『ロバート・キャパ 戦争を超えて』 (4月11日)

 

 

 木曜日、東京富士美で始まったばかりの『ロバート・キャパ 戦争を超えて』を観てきた。ロバート・キャパは著名な報道カメラマンである。自分も若い時に『ちょっとピンボケ』を読んだことがあるので、一応名前は知っている。ハンガリー人でパリを中心に活躍、ヘミングウェイなどとも親交があった。報道カメラマンという存在を高めたスター・カメラマンでもある。スペイン内戦の時に撮られた「崩れ落ちる兵士たち」ヤノルマンディー上陸作戦で撮られたまさに「ちょっとピンボケ」の1枚などは世界的に有名だ。

 そのキャパのプリントを多数所蔵しているのは、国内では東京富士美と横浜美術館の二館。何年かに一度こうしたロバート・キャパ展が開かれているのだが、実際に観るのは初めてだ。今回は所蔵するヴィンテージ・プリント75点を前後期に分けて展示されるという。

前期展示:4月09日~5月19日

後期展示:5月21日~6月09日

 

デンマークの学生にロシア革命史について講演するレオン・トロツキー
コペンハーゲンデンマーク,1932年11月27日 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 キャパが初めて職業カメラマンとして撮ったのが当時亡命生活を送っていたレオン・トロツキーアジテーションを活写した1枚。雑誌社の資料係をしていたキャパは、他のカメラマンが駆り出されていなかったため、急遽デンマークに行くことになったのだとか。

 トロツキーはこの後メキシコへと亡命生活を続ける。そこで出会ったのがディエゴ・リベラと妻のフリーダ・カーロ。カーロとは親子ほどの歳の違いがあったが、不倫関係になったという。女性関係に奔放だった夫ディエゴ・リベラへの当てつけだったのか、若い20代の好奇心溢れる女性だったカーロが希代の革命家に興味を覚えたのかは判らない。近しい知人に年寄りの相手は疲れるといった感想を述べていたという話も何かで読んだ記憶があるが。

 ロバート・キャパハンガリー生まれで本名アンドレフリードマンという。ドイツの雑誌社で資料室の仕事をしていたが、その後パリに行く。当初はまったく仕事がなく食うや食わずの生活だったという。そのときパートナーだった同じ報道カメラマンのゲルダ・タローの発案で、アメリカで成功したカメラマンであるロバート・キャパという架空の人物を作り出し、フリードマンは架空のロバート・キャパに成りすまして仕事を受けるようになったのだ。

 そしてキャパはスペイン内戦に報道カメラマンとして臨む。そこで撮られた1枚が彼を、そして戦争報道の写真として歴史に名を残すことになるこの写真である。

共和国軍兵士の死(崩れ落ちる兵士)、エスペホ近郊、コルドバ戦線、スペイン
1936年9月5日 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 しかしこの写真は真偽について数々の証言がありまた様々に検証が行われてきた。そしてどうやらこの写真は実際の戦闘シーンではないことや撮影したのはキャパではなく、パートナーのタローだったことなどが明らかになっているようだ。

崩れ落ちる兵士 - Wikipedia

 キャパはこの写真についてはコメントを避け続けた。そしてパートナーだったタローはこの写真が有名となる以前に同じくスペイン内戦の取材中に戦車に轢かれて亡くなっている。

オマハ・ビーチに上陸するアメリカ軍、Dデイ、ノルマンディー、フランス 1944年6月6日 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 そしてこの1枚もキャパの名前を有名にした1枚である。オマハ・ビーチはノルマンディー上陸作戦での最大の激戦地である。オマハ・ビーチの戦闘が熾烈を極めたことは、映画『史上最大の作戦』でもメインのシーンとして描かれている。指揮をしていたのは第29師団のコータ准将扮するロバート・ミッチャム。副官で『ローマの休日』の陽気なカメラマン役だったエディ・アルバートが出ている。とにかくドイツ守備隊の屈強な反撃の中で海岸にくぎ付けになる。

 そしてもう一つよりリアルにオマハ・ビーチの戦闘を描いたのがスピルバーグの『プライベート・ライアン』の冒頭のシーンである。あの兵士たちがめったやたらと死にまくる延々と続くシーン。あれは映画史上に残る戦闘シーンだと思う。

 そんな熾烈が激戦の場で、兵士よりも前に出て兵士を撮る。兵士以上に勇猛な報道カメラマンの存在を印象付けるのがこのピンボケの戦闘シーンの1枚だ。しかしキャパはこの後すぐに戦場を離れて艦船に戻り、そこで意識を失ったのだとか。

 

パリの解放を祝う人々 パリ、フランス 1944年8月26日 
ロバート・キャパ 東京富士美術館


 今回の企画展で多分一番気に入った作品かもしれない。ナチスからの解放を祝うパリ市民祝祭気分を活写した奇跡の1枚のようにも思える。

 

集団農場の微笑む女、ウクライナ 1947年8月 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 そして印象に残る1枚。この時キャパは作家ジョン・スタインベックとともにソヴィエト連邦に取材旅行に出ている。そこで撮った1枚。当時は当然のごとくウクライナソ連邦の一共和国だった。戦争を生き延び、今は農業に従事する逞しい女性の姿を捉えている。

 

母親と赤ちゃん、ネゲヴ砂漠北部のネグバ・キブツイスラエル 1949年
 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 ユダヤ人であるロバート・キャパは当然のごとくイスラエルに対して大きなシンパシーを抱いている。1949年、建国したばかりのイスラエルを訪れ、そこで希望に満ちた新し国作りの中に生きる人々を親和的に撮っている。しかしもし今のパレスチナの惨状を目にしたら、キャパはどんな写真を撮るだろう。そんなイフををつい思い描いてしまう。

 

キジ狩りの合間に休息するアーネスト・ヘミングウェイと息子グレゴリー、サン・ヴァレー、アイダホ、アメリカ 1941年10月 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 20年後にライフルで自殺するノーベル文学賞作家の家庭的な姿を描いた1枚。ナイーブで感受性豊かな作家は、タフな男を演じていた。息子を狩りに連れ出す強いパパを演じていた1枚。そういうことなのだろうか。キャパとヘミングウェイはスペイン内戦以来親交があり、キャパはヘミングウェイをパパと呼んでいたという。

 

映画『凱旋門』の感傷的なシーンを撮影中のイングリッド・バーグマン
ハリウッド、アメリカ 1946年7-10月 ロバート・キャパ 東京富士美術館

 この頃、ロバート・キャパはこの人気女優イングリッド・バーグマンと密かにロマンスを進行させていたとか。スウェーデンからハリウッドに進出し、『カサブランカ』、『誰がために鐘は鳴る』、『ガス灯』などに出演し、『ガス灯』でアカデミー賞を受賞するなどトップスターでもあった。一方で彼女はスウェーデンの医師と結婚して一子をもうけている。キャパとのロマンスは秘められたなんとかみたいなことだったのだろう。

 バーグマンはその後1949年にイタリアの映画監督ロベルト・ロッセリーニと不倫関係になり、離婚してロッセリーニと再婚する。ロッセリーニとの関係は一大スキャンダルとして大きく報じられ、一時期バーグマンはハリウッドからヨーロッパに仕事の場を移すことになった。

ツール・ド・フランス 1939年 ロバート・キャパ 東京富士美術館蔵 

 東京駅のプラットホームで一緒に電車を待つ子どもたち 、東京、日本、1954年4月
 ロバート・キャパ 東京富士美術館所蔵

 ロバート・キャパは1954年4月に毎日新聞社の招待で来日。日本各地に取材して撮影を行っている。急遽、日本での滞在を切り上げてインドシナ戦争の取材に出向き、ベトナムで地雷を踏み亡くなった。1954年5月25日のことだった。