おぶせミュージアム・中島千波館 (10月28日)

 妻の実家からの帰りに小布施のあたりを走っていて、前回北斎館には行ってなかったけれど、中島千波の美術館には寄れなかった。月曜日なので休みかと思ったが、ワンチャンありかと思い行ってみたら運よく開館中だった。観光地の美術館は公設美術館とは違うようだ。あとで調べると水曜日が休館だという。

おぶせミュージアム・中島千波館 - 小布施町

 

 中島千波は1945年生まれの戦後派日本画家の一人。たしか横の会の結成に参加した中堅画家の一人とか、「桜の画家」とか内面性や構成美による独特のリアルな人物画を描く人とか、なんとなく覚えている程度。ただその桜の絵は画集などで何度か観たことがあり、一度実作を観てみたいとは思っていた。

中島千波 - Wikipedia

中島千波について - 小布施町

 

 今回、展示されていたプロフィールなども見てみると、1945年に日本画家中島清之の三男として疎開先の長野県小布施町に生まれたとある。小布施にミュージアムが出来たのはそういう由縁からなんだろう。そして3歳で横浜市大岡町に帰郷、小学校は大岡小学校、中学は南中学、そして高校は神奈川工業とある。なんかめちゃくちゃ馴染みがある地名や学校。

 自分は小学校の頃、大岡町の隣の上大岡に住んでいた。なので大岡小や南中学をけっこうよく知っている。学校は南台小、港南中と違うけれど、本当に隣町という感覚。さらに神奈川工業は本籍地、つまり父が生まれた場所のすぐ近くだったりもする。中島千波は浜っ子なんだね。

 そして1965年に東京藝大に入学、在学中より様々な美術展に入選し、大学院に進学。以後も院展を中心に活動し、1979年には第五回山種美術館賞で優秀賞を受賞。1984年には横の会を参加。以後も東京藝大の教授として後進の指導にあたりながら、積極的な創作活動を続けている。ようは売れっ子の日本画家の一人としてメインストリームを歩んできた人だ。

 また1987年から3年間、NHKの料理番組「きょうの料理」のテキスト表紙画を担当している。同じ日本画の堀文子もたしか「きょうの料理」の表紙画を1978年から4年くらい担当していたっけ。この頃って、書店員や出版社の営業をしていて、書店には始終行っていたので、なんとなく馴染みがあったりもする。なんか見たことあるなあ、こういう絵みたいな感じで。それは堀文子の絵を観たときにも感じたことだったりもする。

 戦後の日本画家という意味では、中島千波はなんとなく平松礼二と同じくくりだったりもするのだが、中島はどちらかといえば写実的、平松は装飾性が高いみたいに、まあ適当に考えていたこともある。

 でも中島千波の実作をまとまって観たのは今回が初めて。そしてけっこうとりこになるというか魅了される。見事な作品群だ。今回の展示は「こんな絵を描いていました」展(2024.10.5-2025.1.28)で、いわば中島千波の画業を俯瞰できるような構成となっている。

 

《神池花菖蒲》 四曲一隻 2005年

 

 

《秋季紅葉図》 四曲一隻 2010年

 

《素桜神社の神代櫻》 四曲一隻 1996年

 

《サント・ヴィクトワール山》 四曲一隻 2005年

 中島千波はが学生時代からセザンヌが好きだったらしく、フランスに行った際にはこの山を描きたいと思っていたという。石灰岩の白みを帯びた山肌は光があたると色が変わるのだという。

 ただここに描かれるサント・ヴィクトワール山は、やはりセザンヌのそれとは違う。これはなんなんだろう。セザンヌにとって生まれ故郷のエクス=アン=プロヴァンスにそびえるこの山には、特別な思い入れがあり、それが絵の中にも投影されている。それが異邦人である中島にはない。彼にとってはただの美しい山、かって傾倒したセザンヌが愛した風景を描いたということでしかない。

 以前、現代中国の山水画家である崔如琢が描いた富士山には、日本人が富士に投影する心性がないように思えたことを記したことがある。日本人にとっての霊峰富士的な感覚、それが中国人の崔如琢にはない。ただの美しい、雪を頂いた山であるとも。それと同じことを中島千波のサント・ヴィクトワール山にも感じていたりする。

 

《mumyo(無明)’19-9LR》 四曲一双 172.0×342.0cm 2019年

 中島千波のもう一つのライフワークともいうべき人物画のシリーズ。30代に始めたシリーズ《衆生》、《形態》、《眠》、《空》、そして《無明》。リアリズムな素描的女性群像と背景の抽象。そこには人物の内面性を具現化しつつ、作者の思想性が全面に出ている。すごいシリーズだ。特に奇抜なポーズの裸体を描いた《形態》シリーズは、当時的にはあまり評判がよくなかったという。あられもない、品性に欠けるといった批判もあったようだが、自分にはそれはエロティシズムや煽情性とは別の、人間のもつ情念性がもろに裸体を通して表出しているようで、強いインパクトがあった。

 しかし美しい「桜の画家」は装飾美とは真逆な人物画を描き続けるのか。とても同じ画家とは思えない画風である。その答えになるかどうかは判らないが、中島千波は学生時代に大江健三郎を読み、ベトナム戦争に揺れる激動の時代を同時代的に生きていた。1945年生まれの彼は全共闘世代のやや上の世代にあたる。ちょうど60年安保と70年安保の間の頃に多感な学生時代を過ごしている。

 さらに学生時代、中島千波はマグリット的なシュールリアリズムに傾倒する。この頃の彼の作品にはマグリットばりの開かれた窓とその向こうにまったく文脈の異なるモチーフがある作品、さらに宙に浮遊する椅子や菊といったモチーフがさかんに描かれている。椅子は権威や権力、菊は天皇制を象徴するのだとも言われていたとか。

 

《深遠》 90.9×116.7cm 1971年(26歳頃)

 この美術館の売店では中島千波の画集などが廉価で販売されていた。おそらく出版社から著者買取したものなのかもしれないが分厚い画集が半額以下で購入できた。おもわず2冊買ってしまったが、車だからよかったものの、もしも公共交通機関を使っていたら、とんでもない苦行になってしまったかもしれない。

 この2冊、本体が2800円と3800円なのだが、購入価格は2冊で1200円でした。こういうの考えるともう再販制は撤廃してもいいと思ったりもする。ちなみ『美術館からこんんにちは 中島千波作品集』は472頁、本体3800円だが200円でした。売店の方に聞くと、「初めて中島千波を知った人や学生さんに手にとってもらいたいためにこの値段で在庫限り頒布しています」とのことだった。ちなみに家に帰ってから量ったら2冊で3.6キロあった。

 

 長野とくに北信は妻の実家があるわけだが、美術館についても日本画の水野美術館、長野県立美術館があり、さらに小布施には北斎館とこのおぶせミュージアム・中島千波館がある。来るたびにどこかしら寄れれば嬉しい。おぶせミュージアム・中島千波館を知ったことで、なんとなく長野に来る愉しみが増えたような気がした。