墓参り

 定点観測のように毎度同じ構図の画像。

 久々、墓参りに行って来た。

 前回は3月のお彼岸の前だったか。初めてお会いする親戚筋と出会ったなんてことがあったか。

墓参り - トムジィの日常雑記

 まあ墓建てて35年で初めてお会いしたので、おそらく今後会う確率はえらく低いのだろうとも思う。

 来週はお彼岸になるので23日前後はえらく混むだろう。その前に済ませておこうと思った。いつも車は墓に近いところの道路の左に寄せて止めるのだが、お彼岸となると芝生の部分に駐車スペースが作られてそこに止める。止める台数は限られるのでいっぱいだと下駐車場に止める(多分、そこもいっぱいの可能性もある)。

 下から歩くのはまあ健常者的には問題はないけど、車椅子を押してとなると多分難しい。そういうこともあり、出来るだけお彼岸の間に行くことはずっと避けてきたように思う。今回も台風が近づいているということもあり、その前に終わらせておこうと思った。

 家を出たのは12時少し前、いつもよりだいぶ早い。出来れば早々に墓参りを終わらせて、茅ヶ崎とかそのへんの美術館に足を延ばそうかと思ったのだが、圏央道がなぜか大渋滞。どうも八王子の中央道と接するジャンクション附近で故障者だか事故があったみたいで、えらいこと混んでいる。

 いつもだと1時間かかるかかからないかくらいなのだが、ナビの予定時間は1時間半からじょじょに伸びていく。仕方なく日の出で降りて下道を走り、八王子から中央道に入ってまた圏央道にということにした。でもって結局、墓地に着いたのは2時近くで、美術館行きは早々に諦めた。

 いつもは墓の売店で線香としきみを買う。父が死んだ当時、父は名ばかりではあるが創価学会員だったので一応法華経に準じて墓を建て、そういうお経を読んでもらった。父も40代の頃は熱心だったようだが、50代以降は本当に名ばかりだったし、子どもの自分らはまったく関係がないという感じだった。

 そういうこともあってか、墓に供するのはずっとしきみだった。しきみは日蓮正宗創価学会にとっては重要らしいということなのだが、詳しい由来というか意味は知らない。まあずっとしきみなので、そのままきている。なのだが、今回はしきみをやめて花を供することにした。

 近所のホームセンターに行くとお彼岸が近いせいか、供花のコーナーができている。そこで比較的チープなものを4束くらい買ってもっていった。実際、さしてみると4束でちょうどいいくらいである。自分のところの墓に供してから、近くにある遠縁の親戚の墓にもと思い。売店まで花を買いに行く。しきみだと1000円ちょっとなのだが供花は1600円とか。しきみより花は割高なのだな。

 その前に一度、線香を買いに行っているので、今回は二往復している。山の斜面に作った公園墓地なのだが、さすがに二往復となると還暦超えの身にはかなり応える。まあ年に数回のことだからどうのこうの言ったら罰が当たるか。

 墓の前ではいつものように、妻と子どもの健康と幸福を見守って欲しいと祈った。それから妻の手を引いて少しだけ墓の周辺を散歩した。小さな墓に10人以上の墓誌が彫ってあるものとかは、合祀されたものだろうか。斜面の公園墓地から階段を下ると一般墓地があり、その一角にはかなり大きなスペースと大きな墓石の区間がある。

 墓を巡っているとつい墓誌を読むのが習いになっている。そこには自分の知らない沢山の人生がある。子どもの頃、父と一緒によく墓を回ったことがあったことを思い出す。

 大昔、まだ小学校に上がるか上がらないかの頃は、おそらく祖父の墓があった横浜の三ツ沢の墓に行った。そこでは父と兄が、ほんちという蜘蛛をとってマッチ箱に入れて戦わせるというような遊びをしていたような記憶がある。かなりあやふやな記憶だが、そんなことがあったような。

 横浜の上大岡に住んでいる頃もよく近くの公園墓地に散歩に行った。著名人の墓などを見つけると父がその人物のことを教えてくれたりとか、そんなこともあったか。

 墓には霊的なこととか、そういうこともあるのだろうが、沢山の市井の人々の生きた証、痕跡が残された場所でもある。過去に生きていた沢山の人々のことになんとなく思いを巡らす。そういう場所でもあるということ。

 もう何度も書いているけど、我が家の墓には父、祖母、兄の三人が入っている。多分、この先そこに入るのは自分だろうし、そして妻もいずれは入る。そしてそれから先、この墓の管理を子どもがしてくれるのかどうか、それはもう判らない。子どもが家庭を作らなければ、子どもまでで終了か。

 墓は亡くなった人の生きた証ではあるけど、残された者からするとどいうものになっていくのか。残された家族がいなくなれば、墓は多分存在意義すら失せてしまうのかもしれない。実際問題として墓守がいなければ、管理料も払われず、いずれは処分されてしまうのだろうか。

 自分が死んだ後のこと、どこかで「知るか」という思いもないでもない。残された者、子どもにすべて委ねる。そういうものだとしかいえない、とぃうことだ。