『パラサイト 半地下の家族』を観る

 金曜日、三連休の最初の日。新型コロナウイルスのこともあるので、出来ればあまり出かけたくないのだけれど、夕方退屈したカミさんが散歩に行こうというのでご近所をうろうろ。その後、やっぱり近所の小さなショッピングモールに行って、そこには小さなシネコンがあるので、上映スケジュールを見てみると『パラサイト』がレイトショーでやっている。アカデミー賞受賞で話題になったからだろうけど、そろそろ公開も終了かもしれないし、前日『グエムル』を観ていたこともあり、観ようかということに。

 でもって、館内に入ってみるとこれである。だあれもいない。

f:id:tomzt:20200324224743j:plain

 地方都市のレイトショー、しかもコロナもあって映画館とかも敬遠されているのだろうが、この貸し切り状態は凄いなとか思っていたのだが、予告編とか始まった頃からポツリポツリと人が来始めて、結局は自分らを含めて10人くらい。地方都市だし、コロナだし、それを考えるとけっこう上出来かもしれないなどと思ったりもした。しかし、この劇場内で10人足らずでは、感染リスクはかなり低いとは思って。

 そして『パラサイト』である。

パラサイト 半地下の家族 - Wikipedia

 面白かった。事前情報でだいたいの粗筋は知っていたのだが、ラストの展開はこちらの予想をはるかに超えた感じだった。格差社会が深刻な韓国にあって、全員が失業状態にあり半地下生活を強いられた家族が、富裕層の象徴のような金持ちの家に身分を偽って寄生していく。それを面白おかしく戯画化して描いた作品という情報を得ていただけに、あらかたのストーリー展開がだいたい1時間で出尽くししまった後、これはどうなるんだろうと正直訝しく思ったところもある。自分でも時計で1時間経過時点を確認したりもした。

 そこからパラサイトのさらなる複層化と、そのハチャメチャ、ドタバタな展開、それがある種のカタルシスへと導かれた先にさらなる結末が待っているのである。これは脚本の力、ストーリーテリングの勝利だと思わざるを得ない。

 この映画がカンヌのパルムドールから、アカデミー賞の大舞台で、作品賞、監督賞、脚本賞の三冠を成し遂げたの頷ける。この映画は格差社会をダイレクトにとらえた真面目な社会派ドラマではない。そうした実相を斜に構えて黒い笑いにくるんだコメディ映画である。だからあまり深刻にならずに観ていくことができる。この黒いコメディ仕立てというところが、この映画の成功の一つだと思う。

 さらにいえば、この映画はストーリーが寓意的、戯画的であり、また登場人物も作為的なまでに類型化されている。半地下の家族たちもみなある部分類型的、寄生される富裕家族にいたっては漫画かと思わせるほど、主人、妻、娘、末息子ともプロトタイプ化されている。それでいてどことなくリアリティがあるのは細部の描写が妙に細かく現実感があるように思える。

 半地下の家や金持ちの豪邸もリアリティに溢れている。アカデミー賞監督賞を二度受賞しているイニャリトゥがポン・ジュノにロケケーションをほめたところ、それがすべてセットであることに驚くというエピソードがウィキペディアの中にあるが、それほどこのセットには奇妙な現実感がある。同時にあの豪邸は作り物のような、どこか非現実的な雰囲気もあるのだが、でもそれは富裕層の生活のある種の浮遊的な非現実性を表現しているようにも思える。

 自分もあれは確実に存在すると思ったし、セットは意外だった。現実を作り物のように見せるのも映画であり、作り物を現実めいて見せるのも映画なのだ、ということ。これもまた演出の勝利ということができるかもしれない。

 映画が戯画化してみせた人物や設定は現実の様相がそのまま活写しているのかもしれない。だとすれば実はリアリティがないのは現実の方なのかもしれない。

 映像、様々なカット、モチーフには、監督のある種の意匠がある。それらは過去の作品群のなかでも繰り返し描かれていることが多くある。キューブリックスピルバーグにも繰り返し用いられるモチーフがあったように思う。そういう意味では、ポン・ジュノにもそうした志向がある。

 前日に『グエムル』を観ていたせいもあるからか、地下や水には独特の感覚があり、繰り返されるモチーフがあるようにも思えた。さらにいえば、リアリティと非リアリティの混濁やハチャメチャ、ドタバタ的な混沌とそこからの復帰も二本の映画に共通していたようにも思えた。

 『パラサイト』はブラックコメディのパッケージをもった快作だと思う。とはいえ、この映画がカンヌとアカデミー賞の栄冠に輝いたのは、いくつかの幸運と偶然が重なった産物かもしれない。時流は世界レベルでのグローバル化や多様性が求められる時代でもある。その中でアカデミー賞は白人文化を基底にした選考が続いてきた。そろそろ非欧米系の商業作品にもスポットを与えるべきではないのか。そんな潮流の中に、うまくはまったのが本作ではないか。アジア映画にしてはセンスもよく、泥臭さや異文化を全面にした部分が少ない。アジア映画にしてソフィスティケートされている。

 もちろん時代の流れの中で、受賞がイラン映画でもインド映画でもよかったのである。たまたまそこに韓国映画がうまくはまったということ。多分、30年とかそういう長いスパンでこの映画が回顧されたとき、未来の映画ファンたちからすると、なぜこんな映画がもてはやされ、カンヌ並びにアカデミーの三冠をとりえたのかと疑問視されるかもしれない。そこには一定の評価として、いやいい映画には違いないと思うけどと付け加えられるにしてもだ。でも、それはしょうがないことかもしれにない。時代的な限界もあるだろうし、黒澤明の『羅生門』であっても、現代ではそういう評価を浴びたりもするのだから。