伊豆旅行の最終日。
天気は快晴なのだが、風が滅茶苦茶強い。しかもやや北の方からの風のため寒い。外にいると落葉樹の葉が舞い、身体は冷えてくる。なので外での観光はあまりよろしくないということで、この日は美術館巡りを中心にすることにする。
伊東の宿から一番近い美術館ということで、一碧湖の近くにある池田20世紀美術館に行くことにする。ここは去年の4月以来である。
ここ最近は伊豆や箱根には年に2~3回行く。必ずどこかの美術館に寄るが、伊豆箱根というと、ポーラ美術館、MOA美術館、この池田20世紀美術館、そして下田の上原美術館、湯河原町立美術館、熱海山口美術館、箱根成川美術館なんかをリピーターしている。なんとなく微妙なローテーション。
その他にも箱根には岡田美術館、箱根美術館、ラリック美術館なんていうのもあるにはある。なかでも岡田美術館は質、量ともになかなか素晴らしいのだが、料金が高いのと、スマホの没収というか、入館の際に美術館側にスマホを預けるという高飛車な感じがちょっとドン引きしたので、一度行ったきりになっている。まあいいか。
池田20世紀美術館はこじんまりとした美術館ながら、印象派以降の西洋絵画の小品、名品が粒ぞろいだ。入ってすぐのルノワールの小品から、シニャックの水彩画やヴラマンクなど。さらにエコール・ド・パリのキスリングの《女道化師》、さらに忘れられた画家田中保の裸婦像2点。
さらにボナールの壁画的な大画面作品、そしてこの美術館の目玉的なピカソ、シャガール、レジェ、マティスなどがある。
さらにいうとこの美術館、いつも行くのがウィークデイということもあるけど、だいたい空いているのでゆったりとした気分で鑑賞ができる。そのへんがけっこう気に入っている。行ったことがないので判らないが、土日はそれなりに混むのだろうか。観光地の美術館で伊東や伊豆高原からバスでということになるのでアクセスはあまりよろしくないかもしれない。
駐車場はそこそこのスペースが用意されているのと、身障者の場合だと通常の駐車場とは別に、美術館の入り口の近くに数台が止めることができるようになっている。ちょうどエントランスから展示室に通じるガラスの通路の前にあるオブジェ《大地の赤牛》の前のあたりに車を止めることができる。
常設展
そして毎回アップするけれど一番好きな作品は、キスリングの《女道化師》。
キャプションにあるとおりに、舞台を終え楽屋に戻って一息ついている女道化師のポートレイトである。その表情には憂愁というべきものがうかがえる。サーカスの道化師、それも女性ということでいえば、彼女の人生の過酷さのようなものがなんとなく想像できる。人を笑わせる道化師が、楽屋で見せる表情には仕事を終えた後の倦怠感とは別に、人生に倦んでしまったある種の諦観と絶望のようなものが感じられる。
キスリングはポーランド系ユダヤ人で、エコール・ド・パリ派のグループの中でも若くして人気を博した成功者であり、モンパルナスの帝王と称されたともいう。それでいて同じ画家仲間で、才能がありながら人気という点では当時まったく売れないまま、貧困のなか早世したモディリアニとも最も仲が良かった。
モディリアニの臨終を看取ったのもキスリングだとキャプションにはあった。とすればモディリアニの後を追って投身自殺した若妻ジャンヌ・エビュテルヌの悲劇も身近に目にしていたのかもしれない。
キスリングの描く人物画にはどこか退廃的な部分がある。20世紀初期のパリの喧騒の中を生きる人々の内面にあるどこか冷めた部分、あるいは人生に倦んだ部分を表出させるような。
マドリード王立美術学校の画学生だったダリ若干21歳の時の作品。その若さで初の個展を開いたときの出品作の一つ。キュビスム的技法を受容した早熟な天才の傑作だと思う。
この若き画学生の作品には、キュビスム作品によくみられるような理論や理屈が先走るような部分がない。どこか乾いたリリシズムみたいなものを感じる。
多分、毎回同じような感想を繰り返し書いているような気もするが、この作品は大好きだ。なんならこの作品の正面にある一区間のピカソやシャガール、レジェなどの作品よりも優れているようにさえ思える。
20世紀初頭、18歳で渡米してシアトルで苦労しながら画業をスタートさせた田中は、米人女性ルイズ・カンと結婚するも、ひどい人種差別に苦しむ。その後、34歳でパリに定住するも、藤田嗣治や彼を慕う若い日本人画家たちとは交流のないまま第二次世界大戦下のパリで客死した。
パリに滞在した朝香宮と東久邇宮に認められ作品を購入されるなどもあり、一時期は日本に作品を送ったりもしたが、日本画壇で認められることもなく、そのまま忘れられた画家となった。没後35年の1976年に、故郷の埼玉県で遺作が公開されてから、パリ時代「裸婦のタナカ」と呼ばれた彼の画業が少しずつ日の目を見ることになった。
田中の作品は2022年に閉館したサトエ記念美術館や埼玉県立近代美術館が多数所蔵している。でもその存在を知ったのは実はここ池田20世紀美術館である。
裸婦が林の中で野獣に抱かれる夢をみるという《夢をみる裸婦》は、美女と野獣を具象化したような作品だが、その官能性にはどこか下卑た部分も透けていて、ポルノと絵画のギリギリのところにあるような気もする。「裸婦のタナカ」がどういう層によって需要されていたのか、西洋絵画の伝統にあるような理想的な女性像とは違う肉感的なそのヌードには、危うさを感じる部分もある。正直にいえば、興味を覚えるがあまり好きになれない範疇の絵でもある。
ピカソやブラックとっともにキュビスムを主導した一人。40歳で早世した。生涯キュビスム理論に沿った作品を描き続けたという。でもこの絵を観ると、そこには分析的あるいは総合的なそれというよりも、どこかドローネーに通じるような色彩的なキュビスムとでもいうような部分があるような気もする。
20世紀初頭のパリで女性詩人、美術収集家としてまさに「パリのアメリカ人」を体現したガートルード・スタインとファン・グリスは親交があり、この絵も当初は彼女のコレクションにあったという。
この作品、なにか初めて観るような。多分、以前も展示してあったのかもしれないけれど注意を惹かなかった。でも今回はなんとなく気になる作品。
マッシモ・カンピリはイタリア、フィレンツェ出身。1919年にジャーナリストとしてパリに滞在中に独学で画業をスタートさせた。帰国後にフレスコ壁画などに影響を受け、灰白色の漆喰風な画面による作品を描いた。
ここにも伝統絵画の受容と再生、再解釈、再構成に苦闘した画家がいたという感じがする。
企画展ー50年の歩み展
池田20世紀美術館は1975年に開館し、2025年には開館50周年を迎える。開館当初は外国人作家の作品396点、日本人作家作品が163点、合計559点から出発したが、これまでに200回以上の企画展が行われ、収蔵作品も約1500点にのぼるという。
開館50周年を記念して、「50年の歩み展」を1975年から2000年までに収蔵した作品によるPART1、さらに2001年から2024年までの収蔵品によるPART2を、約90点の作品で企画展示するという。
PART1 2024年10月21日ー12月17日
PART2 2024年12月19日ー2025年3月4日
この企画展は階下の展示室で行われている。その一角に開館時の写真が展示してあったが、オープニングには三笠宮夫妻が臨席してテープカットを行う写真があった。先日、三笠宮百合子氏は101歳で亡くなったが、当時はまだ50歳になるかならないかという年齢で若々しい姿が写っている。すでに三笠宮も亡くなり、夫人も101歳で亡くなった。そのことに1975年開館というこの美術館の歴史というか、年輪のようなものを強く感じたりもした。
この2点が並列してあるのがなんとも印象的。
昇降機
この美術館は常設展と階下の企画展示室との間の階段に、障害者様の昇降機が備えられている。それ自体はいくつかの美術館で設置されているのを見てきたし、利用もさせてもらっている。
たいていの場合、係の人がついて昇降機の操作を行うのだが、その都度監視員なりに声かけしなくてはいいけない。池田20世紀美術館も以前はそういう形で運用されていたと記憶している。
しかし今回はというと、使用するために必要な差し込み型のキーは常時刺さっていて、利用者は自由に利用できるようになっていた。ある種の自己責任ということなんだろう。これは民間の美術館だからできることなのかもしれない。公立美術館だと、どうしても万が一事故が起きたときのことなどを考慮して、係員が操作するということになる。
とはいえたいていの場合、車いす利用者は介護者と一緒である場合が多い。そうであるならが、自由に利用してもたぶんなにも問題がない。電動車いすなどを利用している、障害の程度が重い障害者は車いすから昇降機に乗り移ることも難しいかもしれないので、そもそも昇降機の利用はできない。それを考えると、障害の程度が比較的軽いのであれば、介助者がいるいないは別にして、自由に昇降機が利用できるというのは、実はよいことかもしれないし、利用のハードルを下げることになるかもしれない。
妻は車いすに座る、車いすから立つという動作については自分一人でできる。左上肢、左下肢の機能が全廃とはいえ、使える方の右でなんとかつかまり立ちもできるし、車いすから例えば椅子などに移ることも可能だ。
今回も最初は自分が介助して昇降機に乗せて下ったが、上ってくるときには一人で操作して上に上がってきた。
今回、昇降機もこういう運用の仕方があってもいいと思ったりもした。