萬鉄五郎記念美術館 (10月17日)

 遠野の伝承園を出たのが4時近く。もう一つくらいどこかに回りたいと思った。最初は、せっかく遠野に来たし、『遠野物語』的な世界に浸り続けるのもいいかと思い、近くの遠野市立博物館へ行こうかと思った。でも東北、特に岩手に来たら、一度行ってみたいと思っていた場所がある。それが花巻にある萬鉄五郎記念美術館だ。

 花巻周辺を車で走っていると、何度かこの美術館の電柱広告を目にすることがあった。30数年前の時もそう、12年前に来た時にも目にした。その頃はまだ美術館巡りとかあまりしていなかったし、日本の洋画についても知識は皆無。なので「まんてつごろう記念美術館」と読んでいたんじゃないか。今となっては笑い話にしかならない。

 その後、東近美に年に5~6回も通うようになると、彼の代表作である《裸体美人》などを観るにつけ、そういえば花巻に萬鉄五郎の美術館があったな、出来れば一度行ってみたいものだと思った。ちなみ《裸体美人》は重文指定されていて、たしかその理由はゴッホなど後期印象派の最も初期の受容みたいなことだったと思う。まあ後付けかもしれないが、あれはゴッホというよりマティスだと思う。

 萬鉄五郎は明治後期から大正年代に活躍した洋画家であり、この当時の洋画家がほとんどそうだったように、西洋絵画の思潮や技法、表現をとにかく受容し、取り入れて、習作に次ぐ習作を続ける。そのうえでどうにかオリジナルな表現をつくり出そうと格闘するみたいな、そういうことだったんだろうと思う。彼に先行する黒田清輝や原田直次郎もそうだ。そして萬と同じように新思潮としてのキュビスムシュルレアリスム的作品を多数手がけた古賀春江など。

 みんなある意味、技法の受容と模倣に次ぐ模倣の産物だ。多分に日本の洋画界で画家がオリジナリティを少しずつ獲得していくのは、さらに後の世代、梅原龍三郎安井曾太郎等になってからかもしれないなと、少しばかり思ったりもする。

 

 ナビで「萬鉄五郎記念美術館」を検索すると30分弱で到着する。4時15分前後に着ければワンちゃん行けるかなと思い行ってみることにした。そう、今回の東北旅行、年齢とか体力とかを考えると、多分にこれが最後かもしれない。そう思うと、ここで行かないと多分、生涯この美術館に行くのは難しいだろうと、そんなことも少しばかり思った。

 

 萬鉄五郎は1885年に花巻の土沢に生まれた。その生地土沢が一望できる高台に1984年に開館したのがこの萬鉄五郎記念美術館だ。

 

萬鉄五郎記念美術館トップページ|花巻市

 

 着いたのは4時10分頃。閉館間際ということで観覧者は我々だけ。ただし今回はというと、なぜか企画展「動物たちの浮世絵展」が大々的に行われていた。そしてほとんど展示スペースが動物をモチーフとした浮世絵で埋め尽くされていて、萬鉄五郎の作品は2階の一角に少しだけあるだけ。これはちょっと拍子抜けというか、なんていうか「花巻まで来て別に浮世絵はいいよ」というような気分もなきにしも。

 

 といってもこの「動物たちの浮世絵展」、出品点数も約140点と多くなかなかの充実ぶりである。作品はいずれも抽象画家であり浮世絵コレクターでもある中右瑛(なかうえい)のコレクション。

 

 萬鉄五郎は1885年に花巻・土沢に生まれ、1889年に水墨画を、また16歳の時に水彩画を独学で始めた。1903年に上京して1906年に渡米。短期間ボーイとして働いたが、サンフランシスコ地震で生活が困難となり帰国。1906年の渡米というとほぼ同時期に多くの若い日本人がサンフランシスコに渡米して、苦学しながら絵を学んでいる。田中保(1904年)、国吉康雄1906年)、清水登志(1907年)、石垣栄太郎(1909年)など。彼らにサンフランシスコで交流があったのかどうか判らない。たしか以前、田中保の回顧展を観たときに、田中と清水には交流があったことが解説されていた。

 もっとも萬鉄五郎の渡米は宗教者宗活禅師による北米布教活動に帯同したもので、また従弟萬昌一郎と行動を共にしていたので、ほかの日本人苦学生との交流はなかったかもしれない。

 帰国後1907年に東京美術学校に入学。1909年に24歳で下宿先の娘である浜田よ志と結婚。1912年に27歳で東京美術学校を卒業。卒業制作があの《裸体美人》である。

 《裸体美人》は後期印象派のおもにゴッホフォーヴィズムの受容作とされる。たしか夫人をモデルにしたとは何かで読んだことがある。今回、夫人である浜田よ志の写真も展示してあった。結婚当時彼女は18歳で、《裸体美人》の頃は21歳くらいだったのではないか。

18歳頃の浜田よ志

 美術学校在学中からヒュウザン会などで活躍。1914年(29歳)の時に絵画制作に専念するために故郷の土沢に帰る。しかし1916年には再び上京した。しかし萬は神経症結核治療のため1919年に茅ケ崎に転地。

 萬鉄五郎は油彩画では後期印象派からフォーヴィズム、さらにキュビスムなどを受容して、様々な作品を描いていく。後半はフォルムの形象が単純化され、激しい色彩とともに、どこか表現主義的な画風をみせたりする。一方で萬は日本が、特に南画的作品も描いている。

 そして1927年に茅ケ崎の自宅にて41歳5ヶ月の生涯を閉じている。東京美術学校を卒業したのが明治45年であり、亡くなったのが昭和2年。萬の画業はほぼほぼ大正年間だたといえる。

 萬の年譜では花巻市のこのサイトが詳しい。

萬鉄五郎年譜|花巻市

 

 亡くなる前年の海水浴を親しむ水着姿の萬の写真はけっこう有名だ。

 

 そしてなによりも驚かされたのは萬鉄五郎の南画作品。

 《蓬莱仙閣図》 1925年 紙本着色 59.0×43.0 萬鉄五郎記念美術館蔵

 ほとんど富岡鉄斎のような雰囲気だ。鉄斎は1924年に87歳で亡くなっている。この老大家の作品を萬は当然何度かは観ていたかもしれない。鉄斎の自由な表現、デフォルメ化された形象はけっこう洋画家、特にフォーヴィズム表現主義的な思潮に傾倒する若い画家には刺激的に映るのではないかと、ちょっとした想像。

 でもどうやら萬鉄五郎富岡鉄斎をあまり評価していなかったようだ。ネットで検索するとこんな記述があった。

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ところが、萬は鉄斎をあまり評価していなかった。「世間で考えている半分位の人であろう」と言い切り、浦上玉堂などの「古来の名家に比すれば顧みるの価値はないが、学問人格の点を考慮して第三流位に見て置くのである」と大正14年の「中央美術」に書いている(引用は『鉄人画論』/中央公論美術出版から)。大正14年といえば鉄斎が亡くなった翌年であり、すでに大家として鉄斎の名は広く知られていた。その鉄斎をばっさりと斬ってしまうのだから、萬鉄五郎という画家はますます面白い。

<目と耳のライディング-第15回 文人画を観る( 14.January.2002)>

 ここまで辛口にいうが、それでは萬の南画「古来の名家」に比するものになっているか。どちらかといえば富岡鉄斎の亜流としか思えなかったりもする。20代から西洋の先進的な思潮としての後期印象派、フォービズム、表現主義といった技法に触れ、その受容のため悪戦苦闘してきた洋画家にとって、自由な表現に遊ぶ鉄斎に嫉妬したのか、反発したのか。

 草薙奈津子の『日本画の歴史 近代篇』の中で、富岡鉄斎の世界的評価についてジュール・パスキン、ブルーノ・タウト、マリオ・ペドローサ、J・ケーヒル、O・スタットラーらが評価していることを紹介している。

パスキン「鉄斎こそは近代日本画壇の持つ唯一の世界的な画家」

ブルーノ・タウト「鉄斎を見るとき我々は彼と時代を同じくするヨーロッパのある大家を思い起こす—それはセザンヌである」

サンパウロビエンナーレ連の審査委員マリオ・ペドローサ「鉄斎はゴヤセザンヌとともに19世紀の世界三大画家の一人である。我々が鉄斎を知らなかったの我々の恥辱である。我々は近代史を書き直さねばならない」

日本画の歴史近代篇』(中公新書) P22

 果たしてこうした海外の画家、美術史家、評論家たちが萬鉄五郎の作品を観て、これほどの評価を与えるかというと微妙だったりもする。多分、よくフォーヴィズムキュビズムドイツ表現主義を受容した東洋人の画家による習作みたいな評価になってしまうのではないだろうか。

 ポロックが影響を受けたピカソに対する愛憎まみえた述懐。「ピカソがぜんぶやってしまった」。南画における自由な表現によって富岡鉄斎は独自の造形世界を創り上げたと、ニワカの自分などはそう思っている。表現的世界の中で悪戦苦闘する萬のような若き洋画家には、鉄斎のそれを素直に認めることができなかったのではないかと、なんとなくそんな気がしている。でも、萬鉄五郎の南画の習作(あえて習作とよぶ)はけっして嫌いではないな。

 

 ちなみに萬鉄五郎記念美術館は二階建てなのだが、一階から二階へと上がるのはゆったりとしたスロープになっていて、そのスロープの回廊にも作品が展示してあり、観賞しながら上階に進めるようになっている。これはなかな面白い作りだと思う。ここまでしっかりとした回廊型スロープの美術館はあまり経験していない。

 今回は企画展「動物たちの浮世絵展」がメインであり、萬鉄五郎作品や資料にあまり多く展示していなかった。購入はしなかったが収蔵作品の図録によれば、けっこう良い作品が多数あるようである。機会があればまた行ってみたい美術館だけど、これは多分来世に期待するしかないかもしれない。

 

 美術館を出て夕暮れ時の土沢を木立超しに見た。