへたすると百数十億の価格がついてもおかしくない。見事な作品だ。モディリアニ存命中の最初にして最後の個展のときに、そのヌード作品数点が猥褻を理由に官憲によって撤去されたという。この作品がそのときの一点かどうかは判らない。

 誰かの批評でモディリアニの裸婦について、それがある種の人びとには「猥褻」と感じられるのは、その量感、あえていえばその肉感にあるのではみたいなことを読んだことがある。その量感、肉感は、モディリアニがもともと彫刻を手掛けていたことから来ているのではということだった。たしかにこの絵、デフォルメされた細長い顔の女の肢体は、たしかに立体的でぬめっとした量感がある。別にそれを猥褻とは思わないけれど股関にそえた手の描き方などもどこか煽情的かもしれない。

 この絵のモデルは誰だろう。モンパルナスあたりの娼婦か、あるいは良家の子女で画学生であり、モディリアニに献身的に尽くしたジャンヌ・エビュテルヌだろうか。エビュテルヌをモデルにした作品を観ると、彼女の悲劇的な死(モディリアニが死んですぐに自死した)のことを思ってしまう。

 この作品、万博が失敗して多額な負債を被った市財政の補填のため売却とか、そんな悪夢がないことを祈りたい。でも維新だからなあ。

《昼食》

《昼食》 ボナール 1932年頃 パリ市立近代美術館

 この黄色い花の鮮やかさ、全体に黄色がかった画面、ポーラ美術館所蔵のボナール作品《地中海の庭》を想起させる。ボナールをマティスは評価し、ピカソは忌み嫌ったという話は有名だけど、理屈で絵を描くピカソにはこういう絵は好きになれないだろうなと改めて思ったりもする。

 

《自画像》

《自画像》 シュザンヌ・ヴァラドン 1918年 大阪中之島美術館

 ユトリロの母、シャヴァンヌやルノワールのモデルをつとめ、のちに画家となりさらに年の離れた息子の友人と結婚する。ユトリロは生涯この母親を慕い続けていたとは何かで読んだ記憶がある。息子ほど絵は売れなかったらしいけれど、画家としても非凡な才能があるとは思う。この絵などはフォーヴィズム的な要素強い。いつもこの人に感じる輪郭線太目、それによって色面を分割するようなゴーギャン的な部分がやや弱まったような印象がある。

 

《果物棚》

《果物棚》 アンドレ・ボーシャン 1950年 大阪中之島美術館

 アンリ・ルソーと同じく正式な美術教育を受けたいないため、「素朴派」、プリミティブなどと括らせる。実際に園芸業者から画家に転身した。樹木の表現、平面的な画面構成などはルソーの影響、あるいはルネサンスから古典主義時代の風景画の表現からの影響もあるか。

 でもこの色彩感覚、平面的で装飾性あふれる構成はやはり只者じゃない。あえて子どもの絵のような雰囲気や、執拗に一枚一枚葉は花を描く部分は、それらがアウトサイダーアート風と捉えられるのだろうが、これはあえての技法なんだろうなとも思う。細かく細かく、執拗に執拗に描かざるを得ない画家の衝動なんでしょうか。

 

《ペレル通り2番地2の出会い》

《ペレル通り2番地2の出会い》 ヴィクトル・ブローネル 1946年 パリ市立近代美術館

 ブローネルは、かつてアンリ・ルソーが住んだペレル通り2番地2に引っ越したことからこの作品が生まれたという。ルソーの《蛇使いの女》に自らが生み出した、巨大な頭部と2つの身体、6本の腕を持つ「コングロメロス」を登場させる。こういうのもアプロプリエーション(盗用・流用・換用する手法)なんだろうな。まあ誰が観てもルソーだし、そしてタイトルがルソーかって住んだアパートメントとなれば、ハハーンとなる。

 ブローネルはシュルレアリスムの画家で、ルソーがどうというよりこの怪物「コングロメロス」のような得体のしれない造形物をさかんに描く人だったようだ。多分、実作を観るのは初めてかもしれない。

 

《レディ・メイドの花束》

《レディ・メイドの花束》 マグリット 1957年 大阪中之島美術館

 山高帽の男の背中に描かれているのはボッチチェリの《春》の花の女神フローラである。だからどうしたと言われれば、マグリットの作品はそこで終わってしまう。そういうものだ。多分山高帽の男はマグリット本人なんだろう。だからどうした、いやまあ、そういうものだ。

 

《果物籠を持った女性》

《果物籠を持った女性》 マリア・ブランシャール 1922年頃 パリ市立近代美術館

 マリア・ブランシャールはスペインの女流画家。パリでエコール・ド・パリ派の画家との交流から、ヴォーヴィズム、キュビスム的作品を多く描いた。同じスペインのファン・グリスとの交流からパリで活躍したが、晩年は経済的に困窮した。生まれつき脊椎が曲がる脊柱側弯症や股関節にも障害があったとも。

 この作品はキュビスムから具象に戻りつつある時期かもしれない。彼女がキュビスム作品を描いていたのはおもに1915~1918年頃だったはず。そしてこれはというと具象といいつつも多視点による空間構成がなされている。細長い画面で仰角、俯角、平行視線を一つの画面に再構成している。面白い絵だと思うし、実はこの絵が今回の企画展のなかでもけっこう印象に残っている。

 この絵の展示テーマは「人物とコンポジション」、並列しているのは小倉遊亀《浴女その一》(前期展示で、後期は《その二》になる予定)、岡本更園《西鶴のお夏》(前期)、北野恒富《淀君》(後期)。いずれも多視点、そしてどこか構図にゆがみを含んだ作品だ。

 

《自画像》

《自画像》 丸木俊(赤松俊子) 1947年 東近美

 素敵な作品である。あの《原爆図》も人物は丸木俊の造形によると聞いたことがある。本当は凄い画家なんじゃないかと改めて思ったりもする。

 

《雪のノートルダム大聖堂、パリ》

《雪のノートルダム大聖堂、パリ》 アルベール・マルケ 1912年頃 パリ市立近代美術館
《セヴェスト通り》

《セヴェスト通り》 モーリス・ユトリロ 1923年 パリ市立近代美術館
《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》

《レストラン(オテル・デュ・マルシェ)》 佐伯祐三 1927年 大阪中之島美術館
《並木道》

《並木道》 松本竣介 1943年 東近美

 松本竣介の青緑の世界。ときにシャガールのような幻想的な町を描く。この絵はどこかアンリ・ルソー的。税関使を勤めパリの城塞の縁を歩く孤独なルソー自身を描いた絵と同じようなものを感じる。共通するのは多分、孤独だろうか。あとこの坂は青緑の岸田劉生切通しの写生》を個人的には思い浮かべてしまった。

《パイプを持つ男性》

《パイプを持つ男性》 フェルナン・レジェ 1920年 パリ市立近代美術館
《青いヴィーナス》

《青いヴィーナス》 イヴ・クライン 1962年 パリ市立近代美術館

常設展

 4Fハイライトは加山又造の《千羽鶴》。3F日本画の間では伊東深水《聞香》が久々にお目見え。香をかぎ分けてその種類を当てて楽しむ香会の一コマ。三世代の和装の婦人の間で一人洋装の女性を配する。伊東深水のモダンな感覚のいったんよく描かれている。大好きな作品だが、本当に久しぶりに観たような気がする。

《聞香》

《聞香》 伊東深水 1950年 
《爽涼》

《爽涼》 中村貞以 1956年
《行水》

《行水》 満谷国四郎 1915年

 満谷国四郎といえばこの作品や大原美術館の《緋毛氈》を連想する。一方で彼は若い頃に五姓田芳柳の門に入り、翌年小山正太郎の不同舎に移っている。その頃には日本の観光地を写実的に描いた外国人向けの土産物絵を多く描いている。そうした写実による風景水彩画とこうしたデフォルメされ、平面化された絵とのギャップを強く感じたものだ。解説によれば大原孫三郎の支援で二度の渡欧の頃より、平面的でありながらボリューム感のある作風に変わったという。

 セザンヌルノワールの影響を指摘する解説も多いが、平面性、装飾性とデフォルメされたフォルムにはゴーギャン的なものも感じるし、もっといえばやまと絵的なものさえ感じたりもする。この絵もなにか久々に観たきがする。そしてこの絵を観ると、大原美術館の《緋毛氈》を観たくなる。