伊佐沼 (6月25日)

 サトエ記念21世紀美術館の後、妻が川越で友人と食事の約束があるというので送っていくことにする。待ち合わせが7時ということで時間があるので、下道を通っていく。それでも加須から川越だと1時間くらいで着くので、どこかで少し時間をつぶすかということになり、16号に入って川越が近くなってきたところで、ナビを見るとちょっとした沼というか池があるみたいなので行ってみることにした。

伊佐沼 - Wikipedia

 伊佐沼ってなんとなく名前は聞いたことがある。たしか川越の花火大会をやるとこだったか。あとはヘラブナ釣りの名所らしいとか。

 行ってみると意外と広い。あとで調べると関東近辺では千葉の印旛沼に次ぐ自然沼で南北1300メートル、東西300メートルとか。沼に近接する伊佐沼公園の駐車場は夕方なのにけっこう車が止まっている。特に入り口付近。遠くに止めて車椅子出して散歩するかなと思ったが、もう少し沼の端の方まで行くと、桟橋のような遊歩道が沼の中にある。そこから道路を隔てたところに砂利の駐車場があったので、そこに車を止めて桟橋の方に行ってみることにした。

 桟橋の入り口まで車椅子で行き、妻は食事会の前の腹ごなしだといって桟橋を歩くことにする。手摺があるのでゆっくりと歩くのにちょうどいいみたいだ。

 桟橋の先の方まで行くと、沼の中に等間隔に杭が立っている。そこに白鷺やカモが止まって休んでいる。

 なんとなく雰囲気の良い場所で妻ともまた来ようかと話したりもした。もっとも土日のもっと早い時間は多分、釣り客や子ども連れでもっと賑わっていそうだ。ウィークデイの午後とかだといいかもしれない。
 近場でもまだまだ行ったことがないところがあるものだと思ったりもした。

さよなら、サトエ記念21世紀美術館 (6月25日)

 6月26日(昨日)で閉館となったサトエ記念21世紀美術館にその前日25日に行って来た。

サトエ記念21世紀美術館 TOP (閲覧:20220627)

 埼玉県にあり、家から車で30分程度で行ける美術館ということで、何度か訪れたところである。コロナによる利用客減少などにより閉館となる。淋しいことだ。

 この雑記の記録をみると最初に訪れたのは2017年。

 それから通算4回来ている。館内もゆったりとしていて居心地が良く、彫像が多数設置された庭園も美しい。小ぶりながら素晴らしい美術館だった。ただし立地が悪かったか。最寄り駅から徒歩20分、タクシーで5分。とにかく車がないとアクセスできないところだった。

 いつ行っても利用客は少なく、2時間近く滞在していても、鑑賞しているのが自分たちだけということもあり、正直この美術館大丈夫かと思うこともあったが、そういう危惧がコロナ禍の中、的中してしまったようで残念だ。

サトエ記念21世紀美術館 - トムジィの日常雑記 2017-7-2

サトエ記念21世紀美術館へ行く - トムジィの日常雑記 2020-8-16

サトエ記念21世紀美術館 - トムジィの日常雑記 2021-6-24

サトエ記念21世紀美術館再訪 - トムジィの日常雑記 2021-9-6

 

 今回の展示品はいつものヴラマンク、ベルナール、ローランスといった外国人作家のものの他、藤井勉、小松崎邦夫、玉之内道雄、寺井力三郎などお馴染みのもの中心だった。設立者の佐藤栄太郎による彫像もあったが、なんでも医師から手を使うことを進められ、楽器演奏か彫像制作かということで後者を選んだとのこと。芸術制作が美術館設立の動機になったのかもしれない。

 展示作品では、この美術館は埼玉所縁の田中保の作品も多数所蔵しているのだが、その展示はなかった。埼玉県立近代美術館で7月から田中保の回顧展があるので、そちらに出品されるのかもしれない。

 

 気になった作品をいくつか。

「稲穂のつどい」(小松崎邦夫 1931-1992) 1990年

「歓」(藤井勉 1948-) 1989年

「ノルマンディーの室内」(玉之内満雄 1929-1997) 1988年

マルセイユ旧港」(エミール・ベルナール 1868-1941) 1929年 

 

 そして美しい屋外彫刻作品。

 

 

 帰りに受付の女性に、今後コレクションはどうなっていくのかと聞いてみたが、詳しいことはなにも決まっていないが、地元での教育関係への提供などが検討されているみたいな話だった。

 いつかこの美術館で観た作品とどこか他の美術館で出会えたら。そんなことを思いながら名残惜しくも閉館間際の5時少し前に帰ることにした。

シダネルとマルタン展 (6月24日)

 

 SOMPO美術館で開かれていた「シダネルとマルタン展」に行った。

 この企画展は去年、山梨県立美術館で観ている。個人的にはけっこう気に入った企画展で、その時に2022年にSOMPO美術館に巡回するということを聞いていたので、ぜひ行きたいとおもっていた。6月26日(日)に閉幕となるとのことで、会期末ぎりぎりに間に合った感じだ。

 たまたま午前中に知人の墓参りがあり、その後昼食でそこそこ飲んだ後、友人と二人で行ったのだが、軽い酔いの中での絵画鑑賞もなかなか良かったと思う。この企画展の感想は前回観た時に書いており、多分そこに付け加えるものはないように思う。

シダネルとマルタン展 (11月6日) - トムジィの日常雑記

 ただ、これまでだとこの二人を比すとなんとなくシダネルの方が好みみたいに思っていたのだが、今回の鑑賞でいうと、なんとなくシダネルのソフトフォーカスみたいな絵柄が凡庸に思える部分もあった。一方、マルタンは色彩感覚に優れ、その象徴表現もかなり意図的に取り込んでいるようにも思えた。まあこのへん好みの問題だし、多分今回はなんとなくマルタンの方がいいかもみたいに思えただけかもしれない。

 二人とも点描表現を多用している。当然至近で観ればただの分割された筆触である。離れてみると絵画として美しさ、構成、その他もろもろがよくわかる。以前、適当に離れて鑑賞してみて、例えばモネだと5~7メートルくらい離れるとベストだとか、ゴッホシニャック、レイセルベルヘとかは7メートル以上とか思ったりもした。今回もシダネル、マルタンともにかなり離れて観た方が視覚混合の効果が得られるような気がした。ただし、展示室はそれぞれさほど広くないので、あまり離れての鑑賞はできなかったけど。

 

MOMATコレクション (6月23日)

 近代美術館(MOMAT)の常設展示も5月17日から新しくなっている。

 前回来たのは4月で、鏑木清方展の後半だっただろうか。

 4階のハイライトも展示替えされている。

「林和靖」(菱田春草

「観音」(横山大観

「深泉二図」(速水御舟

「青衣の女」(広島晃甫)

 広島晃甫   (1889-1951)は初めて目にする画家だ。徳島県出身で、東京美術学校日本画科を卒業後白馬会で洋画を習ったという。その後萬鉄五郎らとアブサント会を興す。「青衣の女」は大正8年第1回帝展で特選となっている。

広島晃甫 - Wikipedia

 ネット検索ではあまり情報はなく、誰に師事したということもわからない。装飾的でモダンな表現を感じさせる。

「浴女その二」(小倉遊亀

 小倉遊亀の「浴女」はその一が有名で、MOMATでも何度も観ているけど、このその二はずいぶんと久しぶりである。記録を辿ると2017年にその一、その二が並列展示されているのを観ているので、それ以来、5年ぶりということになるだろか。

 なんだかリヒターの重い重い抽象画でお腹いっぱいになっていたので、こうした日本画に触れると思いのほか気分が楽になるような。

 

「誰かが私のポスターを破った」(国吉康雄

 国吉康雄アメリカに移住し成功した画家だ。なんとなく田中保と同じ括り考えることが多い。戦前の日本人画家で海外で成功したということでは、藤田嗣治、田中保、国吉康雄が代表ということなんだろう。

 この作品は国吉が大事にしていたというベン・シャーンによる反ファシズムポスター「我々フランス労働者は警告する」が破られたことから描かれたという説もあるのだとか。しかしよく見てみるとどうもそう簡単な作品ではない。画面上部に飛んでいる女性はサーカスの曲芸師のようだ。このモチーフは国吉作品によく現れるという。

 さらに女性の背後にはポスターに描かれた手があるが、女性の被る帽子(?)らしきものもよく見ると手のようにも思える。まるでポスターの手と帽子のような手によって、女性は今まさに捕まえられるようとしている。それはファシズムによる個の圧殺(?)。なんとも不思議な絵である。

 この絵については以下のサイトの記述が詳しい。謎解きということではないが、絵の鑑賞のためのヒントが沢山ある。

国吉康雄《誰かが私のポスターを破った》──アンニュイそして希望「市川政憲」:アート・アーカイブ探求|美術館・アート情報 artscape (閲覧:20200626)

 

「カンパル攻略(倉田中尉の奮戦)」(小磯良平

「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」(藤田嗣治

 これらの戦争画には戦争の悲劇がなにも描かれていない。小磯良平は戦争を題材にしてもいつものように美しい小磯良平の絵を描いているだけだ。小磯良平戦争画を何点かMOMATで観ているけれど、どれも悲惨な戦争の実相などどこにもない。戦争という非日常の中の一瞬を切り取っただけ。しかも美しく。

 そして藤田のこの絵はノモンハン事件を題材にし、藤田が戦争画にのめり込む契機となった作品だとか。ノモンハン事件は日本軍が大敗をきっした武力衝突であり、実際には凄まじい戦闘が繰り広げられた。そのことを藤田は伝え聞いていて、なおかつこのような美しい絵を描いている。遠近法を駆使した歴史画だ。ここには殺し合いの悲惨さはどこにもない。美しい風景の中でたんたんと戦闘する兵士たちの姿が写実的に描かれている。でもそれはけっしてリアルなものではない。画家の想像力によって再構成されたリアルのようなものである。

 

「挿花」(安田靫彦

 安定感と緊張感。リヒターを観たという体験の後だったからか、実はこの絵が一番気に入った。今回の常設展のベスト。

「牧童」(橋本雅邦)

 写真の部屋ではセバスチャン・サルガードの作品がまとめて展示してあった。

 

 そして現代絵画の間には新収蔵品として会田誠のこの作品が。

「美しい旗(戦争画RETURNS)」 (会田誠) 1995年

 新収蔵品だということだ。会田誠の天才性と変態性が如実に現れている。戦争、美少女、日本と韓国。なぜチマチョゴリとミニスカセーラー服なんだろう。いろいろ物議ありそうなネタだが、そもそもミニスカセーラー服は民族衣装か、的な突っ込みはいらんのだろうな。

ゲルハルト・リヒター展 (6月23日)

 東京国立近代美術館(MOMAT)で開催されているゲルハルト・リヒターの回顧展に行ってきた。今回の回顧展では、リヒターが手元に置いてきた初期作から最新のドローイングまでを含む、ゲルハルト・リヒター財団の所蔵作品を中心とする約110点が出品されている。

ゲルハルト・リヒター展

 リヒターの作品は以前にもMOMATで観ているはずだけど印象は薄い。世界的に有名なアーティストらしいけど、現代芸術はまだまだ自分の範疇に入ってきていない。ドイツのアーティストも去年MOMASでヨーゼス・ボイスの回顧展観たけど、よく判らなかった。

 リヒターについては4月にポーラ美術館で抽象絵画を観ている。数年前にアジアで最高落札額約30億で落札したというものだ。ただ自分にはジャクソン・ポロックの亜流みたいな感じがしたけど。

ポーラ美術館~モネからリヒターへ (4月21日) - トムジィの日常雑記

 その時のリヒターについて簡単なメモを作ったので、それにそって幾つかの作品の感想を。

ゲルハルト・リヒター略歴

・リヒターは1932年ドイツ・ドレスデン旧東ドイツ)生まれ。ドレスデン芸術大学で美術教育を受ける。1959年に当時の西ドイツ、カッセルで開催されたドクメンタ(グループ展)でポロックやフォンタナの作品を見て感激した。61年に29歳で東ドイツから西ドイツに亡命した。(ベルリンの壁ができる直前)。その後、デュッセルドルフ美術アカデミーで学んだ。現在はケルンを拠点に活動している。

 作品をめぐるエピソード

・2012年、競売大手サザビーズがロンドンで行った競売で、エリック・クラプトンが所有していたリヒターの抽象画『アプストラクテス・ビルト(809-4)』が約2132万ポンド(約26億9000万円)で落札された。生存する画家の作品としては当時史上最高額。

・2020年10月6日に香港で行われた現代美術のイブニングセールにおいて、約30億円でポーラ美術館が落札したリヒターの《抽象絵画(649-2)》(1987)だ。同作は、アジアにおけるオークションで落札された欧米作家作品の過去最高額となったことでも話題を集めた。

リヒターの代表的シリーズ

① フォト・ペインティング
・精密に模写した写真のイメージを微妙にぼかす
・新聞や雑誌の写真を大きくカンバスに描き写し、画面全体をぼかした手法である。

② カラーチャート
・カラーチップを配列した幾何学的な絵画
・モザイクのように多くの色を並べる

③ グレイ・ペインティング
・グレイのみで展開する絵画
・キャンバス全体を灰色の絵の具で塗りこめる

④ アブストラクト・ペインティング
・鮮烈な様々な色を組み合わせて織り込む、スキージやキッチンナイフにより塗っては 削ぎ取るなどにより重層的で複雑な色面を創り出していく。

⑤ オーバー・ペインティング
・スナップ写真の上に油彩やエナメルで描く

⑥ ミラー・ペインティング
・鏡やガラスなど反射する素材を重ね合わせて立てかけるパネル作品。光や反射によってぼんやりと映し出される風景など「どう見るか」を鑑賞者にゆだねる。

ビルケナウ

 ビルケナウはホロコーストを主題としている。囚人によって隠し撮りされた4枚の写真を元に描かれた4点の抽象画である。今回は、MOMATはビルケナウだけで1室を使って展示している。まず部屋に入ると右側の1面にビルケナウが展示され、その反対側にはビルケナウを元にした同寸の写真が展示されている。そして入り口の向かい側には巨大なグレイの鏡が4枚ありビルケナウとそれを鑑賞する人々を映し出している。入り口の右側には元になった4枚の小さな写真が展示してある。

 この作品についての解説はこちらの記事が詳しい。

 記事にあるとおり、「リヒターは4枚の写真を元にホロコーストをキャンバスに写しとるのが無理だと気づき、描いていたイメージを削り取る作業」に入る。そしてその上にさらなるイメージを描いてはスキージーというヘラで削る。その繰り返しの結果出現したのが、この抽象画ということのようだ。

 リヒターはホロコ-ストの惨劇を具象化することは出来ないとどこかで判断したのだろう。あの根源的な悪によるジェノサイドを具象化することは不可能。だからこそ混沌とした抽象性の中で、ホロコーストの地獄を観る者は自らの想像力によってイメージ化する。

 この絵を観て最初に思ったのは何だろう。一つは丸木位里の原爆図だ。原爆投下の数日後に現地に入り、凄惨な悲劇を目の当りにした丸木が、それを日本画のフォーマットで描いた作品群。そこには悲劇の具象とともに、ある種の宗教的な崇高さや慈愛する感じさせた。

 もう一つは藤田嗣治戦争画アッツ島玉砕」だ。戦争の地獄のあり様を見事に活写している。以前には丸木位里は藤田の戦争画をヒントにしてるのではと思ったりもした。しかし今思うと、藤田は戦争を題材にした歴史画制作をしたかったのではないか、リアルな戦争は画題としては描いてみたいものに違いない。そういうプロの画家の表現者としての欲みたいなものを思ったりもしている。

 さらにいえば戦争の悲劇、無差別爆撃による非戦闘員たる市民への殺戮といえばピカソの「ゲルニカ」を思ったりもする。あの絵を観た時に、なぜピカソは抽象化したのか、もっと具象的に戦争の悲劇を描くことは出来なかったのかと稚拙に思ったりもした。しかしリヒターの「ビルケナウ」を観てあらためて思った。ピカソゲルニカの悲劇を描くには抽象化せざるを得なかったのだ。

 戦争の悲惨さを具象化して描く、あるいはリアリズムとして活写する。それは20世紀にあっては写真が役割を担っている。日本の戦争画は報道絵画的な性格をもっているが、そこには兵士や軍隊を称える部分が透けて見える。あるいは藤田のように西洋画の一ジャンルとして定着されている歴史画としての戦争画を意図したのではないかと。

 真っ向から戦争の悲惨さ、大量虐殺の事実をイメージ化するとき、具象は観る者の想像力を既定の方向に指向させるような働きがあるかもしれない。それに対して抽象的イメージは、観る者に様々なものを想起させるのではないか。

 ピカソは多分、ゲルニカの悲劇をああいう抽象化させることでしか描くことができなかった。そしてピカソの地平のさらに向こう側に、リヒターの問題意識と表現がある。啓蒙性、科学的客観主義、近代合理性、そうした近代合理主義の果てにホロコーストの惨劇がある。効率的に行われたジェノサイドとそれを平然と行わしめる根源的な悪。それらを表現するには、もはやあの混沌とした抽象表現、イメージを塗り固めては削げ落すことによって表出する混沌。アウシュビッツ=ビルケナウを描くにはあれしかなかったということか。

 「ビルケナウ」は事前情報とか先入観なしに観ると、ただのよく判らない4枚の大型抽象画だと思う。ただそのタイトルからの連想、さらに様々な制作にあたっての情報を頭に入れると、当然のごとくそうしたことからホロコーストへの一元的な指向性を観る者に与えてくる。

 自分もキャプションやら解説やらを目にしたうえで観たので、当然そうした視点でこの作品を観た。するとなんとなく様々な色、引っかき傷のような文様、その中に、殺されゆく人々の顔がいくつも浮かんでくるような気がしてくる。これはまあ事前情報からの錯視、錯覚かもしれない。

 ホロコーストのカオス。そういうものとしてこの作品を体験する。多分そういうことなのだろう。

 リヒター展は10月までのロングラン企画である。多分、何度かこの企画展に足を運ぶことになると思う。もっと様々な情報を得たうえで、理知的にリヒター作品を受容するということも必要だろうか。それとは別に、何度か足を運ぶことで、自身のリヒター体験にも変化が現れ、さらにいえば自分なりのリヒターのイメージが形成されるかもしれない。

加山雄三、コンサート引退

 6月20日朝日新聞文化欄に「加山雄三さん コンサート引退へ」という記事が載っていた。

加山雄三さん、コンサート引退へ 「まだ歌えるうちに辞めたい」 9月に「ラストショー」:朝日新聞デジタル

 加山雄三さん(85)が、年内をもってコンサート活動を引退する。朝日新聞の取材に明らかにした。歌手デビューから60年超。障害現役を掲げていたが、脳梗塞などの病に倒れたここ数年で「人間、いつかは終わる」と引き際を考え、「歌えなくなってやめるんじゃなくて、まだ歌えるうちに辞めたい」と決断した。

 淋しいね。85歳になるのか。

 加山雄三は多分自分にとって最初のアイドルだったような気がする。

 曖昧な記憶を辿ると、一番最初に口ずさんでいた曲は「上を向いて歩こう」らしい。1961年だから5歳くらいのことだ。親や兄の話では、守屋浩や水原弘なんかも歌っていたらしいのだが、そのへんの記憶はない。ただし「上を向いて歩こう」の替え歌、♪♪下を向いて歩こう お金が落ちてるかもしれない♪♪なんてのを歌った記憶がある。

 それから小学校に上がってすぐ、多分二年生の頃には当時中学生だった兄の影響でビートルズを聴き始めた。兄と一緒に「ヤア!ヤア!ヤア!」を観に行ったことはけっこう鮮明に覚えている。一緒にやっていたのは「アイドルを探せ」だった。盗んだ宝石を楽器店のギターに隠したけれど、回心して宝石を見つけ出し自首しようとする若いカップルの話だったか。ギターは同じモデルが5つあり、買ったのが全員人気歌手で、カップルは歌手の訪ねていくみたいな話だった。

 当時、小学低学年の割にはけっこうビートルズ聴いてたみたいで、「恋する二人」、「プリーズプリーズミー」のハーモニカのパートを手持ちのハーモニカで吹いたりしてた記憶がある。

 そしてビートルズの次にはまったのが加山雄三だった。若大将シリーズもよく観たし、なによりエレキギターを弾きながら、自作の曲を歌う加山雄三は子ども心にカッコ良かった。小学高学年くらいになるとグループサウンズが流行りだしたが、バンドとしてのクオリティは加山雄三の方がはるかに上だと思っていた。当時の彼のバックは寺内タケシだったり、ワイルドワンズであったり、ランチャーズであったりした。

 中学に入って自分でもギターを始めてみると、加山雄三の楽曲のコード進行やギターがけっこう斬新なものだと改めて思ったりもした。「ブラック・サンド・ビーチ」や「夕陽は赤く」のイントロなんかはけっこうシビレた。

  二枚目スターとしても、音楽だけでなくスポーツ万能、スキーは国体レベル、ヨットやサーヴィンもこなす。子ども心的には将来はああいう万能なナイスガイになりたいものだと思ったりもした。

 役者としてはなんとなく大根役者的な感もあったが、あれは若大将シリーズを含めたナイスガイのイメージありきのキャラだったからだと思う。なんとなく加山雄三は音楽バカ、スポーツバカという感じもしたが、実はかなりのインテリで、たしか相対性理論とかを普通に論じたりしていたように覚えている。音楽も記事の中でも幼少期から死ぬほどクラシックを聴いたというが、たしか交響曲を手掛けたことがあるという話も聞いたことがある。

 かってジョン・レノンが死んだときに、矢作俊彦は冗談ぽく「ジョンが死んでも、我々にはジュリーがいる」とエッセイに書いていたことがあった。そういう意味でいえば、「我々には常に加山雄三がいた」のだと思う。

 年齢的には85歳、もうステージパフォーマンスが限界なのかもしれない。90を超えてステージに立っていたのは、例えば亡くなったシャルル・アズナブールとか、つい最近まで来日公演もしたバート・バカラックとか。

 一方で6月18日に80歳を迎えたポール・マッカートニーは今もライブ・ツアーを続けている。バックバンド4人だけを引き連れて2時間以上のライブを行っている。ポールはベジタリアンで相当に節制しているとも聞く。まあエイジレスのために相当な金をつぎ込んでいるかもしれない。2013年と2015年に来日した時には3回ドームに足を運んだけど、一緒に行った友人にポールはサイボーグじゃないのとジョークを言ったように覚えている。

 ポールのようなライブ・パフォーマンスを望まないにしろ、加山雄三にはまだまだ頑張って欲しいとそんなことを思ったりもする。なんならステージにいてちょっと動いて、1~2曲歌ってくれさえすればとはファンの率直な思いだ。動く加山雄三が見れればそれでいいみたいな感じか。例えばリンゴ・スターのオールスターライブだと、リンゴは時々歌い、時々ドラムをちょっと叩く、あとはピースマークのパフォーマンスだけ。あれでいいとか思ったり。

 加山雄三のコンサート引退が出来れば撤回されてくれればとか、また1年かそこらしてもう1回みたいなことがあるのかどうかはわからない。でも、もし今回がラスト・ショーだとしたら、その最後の場が東京国際フォーラムでの公演というのはちょっと淋しいような気がする。

 加山雄三の音楽に影響を受けたアーティストけっこういると思う。例えばアルフィーとか桑田佳祐とか。彼らをバックに多数のゲストを集めてだったら東京ドームでのワンナイトはいけるのではないかと思ったりもする。チケットが取れるなら自分も行きたいと思ったりもする。

 今、レコード棚をひっくり返したら、小学生の時に最初に買った33回転4曲入りレコードが出てきた。55~6年くらい前のものだろうか。持ってるプレイヤーにはアダプターがないからかけることできないけど、これ聴けるのだろうかね。

天心記念五浦美術館~成川美術館コレクション展 (6月18日)

令和4年4月27日(水)~6月26日(日)

開館25周年記念展 Ⅰ
箱根・芦ノ湖 成川美術館コレクション展 
~花愛でるこころ、恋の詩(うた)とともに~

茨城県天心記念五浦美術館> 展覧会>企画展

 天心記念五浦美術館では箱根にある成川美術館のコレクション展を開かれていた。成川美術館は名前は聞いたことがあるのだが、まだ一度も行ったことがない。きけば4000点あまりの日本画コレクションを所蔵しているのだとか。箱根には何度も行っているのに、ここにはとんと縁がなかった。もっともいつもポーラ美術館ばかり行ってるのと、日本画を観るようになったのがここ数年来ということもあるのかもしれない。

成川美術館

 今回の企画展では「花」をテーマにした名品を紹介するというもので、ほとんどが戦後に活躍している作家のものだったか。

「地上風韻」(山本丘人) 1975年

 山本丘人は1900年生まれで松岡映丘に師事し、昭和初期から活躍している。多分出品している作家の中では一番年長じゃないかと思っている。この美しい作品も75歳のときのもの。

 

トスカーナ風景」(堀文子) 1990年

 堀文子(1918-2019)は主に戦後活躍した画家。1948年に福田豊四郎、山本丘人らが結成した創造美術を中心に活躍。1987年、70歳を前にイタリアにアトリエを構え制作拠点にしたという。もともと花の画家として評価を受けていたというが、この絵の後景の景色はなんというかちょっとルネサンス期の風景画のような趣がある。

 

「春の庭」(堀文子) 1975年

「睡蓮の池 桜」(平松礼二) 2012年

 平松礼二(1941-)は湯河原町立美術館で観たんだと思う。竹内栖鳳の作品を多数所蔵しているこの美術館には、平松礼二館としてこの人の作品を多数常設展示している。技巧と色彩感覚に優れ、装飾的な作品には目を奪われるものがある。またこの人は長く『文芸春秋』の表紙画を担当していたことでも知られている。

 

「花の道」(田渕俊夫) 1995年

 田渕俊夫(1941-)を最初に観たのは、多分高崎市タワー美術館で開かれた名都美術館コレクション展だっただろうか。

「黎明朧桜」(牧進) 2003年

 牧進(1936-も田渕俊夫と同じく高崎市タワー美術館で観たのだと思う。とは長野の水野美術館などでも。たしか川端龍子内弟子だったが、龍子の死去後はフリーで活躍している画家だとか。また川端康成の知遇を得、川端文学をモチーフにした作品も多数制作しているとか。たしか作品のキャプションに二人の川端からの影響みたいなことが書いてあったように記憶している。

「島の女-祭りの朝-」(森田りえ子) 1993年

「想」(森田りえ子) 2004年

 森田りえ子(1955-)は神戸市に生まれ、1980年京都市立芸術大学日本画専攻科修了と、まさしく同時代的に活躍する作家。草薙奈津子の『日本画の歴史 現代篇』の最終章「女性画家の台頭と活躍の」の中でかなりのページをさいて取り上げているので、一部引用する。

そんな彼女の作品には若い女の子がいっぱい出てきます。《KLAWAII(Ⅰ~Ⅲ)》(2009年)などです。森田りえ子は彼女らに取材するために東京の原宿竹下通りに出かけ、可愛いグッズをたくさん買い込み、森田りえ子好みの可愛い女の子を創りあげ、そして作品にしてしまうのです。こういう好奇心・積極性は森田りえ子の強みであると思います。金閣寺天井画にも挑戦しています。どんどん世界がひろがっているのです。(『日本画の歴史 現代篇』P172)

京都の画家森田りえ子の作品の根底にあるのは、円山応挙に始まる確かな技術による写実がです。神戸出身なだけあって、垢抜けた都会人の爽やかさも備えています。

(同 P173)

「草炎-鶏頭」「草炎-蓼」(中野嘉之) 1994年

 図録によると「中野嘉之は、自然現象の中に潜む「気」の表現をテーマに、壮大な心象風景を描くことで知られているが、その一方で動植物をモチーフとして、幻想を帯びた作品を描いている」とある。自分的にはこの作品は、速水御舟の「炎舞」にインスパイアされたものかなと思った。

 昨年、高崎市タワー美術館で戦後に活躍した日本画家の作品を多数観た。その流れでこうやって新たな作品を目にすることで、自分の絵を観る眼差しもなんとなくというかすこしずつ広がってきたような気がする。次回、箱根に行くときには成川美術館に足を運んでみようと思う。