遠野ふるさと村からすこし遠野の市街地の方に下ってきた集落の間にあるこちらも野外博物館。曲がり家が一軒、と工芸館などがあるこじんまりとした施設。もともと柳田国男の『遠野物語』で有名になった遠野地方の民俗伝承を目的に開館したもの。
この伝承園の中には、小説家、民俗学者である佐々木喜善の資料などを集め展示してある佐々木喜善記念館が併設されている。佐々木はこの地方の昔話を収集し、日本の民俗学や口承文学の研究に貢献し、「日本のグリム」とも称されたという。
柳田国男の『遠野物語』は、佐々木喜善が収集した民話、口承譚がベースになっている。佐々木が口承した話を柳田が採話した形となっている。いわば『遠野物語』は柳田と佐々木の共同作業によって成立したものだ。
『遠野物語』は冒頭で遠野の地勢から始まる。
遠野郷は今の陸中上閉伊郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては遠野、土淵(つちぶち)、附馬牛(つくもうし)、松崎、青笹、上郷、小友(おとも)、綾織、鱒沢、宮守、達曽部の一町十ヶ村に分つ。
遠野ふるさと村の居所は附馬牛で、伝承園があるのは土淵だ。そして佐々木喜善が生まれ育ち、また東京での遊学の後に帰郷して過ごしたのもこの土淵だった。
佐々木喜善が柳田国男に遠野の話を話して聞かせたのは、遊学中の24歳くらいの頃のことだ。『遠野物語』の中では佐々木の名は彼が小説などを発表する際に使っていた佐々木鏡石として紹介されている。佐々木は当時泉鏡花に傾倒していたらしい。
東京で病気となり文学と学問を中断して土淵に帰った佐々木喜善は、村の名士としての道を歩み、村の青年諧調、農会長、村会議員、村長などを務めた。
「私は国に帰ったら牛を飼います。馬も飼います。花も造らねばなりません」
東京での立身を捨て、故郷に骨を埋めることを手紙に記している。そして積極的に民話収集を行い。もともと作家、学者としての道を志向していた佐々木にとって、村の名士としての実務は向いていなかったようで、村長職の重責で心労を重ねた。また多額の負債を背負い、最後は家財を整理して仙台に移住。貧窮の中48歳で亡くなったという。
佐々木の死の報を聞いて「日本のグリム」と称したのが、言語学者の金田一京助であり、「グリム以上」と呼んだのが折口信夫だと言われている。
伝承園から400メートルほど離れたところに曹洞宗の古刹、常賢寺がある。その敷地内の裏手に小川が流れていて、カッパ淵と呼ばれている。ここにカッパが多く住んでいて、人々を驚かし、いたずらをしたと伝えられている。それは『遠野物語』58話に記されたような伝承譚でもある。
小烏瀬川(こがらせがわ)の姥子淵(おばこふち)の辺に、新屋の家(うち)という家(いえ)あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳の子は外へ遊びに行きし間に、川童出(かっぱ)でてその馬を引き込まんとし、かえりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽(うまふね)に覆われてありき。家のもの馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手出でたり。村中のもの集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬという堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりという。 『遠野物語』
伝承園の入り口の右側には受付・売店があり、左側には帳場(事務所)がある。その間を行ったり来たりしながら、我々を迎えてくれるのがおそらくここで飼われている猫たち。近づくと微妙に距離をとりつつのんびりとしている。
伝承園の前には駐車場が10台分ある。そこから徒歩1分ほどのところに大駐車場もある。大駐車場の脇にはこんな河童の像もあって楽しい。