『ノマドランド』を観た

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ノマドランド|映画|サーチライト・ピクチャーズ

Nomadland (film) - Wikipedia

 Twitterなどで評判となっていた映画『ノマドランド』をシネマわかばで観てきた。1日2回の上映で昼間の回。昼間から映画館に行くなんていうのは学生時代以来からもしれないな。しかもシニア(60歳以上)で1200円。こういうことで無職年金生活者ということを実感する。ゴールデングローブ賞受賞など一部で話題になっている映画なんだが、ウィークデイの上映のためか、観客は自分を含めて4名という淋しさ。これは今週一杯で打ち切り必須かもしれない。まあアカデミー賞でも5部門くらいにノミネートされ、作品、監督、主演女優などで本命視されているので、受賞となると再上映みたいなことになるかもしれない。

 本作はキャンピングカーやミニバンで車上生活を送る高齢者たちを描いた作品。監督は本作が商業映画三作目となる中国人女性クロエ・ジャオ。主演は『ファーゴ』『スリー・ビルボード』でアカデミー主演女優賞を受賞しているフランシス・マクドーマンド。この映画ではマクドーマンドとあと数名の職業俳優を除いたすべての登場人物が実際の車上生活者たちである。

 ネバダ州の企業城下町エンパイアで暮らしていた60代の女性ファーンは、リーマンショックの影響で工場が閉鎖されたため、仕事と住む場所をなくしてしまう。夫は工場の労働者だったが工場が閉鎖される前に病気で亡くなっており、ファーンは思い出に残るものと家財道具をミニバンに積み車上医生活者となる。

 アマゾンなどでの過酷な季節労働に従事しながら転々していく多くの車上生活者たち。その中の一人となったファーンは他の車上生活者たちとのささやかな交流を持ちながらも、孤独な放浪生活を送る。ガソリン代と季節労働の情報を得るために必要な携帯、夜の駐車スペースを確保するための苦労。狭い車中でのハードな生活と、思い出の品々や写真によって良き日々に思いをはせる。

 リーマンショック後、仕事や家を失い車上生活を送る高齢者が増加した。これをルポしたのがこの映画の原作となったジェシカ・ブルーダーの『ノマド:漂流する高齢労働者たち』である。話題作ということもあり、アメリカで刊行された翌年(2018年)には邦訳が出ている。

ノマド: 漂流する高齢労働者たち

ノマド: 漂流する高齢労働者たち

 

  自由主義の王国アメリカは社会保障によるセーフティネットが脆弱だ。いったん仕事や生業を失うととたんにこの映画で描かれるような車上生活者季節労働を求めて移動する放浪の民となってしまう。これは多分、トランプ以後もさらに状況は悪化しているだろうし、さらに今はコロナ禍で困窮を極めている。貧富の差の拡大とともに、仕事を失った人々がこうした過酷な生活を強いられているだろうことは容易に想像できる。

 そして同じく新自由主義的な自助を求められる国日本でも、同じような状況が増加している。わずかな公的年金だけでは暮らしていけない現実、さらにその年金の支給もかっては60歳からだったのが65歳となり、さらに支給年齢が後へ後へという流れになっている。そもそも厚生年金の支給は正社員として勤め続けていればということだが、国民年金だけではまったく生活ができないほどの額しか支給されない。

 アメリカほどではないにせよセーフティネットが整っていない日本でも、高齢者の貧困は現実化している。さらにいえば、2000年前後から非正規労働が蔓延化しているだけに、今後は年金が無支給な高齢者も増加してくる。仕事を求めて移動を繰り返す車上生活者たちの姿は明日日本でも現実化するかもしれない。

 一方で、移動生活者たちには自由な民という面もあり、この映画でもかっての西部開拓時代の開拓者たちと自身を被らせるような言葉を語る人もいる。移動生活者として誇り、自由人としての誇り、ラストに語られる別れの挨拶は「グッドバイ」ではなく「また会おう」という言葉など、移動生活=ノマドに積極的な意味を持たせる部分もあるにはある。

 映像はどこまでも美しく、シビアな生活を移動生活者たちに強いさせるアメリカ北西部の厳しい自然も、美しく荘厳な情景として描かれてもいる。しかしどれほど移動生活者たちがその人生において気高く、誇りをもっていたとしても、彼らはアメリカの市民社会から脱落し経済的に困窮した人々でもある。アメリカの美しい自然は、彼らの生存を脅かす。

 この映画が我々観る者に語り掛けるのはただただハードな生活を送る人々の孤独な実像だ。過去の良き思い出だけを抱き、シビアな日々を送る孤独な高齢者たち。それを映画は彼らのアップを多用することで語る。

 主演のフランシス・マクドーマンはほとんどノーメイクで60代の孤独な女性を演じている。そのアップが過酷な生活、たった一人で過去の日々の思い出とともに生きる女性の根源的な孤独を表現している。

 かって女優はアップが総てと語られたことがあった。美人女優は画面にいっぱいに映しだされるアップによってその美しさや演技の良し悪しが評価された。そういう意味でいえば、この映画は徹底して演技者のアップによって構成されている。プロフェッショナルな女優フランシスマクドーマン以外はほとんどが実際の車上生活者たちなのだが、そうしたアマチュアの出演者たちもまたアップによって自らの生活を、人生を語り続ける。その誰もが、あえてそれを演技といってしまえば、それをアップでもきちんと演じている。

 この映画はフィクションとドキュメンタリーの融合である。監督のクロエ・ジャオはこうした非演技者、アマチュアの人々を映画に登場させ物語と融合させるのを得意としていて、すでに前作、前々作でも取り入れているという。演技の経験のない者を登場させ、彼らに実生活をリアルに語らせ、それを物語の中に違和感なく取り込むというのは恐るべき演出力だと思う。綿密な取材と計算された準備が必要だろうし、単なる偶然の産物で多数のアマチュアを無理なく撮り続けることは不可能だろう。これは想像になるが、おそらく物凄いリハーサルや準備、さらに幾つものテイクを行う必要があったのではないかとも思う。

 とはいえ長い時間をかけた繰り返しのテイクをアマチュアに強いる訳にもいかないだろう。この映画の制作ノートのようなものが書籍化されたら、ちょっと読んでみたい気がする。

 この映画が、車上生活を続ける高齢労働者の悲惨な現実を訴えるようなドキュメンタリーではなく、第一級の映画作品となっているのは、この映画のコピーとして使われるようなまさに「奇跡の映画」なのかもしれない。それを成功させたのはクロエ・ジャオの確かな演出力とフランシス・マクドーマンの傑出した演技力ということになるのだろう。

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