昔、こんなに勉強しただろうか

 通信教育の大学生になって3年目に突入した。

 一応、学士入学というのだろうか、4年間ではなく2年間で卒業できるはずだったのだが、2年なんてとてもとても、という状態にある。2年間で60単位が卒業要件なのだが、ただいま41単位である。今年1年で卒業できるかどうかも微妙な状況だ。やっぱり66歳からの勉強はあまりにも無理があったか。成績は一応だいたいAをキープして、ちょこちょこBがあるくらいだけど、もう右から左。単位とったとたんに総てを忘れているような感じ。

 それでも例えば一般教養の社会学などは、新しい学説とかに触れるとけっこう嬉しくなったりする。ブルーノ連関の社会学とANT(アクターネットワーク理論)とかネットワーク社会のパノプティコンとか、そういう考え方はなんていうか目から鱗みたいな感じもする。昨今の人文科学、社会科学は認識主体としての人間を崇高概念としていないみたいな感じをもったりする。多分、18世紀以降の啓蒙主義、近代理性主義には、前提条件としての認識主体=人間みたいな前提条件があった。でも20世紀後半以降はその前提としての人間優先が崩れているような。まあこれは単なる思いつき。

 

 通信教育を始めてからというもの、普通の読書、小説とかルポとかそういうのを読むことが極端に少なくなった。本、読んでいないかといえば、テキストの類はそれこそ毎日といえばウソになるけど、ひっきりなしに読んでいる。一冊3000円なにがしの170~200ページのテキスト類をもう何冊買っただろう。本棚1段くらいはあるけど、それにけっこう目を通している。

 そしてなによりもレポートの類がたくさんある。ビデオ授業は、ビデオ視聴後に1200~2000字くらいのレポートを提出する。テキストだけをもとにした授業はというと、まずレポートとして1問800~1200字のものを3問くらい。それに受かると試験として1200字くらいの論述試験を1時間で仕上げる。ネットで繋げて「さあ、これから試験ですよ」となるとそこからきっちり1時間で仕上げなくてはならない。

 こういうの年寄りにはシンドイ。シクシク。それを思うと、わざわざ金払って、しかも年金生活者にとってはけっして安くない授業料を払って、なんでこんな苦行をしているんだということになる。仕事を辞めてから、急にマゾヒスティックになったのだろうか、体質が。

 

 そしてつくずく思うのだが、昔々のこと、かれこれ50年近く前の大学生の頃を思い出してみる。

「俺って、昔、こんなに勉強しただろうか」

 かって自分がいた大学は、まあ程度はあまりよろしくないうえに、まだまだ学校が荒れていたこともあり、試験がつぶれてレポートになることもけっこうあった。当時、レポートが多いといっても、今ほどの字数書いていなかったような気がする。

 そもそも昔は年間通しての一コマの授業で4単位、4年間で120単位くらい取れば卒業できたのではなかったかと思う(定かではない)。そして自分は多分、3年間でほとんどの単位を修得して、4年生のときはほとんど遊びのような一般教養科目や、単位習得なしで授業でたりしていた。3年で単位のほとんどが取れるというのは、けっして自分のレベルが高いということでもなんでもなく、ようはそういう大学だったというだけのことだ。

 

 今、受講している通信制の大学はというと、年間4学期制で1科目を三ヶ月で受講し試験を受ける。合格すると2単位を得ることができる。これってタイト過ぎないかと思ったのだが、友人に聞いてみると今の大学はけっこうそういうところが多いのだとか。

 う~む、今の大学生って大変なんだな。

 これも友人と話したこと。

「なんか、ずいぶんレポートとか論述試験多いみたいだな」

「そうなんだ、毎回1200~2000字とかある」

「よくそんなに文章かけるね」

「そう、正直きつい。会社ではけっこう報告書の類は短時間で書いたりしてたけど、それと学習系は全然違うしね」

「というか、そもそも自分ら昔大学生の時に、こんなに勉強してただろうか」

「うん、自分もそれちょっと考えてた。確実にしてないな。昔の大学の授業はもっとルーズだったし、試験やレポートも楽勝だったような気がする」

 

 思い起こせば、ほとんど一回も授業出ることなく債券総論は「優」をもらった記憶がある。なんなら一般教養で近代文学かなにかで、書くことがなくて、答案用紙の裏にカレーの作り方を書いたことがあったような。それでも「不可」ではなく「可」だった。でもその授業で北村透谷や島崎藤村の苦悩や煩悩について学んだような記憶がある。漱石や鴎外のメインストリームからすると、今風にいえばB面の文学史みたいな感じだったか。

 しかし、かって自分らの拙いレポートを読まされた先生たちには、なんとなく同情というかお詫びしたい部分もあるな。多分、多分だけど相当に拙いヘタレな作文ばかりだったような気もする。

 

 そしてさらに思う。最近の大学生は多分、かっての自分たちよりもはるかに学習している、あるいは学習させられているのだなと思ったりもする。これは凄いことだ。でもエライとは思わない。なんなら50年前の大学生だった自分らは、勉強こそしなかったけど、もっと社会に対する問題意識をもっていたし、変革志向みたいな部分もあったように思う。テキスト以外の教養書、専門書だって読んでいた。

 そして卒業してからも、読書の幅はもっと広がったようにも思う。自分の場合だけど、哲学書思想書を一番読んだのは大学を卒業してから30になるくらいだったような気もしている。書店や出版社に勤めていたからか、そういうものに触れる機会も多かったし。ただし、いわゆるお勉強はずっとずっとできない部類だったかもしれない。

 今の大学生が優秀かどうか。身近では数年前まで自分の子どもがそうだったが、けっこう学習でアドバイスもしたので、うちの子はさほど優秀ではなかったのだろう。この親にしてこの子みたいな。

 あまり若い人と接することなく人生送ってきた。自分が人生の後半にいた会社、それまであまり高学歴の子は採用しなかった(そもそも応募してこない)。でも、ある時期から就職難、不況のせいもあり、募集するとそこそこの学歴の子が応募してくるようになった。ちょうど自分が経営の立場にたった頃だったか、新卒、第二新卒などで大卒をメインにとるようにした。

「こんな子、うちの仕事にはあいませんよ」

 そういう否定的な意見も多かったが押し切った。

 2年続けて国立大出の子が応募してきたので採用したが、やっぱり仕事の覚えいいし、頭の回転も早かった。でもだいたい仕事以外のコミュニケーションを取るのは難しかった。ゲームのことなどこちらはまったく判らないし。ある時、「ダフトパンク聴いたことあるか」と質問して、「いやありません、なんですか」と返された時には、もう若い子とコミュニケーション取るのはやめようと思った。『ランダム・アクセス・メモリーズ』が大ヒットした頃だっただろうか。

 

 話はいつものように脱線した。

 とにかく3年目の老いぼれ大学生である。学習の日々はヒーヒーの連続だ。そしておそらくこれまでの人生でいえば、二番目くらいに勉強をしているかもしれない。一番は多分、浪人して受験勉強していた頃か。あの時はまだ未来に希望があった。大学に入ればいろんなことが待っているはずだ。鬱屈した中でもそれがあった。

 今はというと、そもそも未来がないのだから、トホホでもある。まあそうはいっても今まで知らなかったこと、忘れたこと、中途半端にかじったことなどに新たに接することは、まあ喜びといえ喜びかもしれない。

 それにしても昔の大学生は、こと自分に限っていえば、今ほど勉強はしてなかった。