納骨と49日法要

 納骨と49日法要の当日である。

 11時からということでその30分前に墓地に行く。生憎の雨模様で雪に変わるという空模様。高速で向かっている間は小雨だったが墓地に着くころにはじょじょに本降りになってきた。

 まあ葬儀もそうだったが基本は家族だけの本当にこじんまりとしたものである。兄の親族は自分だけなので、自分の家族三人だけという淋しい淋しい式でもある。

 受付で埋葬許可書と墓地使用書を渡し埋葬費用、塔婆の費用を支払う。受付の女性は車椅子の妻を見て、「こういう天気ですので、よろしければ時間を早めますか」というのでお願いすることにした。すでに住職も来ていたので挨拶をすませお布施も渡す。

 それから供花代わりの樒を売店で買う。妻と子どもを車に乗せ、墓地の現地まで向かう。山の斜面を切り開いた芝生墓地ですでに墓地の係2名、住職が来ていた。そこに車椅子の妻を押して向かう。雨に濡れた芝生の上は車椅子を押してもなかなか進まない。

 本降りになった雨の中で納骨、それから住職による読経。車椅子の妻には自分で傘を持たせ、子どもが傘を持って私にも差し掛ける。住職は傘を肩において読経。日蓮宗の南無妙法蓮華経のお経はなんとなく聞き覚えがある。大昔、かれこれ50年以上前、父が一時期創価学会に入っていて、自分たちも読経を強制されていた時期があった。毎日、読経をしていると、意味は判らないなりにお経がなんとなく教本の10ページ程度は空でもいえるようになっていた。おそらくそういうのが何十年も経っても覚えているということだろうか。

 納骨、49日法要の読経も30分ちょっとで終了。そのまま現地で住職を見送る。住職も当然車で来ている。それから妻をまず車に乗せてから撤収。用意していた供養物も結局雨ということで墓前に置くこともしなかった。

 最後に墓地の事務所に行き、白木の位牌はお焚き上げしてもらうため渡してすべての工程が終了。1時間とちょっとというくらいだっただろうか。その後は地元に戻ってきてちょっと高めの日本食を家族三人で食べた。

 なんともあっけなく終わってしまった感じだ。これで去年の暮に亡くなった兄のことについては一段落したということか。9月末に私が仕事をリタイアしたのと前後して、ほぼ同時に、兄が入退院を繰り返しそれに付き添ったりする日々が続いた。腎不全による週3回の人工透析、糖尿病の悪化による閉塞性動脈硬化と足の壊疽と指の切断手術。階段の昇降が困難になったため、人工透析にも付き添うことが続いた。さらに足の火傷も重なり緊急入院。それから一週間で敗血症性ショックによる急逝。

 その後は葬儀や様々な事務手続き、さらに相続手続きや、遺品整理と部屋の清掃などと年末年始にかけて目まぐるしい日々が続いた。そしてそれらのほとんどが今日の納骨によってほぼ終わったような感じである。

 兄との子どもの頃の思い出、そんなことを思い巡らしてみる余裕もなく、たった一人の肉親の死、その喪失感を感じる間もないままここまできてしまった。結局、骨になってしまえば、あっけないものみたいな乾いた感慨が葬儀のときにはあった。それは感慨というよりも事実としての受け入れみたいな心理作用だったのかもしれない。

 次第に日常に回帰するにつれて、じょじょに淋しさがひたひたとやってくるのかもしれない。墓には父と祖母と兄が入っている。自分だけがまだこっちの世界に残されている。