『パラサイト 半地下の家族』でアカデミー賞を受賞したポン・ジュノ監督の長編映画第二作目2003年の作品。1980年代後半に10人が殺害された華城連続殺人事件を題材にしたサスペンス映画だ。経験と勘だけを頼りに拷問自白捜査を行う地元刑事と捜査資料を丹念に読み、科学捜査を行うソウルから派遣された若い刑事の反目をメインに据えながら、一歩一歩事件の真相に迫ろうとする。しかし捜査は難航し、真犯人に迫ろうとするがたどりつけないままで終わる。
華城連続殺人事件は結局迷宮入りし、DNAなどの科学捜査によって犯人が特定されるのは30数年を経た2019年のことだったという。
映画はディティールに拘り、役者の迫真の演技とともに緊迫した画面構成で、観る者を引き込んでいく。一方で連続殺人事件という大事件にも関わらず、捜査本部は指揮を執る課長と、二人の地元刑事とソウルから派遣される若い刑事という四人だけによって構成されている。スポットライトをこの四人にのみ集中させるドラマ構成とはいえ、いくらなんでももう少し集団捜査があるはずだろうという気もしないでもない。
そういう点でいえば、ディティールを綿密に描きながら、四人の葛藤をどこかユーモラスに戯画化しているようにも見える。これはポン・ジュノ映画の特性なのかもしれない。細部にわたるリアリズムを追求しながら、あり得ない状況設定やらキャラクター、登場人物が闊歩する。『グムエル』、『オクジャ』、『パラサイト』、考えてみれば全部同じようなものが通底しているようにも思える。そして深刻な状況設定、テーマであればあるほど、ユーモラスな戯画化は観る側にとってはある種の救いにもなる。このへんが監督の商業的成功と軌を一にしているのかもしれない。
以下思いついたこと。舞台となる華城市はソウルから30~60数キロ離れた郊外だが、ある種の原風景といっていいほどの田舎である。そして今からわずか35年前の韓国は、まだ軍事政権が続いており、北朝鮮との戦争状態もあり灯火管制などが日常的に行われていて、それが映画のなかでも描かれている。それを観ていると、なんとなく『愛の不時着』に描かれた北朝鮮の田舎の風景と似通っている部分を感じたりもした。
そうか、『愛の不時着』に描かれる北朝鮮の風景は、韓国の都市部に住む中年以上の者にとってはかっての自分たちがいた、あるいは生まれ育った田舎を彷彿とさせるものがあるのかと思ったりもした。
そして今や日本を凌ぐ民主主義が定着し、政権交代も行われる隣国韓国は、30数年前までは軍事独裁政権が続いていたのだということ認識される。韓国ドラマ、映画が量産され、BTSなどの韓流ポップスを生み出す国は、現代史的にはほんの少し前までは軍政が敷かれていた。それは今なお独裁政権が続く北朝鮮と対峙する分断国家の必然ということになるのかもしれない。
それを思うとそれからの30年の変貌ぶりには驚かされるものがある。一方の日本は戦後いち早く復興を成し遂げ、敗戦から30年あたりの70年代後半には大きな成長を成し遂げた。しかし80年代後半あたりからは次第に成長曲線は下降し始め現在に至っている。韓国の民主化と飛躍的な成長と対峙させるとある種のアイロニー的な要素があるかもしれない。
適当な思いつきの部分もあるし、日本と韓国の社会的、経済的な動態分析などは自分にはとても手に余ることなので、単なる感想でしかない。
ポン・ジュノの作品は『グムエル』、『パラサイト』を経て、断続的に『オクジャ』、『スノーピアサー』などを観ている。。おそらくその力量はかっての黒澤明のようにアジアでは傑出した才能ある監督だと思っているし、すでにそういう評価が定着しつつある。
遅まきながらだが、かって黒澤やヒチコック、ジョン・フォード、フェリーニらをそうやって体験してきたように、ポン・ジュノの作品もじょじょに時代を遡るようにして観続けていきたいと思う。長編映画二作目『殺人の追憶』は、そう思わせるだけの良質で重厚な作品だと感じた。