観たいとずっと思っていた映画がAmazonプライムで配信されたのでようやく観ることができた。
原作小説はアメリカでベストセラーとなり、日本でも書店の担当者の間で評判になりけっこう高い評価を得ている。当然、読んでいたので映画化ある種期待を持ちつつも、原作の雰囲気をきちんと描き出しているかと思ったりもしていた。
しかし公開されるとあっという間に終わってしまった。相当不入りだったのだろう。もっとも日本で外国映画はディズニーかマーベル(これもディズニー)あたりでないと、だいたい二週間程度で終わってしまう。まあ邦画もアニメかアイドルでないと、なかなか長期上映はない。
そもそも『ザリガニの鳴くところ』は埼玉のシネコンではほとんどかかってなかった。なのでいつ頃DVD化されるか、配信が始まるかとちょっと思ってはいた。まあ心待ちというほどではないけれど。
小説の感想でも思ったことだが、この作品は動物行動学者であるディーリア・オーウェンズが70歳にして初めて書いた小説だ。小説の魅力は一にも二にもノースカロライナの湿地帯の自然描写だ。
自然小説と自然の中で放置され一人で生きてきた少女の孤独、そして恋と裏切りというロマンス、さらに殺人事件というミステリー要素も加わる。しかし自然描写と孤独な少女のサバイバル、それがある種の本筋であり、残りの部分はやや微妙。ミステリーにいたってはきちんと回収されないでいる部分もある。
なので映画化にあたっては、そのどの部分にスポットあててくるかというところが気になる部分でもあった。湿地の自然と少女のサバイバルか、少女のロマンスか・・・・・・。
映画は基本的に原作に忠実だった。それは好感がもてる。とはいえやはりロマンス部分にもかなり割いている。少女カイアのラブロマンス、初恋の人であるテイトやカイアの体を目的に近づいてきたチェイスとのセックスなども描かれる。そのへんは今風なのだが、もう少し省略しても良かったかなと思ったりもするのは、ハリウッドのプロダクション・コードに馴らされて育った古い世代だからだろうか。セックスシーンは花びらがぽとっと落ちる意味深カットで十分だったりとか。
結論的にいうと、映画は原作のもつ弱さをそのまま踏襲している。ミステリーとしては正直弱いのだ。チェイスを殺されたのか、ただの事故だったのか。カイアは実際に犯人なのか。そのへんに関しては原作でもかなり整合性がとれていない。もっともこれは小説の感想でも書いたが、本筋はミステリーではなくあくまで自然とその中で生きる少女のサバイバルなのだ。
そういう点でいえば、この映画はけっこう小説の雰囲気をきちんと映像化していて好感がもてた。そう、映画としては破綻なく成功している。映画のアメリカでのレビューでは、批評家たちからはあまり良い評価が得られていないが、観客には好印象だったようで、スマッシュヒットしている。そうこの映画は本国ではそこそこのヒット作だったのだ。おそらく小説を読んだ人々が劇場に足を運び、概ね高評価を与えたということなのだろう。
この映画はまた女性映画でもある。原作のディーリア・オーウェンズも女流行動生物学の学者である。制作にはアカデミー賞女優のリース・ウィザースプーン。監督はオリヴィア・ニューマン、脚本もルーシー・アリバーだ。ある意味、徹底した女性映画的であり、セックスシーンなどもあるが、男性目線的な性的なシーンやカットはほとんどない。そのへんも好感がもてるかもしれない。
ザリガニの鳴くところ - Wikipedia (閲覧:2023年7月20日)
リース・ウィザースプーン - Wikipedia (閲覧:2023年7月20日)
Olivia Newman - Wikipedia (閲覧:2023年7月20日)
でもこの映画には実は致命的な問題がある。主役のデイジー・エドガー=ジョーンズだ。品のいい英国の女優で演技力もある。でも南部の湿地地帯で一人で暮らす女性にしては小ぎれい過ぎるのだ。たしかにカイアは黒髪の白人女性ではある。でもずっと湿地帯で一人で生存した女性だ。もっと野生児風であるべきだし、湿地帯でサバイバルを続けてきた以上、もっと小汚い風情であるのがちょっとしたリアリズムではないかと思ったりもする。
多分、アメリカだったらもっと野性味のある若い女優さん、沢山いたはずだと思うし、もし英国女優を使うのだとしても、メイキャップや衣装もリアリズム的にすべきだったのではないか。たしかカイアが着る服はカイアをサポートする黒人夫婦からのおさがりだったはずだ。貧しい黒人一家のおさがりである。なのに映画の中のカイアはなんとなく小ぎれいで清楚ですらある。
湿地帯という野生の中での生活よりも、カイアの内気な部分、そういう内面性を演技として体現できるということで英国女優デイジー・エドガー=ジョーンズが選ばれたのかもしれないけれど、もっと粗野な演技、表情をもつ女優さんを選ぶか、そういう演技をさせるべきだったと。
まあ基本は映画というお伽話の世界だ。原作を読んで感じた部分を引用する。
「湿地の少女」は南部湿地帯における共同幻想の所産ではないか、あるいはもっと卑俗な幽霊譚なのではないかなどなど、ありふれた想像がもたげてくる。もしくは実在する「湿地の少女」の側の幻想、空想に起因する物語。カイアは実在していたのかどうか、もし実在していたとしたら、逆にテイトやジャンピンが彼女の想像の産物ではなかったのか、などなど。
「湿地の少女」は幻想の産物なのかもしれない。リアルに考えれば独りぼっちの少女が生存していくのは難しいだろう。もし生きていても、あの粗野な南部にあっては、荒くれの男たちのある種の欲望の対象となっていたかもしれない。噂を聞いて探し回っても見つからない「湿地の少女」。誰かが見かけたというそういう噂だけの存在。
実は原作を読んでいてそんなことを思っていた。それが映像化されてしまうと、美しいがとてもリアルではないだろうとそういうことになる。考えてみれば、大人であっても一人で生きていくのが難しい湿地帯の奥、ザリガニが鳴くところで、小さな少女が貝を採ってそれを糧に生きて行くことが可能なのか。ある種のマジックリアリズムとしての小説世界ではありえても映像でそれを見せるには、想像を超えるようなファンタジーとそれを底辺で支えるリアリズムが必要だ。
そのへんが映像化の難しいところなのかもしれない。映画『ザリガニが鳴くところ』は原作の雰囲気をきちんと映像化している。でもある種湿地のお伽話、奇譚である部分は消化されていない。湿地の奥の奥、ザリガニが鳴くところはもっと幻想的で怪異な場所であるべきだろうから。