伊豆旅行に行ってきた① 大瀬崎・韮山 (4月18日)

 先週の木曜から二泊三日でまた伊豆旅行に行ってきた。3月にも行っているので、ジャスト一か月ぶり。例によって健保の宿が取れた故。

 だいたい行くところがワンパターンになっているので、今回は出来るだけ行ったことがないところを回ろうと思った。といっても、例によってノープランで、だいたいが前日になんとなくこの辺行くかみたいな感じでもあったけど。

 

 初日、家を出たのは朝9時過ぎ。旅行だから早く出ようという気もない。伊豆はまあまあ近場だということもある。

 最近の圏央道は、特にウィークデイが混んでいたりする。特に鶴ヶ島から入間あたりと、八王子ICあたり。常磐、東北、関越、中央、東名という主要高速道路と接続している物流道路なので、トラックの交通量が半端ない。この日はわりとスムーズに流れていて、中央との分岐のところと海老名ICのところで少しだけ渋滞があっただけ。

 今回は海老名ICを通り過ぎて、初めて新東名を使ってみる。この区間伊勢原の少し先で東名に合流する。その後は順調に御殿場から新東名、さらに伊豆縦貫道へと走る。

 函南塚本ICで降りて休憩のため、めんたいパークへ。ここには以前一度来たことがある。かねふくが運営しているドライブ・イン。ここで「鬼盛めんたい丼」でも食べようかと思ったけど、妻も自分もさほど腹減ってなかったので、おにぎりと豚まんを買って出発。

 一応記念に1枚。

 

 

大瀬崎

大瀬崎|見る・遊ぶ|沼津市公式観光サイト【沼津観光ポータル】

 そして最初の観光はというと、以前テレビの『バスサンド』でやっていた大瀬崎に行くことにする。ここは駿河湾に突き出た小さな岬。そこには海から数メートルしか離れていないのに、淡水の池がある。

 

 遠くから見るとこんな感じで、ちょっと天橋立みたいって一瞬思ったりした。

 

 岬の手前にある駐車場に車を止めてからは海沿いの細い遊歩道を車椅子を押して歩く。遊歩道は狭く、すぐ脇は海で、波もかかりそうな感じ。途中から自然群生しているビャクシンの樹林の中を行くことになるのだが、これがなかなかの景観。それから大瀬崎神社を通り、淡水の池神池。池の中をのぞくと、たしかに鯉が沢山泳いでいる。淡水だ。

神社、本殿は階段を上ったところの模様 

 神池

 さらにその先を少し上ると、それまでの舗装された遊歩道(けっこうガタガタ)から、急に大きな石を敷き詰めた道に出る。ここはちょっと車椅子では行けないので、その先がどうなってくるのか一人で見に行くことにする。

 石を敷き詰めた小径はすぐに終わってまた舗装された遊歩道になる。そして岬の先端部分にはビャクシンのご神木がある。テレビでは霊感スポットみたいに紹介されていたけど、さほどそういう雰囲気もない。ただ樹齢がどのくらいかわからないけど御神木はまあまあ見事。

 ご神木

 その先にもビャクシンの巨木がいくつもある。

 

 さてと、ここへどうやって妻を連れてこようかと思案。まず石を敷き詰めた小径は手をひいて歩き、それから車椅子をかついで持ってきてみたいにするかなどと考えながら戻ろうとすると、妻から電話がある。なんでも少し尿意があるので戻りたいという。

 アチャーという感じ。そうなるとトイレは駐車場に戻るまではなさそう。神社にはあるのかもしれないが、誰もいない様子。ウィークデイはこんなものなのだろうか。

 途中、海岸沿いにはダイバー用の店舗みたいなものがあるにはあるが、そこでトイレを借りるのもなんだし。ということで、速足で駐車場まで戻ることに。

 駐車場のトイレも駐車場からは少し離れたというか、少し上ったところにある。トイレには一応多目的トイレもある。それだけで有難いというところか。

 用を足してからまた岬の先端に行くのは時間的にけっこうロスだし、次行く予定もあるので、大瀬崎観光は終了。妻はちょっと残念そうでもあったけど。まあせっかくの観光地なので、岬の奥にもきちんとトイレ設備があってもいいかもしれないなとはちょっと思った。

江川邸

重要文化財 江川邸

 江川邸は幕府の代官を長く続けた江川家の住居。もともと江川家は晴和源氏の流れをくみ、平安時代末期、保元の乱をきっかけに1160年に宇野家7代宇野親信が13人の従者と伊豆韮山に移り住み建造されたのが始まりとされている。

 宇野家は鎌倉時代室町時代に伊豆の豪族として地盤を固め、15世紀中ごろに江川家として改姓し、江戸時代には世襲代官としてこの地の他、今でいえば神奈川、山梨の一部、埼玉の一部なども管轄統治した。

 歴代当主の中では幕末期に活躍した36代江川英龍(坦庵)が有名だ。英龍は開明的人物で、渡辺崋山高野長英らと尚子会を通じて親交をもち、蘭学を修め、外国の社会事情や国際情勢に通じた。幕府には沿岸防備を建議し、身近からも近代的な兵制や農民兵なども採用。さらに鉄砲鋳造のために反射炉を建設した(没後完成)。またペリー来航の際には、幕府より湾岸防備のため砲台築造を命じられ、わずか次の来航までの7ヶ月の間にお台場を完成させたことなどでも知られる。

 また兵糧としてパンを最初に製造したことでも知られ、パン祖ともいわれている。英龍はまた革新的技術者、開明思想家、そして文化人でもあり、書画、詩作、工芸品なども残されている。

江川英龍 - Wikipedia

 今回も展示資料の中には江川坦庵直筆の絵も展示してあった。南画・文人画のスタイルである。坦庵は谷文晁に師事したとも伝えられている。文晁が江川邸を訪れ、直接絵を教えたという話も伝わっているがどうもそれは定かではないようだ。また谷文晁の門下にあった渡辺崋山とは、尚歯会を通じて親交があったが、崋山から絵を学んだかどうかもいくつかの説があるという。

 

 

 

 江川英龍についての知識というと自分の場合は概ね、みなもと太郎の長編歴史漫画『風雲児たち』から。最初に訪れたときもそのことを綴った記録が残っていた。

江川坦庵 - トムジィの日常雑記

 惜しむらくは、みなもと太郎は2021年に亡くなり、『風雲児たち』は60数巻で永遠に未完のまま潰えてしまった。

 

 現存する江川邸のほとんどは、1600年前後に修築されたものとされている。ここには二度ほど訪れている。今回訪れたのはつい最近受講した空間デザインの授業で、テキストの1章を割いてこの江川邸のことが解説されていたので、確認の意味もこめて見てみたいと思ったから。

 まず住宅に入ると広い土間があり、床は三和土となっていて、この民家の中心となっている。その土間の上部は大きな梁が架かり。さらにその上部には高さ12メートルあまりの屋根を支えるための小屋組みが幾重にも折り重なっている。この小屋組みには区議が一本も使われておらず、楔によって構成されている。重い屋根(当初は茅葺だったが、1958年に銅板葺きになっている)を出来るだけ軽い材料で支える工夫がなされている。さらに上部には排煙と明り採りが設けられ、空間の上昇性が生みだされている。

 こうした民家(古民家)には現代的なデザイン性は存在しない。貴族や大名の邸宅のようなデザイン性、装飾性は排され、生活のための工夫によって形成されている。それは例えば柳宗悦らが提唱した民芸に通じるものとしての<民家>ということなのだろう。

 テキストの解説をまとめるとこんなことだった。過去二度訪れたときには漫然と観光名所、文化財として見ていたものだが、改めてそういう指摘を確認したいということだった。

 

 

 

 

韮山反射炉

韮山反射炉 - Wikipedia

 江川邸の見学を終了したのが4時。近くなので韮山反射炉にも行ってみるかと思ったが、調べると4時半で終了という。どうしようかと思ったのだが、せっかくなので行ってみることにした。ここに来るのも三度目。

 着いたのが4時10分頃。ぎりぎりセーフで入場。いつもだとガイダンスセンターでの展示資料や映像なども見るのだけど、今回は素通りしてとにもかくにも反射炉を見に行くことにする。

 ここは最初に来た時はあまり整備されていなかったのだが、やはり世界遺産明治日本の産業革命遺産)に登録されてからは、ガイダンスセンター、駐車場、周囲の遊歩道なども整備されている。

 行ったときには、自分らよりも前に数名の年配観光客が入ったばかり。自分らも合わせても10名に満たない。ウィークデイの閉館まぎわなのだから当たり前か。2年前に訪れたときはちょうど桜が満開の時だったが、さすがに周囲は緑の葉っぱばかりだった。

 反射炉と大砲、遊歩道沿いの小川。

 

 

 そもそも反射炉ってなんだ。たぶんガイドとか、ガイダンスセンターで映画とかを見ているはずなのだけど、今ひとつよくわかっていない。おさらいの意味でガイドの説明を引用する。

なぜ「反射炉」と呼ばれるのか

 反射炉は、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで発達した金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉で、内部の天井がドーム状になった炉体部と、煉瓦積みの高い煙突からなる。

 石炭などを燃料として発生させた熱や炎を炉内の天井で反射し、一点に集中させることにより、銑鉄を溶かすことが可能な千数百度の高温を実現する。このような、熱や炎を反射する仕組みから、反射炉と呼ばれたのである。