レポート提出終了

 ここんとこHatenaもなかなか更新できていない。

 というのも冬季のレポートがけっこうたまっていて収拾とれなくなっていた。日常的に学習を進めていけばこういうことにはならないのだろうけど、昔からギリギリにならないと手をつけない子でしたから。

 1月はWebのビデオ授業の視聴もほとんどやらずで、自分でも何やってたのか判らない。まあプータローなりにやることがけっこうあったのだろう。一応、江戸時代から明治に至る文学や上演芸術のテキスト読んだりはしていた。

 2月になってから1科目手につけたけど、ぶっちゃけ朝鮮や西アジア中央アジア、インドの芸術動向など、まったく興味がないので、なかなか身につかない。中国の芸術については、ずっとサボり続けていて来季に回してしまった。

 テキストを読んでいくと、中国や朝鮮といった隣国の歴史にあまりにも無知であることがわかる。まだ中国は三国志とかそのへんの知識も多少あり、隋、唐、元、明、清などは日本史との関連で多少知識はある。三国志についてはもっぱら横山光輝先生のおかげかもしれない。

 それに対して朝鮮はというと、古代は新羅高句麗百済といった三国時代のことはやっぱり日本史との関連で多少の知識があるけど、それ以後の統一新羅や高麗、李氏朝鮮とかについては皆無。あわてて中公版の『世界の歴史』をひもとく始末。

 中央公論の『世界の歴史』は単行本で持っている。出版社に務めていたときに、取次の集品の人に頼んで毎回持ってきてもらっていたのだったか。まあ律儀に持ってきてくれるのでなんとなく断りきれず定期にしていたような。なので途中からはほとんど読んでいないまま本棚のこやしになっていた。ほぼ30年くらい前なんだけど、けっこう美本の状態のまま。

 その『世界の歴史』全30巻が、通信教育受けるようになってから、えらいこと役に立つ。結局、美術史とはいえ背景の歴史的知識が必要になる。そうなるとこういう通史的な本に目を通す必要がある。ぶっちゃけレポートのネタ本としては最適で、まいどお世話になっているって感じだ。

 大昔の受験は日本史だったので、世界史はあまり知識がない。でもまとまって人文系の学習をするとなると日本史と世界史の通史をひもとく必要、けっこうある。学生だとだいたい図書館で閲覧ということになるのだろうが、幸いなことに自分の場合は日本史、世界史ともに中公版を一揃いもっている。

 日本史の方は文庫版で多分今出ているやつよりかなり前の版。奥付をみる1970年代のもののようだ。この『日本の歴史』全26巻は父が愛読していたものだ。ときどきひも解くと、四葉のクローバーが栞代わりに入っていたりする。父は晩年、けっこうこの通史を何度も読み返していたみたいだ。

 話をレポートに戻す。朝鮮の美術について読んでいると、古代において朝鮮は日本よりはるかに先進国だったことがわかる。東アジアの文明の伝播という点でいえば、先進国中国からの影響が日本も朝鮮も強いことは当然として、地理的な距離もあって朝鮮は日本よりかなり先に様々な文明が渡来している。

 日本史の年号語呂合わせでいまだに覚えているのは「百済のごみやが仏教伝える」というやつ。所説あるが一般的には仏教伝来は538年(ご・み・や)である。それに対して朝鮮はというと、高句麗には372年に、百済に伝播には384年に伝来している。日本より150年より早い。新羅にも5世紀に伝わっている。仏像についても朝鮮では当初は石像が中心だったとも。

 そういうことも含め、もっと隣国の歴史についても知らなくてはいけないなとも思ったりもした。結局、他国への無理解は歴史の知識の欠如があるのかもしれないと思ったり。世界史といってもけっこう西洋史に偏っていたりもするようだし。

 

 そういうことを思ったりもしたが、レポートに選んだのは朝鮮美術ではなく、西アジアイスラーム美術。理由はというと、まあ単純に朝鮮についてはテキストで5章分の読み込みが必要だけど、西アジアイスラーム美術は2章しかないという適当な理由。でもかなり範囲は広いので『世界の歴史』では数冊分の読み込みが必要。

 あとは去年、府中市美術館で観たインド細密画、あのルーツがイスラームのミニアチュール画にあるということで、なんとなく取っ掛かりがあったことなのなど。

 

 しかし造形美術において、人物画が描かれるようになったのはけっこう歴史的にはあとのことだ。キリスト教でも偶像崇拝は禁止されていて、9世紀に偶像禁止令が廃止されてから、じょじょに布教のためにイコンとしてのキリスト像が描かれ、そこからじょじょに世俗化した人物画が描かれるようになっていった。

 仏教においても当初はやはりブッダを描くことは忌避され、造形的には釈尊不存在という表現がとられていた。おそらく仏像が描かれるのはガンダーラ仏教美術が興隆をみせた頃からで、それから中国を経て朝鮮、日本にも伝わってきた。

 キリスト教にしろ仏教にしろ、当初は偶像崇拝は忌避されていた。それがじょじょに描かれ、世俗的な美術にも波及して人物画が描かれるようになった。そういう意味での世俗化は10世紀前後のあたりから進んだのではないか。

 それに対してイスラームはというと、もともとムハンマドイスラームを組織したのは7世紀前半である。それ以降も偶像崇拝の禁止は厳密に守られていた。そのためイスラームで花開いた美術はというと、一つはコーランを美しく飾る装飾文字であり、あとは幾何学文様、植物文様などの装飾文様だ。イスラーム寺院を飾る美しいタイルはそうした装飾文様にあふれている。そして神の言葉を記したコーランを飾るのは文字文様だ。

 人物や動物の具象を忌避したことにより、装飾文様が花開いたイスラーム圏で世俗的な人物画が描かれるようになるのは13世紀以降のことで、キリスト文化圏、仏教文化圏よりもはるかにあとのことだ。そこから生まれたのがミニアチュールといわれる細密画だ。

 まあこういうネタで1200字程度でまとめてみた。内容的にはもっと字数が必要なのだけど、かなり端折ってみた。

 

 他にはというと、江戸から明治の文学については、井原西鶴作品の受容を当時の江戸、大阪の人口増加との関係で論じるとか、あとは空間デザインについてとか。

 

 正直にいってこの歳になっての学習はけっこうしんどい部分もある。文献にあたっても、頭にまったく入ってこない。ノートに書きだしてもすぐに忘れる。もっと早くに始めれば良かったのになあと思うことが圧倒的に多い。そしてそれとは別に、自分が様々なことをなにも知らないまま年月を過ごしてきたことへの残念な気分、さらにいえば新しく得られる知識への喜び。もっと深く知りたいという希望などなど。

 とはいえ年齢的にいえば、残された時間はかなり少ない。それを思うと残念な気分にもなるが、まあそれもまた人生だという諦観。とりあえずダラダラと本を読み、WEB授業を視聴して、慣れぬレポートを書いてと、そんな日々をもうしばらく続けようかと思う。

 そういえば当初は学士入学で2年間で卒業の予定だったけれど、とてもとても。頑張ってもあと1年は最低必要。年金生活者には学費がけっこう負担だけど、最後の贅沢と思ってもう1年は続けるつもり。

 友人に言わせると、「金払ってヒーヒー言っているの、訳わからない」ということらしい。まあ自分でもそう思う部分もある。

 高齢者の自虐的学習生活。

マリー・ローランサンと堀口大学

 アーティゾン美術館の「マリー・ローランサン」の回顧展の解説キャプションに印象深い記述があった。メモをとっていたのでそのまま引用する。

マリー・ローランサンと芸術

ローランサンは、同時代の芸術家たちと交流を持っていたものの、ある特定の流派に正式に属するのではなく、独自の画風をつくりあげた。そのようなローランサンの作品を特徴づけているのは、そのパステルカラーの色彩だろう。
堀口大學 (1892-1981)は、1915年、外交官の父の赴任先であるマドリードに滞在していたときに、ローランサンと出会った。堀口は、ローランサンの散歩のお供を務めて、アポリネール(1880-1918)をはじめとする文学や芸術を教えてもらい、絵の手ほどきも受けた。あるとき堀口は、ローランサンから、自分の使っている色はこれだというメモを渡されたという。そこには7つの絵の具の色が書かれていた。

コバルトブルー(bleu de cobalt
群青 (bleu d'outremer)
茜紅色 (laque de garance)
エメラルドグリーン(vert emeraude)
象牙黒(noir d'ivoire)
銀白(blanc d'argent)
鉛白(blanc de zinc)

この7色のうちに青が2種、白が2種含まれており、色の種類は4つのみになる。とてもシンプルな色合いである。ローランサン自身も「夜の手帖』のなかで、「朱色(vermillon)が使えず、茜紅色を使った」、「赤(rouge)は敵だった」と書いている。その後、ローランサンのパレットには黄色も加わり、より鮮やかさを増していくが、基調色は変わらない。ローランサンの優美で華やかな女性たちは、パステルカラーの色面で表されており、その身体を感じさせない。そういう意味で、女性たちは中性的に表現されているとも言える。とはいえ、画面はなめらかに仕上げられるのではなく、絵の具の質感を全面に出している。ローランサンの芸術とは何であったのか。彼女の群像表現を通じて確認してほしい。

マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館

 

      <コバルトブルー>             <群青>



       <茜紅色>            <エメラルドグリーン>

 

       <象牙黒>              <銀白>

 

 <鉛白>


 さらにこれに黄色がまざるという。マリー・ローランサンのパレットのこの色を想像しながら実際の絵を観てみると、妙に納得感があったりもする。

 

 

 堀口大学は仏文学者として有名なあの堀口大学である。我々の世代にはお馴染みで、自分などもヴェルレーヌやランヴォーの詩をこの人の訳で読んだクチである。

堀口大學 - Wikipedia

 堀口が渡欧中にマリー・ローランサンと交流があったというのは、今回初めて知ったのだが、一部ではけっこう有名な話のようだ。堀口(1892-1981)、ローランサン(1883-1956)、9歳の歳の差がある。出会ったのは1915年の頃で、第一次世界大戦のさなか、ドイツ人男爵と結婚しドイツ国籍となったローランサンは夫とともにスペインで亡命生活を送っていた。堀口は当時外交官であった父親の赴任先だったスペインにいたという。ローランサンは9歳下の若い東洋人の学生に詩や絵の手ほどきをしたのだという。

 二人に恋愛的な感情があったのかどうかは様々な説がある。堀口は帰国後もそのことについては多くを語っていないとも。しかし引用した文にあるとおり、ローランサンは自らの絵画制作の基本となること部分を示唆しているところなど、かなり親密な部分があったのかもしれない。

 

 堀口大学というと、自分はやはりランボーの詩のことを思い出す。多分、読んだのは16~17歳の頃のことなので、いまだに覚えているのはけっこう印象深かったのだろうと思ったりもする。

 それはまあランボーの代名詞ともいうくらい有名な詩なので、70年代あたりで文学に少しカブレたような少年が覚えたとしてもまあまあ不思議ではないかもしれない。

<永遠>

もう一度探し出したぞ。
何を? 永遠を。
それは、太陽と番った(つがった)海だ。  堀口大學

 

 この詩は他にも多くの文学者、詩人が訳出している。有名なところを三人くらい引用するとこんな感じだ。

 

とうとうみつかったよ。
なにがさ? 永遠というもの。
没陽(いりひ)といっしょに
去って(いって)しまった海のことだ。  金子光晴

 

また見つかった。
何がだ? 永遠。
去って(いって)しまった海のことさあ。
太陽もろとも去って(いって)しまった。 中原中也

 

また見附かった。
何が、永遠が。
海と溶け合ふ太陽が。   小林秀雄

 

 多分、一番意味が判りやすいのは小林秀雄かもしれない。でも、自分は最初に読んだ堀口訳がなんとなくしっくりきた。「番った」の意味を調べ、そしてフランス語で太陽が男性名詞であり、海が女性名詞であることなどを調べたりしたときに、この詩のもつエロチックな感傷性みたいなものを想像(今風にいえば妄想)してみたものだった。そうか永遠とはそういうエロチックな部分なのかみたいな・・・・・・。

 まあ16~17歳の多感かつ稚拙な思考の産物かもしれないが、早熟な天才詩人の感性は、アホな男子の想像力(妄想力)を喚起するに十分だったのかもしれない。

 

 画家として、詩人としてのマリー・ローランサンは、堀口大学とのエピソードなどから、なんとなくそれまでのエコール・ド・パリ派周辺の女流画家というポジションから、ちょっとだけ親和感が増したような気がした。まあそんなところだ。

「ベイビーわるきゅーれ」を観た

ベイビーわるきゅーれ - Wikipedia

 なんの予備知識もなく観た。低予算のB級アクション映画だが思いのほか面白かった。女子高校生二人組の殺し屋が高校卒業後、組織から表向きは社会人として生活することを要請される。殺しについてはプロだが、生活力ゼロに等しい二人は、バイトは首になる、そもそも面接で落ちるを繰り返す。

 キレの良いアクションシーンやハイテンポな展開と、二人のグダグダな日常生活、そういう緩急がうまく処理されていて一気に観ることができる。設定の面白さ、不自然さをアクションと俳優の演技でうまく処理している。なんかこう日本映画の底力というか、質の高まりみたいなものを感じた。低予算、無名の俳優でも、設定や脚本のうまさ、役者の演技できちんと娯楽映画にした立てる。そういう部分でのレベルアップを感じる。

 もっとも女子高生の殺し屋というあり得ない設定、そういうものに違和感を感じたり、ハイテンションに銃アクションシーンや格闘シーンが続く、そういうバイオレンスに忌避感をもつ人にはちょっと難しいかもしれない。

 多分、こんなの現実的じゃないと思った瞬間にこの映画に入り込む余地はなくなる。リアリティ性は皆無かというと、アクションの非日常性とは真逆な社会不適合ニートな女子たちのグダグダな日常のリアリティ、そういう部分を笑えるかどうか。まあそういいうことだろう。

 

 まずワルキューレってなんだったっけ。オールドな自分が思い浮かべるのはというと、やっぱりワーグナーの「ワルキューレ」だ。

ワルキューレ (楽劇) - Wikipedia

 そして例の音楽といえばやっぱり「地獄の黙示録」のあのシーンだったりする。

 

 この狂気のビル・キルゴア中佐を演じたロバート・デュバルの怪演技はこの楽曲とともに映画的記憶として残り続けている。どうでもいいがランボーに出てくるトラウト大佐とこのキルゴア中佐がなんとなくゴタ混ぜになるのは、やはりヴォネガットキルゴア・トラウトのせいかもしれない。

 「ベイビーわるきゅーれ」の中でもワグナーの「ワルキューレの騎行」は、様々なバージョンのアレンジで用いられている。やっぱり監督はけっこう意識しているみたいだ。

 

 そもそもの「ワルキューレ」はというと北欧神話に由来している。

ワルキューレ(ドイツ語: Walküre)またはヴァルキュリャ(古ノルド語: valkyrja、「戦死者を選ぶもの」の意)は、北欧神話において、戦場で生きる者と死ぬ者を定める女性、およびその軍団のことである。

ワルキューレ - Wikipedia

 そこから転じてというかワルキューレといえば「武装した乙女」、「女性戦士」を称するということになったということのようだ。

ワルキューレとは? 意味や使い方 - コトバンク

 

 「武装した乙女」、ハイティーンの戦士、女子高生の殺し屋、ベイビー・ワルキューレとまあそういうことのようだ。なるほどね。

 

 もっともこの映画は、そういうタイトルやら設定の由来とか、そういう小難しいことや小理屈は一切無用だし、どちらかといえば、そういうのを排除し忌避するところから始まっている。

「いるよね、いちいち説明つけるやつ」

「あ~、そういうのダメだわ」

 グダグダな日常を送る若き殺人乙女が言いそうだ。

 

 この映画はまず監督・脚本の阪元裕吾のアイデア、センス、ハイテンポな演出に依拠している。そして監督が生み出した二人のキャラクター、ちさととまひろという殺し屋女子の設定がすべてかもしれない。

 ハイテンションで社交的だが雑ですぐにキレる性格のちさとを演じるのは高石あかり。彼女はまだ21歳でこの映画の製作時は17歳だったとか。それを考えるとそのタレント性は高いし、おそらくカメレオン的にどんな役も出来そうな感じがする。

 一方、まひろ役の井澤彩織は高石とは9歳上の29歳。キレの良いアクションシーンを演じるのは、もともとスタントパフォーマーだから。そうかスタントマンは今はスタントパフォーマーと呼ぶのかとちょっと納得したりもする。まひろ役はコミュ障でニート度の高さと、格闘シーンのキレとのギャップが面白く、キャラクターとしてはこの映画の中でも異彩を放っている。ただしこのまひろというキャラの印象が強く、今後の井澤のキャリアは、この役に規定されてしまうかもしれないという部分もある。

 

 この映画、一部では絶賛され、単館では池袋シネマ・ロサで9ヶ月以上のロングラン上映されたという。メジャー映画とは別のジャンルになるのだろうが、相当のヒットとなったようで、すでに続編「ベイビーわるきゅーれ2ベイビー」も公開され、今秋にはパート3も上映予定だという。ヒット作のシリーズ化ということだろうか。

 アクションシーンのリアルさと、グダグダ女子の日常生活、そして主役二人の名演技など、それこそテレビドラマ化してもイケそうな気もする。十代の殺し屋というセンシティブな部分から、ゴールデンの時間帯は難しいだろうとは思うけれど。

 

 もう一つこの映画の面白さは、女性同士の友情という部分、いわゆるシスターフッドなところだ。さらにいうとこの映画、殺伐とした殺人シーンは多数出てくる。もうバタバタと人が撃たれる、死ぬ。ただ一方で、若い女性をメインにしているが、恋愛だのセックスだのは無縁でもある。

 「人は放っておいても死ぬし、セックスをする(寝る)」。

 そういう部分でいえば、この映画にはセックスはない。ありがちなリアリティをそもそも放棄している部分が、この映画がウェットに陥らない理由かもしれない。シスターフッドはハードボイルドでもある。そういうことかもしれない。

 深夜、ハードな殺戮というハードワークの後、二人はジャレあうようにして帰宅する。「酔っ払いみたい」と自虐しながら。

 そして部屋に帰ったら、冷蔵庫に入っているケーキを頬張るのだ。

アーティゾン美術館へ行く~マリー・ローランサン (2月14日)

 

 アーティゾン美術館「マリー・ローランサン—時代をうつす眼」を観てきた。

 個人的にはマリー・ローランサンはあまり興味がない。パステル色使いのいかにも乙女チックな雰囲気とかがなんとなくしっくりこない。さらにいえば、この人とココ・シャネルはパリがドイツ占領下にあった時に対独協力者だったとか、そういう話を聞いたことなどから。

 今回はというと、友人がアーティゾンに行ったことがない、マリー・ローランサンが見たいとそういうことだったので、まあチケットを取ってやったりとか諸々。友人、同い年でまだ現役でバリバリ働いているのだが、オンラインチケットの取り方とかそのへんになると一気に情弱になってしまう。まあそういうものだ。

 ちなみに自分は今回初めて知ったのだが、アーティゾン美術館は学生は無料だという。オンラインで予約をとり、入場口に学生証を提示すると無料で入れる。まあ一応通信教育とはいえ大学生なので、今回初めて利用させてもらった。しかしもう2年も高齢大学生しているのに、いわゆる学割とかそういうのを利用するのは初めてだったりする。まあいいか。

 

 

マリー・ローランサンについて

 マリー・ローランサンは時代的には、エコール・ド・パリ派の画家として括られる。ピカソがいたアトリエ兼住居アパート、通称洗濯船に集った芸術家とその周辺の画家の一人。有名どころでは、モディリアニ、シャガール、キスリング、パスキン、キース・ヴァン・ドンゲン、ユトリロ藤田嗣治あたりか。ローランサンはというと、このメンバーの中心にいた詩人、評論家のアポリネールと恋仲になった。若い芸術家たちのリーダーかつ理論的支柱ともいうべき人物の恋人にして、女流画家というある意味特別なポジションにいたということ。

 アポリネールとの恋愛は4年で終わったという。それはアポリネールが当時、ルーブルの「モナリザ」盗難事件の容疑者として収攬されたことなどが理由(のちに無罪となる)。その後もアポリネールローランサンを想い続けたとか。ローランサンはその数年後にドイツ人伯爵と結婚してドイツ国籍になる。第一次世界大戦が始まると敵性国民となったためスペインに亡命する。

 1920年に離婚してパリに戻り、その後は死ぬまでパリで過ごした。エコール・ド・パリ派の画家としては、比較的早くから絵が売れた人で、この頃のパリの上流階級の婦人たちの間ではローランサンに自画像を注文するのが流行したこともあったという。

 同時代的な部分で現在では絵や画家の評価はまったく違うのだろう。例えばモディリアニは当時はまったく売れなかった。それに対してキスリングなどは、当時から売れっ子画家だった訳だし。そして上流階級からの絵の注文という点でいえば、キース・ヴァン・ドンゲンやローランサンの絵もよく売れたということなのだろう。そういえば藤田嗣治もそこそこに売れっ子だったとも。

 マリー・ローランサンはある意味では生涯パリジェンヌだったのかもしれない。また絵の他にも彫刻や詩も多くの残している。

 第二次世界大戦中は、住んでいたアパートが接収されたり、戦後は対独協力を理由に一時期収容所に収攬されたこともあったとか。その後は家政婦だった女性を養女に迎え、1956年6月8日に亡くなったという。1983年、ユトリロと同じ年に生まれ、ユトリロは1年早い1955年に亡くなっている。ちなみにローランサンが亡くなった10日後に自分は生まれている。まあ本当にどうでもいい話だけど。

エコール・ド・パリ - Wikipedia

マリー・ローランサン - Wikipedia

 

 自分がマリー・ローランサンの名前を知ったのは実は絵よりも詩の方。それも落合恵子の歌に引用された詩の一文から。落合恵子は今では作家として、児童書専門店クレヨンハウスのオーナーとして知られているが、かっては文化放送のアナウンサーであり深夜放送のアイドルDJだった。彼女の人気から、エッセイ集が数冊出版され、レコードも出ていた。今の彼女にとっては黒歴史かもしれないが、その歌の中でローランサンの詩が引用されていた。

 ググると割とすぐに出てきたりする。便利な世の中である。

 

「一番哀れな女は、忘れられた女」・・・・・・

 作詞は落合恵子本人、作曲は小室等だった。

 引用されているのは「鎮静剤」という詩だ。今回の企画展で、フランス留学時代にマリー・ローランサンと交流があったという堀口大学の訳が有名だ。

鎮静剤
        マリー・ローランサン
堀口大學 訳

退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。

マリー・ローランサン「鎮静剤」

 

マリー・ローランサン—時代をうつす眼

マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館

 マリー・ローランサンの大回顧展である。作品はほとんどが国内の収蔵品中心である。これは2019年に閉館したマリー・ローランサン美術館のコレクションが大きく寄与している。この美術館は個人コレクションから始めて、収蔵品は600点(油彩画98点)を超える規模となっている。現在は公開展示はなく、国内外への貸し出しを中心にしているという。

マリー・ローランサン美術館

 一般公開をせず、コレクションを他館に貸し出すのみで活動している美術館というと、スイス・プチ・パレ美術館を思い出すが、国内のマリー・ローランサン美術館もそうした道を選んだということか。

 昨今は円安の影響で海外からの作品を借り受ける費用も高騰している。まあ単純にいってしまえば、例えば100万円で借りることができた作品を150万円ださないと借りることができない時代なのだ。そういう意味では、今は例えばルーブルやオルセーなどから多くの作品を借りて大がかりな企画展を開くということは難しい時代なのかもしれない。

 今はキュレイションを駆使して、自館収蔵品や国内の収蔵作品を借り受けて企画展を行うというのが主流にならざるを得ないというところだろうか。それを思うと、マリー・ローランサン美術館のコレクションをメインにしたローランサンの回顧展は、地方に巡業してもいけるのではないかと思ったりもする。

 今回の企画展では、マリー・ローランサンの作品及び同時代の作品(アーティゾン収蔵品)を中心に57点が展示されている。

展覧会構成

序章  :マリー・ローランサンと出会う

第1章:マリー・ローランサンキュビスム

第2章:マリー・ローランサンと文学

第3章:マリー・ローランサンと人物画

第4章:マリー・ローランサン舞台芸術

第5章:マリー・ローランサン静物

第6章:マリー・ローランサンと芸術

気になった作品

《自画像》

《自画像》 1905年頃 油彩・板 40.0×30.0cm マリー・ローランサン美術館
《自画像》

《自画像》 1908年 油彩・カンヴァス 41.1×33.4cm マリー・ローランサン美術館
《帽子をかぶった自画像》

《帽子をかぶった自画像》 1927年頃 油彩・カンヴァス マリー・ローランサン美術館

 冒頭に自画像3連発である。実際はもう一枚正面から描いたものもあった。これを観ていると、彼女の絵のスタイルの変遷がよく判る。最初は習作的かつ写実風。美人だけど個性的かつある種の意思の強さがよく表れたポートレイト。次はちょっとモジリアニ風で、おそらくエコール・ド・パリの他の画家のスタイルを取り入れ、自分のスタイルを模索していた頃。そして最後の帽子のは、独自のスタイルを確立した頃ということになるのだろうか。

 彼女のスタイルはパステル調で、水彩画のような淡い雰囲気を油絵で出すみたいなところに特色があったのかもしれない。ちょうど藤田嗣治が油彩画で日本画的な細かい線を描いたのと同じような。

《椿姫 第1図》

《椿姫 第1図》 1936年 水彩・紙 20.9×16.4cm マリー・ローランサン美術館
《椿姫 第9図》

《椿姫 第9図》 1936年 水彩・紙 23.2×19.0cm マリー・ローランサン美術館

 デュマ(子)の書いた小説『椿姫』のために描かれた挿絵だ。彼女の淡いパステルーカラーのタッチのイラスト風な雰囲気が水彩で美しく描かれている。やっぱりこの人は水彩画のような油彩画を描いた人という感じがする。

《手鏡を持つ女》

《手鏡を持つ女》 1937年頃 油彩・カンヴァス 46.3×38.4cm アーティゾン美術館

 実はこの作品が一番気に入ったかもしれない。淡いピンクを基調としたパステルカラーのローランサンからすると、かなりカラフルな色使いだ。一緒に行った友人は、こうした多色を使ったものよりも、色を少なくした感じの方が良いと言っていた。たしかにそっちがローランサンの本流かもしれないが、この鮮やかな色使いが妙に気に入っている。

《二人の少女》

《二人の少女》 1923年 油彩・カンヴァス 64.9×54.2cm アーティゾン美術館
《プリンセス達》

《プリンセス達》 1928年 油彩・カンヴァス 130.0×130.0cm 大阪中之島美術館
《三人の若い女

《三人の若い女》 1953年頃 油彩・カンヴァス 97.3×131.0cm 
マリー・ローランサン美術館

 おそらく今回の企画展でも一番の目玉的な大型の作品である。ある意味、マリー・ロラーンサンの集大成ともいうべき作品か。ただどちらかといえば、この人は大画面作品よりも小ぶりの小品のほうがなんとなくしっくりくるような気もしないでもない。やはり淡いパステルカラー、イラスト調の特色は大画面でインパクトを与えるのではない。なんていうのだろう、会場芸術よりも卓上芸術みたいな感じがしないでもない。

 とはいえ、マリー・ローランサンはこれまでずっとなんとなく敬遠していたような部分もあるが、ちょっといいかもと思ったりもした。芸術性とか美術史における位置づけとかそういう部分は除いても、美的かつ詩情感の漂う美しい絵。そういう部分、もっと評価してもいいのかもしれないと思った。

 個人的にはエコール・ド・パリ派の画家としては、絵が売れた人、上流階級の婦人たちに評価されるスノビズムとその背景に潜む、実は色彩感覚豊かでポップな部分、ほどよいデフォルメ感などで、マリー・ローランサンとキース・ヴァン・ドンゲンを同じような括りでとらえたいと思う。もちろんいい意味で。

銀座周遊 

 久々、都内を周遊する。

 八重洲口からアーティゾン美術館へ。その後、京橋から銀座方面に歩く。

 こうやって都内のメインストリートを歩くのは何年ぶりのことだろうか。

 まず東京駅の丸の内地下から出発して地下通路を通って八重洲口に。外に上がると、このあたりは来るたびに景色が変わっている。なかったはずのところに高いタワービルが林立する。以前、来たときは建設中だったミッドタウン八重洲がそびえ立っている。かっては東京駅をはさむようにして立っているツインタワーがランドマークのようだったけど、今はそれもあまり目立たなくなっている。

 アーティゾンの入るビルの隣は建設中で、以前はアーティゾンからその建物の解体状況を見ることができたけど、今はもうだいぶビルの形になっている。都市は常に普請中であり成長を続けている。

 

 京橋の周辺が様変わりしたのはいつ頃からだっただろう。一緒に行った友人が、「ここらに映画館あったよね」と話してくる。そう、京橋といえばテアトル東京があったはずだ。スーパーシネラマ方式、1000人が入れる大劇場。その地下にはテアトル銀座という小ぶりの名画座もあった。

 その大画面で「風と共に去りぬ」、「2001年宇宙の旅」、「天国の門」などを観た記憶がある。一番最初に来たのは多分小学生の頃。その時テアトル東京で「風と共に去りぬ」、テアトル銀座で「2001年宇宙の旅」がかかっていた。自分は「2001年」が観たかったが、連れて行ってくれた父親は「風と共に去りぬ」を選んだ。

「『風と共に去りぬ』は観ておくべき映画だ。今は判らないかもしれないが、いつか判るよ」と父は言った。

 結果として、自分が映画ファンになったのは、その時「風と共に去りぬ」を観たことが大きかったかもしれないし、小学生の自分には「2001年宇宙の旅」は理解出来なかったかもしれない。

 懐かしい昭和の記憶である。

 

 京橋から銀座へと歩く。両側のビル、店、看板、それらには馴染みのものもあれば、そうでないものもある。ポーラ、山野楽器、明治屋教文館などなど。

 

 そしてウィークデイなのに歩道を歩く人の多いこと、多いこと。モデルのようにスタイルのよい若い女性。小ぎれいな夫婦や子連れ、そして中高年の二人連れなどなど。どうも日本人ではないけれど、東洋風。そうかテレビで盛んに喧伝する春節の休みに来日した中国系の観光客か。

 よく見てみると、みんな一つや二つ高価なブランドメーカーの紙袋を下げている。そしてブランドの店舗の前に。驚いたのはルイ・ヴィトンの前では入場規制がかかっていて、列が店舗前から長く伸びている。中国富裕層による爆買いというやつか。

 彼らは円安の日本でブランド品を数十万から数百万円購入する。テレビで盛んに観光客が訪れる観光地や高級レストラン、あるいは高級ブランド店などの様子が紹介される。観光立国日本は「凄い日本」なのだそうだ。でもそれは円安政策によって作られ、さらに21世紀前後の不況からまったく脱することなく、所得が低迷する国が安く買い叩かれていることの証でもある。「凄い国日本」は「凄く安い国、日本」なのだ。

 今は日本を訪れる中国人たちは中産階級以上、いわゆる富裕層なのかもしれない。集団での旅行は解禁されたのかどうか。かってのように銀座の通り沿いに何台も止まるバスから繰り出す、スーツケースをひきずった東洋系の観光客集団ではない。みんな個々に歩いている。でも訪れる先には高級ブランド店ばかりだ。

 見ているとティファニーバレンチノにも列は出来ていないし、入場規制はない。やはりルイ・ヴィトンは別格のようだ。

 富裕層が闊歩する間を浮遊する二人組の我々。一人は有給をとった現役、そしてもう一人は年金暮らし。浮遊層たる高齢者たち。

 

 友人と遅い昼食をとることにする。もともと友人は銀座アスターの本店に行きたがっていたのだが、なぜか水曜日はお休みでした。門のところの名称を見てみると漢字の表記がある。「銀座亞壽多本店」とある。「アスター」は「亞壽多」なのだ。長生きはするものだ。初めて知った。

 

 友人が買い物があるというので三越に入ることにする。ここもウィークデイなのにけっこうな人出だ。外国人の比率はどのくらいなのだろう。判らない。

 友人が「あれ、ジュディ・オングだよ」と言う。視線の先には高そうなダウンのコートを着た小柄な婦人がいる。自分は後ろ姿しか見ていないのだが、友人に言わせると間違いないとのこと。まあ銀座の三越ともなれば、かってのスターが普通に買い物しているのも日常というものかもしれない。

 個人的にはジュディ・オングにはあの「魅せられて」のドレス風で両腕をひらひらさせて歩いて欲しいものだと思ったりもするが、そんな訳ないだろうと言われればその通りだ。

 

 三越でライオンを見たからということもなく、なんとなく流れでビヤホールライオンに行ってみることにした。なぜか知らないが、自分は銀座に来るとライオンに行きたくなる。多分、子どもの頃に父親に連れられて銀座に来るとたいていライオンに来ていたせいではないかと思うの。

 改めてライオンの中に入ると、由緒正しいビヤホールの作り。天井が高く、少々賑やかしがあっても、この天井の高さは騒音を吸収してくれるような、そんなイメージがある。

 ライオン七丁目店が作られたのは1934年、昭和9年のことだ。大日本麦酒株式会社の本社が竣工され、その1階に開店した。90年前のことだ。その前年1933年は確か昭和天皇(現上皇)が生まれた年だったか。たしか永六輔が同じ年の生まれで、ラジオで昭和天皇の声色をしていたのを何かで聞いた記憶がある。まあどうでもいい話だ。そうか上皇と生きていれば永六輔は91になるのかと、ますます昭和が遠くなっていくのを感じたりもする。

 

 ウィークデイの午後遅くの銀座のビヤホール。席はけっこううまっている。圧倒的に年配客が多い。外国人の年配夫婦連れ。一人で遅めのランチを食べている40代前後のイケてる女性。老婦人が一人で奥の方の席にいて、ランチビアと軽食。昔的にいえば山の手の婦人風か。

 自分と友人が座っている席の前に6~7人の男性客が座って来た。久々にあった風の高齢男性。これは賑やかなことになるのかなと思ったのだが、声高になることもなく楽しそうに話しをしている。品の良い老人たち。といっても多分、自分たちとさほど年齢は変わらないかもしれない。友人曰く、良い大学を出て、良い上場企業を勤め上げた、品の良い老人たちの集まりだと。

 昼下がりの銀座ライオンには品の良い中高年の客で賑わっている。そんな中であまり品性のよろしくない我々はその日に観た絵のことなどを語り合っていた。

 

 

 

府中市美術館~現代アート体験 (2月8日)

「芸術」から「アート」へ

 20世紀後半頃から、それまでの「美術」、「芸術」という言葉に代わり、「アート」という言葉がマスメディアで用いられるようになってきた。英語やフランス語における「art(アート/アール)」という言葉が、絵画や彫刻といった既存の芸術ジャンルを総体的に示す言葉から、広義での制作行為や創造的行為を含む抽象的な意味合いをもつようになった。それは「アート」という言葉よりも適切には「アートなるもの」といった方が正しいかもしれない。

 そして「アートなるもの」の需要者は、より広い意味での資本主義社会にあっては、消費者として「アートなるもの」を体験的に消費していく、多分そういうことなのかもしれない。

 「アート」してみるとか、美術館で「アート」を体験したとか、それは「アートなるもの」=コンセプチュアルな商品を消費したということになるのかもしれない。

 

 我々が美術館で鑑賞する伝統的な「絵画」や「彫刻」は、それが具象であれ、抽象であれ、これまでの芸術史の延長線上で展開されてきたものである。それとは異なるものとして、20世紀後半以降に生まれたコンセプチュアル性の高い創造物を受容するために、我々はある意味便宜的に「アートなるもの」という言葉を用いて、それを消費していると言い換えてもいいかもしれない。

 

 ニワカ、半可通なまま、芸術作品を受容してきた者は、理解のための多少の努力と、判ったフリをしていくために、必死に受容のための前提条件的なものを事前に、あるいは後付け的に用意していく必要があるのかもしれない。複雑で、もろもろとこんがらがった世の中である。コンプレックス、あるいはソフィスティケートされた社会に過ごすことの生きづらさみたいな部分でもある。

 

 多分、受容者が感じる居心地悪さと同じ文脈で、実は製作者はより困難なものを感じているのかもしれない。具象であれ、抽象であれ、コンセプトであれ、ミニマルであれ、ある意味先駆者によって蹂躙された荒野で、途方に暮れて立ち尽くす。多分そうした地点から新たなものを生み出すなくてはいけないのかもしれないから。

 新しいものが全てにおいて正しい。古きものへの反逆もまた正である。造反有利。20世紀の中庸以降において、そうしたスローガンがいくつも現れた。それはすぐに何かにとって代わられる皮相なものだったかもしれないし、今ではどちらかといえばメインストリームになってしまったものもるかもしれない。

 ただし一つだけいえることは、「新しいもの」を排除しては多分いけないのだろうし、それを受容する、あるいは理解不能だとしてもとりあえずその存在を認知する感受性を持ち続けることが必要かもしれない。

 老境にあって新しいもの、理解不能なものに接するのは辛い。でも排除することだけはしない。とりあえず、いつもとりあえずだけど、いったん保留、判断保留、永遠に保留であり続けるにせよ、スルーする程度のことは必要かもしれない。排除ではなく便宜的にスルーする。

 

 自分は何を言いたいのか。多分、特に言いたいこともないし、思考停止状態をダラダラと述べているだけのような気もする。ようは新しいもの、理解不能なものに接したとまどいをグダグダしているだけのことなのだろう。

 

白井美穂 森の空き地

 府中市美術館で行われている「白井美穂 森の空き地 Miho SHIRAI Clearing in Wood」なる企画展を観てきた。

白井美穂 森の空き地 東京都府中市ホームページ

  

 残念ながら年老いて錆びついた感受性には理解不能な「アート」かもしれない。多分、インスタレーションなのだろう。自分なりに了解可能領域に引き戻せばそういうことだろうか。インスタレーション、いろいろな意味合いが込められるが、まあ一言でいえば「設置・空間展示」みたいな理解になる。

インスタレーション

「設置」という意味。1970年頃から試みられるようになった現代芸術の形式で、屋外屋内を問わず、永続的な存在を前提としない造形作品を設置すること。美術館に通常美術作品と見なされないようなものが設置されたり、あるいは逆に通常作品を展示する空間ではない場所に作品が設置されることで、その場所の意味を変化させるのみならず、その場の時間や環境の中で新たな意味が生じることを目的としている。また展覧会のように一時的な場を前提とするものだけではなく、撤去をせず自然崩壊などの時間的変化そのものを視野に入れる場合もある。従って基本的には写真やヴィデオなどの映像としてのみ残ることになり、それ自体が市場において取引されることはない。(岩波西洋美術用語辞典)

 そして白井美穂の美術館入口に設置してあった作品。

 

 

 

 結局のところ、芸術作品の受容はまあひとことでいえば、それを「面白い」と思えるかどうか、多分にそこに尽きるのかもしれない。

 「考えるより、感じろ」

 ブルース・リーとフォースが教える普遍的なテーゼだ。

 理屈でいえば多分なんとでもなるだろう。空間の連続、延長、想像力的な広がり、あるいは断絶とか。まあニワカなのでこれ以上は何も言わない。面白いか面白くないかでいえば、多分面白い。

 2階の展示作品も概ね面白かった。「不思議な国のアリス」を翻案したようなビデオ作品もチープな作りながら、面白さは伝わった。かって大林宣彦が「HOUSE ハウス」でやってみせたようなチープな作りによる乾いた笑いに通じるような。

 ただし白井美穂を絶賛するかといえば、これもまた判断保留。多分、記憶にとどめるけど、容量の少ない老人の脳的ストレージには限界がある。どこかでまた作品を観たときに、これってどこかで観たなと思える程度かもしれない。

 そして繰り返しとなるけど、理解し得ないことを理由として拒絶はしない。どちらかといえば作品が理解を求めていないような気もしているので、とりあえず判断保留。

 

髙田安規子・政子

 

第88回公開制作 髙田安規子・政子 東京都府中市ホームページ

 

 公開制作としてガラス張りのスタジオの中でアーティストがなにかを作っていた。囚人もとい衆人環視の中で制作を行う。芸術家=アーティストも大変だ。

 高田安規子・政子・・・・・・、何か聞き覚えがある。どこかで聞いた、観た覚えがある。

 ポーラ美術館だっただろうか。

ポーラ美術館「部屋のみる夢」 (3月30日) - トムジィの日常雑記

 そのときのインスタレーション作品に独特の静謐感を感じて、けっこう印象的に覚えていた。そして偶然に作者のこうしたパフォーマンスに遭遇する。結局、美術館で作品に接するというのはこういうことなんだろうなと思ったりもする。

 なにやら芸術的な空間を構成し、その中の作品の一部をパフォーマンスしているような双子のアーティストさん。いったいどんな作品が創られていくのかどうか。多分、この公開制作は、その制作の過程、アーティスト自体が作品の一部を構成することになるのだろうか。興味深いものはあったが、閉館間際だったのであくまでチラ見的な感じだった。

 しかしこういう公開スタジオみたいなものって、観る者はどこか覗き見的な部分があり、ちょっとした罪悪感のようなものを思ったりもする。それもまたある種の計算された趣向なのかもしれないと思ったりもしたけど。

ポップスが最高に輝いた日

 懐かしい。そして流行ったなという記憶。

 1985年、当時のスーパースターたちが集まって録音された、アフリカの飢餓、貧困救済のためのキャンペーン・ソング「We are the World USA for AFRICA」の録音シーンを撮ったドキュメンタリーだ。

 ミュージックビデオを撮影するために、様々が撮影が行われていた。それに現在の関係者のインタビューを合わせて再編集されたものだ。

ウィ・アー・ザ・ワールド - Wikipedia  (閲覧:2024年2月9日)

We Are the World - Wikipedia (閲覧:2024年2月9日)

 もともとは同じ企画でイギリスのミュージシャンによって行われた「バンドエイド」に触発され、ハリー・ベラフォンテが発案し、音楽プロデューサー、ケン・クラーゲンがライオネル・リッチーマイケル・ジャクソンスティーヴィー・ワンダーらに声をかけて始まったプロジェクトだ。

 曲はライオネル・リッチーマイケル・ジャクソンが担当した。ライオネルの証言によれば、本当はスティーヴィーを入れて三人で曲作りをするはずだったが、多忙のスティーヴィーがつかまらなかったとある。もし曲作りの段階でスティーヴィーが加わっていたら、どうなっていただろう。そんなIFがいくつも想起されたりもする。

 本来は参加の予定だったプリンスがアクシデントにより来ることができなかった。プリンスとセットで参加したシーラEは居場所を失い、途中でスタジオを去ったという。プリンスが来れないことがわかり、急遽マイケルがプリンスのパートも行うことになったという。これはウィキペディアに記述がある。

 集まったメンバーは80年代のポップス隆盛下でもっとも人気があった人たちだ。ちょうどMTVによりビジュラル的にもスターの歌う姿が日常的に親和性があった。ある意味、1985年はその頂点にあった頃だったのかもしれない。

 ソロをとるスターたちは今なお健在なものもいる。惜しむらくは鬼籍に入ってしまった人なども。

 録音されたのは1985年1月28日。当日はアメリカン・ミュージック・アワードがあり、ロスアンゼルスには多くのスター・ミュージシャンが終結していた。ハリウッドのA&Mレコードスタジオが選ばれたのも、アメリカン・ミュージック・アワードからスターたちがスタジオ入りできることからだったという。

 プロデュースと指揮を務めた大物プロデューサー、クインシー・ジョーンズは参加するミュージシャンたちに「エゴを捨てろ」と指示したという。

 ソロパートを巡っては様々なエピソードが満載でもある。

 ソロパートをとるボブ・ディランはどう歌っていいか判らず困惑していたという。60年代、70年代のレジェンドとして参加したディランだが、80年代の彼は明らかに低迷していた。MTV全盛のアメリカン・ポップスにあって彼は間違いなく場違いな存在だった。そんな彼の手助けをしたのは天才スティーヴィー・ワンダーである。

 ディランの困惑に対して、クインシー・ジョーンズライオネル・リッチーは、スティーヴィーに助言を求めた。スティーヴィーはピアノの弾き語りで、ボブ・ディランの声色を使ってディラン風にディランのパートを歌った。それによってディランのあのソロを歌い上げることができた。かってのディラン節そのままに。

 難しい入りを難なくこなすディオンヌ・ワーウィック。その後に入るのがうまくいかないウィリー・ネルソンは結局本番でもトチっている。その後のアル・ジャロウは飲み過ぎていてリハーサルで何度もNGをだす。

 

 ブルース・スプリングスティーンの後に入り高いパートをこなすことになるケニー・ロギンスは無難にまとめる。さらに高くなるキーでもスティーヴ・ペリーは完璧にこなす。その後のダリル・ホールはかなりのプレッシャーがあったはずだが、それをきちんとまとめる。若く才気あふれるダリル・ホールをみていると、70代後半になってもまだまだライブをこなす彼とどこか重なる部分があったりもする。

 

 そして笑える部分はシンディー・ローパー。ソロ部分で何度もNGがでる。録音にノイズが入るというのだ。それはなにか、シンディーが沢山つけていた耳飾りや首飾りが出すジャラジャラ音だった。でもシンデイーは気後れ一つせず、アクセサリー類を外して再び録音に臨む。今度はOKがでる。でも本番シーンをよくみると、アクセサリー類全部外してはいなかったりして、当時はまだまだ新人歌手だった彼女はやはりハートが強いと思ったりもした。

 

 基本的にこのドキュメンタリーの主演は企画に関わり、曲をマイケルとともに手掛けたライオネル・リッチーである。そして助演はというと、録音をまとめあげたクインシー・ジョーンズということになるだろうか。二人のスター性、才能、これまでの実績を考えれば別にそのことをどうのこうの言う気はない。

 でも結局のところ、証言によって綴られるこうしたドキュメンタリーは、あるいは過去を振り返るコンテンツは、生き残った者によって作られるということ。生者がすべてかっさらっていくのかもしれないなと、そんなことを思ったりもした。

 

 ビートルズのコンテンツはポールが独り占めしている。もちろん彼の才能、60年代以降の彼のライブでの活躍を考えれば当然だ。でもどこか淋しいものを感じたりもする。昨年亡くなったロビー・ロバートソンもバンドを歴史を独り占めしている感があったような。

 

 それを思うと、この39年前に企画・録音され、世界中で一大ムーブメントとなった「We are the World USA  fore AFRICA」についても、今は亡きミュージシャンに思いをはせたいと思ったりもする。

 

 あと10年もすれば、参加した50名近くのかってのスターたちもほとんどが鬼籍に入るのだろう。それを思うと淋しくもあり、またそれが歴史というものなんだろうという諦念みたいなものを思ったりもする。

 


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