佐野美術館「没後5年 堀文子」展 (4月20日)

 

 堀文子を知ったのは2年前のこと。五浦の天心記念五浦美術館で足を運んだときに、たまたま「成川美術館コレクション展」をやっていて、そこで初めて知った。成川美術館が箱根にある近代以降の日本画専門美術館であることも初めて知った。そのときには山本 丘人の秀作の他、女流画家の作品では堀文子と森田りえ子の作品が印象深く残った。

天心記念五浦美術館~成川美術館コレクション展 (6月18日) - トムジィの日常雑記

 そして昨年には初めて成川美術館に訪れ、堀文子の作品にも再開した。「花の画家」と評されること、70代でイタリアト、スカーナ地方のアトリエで制作に取り組んだこと。その時に描いた花いっぱいの田園風景の華やかな大画面の絵が、気に入った。

 堀文子は長命でキャリアが長い人だ。1918年(大正7年)に生まれ、2019年(平成31年)に101歳で亡くなった。女流画家は長命というイメージがある。小倉遊亀は105歳、片岡球子は103歳でそれぞれ亡くなっている。堀文子はそれに次ぐ。

 1918年(大正7年)、大正世代というと、自分の父が1923年(大正12年)の生まれなので、父よりも5歳上ということになる。でもなんていうか自分からすると親の世代ということになる。なんとなく親近感がわくような気もする。

 堀文子の同世代の画家というとどのへんだろうか。ざっとあたってみると、例えば菅井汲(1919年生)、横山操(1920年生)、加山又造(1927年生)、草間彌生(1929年生)、平山郁夫(1930年生)と、このへんが同世代の画家ということになる。横山操や加山又造平山郁夫よりも年長であるというのが、ちょっと意外な感じがする。

 堀文子の年譜によると、14歳で福田豊四郎の作品を知り共感を覚え、18歳で女子美術専門学校(現・女子美術大学)に入学、在学中はアンリ・ルソーの<蛇使いの女>の写真に感銘を受ける。22歳で女子美術学校を卒業、その後2年間東京帝国大学農学部の教室で農作物記録係を務めたとある。植物彩画をずっと描いていたということになる。また第3回新美術人教会展に出品して奨励賞を受賞するなど、職業画家としての道を歩んでいる。同じころにルネサンスの画家ピエロ・デラ・フランチェスカに感銘を受けたとも。69歳の時にイタリア、トスカーナ地方にアトリエを構えたのも、トスカーナで制作を続けた500年以上前にその地で画業を続けたピエロ・デラ・フランチェスカへの思いがあったのだとも。

 福田豊四郎、アンリ・ルソー、ピエロ・デラ・フランチェスカといった画家が、堀文子のバックボーンになっていたのは間違いないところだ。特に初期から中期にかけての作品にはこの三人の作品の影響が強く感じられた。さらにいえばその時その時で、堀は様々な画家の画風、美術潮流を受容している。キャリアの後半になっても、例えばパウル・クレー風な作品、ジョアン・ミロカンディンスキー風の作品などを実験的に試している。

 その後も学校教師を務めながら画業のキャリアを積んでいく。戦後の1946年、28歳で外交官の箕輪三郎と結婚する。1949年30歳のとき、創造美術に参加して奨励賞を受賞している。創造美術は1948年に「我等は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」と宣言して始まった新しいグループで橋本明治、吉岡堅二、山本 丘人、福田豊四郎、上村松篁、秋野不矩らが集った。そして翌年には堀口も参加している。

 戦後の新しい日本画の革新性のある団体だったが、ほとんどのメンバーが40代の中堅作家であり、一番若いほうの堀文子でも30歳になっていた。これについて堀は、革新的な仕事をするには高齢過ぎるが、その原因は戦争で若い世代が戦死してしまったことだったと述懐している。

 1960年42歳のときに夫箕輪三郎が死去する。それを機に翌年の1961年に海外に旅立ち、3年近くに渡ってエジプト、ギリシャ、イタリア、フランス、アメリカ、メキシコを巡る。

 1964年に帰国後は旺盛な画業活動を続ける。以後、絵本などに活動範囲を広げるが、1975年に57歳でイランに旅行。1979年61歳のときに軽井沢にアトリエをもち、大磯と行き来の生活を始める。そして1987年69歳でイタリア・トスカーナ地方のアレッツオにアトリエ設けてイタリアと日本を行き来する生活を1992年74歳まで続ける。それ以降の彼女のアグレッシブな海外渡航は回数も増えていく。

1995年2月(77歳)アマゾン、メキシコに取材旅行

1995年6月(77歳)イタリア旅行

1996年6月(78歳)ポルトガル旅行

1997年春    (79歳)ネパール旅行

1998年2月(80歳)ヒマラヤ旅行

1998年3月(80歳)ペルーでインカ文明取材

1999年7月(81歳)ヒマラヤ山麓に幻の高原植物ブルーポピーを求め取材旅行

2000年7月(82歳)ネパール旅行、ブルーポピーをスケッチする

 その後海外旅行は断念するが、高価な顕微鏡を入手しミジンコやクリオネアなどの観察、また水族館でクラゲ観察などを続けたという。年を追うごとに好奇心が増し、アグレッシブになっていく、そういう稀有な人だったんだなと改めて思った。

 

 また堀文子は1978年から1982年までNHKきょうの料理』テキストの表紙を担当している。彼女の絵に親近感があるのはそういうところもあるかもしれない。あの手の雑誌は手に取ることがなくても、書店に行けば必ず目に触れるところがある。なんなら平松礼二の絵にもどこか既視感があるのも、彼が長く月刊誌『文藝春秋』の表紙を担当していたせいかもしれない。

 

 気になった作品をいくつか。

<自画像>

<自画像> 1939年(昭和14)油彩/カルトン 33.0×23.4

 21歳、女子美大の頃の作品。日本画部の学生だったが油彩にチャレンジしている。堀のコメントは「自立するための方法を消去法で考えて、絵の道に進み、初めて努力することを決心したのです」とある。そういう強い意志性を感じる。野心ある若い女性の姿だ。髪の毛の表現とかどこか中村彝<エロシェンコ像>を思わせる部分もある。油彩による習作でもあり、また自己の思いを表出させようとした意欲的作品にも見える。

 

八丈島

八丈島> 1950年(昭和25)紙本彩色 91.5×73.0 株式会社米八グループ

 第2回春季創造美術展出品作で32歳のときの作品。この年1月に堀文子は創造美術の会員となっている。左側の簡略化された木のイメージは、堀文子のキャリアの中で繰り返し登場する。

<海辺>

<海辺> 1950年(昭和25) 紙本彩色 112.0×135.0 株式会社米八グループ

 こちらは9月に開かれた第3回創造美術展に出品された作品。春の<八丈島>と同じく福田豊四郎の影響が濃い。後景の海水浴する人物造形にはどこかピカソを感じたりもする。戦後日本の日本画の革新、日本画から日本の絵画を模索する作家の新しい表現といえるのかもしれない。

<月と猫>

<月と猫> 1950年頃(昭和25年) 紙本彩色 100.0×72.7 株式会社米八グループ

 これも1950年の作品。こちらは幻想的な不思議風猫。アンリ・ルソーの受容を思わせる部分もあるか。堀文子は40歳くらいから絵本など児童書制作を手掛けている。このへんの画風の延長上かもしれない。ますむらひろしも若い頃にどこかで堀文子の絵に出会っていたのではと適当に想像している。

<街>

<街> 1957年(昭和32) 紙本彩色 73.0×117.3 株式会社米八グループ

 大4回日本国際美術展に出品した作品。39歳の堀文子はパウル・クレーをやってみたかったのだろうか。もはや画壇でも中堅に位置しながら、こういう明らかな受容的作品を描いてしまうところがある意味凄いと思ったりもする。

<冬野の詩>

<冬野の詩> 1988年(昭和63) 紙本彩色 140.0×190.0 株式会社米八グループ

 堀文子の代表作の一つでもある。1979年に軽井沢にアトリエをもち大磯と行き来していたが、おそらく厳しい冬の軽井沢からインスパイアされたのだろう。幻想的、詩的、そして装飾性など、堀文子のエッセンスが凝縮されている。この絵を発表する前年の1987年にはイタリア・トスカーナにもアトリエを構え、日本とイタリアを行き来するようになっていた。70歳の作品だが老成することなく、どこかみずみずしい感性を感じさせる。

<極致の宇宙に生きるものたちⅡ>

<極致の宇宙に生きるものたちⅡ> 2002年(平成14) 紙本彩色 45.5×38.0
 株式会社米八グループ
<妖精(クリオネ)と遊ぶ> 

<妖精(クリオネ)と遊ぶ> 2003年(平成15) 紙本彩色 53.1×41.0 
株式会社米八グループ 

 83~84歳頃の作品。堀文子は2001年に解離性動脈瘤で倒れたが奇跡的に治癒したという。82歳の時にネパール旅行をしているが、この頃からは顕微鏡で極小生物を観察するのが日課になっていたという。ミクロの世界のキラキラをみずみずしい感受性は、こんなファンタジーとして結実させる。ミクロの世界は具象がそのまま抽象性を帯びているという不思議さ。

 ミロやカンディンスキーが頭の中でこねくり回した末に現出させた抽象的世界を乗り越えるかろやかさ。「顕微鏡をのぞいてごらんなさい。リズムや音楽、ファンタジーがありますことよ」と笑っておっしゃるかもしれない。

<アフガンの王女>

<アフガンの王女> 2003年(平成15) 紙本彩色 116.3×66.6

 モデルはあの黒柳徹子である。堀文子85歳、黒柳徹子70歳の時の作品。

 

 今回の出品作品の一覧を見ていると、株式会社米八グループという名前をやたらと目にする。調べると全国のデパ地下で店舗展開をしている「おこわ米八」のグループ統括会社のようで、堀文子の作品を多数所蔵しているようだ。創業者がファンなのかどうかわからないけれど、がぜん「おこわ米八」に親近感を覚えてきた。デパ地下で店舗を見つけたら、「あっ、堀文子いっぱい持ってるとこ」みたいなこと思うかもしれない。なんとなく美味しそうな「おこわ」みたいには思っていたので、今度買ってみようかと思ったりした。