ポーラ美術館~モネからリヒターへ (4月21日)

 

久々のポーラ美術館 

 久しぶりにポーラ美術館に行って来た。どのくらい久しぶりかというと、この雑記で検索かけると去年の4月以来。1年ぶりのことである。まあ観光地の美術館なので、年1回だと久しぶりという感じもないといえばない。でも、自分的にはこの美術館は、自分がよく美術館の五指に入るところでもある。ざっと上げれば、西洋美術館、国立近代美術館、東京富士美術館の次に位置するくらい好きだし、よく行く美術館でもある。なので1年ぶりというのは、近年でいえばびっくりするほど少ない。だいたいにおいて年に2~3回行ってたのにと。

 この美術館が好きなのは、やっぱり西洋近代絵画のコレクションが充実しているから。とはいえここ最近、ポーラ美術館はなんとなく現代アートにふっているような感じもあって、それも足が遠のいた理由かもしれない。

 ポーラ美術館はポーラの二代目鈴木常司が収集した印象派を中心とした西欧近代絵画をメインに、それ以降のフォーヴやエコール・ド・パリ、さらに日本近代絵画や宝飾品、ガレやドーム兄弟のガラス工芸品などがコレクションなんだけど。多分、それだけではある種のマンネリズムに陥るみたいな感覚が、美術館側にもあるのかもしれない。ときにそんなことも思ったりもする。

 Twitterで京都の学芸員さんのツィートに、自分が好きな企画展だったか、自分が企画した展覧会だったかを説明するときに、「印象派マダムには向いてないかもしれない」といったような内容があった。それはよく美術館に足を運ぶ女性をややあてこすったような感じがして少し嫌な気分になった。自分もどちらかといえば印象派好きなので、印象派ジジイと揶揄されてしまうかもしれない。まあ先鋭的にアートしている学芸員さんからすると、いつもいつも印象派じゃないでしょ、みたいな感覚もあるのかもしれない。

 とはいえ、たまに箱根に来て、近代西洋絵画の名品に触れながら、ゆったりとした時間を過ごすみたいなことでいいのではないかと、そんなことを思ったりもしないでもない。観光地の美術館に「攻め」は必要かどうか、みたいなことをちょっとだけ考えたくもなる。たまに来るのだから、いつもの名品を観たいみたいなことでもいいのではないかと。

 まあ常に印象派ということではないし、例えば裏磐梯の諸橋美術館に行けばいつでもダリが観ることもできる。伊東の池田20世紀美術館に行けば、ピカソ、ダリ、レジェに会える、そういうものだと思ったりもする。

 そういう意味でいうとここ何年もポーラ美術館では、浅井忠、平山郁夫東山魁夷といった日本人の洋画、日本画を観ていないような気もする。

 とはいえ、新しいものにチャレンジするのもいいことだとは思う。まして現代アートはオシャレというのが最近の流れかもしれない。箱根で難波田龍起、猪熊弦一郎、白髪一雄もいいかもしれない。まあ個人的な趣味として岡本太郎や福沢一郎はちょっとイヤかもしれないけど。

 あわせていえば、ポーラ美術館はコレクションの看板でもあるモネやマティスらの作品と他館の作品や現代アートとのコラボ企画をよく行っているのだけど、そのコラボの意図が今ひとつ掴めないものもあったりもする。まあニワカ愛好家の感性不足もあるかもしれない。のっけからマイナスな感じだけど。

「ポーラ美術館開館20周年記念展 モネからリヒターへ」

ポーラ美術館開館20周年記念展 モネからリヒターへ ― 新収蔵作品を中心に | 展覧会 | ポーラ美術館

本展を企画するにあたり、主要なテーマを「光」としました。クロード・モネをはじめとする印象派の画家 たちは光の表現を追究していますが、ゲルハルト・リヒターやケリス・ウィン・エヴァンスなどの現代の作家たちの作品にも、光への強い関心をうかがうことができます。本展覧会では、ポーラ美術館のコレクションの「現在(いま)」をご紹介するとともに、美術館の未来とコレクションの可能性を探ります。

(展覧会パンフレットより)

キャプションと解説について

 新収蔵品を中心にというのだが、観ているだけだとどれが新収蔵品なのかが実はわからない。キャプションにはタイトル、作家名、制昨年のみで、購入した図録にもその記載はなかった。そもそもキャプションの文字がえらく小さくて、老眼の自分にはかなりしんどかったし、妻も同じことを言っていた。解説文がなくても、せめて画材ぐらい明記してもいいのではと思ったし、帰る際に受付の女性に「キャプションの字が小さくてしんどかったです」と伝えると、「よく言われています。上の者に伝えます」とのこと。やっぱりというか、多分自分だけじゃないのだろうかと思った。

 しかし解説文もほとんどなく、キャプションも判読しずらいというのは、ようは鑑賞者の理解を期待していない、あるいはそれを拒絶してるようにも思える。オシャレなアートに解説は必要ないみたいなものか、あるいはフォースではないが「考えるな、感じろ」的なものか。鑑賞しつつも、なんとなく溜息の一つもでるようなところがある。

 現代アート、抽象画の難解さについては、鑑賞者の理解というか、了解可能な部分、受容のためのヒントの類が必要だと思うのだけど、どうなんだろう。以前、どこかの美術館で、難波田龍起だったか瑛九だったかの解説に、「ファンタジーを感じさせる、どこかウキウキしませんか」みたいな言葉があった。それを読んで改めて絵を観ると、なるほどねと思ったりもした。

 また例えばクレーやカンディンスキーは音楽の絵画表現みたいな切り口で観るとなんとなく面白く感じたりもした。それもどこかの美術館の解説だったと思う。

 なんだかこうやって書いていくと、どんどんネガティブになっていく。まあ展示作品は充実しているし、雰囲気も良かったので、基本この美術館、そしてこの企画展好きだし、会期中もう一回くらいは来たいとは思っている。ただちょっと残念な・・・・・・。

ベルト・モリゾ

「ベランダにて」(ベルト・モリゾ) 1884年

 今回の企画展では多くの新収蔵品が展示されている(ようだ)。その中でも近代絵画に限っていえば、一番の目玉的作品といっていいかもしれない。これぞ印象派といって光をの移ろいをとその中で寛ぐ愛娘を描いた作品。1884年、ジュリー・マネは6歳。モリゾはもう可愛くてしょうがなかったのか、子どもへの注ぐ母親の愛情みたいなものも溢れている。

 確か大橋巨泉だったか、メアリー・カサットとベルト・モリゾを比較して、カサットはドガ譲りののデッサン力から画力では遥かに上みたいなことを書いていたように記憶している。モリゾが愛娘を描くそれは絵日記的だが、カサットの母子を題材にした作品には普遍性があるとも。

 でもどうだろうか、自分にはモリゾの絵には奥行きや光に輝く色彩感覚があるけれど、カサットのそれは平面的でのっぺらとした印象がある。カサットは浮世絵の蒐集でも有名だけど、構図や画題の切り取り方、平面的な描き方とか、けっこう浮世絵の影響が濃い。まあ好みの問題かもしれないけど、こと印象派というジャンルでいえばベルト・モリゾの方がそれらしいのではないか。

 まあ単純に画力ということでいえば、新古典主義やアカデミズムの画家の方が印象派の画家よりもはるかに上手だったりもするわけで。

 いずれにしても、このモリゾの「ベランダにて」はモリゾの多くの作品の中でも傑作の部類に入ると思う。そして本当の意味で、家庭的、あるいは親密的な作品というのは、ヴュイヤールとかそっちではなく、こういう作品なんじゃないかとも思う。

ゲルハルト・リヒター

抽象絵画(694-2)」 ゲルハルト・リヒター 1987年

 これが今回の企画展の最大の目玉的作品かもしれない。なんといってもオークションでの落札価格約30億円である。この作品をポーラ美術館が2020年に落札したときには、ちょっとしたニュースにもなったくらいである。

ポーラ美術館、30億円のゲルハルト・リヒター作品を落札。アジアにおける欧米作家作品の最高落札額|美術手帖 (閲覧:20220424)

 しかしニワカの絵画ファンはというと、ゲルハルト・リヒターというと「誰よ、それ」みたいな部分もある。思わずウィキペディアとかいくつかのサイトにあたってしまい簡単な引用メモを作ってしまいました。

ゲルハルト・リヒター

○ 略歴
・リヒターは1932年ドイツ・ドレスデン旧東ドイツ)生まれ。ドレスデン芸術大学で美術教育を受ける。1959年に当時の西ドイツ、カッセルで開催されたドクメンタ(グループ展)でポロックやフォンタナの作品を見て感激した。61年に29歳で東ドイツから西ドイツに亡命した。(ベルリンの壁ができる直前)。その後、デュッセルドルフ美術アカデミーで学んだ。現在はケルンを拠点に活動している。

○ 作品をめぐるエピソード
・2012年、競売大手サザビーズがロンドンで行った競売で、エリック・クラプトンが所有していたリヒターの抽象画『アプストラクテス・ビルト(809-4)』が約2132万ポンド(約26億9000万円)で落札された。生存する画家の作品としては当時史上最高額。

・2020年10月6日に香港で行われた現代美術のイブニングセールにおいて、約30億円でポーラ美術館が落札したリヒターの《抽象絵画(649-2)》(1987)だ。同作は、アジアにおけるオークションで落札された欧米作家作品の過去最高額となったことでも話題を集めた。

○ 代表的なシリーズ
・リヒターは様々な画風をもち、それぞれで多数の作品を描いており、シリーズ化している。
① フォト・ペインティング
・精密に模写した写真のイメージを微妙にぼかす
・新聞や雑誌の写真を大きくカンバスに描き写し、画面全体をぼかした手法である。

② カラーチャート
・カラーチップを配列した幾何学的な絵画
・モザイクのようい多くの色を並べる

③ グレイ・ペインティング
・グレイのみで展開する絵画
・キャンバス全体を灰色の絵の具で塗りこめる

④ アブストラクト・ペインティング
・鮮烈な様々な色を組み合わせて織り込む、スキージやキッチンナイフにより塗っては削ぎ取るなどにより重層的で複雑な色面を創り出していく。

⑤ オーバー・ペインティング
・スナップ写真の上に油彩やエナメルで描く

⑥ ミラー・ペインティング
・鏡やガラスなど反射する素材を重ね合わせて立てかけるパネル作品。光や反射によってぼんやりと映し出される風景など「どう見るか」を鑑賞者にゆだねる。

 1932年、ドレスデン出身。1945年のドレスデン空爆の時には13歳、街の85%が破壊されたという空爆の時にドレスデンにいたのかどうかとか、ちょっと気になる。戦後は旧東ドイツで絵を学んでいたが29歳の時にベルリンの壁ができる直前に西ドイツに亡命。けっこうスリリングな人生を歩んだようだ。

 移り住んだデュッセルドルフ美術アカデミーには、あのヨーゼフ・ボイス教授をしていて、リヒターはボイスの教えを受けた一人だという。ヨーゼフ・ボイス、以前MOMASでボイス・パレルモ展をやっていたボイスである。フェルトとラードへの拘りとか、ちょっと理解不能なボイスである・・・・・・。

 この「抽象絵画649-2)」については、リヒターのアブストラクト・ペインティングのシリーズに入るものなんでしょう。そういうようなことが図録に書いてあるかと思うと、この絵の解説がかなり難解というかぶっ飛んでいるというか。同志社大学教授で写真研究家の清水譲の解説を一部引用する。

クロード・モネが晩年の睡蓮連作で追及した、すべての可視像を支えている不可視の透明な平面(水面=レイヤー)を、レディメイドな視覚の制度として認識し、それを、マルセル・デュシャンに倣って「手を加えたレディメイド(readymadeaidé )として表現する—これがゲルハルト・リヒター(1932-)の創作を貫く問題意識である。それはまず、雑誌や新聞から採られた写真(=レディメイド)を、描き写してボケやブレを加える(=手を加える)ことで、焦点が合うはずだった面(ピント面=レイヤー)を知覚させる「フォト・ペインティング」として始まったが、このスタイルは早くも1967年に、既製品ノガラスをレイヤーに見立てた「4枚の板ガラス」で極相に達した。そこで次には、具象的な画像に頼らず、絵具から直にレイヤーを表出しようという試みが「抽象絵画」である。リヒターの「抽象」とは、そこにレイヤーが出現している状態を意味する。

(中略)

 さて、1987年の本作品は、第2機「抽象絵画」の感性へ向かう途上の作品として、激しいスキージの運動が画面をほぼ覆っている。が、よくみれば、その背後にはグラデーションのついた青い平面が垣間みえ、まるで密生した藪を通してみた青い海の風景のようで、画面を大きく斜め横切る特徴的な筆跡も、オランジュリー美術館の睡蓮の風景をも横切っていた柳の大木のようにみえてくる。つまり写真を描き写していた頃のなめらかな色面と具象がまだ生き延びているのである。とはいえ、レイヤーはすでにそれに依存していない。リヒターが完成させた「抽象絵画」の原理とは、ある絵画面の上へ、それとは質感の異なる面をぶつけると、両者の落差からレイヤーが発生することである。本作でも、大きな筆跡とそれ以外の画面の間、なめらかな色面(海)と激しいスキージによる描画(スキージ跡)の間、スキージによって絵具がなすりつけられた面と飛び散った面の間の落差からレイヤーが発生している。

「モネからリヒターへ図録」P151  (清水譲)

 最初に謝っちゃう。ジイさん理解不能です。ただでさえ難解な抽象画を誰が難解に解説しろというのだろう。というか、この図録を購入するような美術愛好家は多分、この文を読んで「なるほど」とこの絵を理解できるのかどうか。筆者の清水氏は写真研究者であるうえリヒターの著作の翻訳もあり、多分リヒターに関しては第一人者なのかもしれない。でも、この文章はちょっとドライブがかかっているというか、キメ過ぎのようにも思う。

 多分、ここで多用化されている「レイヤー」なる語は、一般的な「層」「階層」ではなく、文字通り「面」ということなんでしょう。さらに意味合いとしては写真研究家だけに多分、フォトショップなどで普通使われる「レイヤー」の意味を交えているのかもしれない。こういうやつですよね。

 次にデュシャンに倣ったという「レディメイド」は一般的には「既製品」を意味するけれど、多分、多分だけど、ここでは本来の意味性を意図的に奪ったうえでの「既製品」という意味で使っているのだと思う。ある種の素材性というか。しかし「不可視の透明な平面をレディメイドな視覚の制度として認識して手を加えたレディメイドとして表現する」のがリヒターの問題意識といわれても、正直なんのこっちゃとなってしまう。もうジイサン、絵を観るのやめてしまおうかしら。

 さらにスキージーによる描画というが、これは多分あのシルクスクリーンとかで使うらしいヘラみたいなやつのことだと思う。プラスチックを木で挟んだようなやつらしい。

 なんていうのだろう、もう少し図録なんだから万人にもわかるような解説文書いてもいいのではないかと思ったりもする。せっかく30億かけて購入した、たくさんの人に観て貰いたい作品なんだからと。

 ちなみにこの作品はポラー美術館の看板作品でもあるモネの「睡蓮」と並列してある。まあそのへんも「モネからリヒターへ」なんだろう。

「睡蓮」(モネ) 1907年

 でも多分、リヒターの抽象画と並べるモネ作品はこれじゃないと思う。モネの最晩年の作品でほとんど抽象画とされ、後の抽象画家に影響を与えたというこういう作品群だと思う。

「バラの小径 ジヴェルニー」(モネ)マルモッタン美術館所蔵

 まあ見事なアブストラクぶりだけど、これは晩年のモネが白内障が悪化していたことによるものだと思ったりもする。今、自分が片っぽだけだけど白内障患ってるからけっこうこういうのよくわかる。いい方の目をつぶって世の中見ると、割とこんな感じだもの。今度、川島の公園にあるバラ園行ったら試してみようかな。一人アブストラクト・モネみたいな。

 リヒターの抽象画に戻るけど、観た瞬間思ったのはポロックをカラフルにしたみたいっていうことくらいか。ポロックのアクションペインティングをより色彩豊かにしたくらいのところで自分は了解することでいいと思ったりもした。画家は先人の技法を模倣しつつそこから新機軸を出して行かなくはいけない。まあそういうことなんだろう。

 リヒターの「抽象絵画」はかなり意識して色を塗り重ねているのかもしれないけど、正直、モネのそれとか、例えばポロックのドリッピングとかはかなり偶然の産物のようにも思えたりもする。

 美術用語の中に「崇高」というのがある。巨大な自然物や人工的造形物などで普通の程度を超えた壮大さなどを見ることで喚起される恐怖感など、必ずしも心地よいといえない感覚を美的体験としてとらえるものだ。

 自分にとって抽象絵画から受ける印象はそれに近いものがあるかもしれない。もちろんなんでもかんでも抽象画であればということではない。例えば川村美術館で観たマーク・ロスコの「シーグラム壁画」なんかがそうである。美なのかどうか判らないが、ちょっと言葉に出来ないような、だけどどこか荘厳な雰囲気みたいな。

 今回のリヒターの抽象画もちょっとそれっぽい感覚があった。それは多分、30億という予備知識によって引き起こされたものではないとは思う。まあ凡人、俗人だから、またくないといえばウソにはなる。それとは別に、確かに中央の水色の部分など、なんとなく風景画ぽい感じもする。自分的には山々と湖かなにかみたいな。まあいい絵だとは思った。

 抽象画から受ける感覚、印象、そういうのはけっこう大事だし、ファースト・インプレッションがずっと残るような部分もあるにはある。例えばポロックの「秋のリズム」だって、多分最初に観たのは中学生の頃で、百科事典かなにかの図版だけど、一目みてなんだかオーケストラみたいって思った。そして何か面白い絵だなと思い、その感覚がずっと残っていて、25年後にニューヨーク行ったついでに現物を観に行ったりしたのだから。

 リヒターの「抽象絵画(694-2)」、せっかく30億という大金で落札した作品なんだから、思い切りこれを売りにしてそれこそワンスペースこれ1点みたいな展示でも良かったかなと思った。そこにリヒターの略歴やら、様々なシリーズの解説パネルとかつけるとか、そういうのもありだったのではと。多分、東京都美術館だったら絶対ワンフロア使っていると思う。

 リヒターの大規模な回顧展はたしか6月くらいにMOMATで行われる予定だとも聞く。多分、ミラー・ペインティングとか諸々出展されるのだろうとは思うけど、それが話題になれば、ポーラにも凄いのが1点あるらしいとかそういう話になるかもしれない。

その他気になった作品をいくつか

オリーブの木のある散歩道」(マティス) 1905年

 図録の解説によれば、新印象主義、いわゆる点描画法から脱皮してフォーヴィスムの方向をみい出す転換点に位置する作品だという。マティスの点描時代の作品はいくつか観たことがあるが、だいたいにおいて点描というか筆触がかなり大きい。その手の作品を観たとき、点描が大きくなってくずれていくとフォーヴになるなんてことを適当に思ったことがあったけど、まさにそういう作品。カラフルで美しい。そしてどことなくフォーヴ時代のアンドレ・ドランの作品と似通った部分もあるかなどと思ったりもする。

 これまでこの作品を一度も観ていないし、ポーラのマティスはほとんど観ているはずなので、これも新収蔵品なのかもしれない。

「傘をさす女性、またはパリジェンヌ」(ロベール・ドロネー)1913年

 ドロネーはカンディンスキーモンドリアンととも抽象絵画の先駆者とされる画家で、フランスの画家としてはもっとも早く抽象画を描いた人だという。この絵はドレス姿で傘をさして都市を遊歩する女性を描いたものだという。そういか都市なのか、なんとなく緑が基調になっているので、自然の中、公園の中でも散策する女性かと思った。たしかその隣がモネの「散歩」だったので、そういう感じがしたのかもしれない。

 きれいな、美しい作品だと思う。抽象というよりもどこか色面を単純化したフォーヴ的みたいな感じもするし、具象から抽象へと向かう過渡期みたいな風にもとれるか。

「波濤」 「泥錫」 (白髪一雄) 1987年

 ポーラで白髪一雄かとちょっと意外な感じもする。多分、これも新収蔵品か。どこかで白髪一雄の作画風景を撮ったビデオを見たことがある。本当に天井から吊られて、足で絵具を伸ばしていた。これは体力使うし、重労働だなと思った。とてもアートのオシャレさとは対極のイメージという感じだ。その印象が強いせいか、どこか白髪作品は汗臭ささ、体力勝負みたいなものを思ってしまう。

 とはいえ白髪一雄は評価が高く、作品価格もかなり高いものらしい。2018年にはオークションで「高尾」が1034万ドル、当時のレートで約11.3億円で落札されたとか。今や現代アートの価格はうなぎ上りという感じようだ。

「風景KP」(猪熊弦一郎) 1972年

 これは一目観て、ちょっと好きかもと思った。帯のようなシルエットは風景のようである。都市のビル群であったり、山や森の風景であったり。それが単純化された蜃気楼のような感じで描かれている(ように自分には見える)。それが何層にも連なっているのは、どこかフィルムを映写みたいなように思えた。

「マドレーヌ」(藤田嗣治) 1933年

 藤田は個人的にはあまり好きなほうではない。なのでふだんはあまり反応しない。でもこういう鮮やかなグリーンの色合いというのはちょっと珍しいかなと思ってちょっと興味を覚えた。前述したようにキャプションでは確認できないが、図録によれば水彩画だそうな。まあそのくらい一目みれば判るでしょ、といわれればその通りではあるが。色合いは別にすれば、まさしく藤田嗣治そのものでもある。