「コレクター福富太郎の眼」展を観る②

 福富太郎のコレクションというと基本は日本画、それも美人画ということなのだが、明治期の洋画も多数蒐集しているという。今回の企画展ではそうした日本の洋画を多数展示してあった。

 その中でも特に気に入ったのがこれ。

f:id:tomzt:20210604153648j:plain

『眠れる女』(山本芳翠)

 山本芳翠はワーグマンやフォンタネージに学び、渡仏後はレオン・ジェロームに師事した。渡仏中に黒田清輝に洋画の道に進むことを勧め、帰国後は黒田に画塾を譲ったという人である。ジェローム譲りの新古典主義、アカデミズム派の技術を極めた人だ。彼の作品で有名なのは岐阜県立美術館所蔵の『浦島』とかだが、とくかく日本的画題を西洋の歴史画のようにして描くという点で、その苦闘は認めるがどことなく微笑ましさすら感じてしまう。画力は抜群だが、彼の描く裸婦などはカバネル、シャセリオーや師匠ジェロームの模倣という感じがする。

 日本の洋画がほぼ西洋の巨匠たちの模倣から出発していることはまちがいない。それは明治期から大正期から昭和にかけても続き、そのうちの何人かがじょじょにオリジナリティを獲得していったのではないかと漠然と考えている。そういう意味では山本芳翠、黒田清輝、原田直次郎らはほぼ生涯を通して模倣による画力の精進に努めた人たちみたいな印象がある。

 そういう流れでいうとこの絵も西欧的な写実主義の縊りの中にあるのだとは思う。でも、この絵にはどこか肩の力が抜けたような感じがある。陰影とともに美しくもリラックスした雰囲気のまま眠りにつく女性の容姿をとらえた、どこか心に残る作品だ。多分、自分が観てきた山本芳翠の作品の中でも1、2を競う良い作品だと思う。

f:id:tomzt:20210604153551j:plain

『落椿』(中村不折

 中村不折黒田清輝と同じ1866年生まれであるが、黒田から遅れること15年、渡仏して同じラファエル・コランに師事した。黒田の外光派的なタッチとは異なる写実主義、アカデミズム派的な作風だ。この人の作品を最初に観たのは、国立近代美術館での『廓然無聖』だったが、中国古代の武帝達磨大師から教えを乞うという画題なのだが、ほとんどギリシアかローマの人物のように描かれていて、この人も日本的画題を西洋画的に消化するために苦闘した人なんだろうなと思った。

 この『落椿』は少女の恥じらう裸体とその傍らに落ちた椿の花という、いかにもありがちな作品で、テーマ、裸婦という画題ととも間違いなく西洋画の模倣的作品である。この作品について福富太郎はこんな風な感想を残している。

 《落椿》は明治45年、第十回太平洋画会展の出品作品。地面に落ちた赤い椿の花というのは象徴的表現としてやや紋切型のような気もしないでもないが、しかし恥じらうようにうつむいた少女の姿態が初々しく、胸に響く。裸体画がタブー視された時代にあって、かなりスキャンダルな絵ではないかと思うが、発表当時は『美術新報』に批判的な作品評がでたくらいで、大きな話題とはならなかったらしい。

                           図録P211

  「地面に落ちた赤い椿の花」を紋切型表現ととらえるのは、しごく真っ当かつ絵画の審美に長けた福富太郎らしい感想だ。それでいてこの絵にスキャンダラスな部分を感じるのは、これもまた当然だと思う。この絵の制作は1912年(明治45年)である。ポーラ美術館所蔵の黒田清輝『野辺』は1907年(明治40年)、いずれにしろ当時としてはけっこう刺激の強い作品だったのではないかと思う。

f:id:tomzt:20210604155152j:plain

『あやめの衣』(岡田三郎助)

 これはポーラ美術館所蔵作品で、もう何度も観ている。なんでこの作品がこの企画展に貸し出されているのかと思いきや、これはもともとは福富太郎が持っていた作品だという。しかも福富太郎美人画コレクションの中でも強い思い入れのある作品なのだという。図録の解説の中でも、福富の著作からの引用でこの絵に対する福富太郎の惚れ込みぶりをこんな風に紹介している。

「この絵を画集で見ていたときは、欲しい欲しいの思いがそうさせたのか、百号位の大作に思えた。実物を見たとき、あっと思った。三十号。しかも紙。」  図録P147

  その絵を1977年に手放したときの思いも著作から引用されている。

「長らく愛蔵した絵と決別するのは、ちょっと言い表せないほど、辛い。月並みな譬えだが、娘を嫁がせる父親のようなものだ」 

  それではこの絵はどのようにしてポーラ美術館に渡ったのか。それについては現代ビジネスのウェブ版に福田和也のインタビューとしてその顛末が紹介されている。

第34回 福富太郎(その四)稼いだ金はすべて名画に費やす---もう一つの顔、「絵画コレクター」(福田 和也) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

 「あの絵はね、実は五千万円で買ったんですよ。それで暫く持っていたんだけれども、その年に大きく赤字が出てしまってね、二億一千万円前後、と。どうしようか、と考えていたら、ポーラ化粧品の鈴木常司さんが買ってくれた。二億五千万円位でした。

 それで、中間決算で、二億の赤字を埋められたんですよ。埋めただけではなくて、こちらが一生懸命働いた、って事もあるんですけど、結局、二、三百万の黒字になったんです。調べに来た税務署員に褒められましたよ。偉い奴だ、とまでは云われなかったけれども」

  ようは事業の赤字の埋め合わせのために手放したということのようだ。しかし1977年当時で2億5千万円である。物価水準だけでいえば多分2倍以上になっているだろう。さらにいえば美術品の価格はうなぎ上りしているので、今だともっと凄い値段がつくかもしれない。

 まあ絵の値段のような下世話な話はどうでもいいことだが、ただし名画の遍歴についてはちょっと興味がある。以前、なにかの本で津田青楓の『犠牲者』(MOMAT所蔵)を歴史家羽仁五郎が所有していたというようなことを読んだ気がする。羽仁が売ろうとして画商を呼んだのだが、思ったほどの値がつかずにがっかりしたというような記述があったような気がする。

 絵の個人蔵については税金とかいろいろと下世話な話が多くなるので、厳重にプライバシーが守られていることが多いのだが、名画の所有遍歴を綴ったようや本があったら、けっこう面白く読めるかもしれない。

 最後に福富太郎戦争画も蒐集していたという。それは福富の戦争体験の影響ともいわれている。そうした作品の中で満谷国四郎の作品が心惹かれるものがあった。

f:id:tomzt:20210604222534j:plain

『軍人の妻』(満谷国四郎)

 戦争で夫を亡くした夫人の凛としつつも、わずかに涙ぐむ一瞬をとらえた作Hんである。この絵について福富太郎はこのような感想を記している。

オークション会社に問い合わせたところ、この作品はアメリカのある大学が所蔵していたものだと判った。〔中略〕ただ、画面の汚れぶりからみて《軍人の妻》が、ここ三、四十年間は大切に扱われてこなかったことは明らかだ。それが晴れて故郷に帰ることができたのである。毎日、絵をみつめているうちに、彼女の涙に気がついた。明るい光線の中で、間近に見ないとよくわからないが右目にだけ一雫、白い涙が描かれている。夫をなくした明治の女性が、わずかに外にあらわした悲しみのしるしだが、ようやく帰国できた、うれし涙のようにも、私には思えた。  図録P160 

  ちなみに本企画展の図録は見やすい。なぜか綴じがかがりになっているからだ。図録は絵を見開きでみることが多いので、無線綴じだとページがすぐに閉じてしまいやっかいである。多少金はかかるのだろうだが、ユーザー的にいうと図録は絶対にかがりにしてもらいたいと思う。最近では去年だったか京都市京セラ美術館で購入した『京都市美術館名品百選』がかがり綴じだった。美術館関係者はぜひ図録制作の際に配慮してもらえると有難い。

f:id:tomzt:20210605022549j:plain
f:id:tomzt:20210605022423j:plain