映画のリアリズムを支えるのは細部にわたる描写かもしれない。
『ノマドランド』は過酷な車中での生活、移動生活のシビアさをさりげないカットで表現している。それは例えばトイレは、ノマドたちはどうやって排泄行為をしているのか。ちょっと考えればわかるが、観る側からすると当たり前のことなので簡単にスルーしている。しかしこの映画ではこうした点、あまり映画として見せることは適切ではないかもしれない事柄についてもきちんと説明する。
ノマドたちが集まる場では、きちんとトイレについての説明が行われる。車中で排泄するためにはきちんと簡易トイレを設けること、そこにはバケツが用意され一人用だとこの大きさ、家族ではあればさらに容量の大きなものをという説明が、登場人物たちによって語られる。
実際の排泄シーンもさりげなく挿入される。映画の冒頭から少ししたところで、フランシス・マクドーマンドが屋外で放尿しているシーンがややロングショットで映される。砂漠に近いような荒地で彼女は車を降りて放尿している。なるほど移動中、車中生活者たちはこのようにして生理現象を解消するわけだ。
さらに車中での排泄シーンもある。フランシス・マクドーマンドは車の中でフルートを吹いている。あまり上手いとはいえないが、趣味の音楽に興じるノマドの優雅なひと時である。すると急に彼女のおなかが鳴り出し、彼女はもそもそとし始める。それから簡易トイレを用意していきなり脱糞する。多分、車中には強烈な臭いが充満するのだろう、彼女はトイレに座りながら天井の小窓を開けて換気を行う。
アカデミー主演女優賞を二度受賞した大女優に、リアリズムを表すために排泄行為を行わせるクロエ・ジャオの演出への強い意思。そして躊躇なくそれを演じるマクドーマンド。観客はそれによりノマドたちの生活のシビアさを受容する。
かっての映画の約束事的にいえば、映画の中でトイレのシーン、排泄シーンは多分NGだったと思う。さらにいえば主演女優は彼女たちの生理現象を想起させることもカットされていたのではないかと思う。それこそ冗談めかして、スターはトイレにいかないみたいなことも言われていた時代すらあった。映画にはそうしたリアリズムは不要だった。多分、それは映画史の中でじょじょに変容してきたのだろう。
映画の中の人々も、実際の人々の生の営みとして、ものを食べ、排泄行為をし、セックスをする。それをさりげなく想起させたり、実際の態様として演じたりしてきた。しかし排泄行為をリアルに表出することはあまりなかったのではないか。しかしセックスにしろ排泄にしろ、それが必要なカットであれば、それこそ常套句ではないが「必然性があれば」、スクリーンに映し出される必要はあるということだろう。
『ノマドランド』においては、車中での生活を余儀なくされたり、自ら選び取った高齢者たちの実像を描くためには、排泄行為自体を描くことも必要なのかもしれない。彼らの生活のいったんをリアルに描くためにはということだ。
アカデミー主演女優賞を二度受賞し、この『ノマドランド』で三度目の受賞の可能性も高いフランシス・マクドマーンドは、この映画のリアリズムのために躊躇なくそうしたシーンを演じた。あるいは様々な葛藤、監督との対話がエージェントを交えて行われたのかもしれない。しかしそこまでする必然性と、そうしたシーンが挿入することで、この映画はリアルな車中生活者たちの実相に迫っていることは間違いないと思う。