鉄道屋

鉄道員(ぽっぽや)

鉄道員(ぽっぽや)

  • 発売日: 2015/11/05
  • メディア: Prime Video
 

  これもBS放映で録画してあったものを観た。この映画も何度か観ているが、通して観るのは多分10年ぶりくらいか。

 『鉄道屋(ぽっぽや)』は言わずと知れた浅田次郎直木賞受賞作だ。確か受賞作として『文藝春秋』だか『オール読物』に掲載されているのを読んだ。調べると受賞は1997年、子どもが生まれた年である。23年も前のことになるのか。

 当時は共稼ぎで多分、仕事や家事に追われていたけれど、まだ芥川賞直木賞はだいたい読んでいたし、けっこう本は読んでいたようにも思う。生活に追われて本もあまり読めなくなるのは多分、子育てが始まってからかもしれない。仕事、家事、子育て、だんだんと余裕がなくなっていくのはまあ致し方なかったか。

 しかし原作が1997年、映画化が1999年、20年以上前のことになるのである。これはもうちょっとした感慨どころか驚きみたいだ。この映画で愛くるしい娘を演じていた広末涼子ももはや40代である。出演の高倉健、脇役の田中好子、さらに映画初出演した志村けん、監督の降旗康男など、みんな死んでしまった。

 まもなく定年を迎える老駅長役の高倉健は当時69歳。今の感覚からいえばちょっと老け過ぎみたいな印象もある。その妻役の大竹しのぶは当時43歳、こちらはちょっと若過ぎるか。しかし高倉健が演じた定年を迎える男、多分60歳になる男というのを、自分はもう越してしまったというのもちょっと哀しくなるような思いがある。すでにその年齢を5つも越した自分は、映画の高倉健のように枯れてもいなければ渋くもない。まあ希代の大スターと比べてもしかたないか。

 鉄道員一筋に生きてきて廃止寸前のローカル線の終点駅の駅長を務める佐藤乙松。定年を迎える年になった彼は、生まれたばかりの一人娘を病気で亡くし、妻にも先立たれ駅舎に隣接した住居で孤独な日々を送っている。

 雪降る正月、彼のもとに小さな女の子が訪れ人形を忘れて帰る。その夜、小学6年生という姉が訪れ、翌日にはさらに大きな高校生の娘が訪れる。乙松はその娘たちを近所の住職の家に里帰りした家族として接するが、実は住職の家に帰省した家族はいないことが判る。

 一晩の間に訪れる三人の少女は幼くして亡くなった乙松の娘で、彼に成長した姿を見せるために訪れたのである。妖しくも感動的な軌跡的逢瀬の翌日、乙松は到着する汽車を待つホームで亡くなっている。

 感動的な内容だが、ちょっとした怪奇譚でもある。家族を亡くし、まもなく定年とともに自分のアイデンティティそのものだった鉄道屋という仕事も失う。そんな孤独な男が亡くした子どもの成長した姿を見るというのは、単なる夢あるいは幻想の類なのかもしれない。あるいは淋しい男のために会いに来る幼くして亡くなった娘は死神の化身かもしれない。案の定、娘が訪れた翌日に男は亡くなっている。

 北海道の美しい原野とモノクロ映像を多用した回想シーン、朴訥とした高倉健の演技など、詩情とノスタルジーに溢れた映画としてそこそこのヒットと評価を得た映画ではある。感動的あるいは感傷的な作品として目頭を熱くさせるしかけも満載だ。しかしどことなく感情移入しずらい部分はというと、前述したようにこの映画が一種の怪奇譚だからかもしれない。

 去年同じBSで観た吉永小百合主演の『母と暮らせば』も同じような仕掛けの映画だったか。あの映画では死神(?)の息子が手をひいて老母をあの世に誘うシーンがラストだった。それからすると一夜の父娘の再開と、翌日の男の死という形で終わらせるのは、原作の違いでもあり、山田洋次降旗康男の違いということもあるかもしれない。

 この映画は多分もうしばらくは観ないかとは思う。しかしこの映画を観て何を一番に思ったかというと、この映画が21年も前の映画だったということ。割と最近の映画という感覚でいた映画が意外と昔の作品であることの驚き。それはそのまま自分が年老いたということの確認でもある。