東京国立近代美術館 常設展

 今回の東京国立近代美術館(以下MOMAT)では、鏑木清方展に時間を取り過ぎたため、常設展は1時間と少しと駆け足での鑑賞になってしまった。そのため4階のハイライトを観て、2室から5室を流した。監視員の方に川合玉堂の「行く春」について聞くと、3階日本画の間(10室)にあるというので、そちらに移動。そこでそこそこ時間をとったので、6室から9室も駆け足。最後に2階のギャラリー4で新収蔵されたボナールを短時間眺めて終了。11室、12室の現代芸術は完全にパスということになってしまった。

 いつもMOMATでは2~3時間滞在すると最後の2階は駆け足になることは多いが、完全にパスということはない。企画展を先に観たとしてもそれなりに常設展に時間をとれるはずなんだが、今回はとにかく鏑木清方に時間を取り過ぎてしまった。これは今まででも横山大観や「妖しい絵」などけっこう大型な企画展はあったけれど、それ以上に時間をかけたみたいだ。まあ次回があれば、もう少し常設展もゆっくり観たいとは思った。

舞妓林泉

 まず4階のハイライトから。

「舞妓林泉」(土田麦僊) 1924年

 入門書や図録などではよく目にするのだが、実作は初めて観た。MOMATにはここ5年くらいは、年5~6回は通っているのだが、一度も目にしたことがない名作というのがけっこうある。今回いきなりハイライトでこの名品を観ることが出来たのには、ちょっとびっくりもした。

 土田麦僊はゴーギャンの影響が濃い「島の女」を1912年に、1918年にはルノワールの官能美と安土桃山時代の障屏画を融合させたような「湯女」を制作している。その後1921年から1年半のヨーロッパから帰国した後に発表したのがこの作品。

 イタリア・ルネサンスの画家に学んだような構成という指摘や写実と装飾の融合を目指した作品と紹介されることが多い。写実性はどこにあるかというと、着物の美しい色彩や背景の装飾的な林泉に対して、舞妓の表情がきわめてまともというか、美化されていないあたりからだろうか。横山大観が「悪写実」と断じた速水御舟の「京の舞妓」は1920年。おそらく麦僊もその作品を観ていると思うのだが、御舟の描いた舞妓の写実的な表情を麦僊がヒントにしたことはなかっただろうか。

 麦僊は20歳頃には「ドガといえば踊子、舞妓といえば麦僊」と自分に言い聞かせたという。そして舞妓の絵を多数描いているのだけれど、その代表作がこの写実的な舞妓の表情をもつこれなのかというような思いもしないでもない。

 個人的には着物の際立った装飾的な美しさ、妙に写実的な舞妓の表情、そして明らかにデフォルメ化された背景の風景と、三つの相が絡み合った作品のようにも思える。舞妓の履いている下駄がまな板のようなところが妙におかしい。

 この作品の解説はMOMATの主任研究員中村麗子氏に取材したこの記事が詳しい。ここで紹介される土田麦僊の略歴を読むと、佐渡出身で最初は僧侶の道に入るが画業への思いから仏門を捨て、京都で鈴木松年門下となり、その後竹内栖鳳に改めて入門するとある。

 松年から竹内栖鳳というのは、どこかで聞いたことがあるなと思ったのだが、たしか上村松園も鈴木松年から幸野楳嶺を経て竹内栖鳳という流れだったか。時代が微妙に違うので二人が塾で同じ時期に学ぶということはないのだろうけど、京都画壇という狭い社会では同じような師匠筋から学ぶとはよくあることなんだろう。

美術館の春まつり

「行く春」(川合玉堂

 この時期にしか観ることができない。ある意味、この作品を観るためだけにこの時期のMOMATを訪れている。日本の原風景を描いたとか、川合玉堂は写生的な円山四条派と水墨画的な狩野派の融合とかいわれる。

 今回ちょっと思ったのだが、よく観ていると桜の花びらが背景の岩、川面、船に比べるとちょっと大きい。これは強調表現なのか、あるいは散る花びらは風景を眺める画家の至近のあたりで舞っていて、その光景に渓谷の風景が広がっているのか、そんな微妙な遠近感への意図的な錯誤が感じられたりもした。まあこれはニワカの適当な感覚でしかないですが。

「小雨ふる吉野」(菊池芳文)

 幸野楳嶺門下で四天王(菊池芳文、竹内栖鳳、谷口香嶠、都留華香)と称され、四条派的な写実で桜を得意とした画家。この絵もMOMATの春の美術館まつりの時期にいつも展示される作品。そういえば菊池契月は芳文の婿養子だったか。4階の2室でたしか契月の「供燈」が展示してあった。

その他気になった作品

「雪景色」(佐伯祐三

「港の朝陽」(藤島武二

「輸送船団海南島出発」(川端龍子

香港島最後の総攻撃図」(山口蓬春)

「カリジャッティ西方の爆撃」(吉岡堅二)