「~かなあ」という言い方が癇に障る件

 最近、日常会話の中で「~かなあ」と言う回しをよく聞く。普通の会話だけならいいのだが、テレビで司会者やコメンテーターなどからそういう言い回しを聞くことがある。さらにいえば報道番組の中で、記者などの取材報告の中でも使われたりする。

「大谷選手は現時点で言えることはすべて話たのかなあ」

「二階元幹事長のあの暴言は、記者の背後にいる国民に対して失礼ではないかなあ」

小林製薬のサプリはの被害は今後広がるのかなあ」

 今朝も朝のワイドショーを流し見していたら、司会者が何度も「~かなあ」を連発していた。

 

 この言い回し、いつ頃から言われるようになったのだろう。記憶的にいうと少なくとも20世紀にはあまり使われていなかったのではないか。21世紀になってから少しずつ聞くようになってきたような感じがする。そして多様されるようになったのは、ここ10年くらいではないか。誰かが書いていたと記憶しているのだが、それはSNSの広がりと軌を一にしているとも。

 

 この「~かなあ」という言い回しは、おそらく「~かなあと思います」の省略なのだと思う。その表現自体が実は断定、断言を避ける表現でもあるようだ。ネットで検索をかけるとこんなブログ記事も見つかった。

「〜かなと思います」という言い方 - ohnosakiko’s blog (閲覧:2024年3月26日)

 このブログにあるように「~かなと思います」はじょじょに省略されたのだろう。

おそらく、「〜ではないかと思います」→「〜ではないかなと思います」→「〜かなと思います」と変化したのではないだろうか。
「〜ではないかと思います」より「〜ではないかなと思います」の方が、「な」がつく分だけ当たりが柔らかくくだけているので使われるようになり、やがて「ではない」の部分が長々しいので省略されたと思われる。

 

 この「~ではないかと思います」が「~ではないかなと思います」となり、それがさらに短縮されて「~ではないかなあ」となる、そういうことなのだろう。それはSNSによる短縮表現によって使用頻度が増えていったということか。まあ当たらずとも遠からずだ。

 この「~かと思います」、「~かなと思います」、「~かなあ」の言い回しの根底にはあるのは、断定調、断言を避け、できるだけやんわりと自分の意見を伝えたいということの現れなのかもしれない。差し障りのない言い回しに腐心する。それは同調圧力に見え隠れする息苦しい社会の中で、空気を読んで生きるための言語表現の一つなのかもしれない。

 引用したブログの方も書かれているように「~させていただきます」も同じように、空気読みの社会で生まれた語法なのだ。「空気読み話法」という言い方はあるのだろうか。ちょっと気になるところだ。

 そういう世の中なのだと割り切ってしまえば、件の「~かなあ」はあまり気にするものではないのかもしれない。そいうものだ、と。

 いや、そう簡単にはいかない。十代の若者たちならともなく、大の大人がいちいち「~かなあ」を連発するのはどうかと思う。ましては司会者やコメンテーターのような言動に責任を持つものが、その責任性を回避するような意識を働かせて、「~かなと思います」どころか「~かなあ」はないのではないか。さらにいえば、取材し事実を伝えるはずの記者たちが「~かなあ」はあり得ない。それは取材したうえでの事実なのか、あるいは取材したうえでの記者の感想、意見なのか。いや、記者が感想や自分の主観を述べてどうすると思ったりもする。

 「~かなあ」という言い回しに対する反論はなにか。あまり言いたくない言葉だが、例の便所の落書き的な掲示板で巨額を得た自称文化人だか起業家だかの人よく使う表現、「それってあなたの感想ですよね」ということになる。いやそうした切り替えし自体が、空気読み社会ではきつい反語的な意味合いを持っていたりもする。

 

 事実に基づいた言説は断定、断言であるべきだ。多くの作文技術の指南書でも、自身の言説は「である調」で表現するようにと書いてある。「~と思います」という表現はアウトとされる。会話についても日常会話であれば、「~と思います」でも、さらに短縮した形での「~かなあ」もあるだろう。

 しかしテレビで責任ある立場で話す司会者、コメンテーターが「~かなあと思います」、「~かなあ」という言い回しは極力避けるべきだと考える。どうしても使うのであれば、きちんと「これは自分の考えですが」という前提をつけるべきだ。

 言説には責任がある。それを回避するような言い回し。「空気読み社会」はどこかで責任性を回避する「無責任社会」なのかもしれない。