午前中、妻の皮膚科通院の送迎。車の中で妻が着いたらるぐにトイレに行きたいという。この医院は予約制で受付すますと、すぐに呼ばれることが多い。それでもトイレに行った。運よく呼び出しの前にトイレを出てきたので、診察と処置を受ける。だいたい皮膚科通院はすぐに終わる。
医院を出て車に乗るときに、車椅子を見ると少し濡れている。妻のズボンにも濡れたシミ跡がある。どうも最初にトイレに行きたいと言ったときに間に合わなかったのだろう。
妻はよく拭いたから大丈夫と言う。まだ午前中だし、お出かけしたいのだろう。でもこうなると家に帰るしかない。すぐに帰宅してシャワーで洗う。ついでなので、髪からなにからも洗うことに。そして車椅子を自宅用のものと車用のものを入れ替え、濡れたクッションやズボンは一緒に洗濯機に放りこむ。
妻の介護をかれこれ20年近く続けている。もっととんでもない粗相ごともたくさんあった。なのでこれしきのことは割と平気である。耐性というのだろうか。当初、妻が急性期リハビリで半年を過ごした病院でも、いろいろと教えてもらったこともある。でもそれ以上のことが日常的にたくさんあった。
自分は多分介護者というかケアラーなんだなと改めて思ったりもする。思えた中学生くらいから、家事をすっとしている。掃除とか洗濯とかもろもろ。
母親は5歳くらいの時に離別した。それ以降、我が家の女手は祖母一人だった。最初は祖母がほとんどのことをしてくれたけれど、やはり年齢とともに出来ること、出来ないことがでてくる。買い物は大好きで毎日のように行くし、父のために手料理をふるまうのが大好きだった。きけば若い頃に小料理屋をやっていたこともあるとか。
でもどちらかというと、掃除や洗濯は苦手だったかもしれない。70代になると次第にそっちは疎かになった。なので、自分がそれをすることが多くなった。毎日とか毎週という訳でもなく、次第次第にやるようになったのだろうか。なんとなく記憶をたどると、10日に一度くらいにまとめて何度も洗濯機を回したのを覚えている。父や兄と自分のパンツを30枚くらい一度に干したことなど。
だいぶ前に友人と飲んでいるときに、そんな話をすると、「お前は、ずっと昔からヤングケアラーだったんだな」と言われた。その友人は、自分が20代の後半くらいから寝たきりの祖母の面倒をみていることも知っている。
そうか、自分はヤングケアラーだったのか。そんな実感はなかったのだが、言われてみれば10代の頃から祖母、父や兄の面倒をみていたというか、家事をけっこうやっていた。そして20代の後半になると寝たきりに近くなった祖母の面倒をみた。そして今は、かれこれ20年近く、病気の妻の介護をしている。
祖母と自分の年齢のことを考える。そうすると自分が、家事とかをするようになったことが判るような気がした。祖母は明治31年(1898)生まれだ。自分は昭和31年(1956)に生まれた。なので60代半ばくらいからはずっと祖母が家事をしてくれていた。
自分が中学にあがったのが1969年、祖母は71歳。その頃からできること、できないことが少しずつはっきりしてきた。
そうなると誰かが家事を補う必要がある。でも父や兄は掃除も洗濯の類も一切しなかった。父は大正生まれでそういう風には育っていなかった。
兄はどうか。そいう方面はまったくダメだった。長く一人で生活をしていたが、ほおっておくと家がゴミ屋敷同然になる。何度か家の整理や掃除に自分が行くことが多かった。結局71歳で亡くなるまでそんな風だった。
本来なら母親がいない、女手は祖母だけという家庭だから、家族で分担して家事を行うのが普通なはずなのだが、父と兄はまったく無頓着なままだった。なので必要に迫られて自分がやるようになった。別に父や兄に強制されていた訳ではない。しいていえば父や兄は仕事をしていたから、学校に行くだけの自分が家事労働をするみたいなことだったのだろう。
家事のもろもろ、誰に教わるわけでもなく必要に迫られて試行錯誤して行うようになった。高校に行く頃はひととおりのことはできた。料理、掃除、洗濯などなど。
自分が大学に入る頃、祖母は78歳、就職した頃は82歳。さすがに80歳を過ぎた頃からかなり足腰が弱ってきて、大好きな買い物にも行けなくなった。
90近くになると何度も転倒しては骨折した。その都度入院、手術などを繰り返して、ほとんど寝たきりになった。春から秋頃はなんとか歩いたりできたが、寒くなるとほとんど寝たきりになる。そんなことを繰り返した。
自分が30の時に父が急逝した。クモ膜下出血だった。
その後は、寝たきりの祖母を抱え、兄と二人で生活をしていたが、ほとんど家のことは自分にのしかかっていた。福祉事務所に相談してもなかなか埒があかなかった。このままだと年寄抱えて、こっちが仕事を辞めてみたいなことだと、生活が成り立たなくなると訴えたこともあった。
33歳になった頃だったか、ようやく特養に空きができて祖母を入所させることができた。祖母が91歳の時だったか。祖母は老人ホームに入るのをいやがり、「自分を見捨てるのか」と抵抗した。でもほとんど限界だった。
それから自分は転職して出版社を何社か渡り歩いてキャリアを重ねた。結婚もした。祖母は特養でさらに7年生きた。月に一度くらいは見舞いに行った。今思えばもっと昔のことを聞いておけばよかったと思っている。都合のよくないことは忘れたことにするが、驚くほど記憶力は鮮明な人でもあった。
結婚して10年足らずで妻が病気で片麻痺になった。転院先の医師は、妻のCT写真をみて言った。「前頭葉から側頭葉にかけて梗塞巣が大きい。大丈夫か、これまだ動かせないだろう」と。入院している病院からは早く転院先を見つけるように言われていたのおで、そのことを言うと、「みんなそう言うんだよ」と医師は言った。でもすぐに受けれの準備をしてくれ、本来三か月のリハビリの入院期間を、途中で頭蓋骨の形成手術をしたこともあり、半年の期間受けいれてくれた。
退院した時、妻は一種一級の手帳の保持者になっていた。左上肢、左下肢機能全廃。そして手帳には書かれることはない高次脳機能障害をもつ人になった。
それから数年すると、音信のなかった兄が連絡してきた。生活が破綻し、それと同じくらいに健康を害していた。住いを見つけ、様々に生活をサポートした。そして4年前に火傷から敗血症となり急逝した。コロナもあり入院して一週間、一度も会うこともなく、呼び出されて病院にかけつけると、救命措置として医師が心臓マッサージを懸命にしてくれていた。もう一人の医師がチラチラ自分の方を見ている、そんな風に感じた。「もうけっこうです」と言うと処置は終わり、医師は時計を見ながら臨終を告げた。
これまでのことを思うと、今、仕事もリタイアして妻の介護をしているだけの生活である。妻は小さな失敗はあるにせよ、まあ安定している。そういう意味では介護生活とはいえ、平穏な生活だ。もちろんこの先のことはわからない。妻にしろ、自分にしろ、加齢とともに様々なやっかいごとがあるかもしれない。老いの蓋然性。あるかもしれないし、ないかもしれない。
ずっとケアラーをしてきた。それは多分間違っていない。でも、たいていの人間は生きていくなかで何かしら、誰かのケアをして、また誰かにケアされて生きている。そんな気がする。たまたま自分はバランスシート的に「される側」より「する側」の期間が長かっただけだったのかと、思ったりもする。あくまで今のところということだけど。