「崩壊と再生の出版産業」

 『世界』8月号が特集で「出版の未来構想」を取り上げていた。総合誌で、特に『世界』がこういう特集を取り上げることはあまりなかったように思う。

 

世界 2019年 08 月号 [雑誌]

世界 2019年 08 月号 [雑誌]

 

 評論家の小田光男氏はこの特集をボロカスのように言っているのだが、あの岩波がこういう特集を組むのも、出版危機のご時世ということかもしれない。

出版状況クロニクル135(2019年7月1日~7月31日) - 出版・読書メモランダム

 もし本気でこのような特集を組むとすれば、この10年間における『世界』の実売部数の推移、それから岩波新書岩波文庫の動向も含め、岩波書店の出版物全体の現在をまず提示すべきであろう。そして自らの言葉で、「このような破滅的な市場縮小」を「反転させる道筋」を語り、岩波書店の高正味と買切制の行方も含め、「出版の未来構想」を具体的に提案しなければならない。 

 ここにはある種の怨嗟ともいうべきものがある。高正味買切制というおよそ商売としては成立しない取引条件を、良書を作り続けてきた出版業界の雄という文化的優先的地位を前提に維持してきた出版社に対して、小出版の取引条件の逆境が判りすぎるくらいにわかる小田ならではの断じ方なのだろうか。

 とはいえ、自らの雑誌で実売部数の提示などはあり得るはずもないのであり、出版ウォッチャーとしての小田氏にしては珍しく感情的で筆が走ったような気もしないでもない。とはいえ『世界』が出版業界の危機を特集とするのも、青息吐息の業界の問題を自ら整理せざるを得ない出版社の危機意識なのかもしれない。

 特集の中では文化通信記者星野渉の「出版と再生の出版産業」が状況をうまく整理していて参考になった。ほとんど既出のことで新しい知見というものはないのだが、うまくまとまっている。現状を整理するためにもメモとして引用していく。

いま出版産業が変化している原因は、当然ながら情報のデジタル化と配信ネットワークの普及にある。 

  15世紀のグーテンベルク活版印刷によって、手書きによる写本によって人から人へと伝わってきた本=文化は、大量生産されてきた。20世紀以後は出版は大量生産、大量消費されるようにもなった。それが21世紀のデジタル化、配信ネットワークによって大きく変貌した。特に情報産業として出版の多くはデジタル化されることによって無料で手に入る情報に駆逐されてしまった。雑高書低といわれてきた、雑誌の売れ行きによって儲からない書籍の諸々を補ってきた業界にとって、雑誌が無料のインターネット情報によって取って代わられることによって一気に壊滅の状態に陥ってしまった。

 今まで、雑誌で仕入れていた様々な情報は簡単にネットで検索することで入手可能となった。さらに言葉の意味を調べる、事象の情報を調べるという意味で必要だった事典、辞書がすべてネットにとって代わられた。今やほとんどすべての言葉や事象はネットで検索可能だ。大まかな全体像を把握することは無料のウィキペディアで簡単に出来る時代に、誰が好き好んで厚くて重い、高い紙の本などを調べる必要があるのか。

 辞書の新版の発売のたびに、販売トークとして「紙は死なない」と言われるが、状況はとんでもない。もう何十年も前から学生は紙の辞書から電子辞典を使うようになっている。まだ電子辞典は機器の値段とともに、中に収蔵された辞典の権威性を売り物にしつつ、出版社にもロイヤリティが入ってきた。しかし今や多くの学生は電子辞典さえ使わない。スマホで無料の検索サイトを利用すればだいたいのことは事足りてしまうのであるから。

 そして配信ネットワークの問題である。情報としての雑誌とともに出版業界を支えてきたコミックがまた紙媒体としては壊滅的である。紙から電子への切り替えが一番うまくいっているのはコミックである。それまで雑誌で連載されたコミックが単行本化し、それがメガヒットすることで出版社には大きな収益が、書店にも買い上げ客数を支えてきたのだが、このビジネスモデルがもう終わってしまった。

 今や出版社は無料で新人の作品を配信し、ダウンロードの多いものを単行本化あるいは有料配信に切り替える。試みにアニメ化したものでも人気があるものは、ずっと有料配信コンテンツあるいはサブスク・コンテンツとして生き残っている。単行本は短期間での販売で多分終了していくという感じだろうか。

 デジタル化によって変化する出版の「製造と流通」の仕組みを今風に表現すると「プラットフォーム」であろう。それは出版物を製造し、読者の元に届け、代金を回収して著作者に還元する再生産構造(エコシステム)のことだ。とりわけ、日本の出版産業に特徴的だったプラットフォームが「取次システム」である。

 「取次」とは出版社が作る雑誌や書籍を書店などに届ける流通業者の総称で、いまの日本では日本出版販売(日販)とトーハンという二大事業者をはじめとして数社が総合取次として活動している。

 これら総合取次は、単に雑誌や書籍を運んでいるだけではなく、書店から販売代金を回収して出版社に支払う決済機能や、大手や老舗出版社に対しては納品された出版物の代金を売れる前に一定割合支払ったり、大手書店が新規店を出すとき、納品した商品代金の支払いを一定期間猶予するなど金融的機能、さらには書店が経営破綻しても出版社への支払いを保証する信用保証機能など、出版取引に関わる後半な機能も提供してきた。 

  星野氏はこうした理由から日本の取次は出版産業のインフラストラクチャーを担ってきたという結論を見出している。とはいえ取次機能がプラットフォームといえるかどうかは疑問な部分もあるし、幾分かは割り引いてみるべきかもしれない。

 元々、今の出版取次は戦中に出版物流の統制会社として生まれた日配から始まっているといえるかもしれない。戦後この独占事業体だった日配がトーハンと日販に分割した。官製の戦時統制会社から分割された物流会社だけに、大掛かりな物流網を最初から持っていた。そのうえで日配は当初からトップを大手出版社出身者が担っていたという出自もあり、あくまで出版社の利益にそった形でビジネスを展開した。

 記事にあるように取次の機能としての金融機能も大手出版社に有利なように進められてきた部分も多い。「納品された出版物の代金を売れる前に一定割合支払ったり」という内払システム、これが売上上位を占める出版社だけではなく、老舗出版社にも適用されていたりもする。きけば取次の株主となっている出版社だということだったりもする。

 二大取次が非上場であるのは、出版物という文化財の物流という特殊な理由とかいう話を以前どこかで聞いたことがあるのだが、概ね二大取次が設立された頃の出版業界の状況と、そこでの大手や有力老舗出版社の恣意性に依拠した部分もあるのだと思う。

 取次との取引というと、大手、老舗出版社優遇と、小出版社や新興出版社への冷遇という不公正取引が内々では囁かれている。そのへんの事情をみるにつけ、この国の出版業界のプラットフォームの歪さを思うところもある。これがプラットフォームなのかという乾いた思いだ。

 総合取次は明治から大正にかけて、全国の書店に定期雑誌を流通させたためにスタートした。この雑誌流通網に、多量の新商品(新刊書籍)が不定期に刊行され、繰り返し購入がほとんど無いなど流通効率が悪い書籍を乗せることで、総合取次は書籍一冊からでも低コストでほぼ毎日書店に届ける安定的な流通網が実現してきた。

 また、この流通網を使って、書店の規模や立地などの属性に応じて選んだ書籍を自動的に届ける「配本制度」を生み出したことで、出版社はほとんど書店への事前営業をせずに、新刊書籍を全国の読者に届けることができ、書店は注文しなくても毎日のように段ボールで商品が届く。 

  そう総てにあたって、日本の出版流通は雑誌ありきでり、書籍は儲からないほとんど刺身のツマのような存在だったのだ。儲からない書籍は独自仕入れなどの手間をかけてはさらに効率が悪いから、自動配本される。出版社も刺身のツマ的な儲からない書籍は積極的な事前営業などをする必要がないのだ。儲かる雑誌の流通に儲からない書籍を乗せる。これが戦後面々と続けられてきた。

 雑誌の流通に乗せるので書店も独自仕入れなどの手間をかけない。出版社も事前の宣伝やプロモーションが不要。経費面を抑えられるので価格も抑えられる。しかも日本に海外にもあまり例をみないような大掛かりな委託システムがあり、書店は売れなければ本を返せばいいという返品フリーが行われてきた。

 よく日本の出版業界で書店の利益率の低さがいわれることがある。2000年くらいまでは、出版社は取次に定価の70%程度で卸し、取次は80%程度で卸す。書店の利益率は2割である。これでは有能な人員を確保したり教育するのは難しい。しかしこれには返品のリスクをすべて出版社が負担するという側面もあったという。

 しかし今や業界の返品率は40%を超える。一口に40%というが、これは80~90%の実売率や買切商品も含めての指標なので、一般的な新刊書籍の返品率はとうに50~60%に達しているのではという印象がある。出版社の倉庫に山積みされた返品の山を見るとその思いが強くなる。

 そして雑誌の儲けで成立していたこの業界は、雑誌の売上が急激に落ち込むことで一挙に崩壊に向かう。

 ところが、1995年をピークに雑誌の販売量が減少し始めることで、雑誌流通に基盤を置いてきた取次各社は経営が厳しくなった。ちなみに雑誌の販売冊数は1995年から2015年までの20年間で40%以下(2018年まででは30%以下)に減少している。 

 最大手の日本出版販売とトーハンは、いずれも不動産事業や出版取次業以外の事業で黒字を計上しているが、本業である雑誌、書籍の取次事業が赤字に陥ったことを発表している。儲かる雑誌の流通で、儲からない書籍を支えてきた「取次システム」は既に崩壊しているのだ。  

 こうした取次業の崩壊にあって、二大取次は書籍流通でのビジネスモデルを模索し始めている。

 期せずして両社(日販、トーハン)がともに掲げた「本業の復活」は、まさにこれまで赤字だった書籍流通を採算のとれる事業にすることで、本業である出版取次事業を黒字化することが目標である。

 そのために示している方向性は両社共に「プロダクトアウトからマーケットインへ」である。これまでの「配本制度」による川上起点の流通を、書店や読者(市場)の要求に基づく供給体制に転換しようということだ。 

   そして今、二大取次もそして著者の星野も注目しているのがドイツの出版モデルという唐突な結論である。なぜドイツなのか、それはドイツが書籍だけの出版流通でビジネスとして成立しているからだ。つまり雑誌の流通のツマではない書籍だけで自立したビジネスモデルとして成立しているからだという。

 しかしドイツで書籍ビジネスが成立しているのは、まずは書籍の価格がにほんに比べて1.5倍から2倍程度高額であり、出版社、取次、書店それぞれがコストを吸収し、利益を得ることができるからなのである。

 この結果、出版社、取次、書店の利益配分が、日本ではおおむね出版社が価格の70%、取次が10%、書店が20%といった割合なのに対して、ドイツでは出版社と書店が直接取引する場合は出版社60%、書店40%、取次が介在する場合は出版社50%、取次15%、書店35%程度と、流通・小売のマージンが多いのだ。 

  結局のところ書籍だけでビジネスが成立するには、価格を上げることと流通の正味を増やすことだけが答えとなっているのだ。取次がいうマーケットインが、出版社にとっては返品を減らすための配本抑制であり、その先にあるのは本の定価のアップと正味下げの要求であるように感じられたとしても不思議はない。実際、それを口にする出版社の人間も少なからずいる。とはいえ彼らは今の出版業界の滅亡の危機への問題意識が極端に不足しているという気もしないではないが。

 再販制によって価格決定権をもつ出版社にとって、定価を上げることへの疑心暗鬼はあるだろう。定価を上げたら本はもっと売れなくなるという意識である。それはある意味で、自分の作っている商品への自身のなさの表れかもしれない。そして正味を下げるという一点についていえば、多くの出版社にとってはもっての外ということになるのだろう。

 しかし今の書籍の平均単価、20%足らずの粗利益では、まちがいなく書店のビジネスは成立しない。出版不況が続くなか、毎年物凄い勢いで書店が潰れていくのは、雑誌が売れない状況で、書籍だけの利益ではとても凌いでいくことができないからでもある。さらにいえば取次もまた急速に収縮する市場の中で、物流経費を吸収できないところまできている。

 出版業界が生き残りをかけて取り組むのは、書籍だけの売上でビジネスを成立させていくことが可能かどうかということだ。もしそれが可能だとすると、そこでは読者にとってなにが変わるのか。

 まず、書籍の価格が上昇する。書籍で成り立つ出版流通を目指すことは、書籍流通にかかる費用がいままでより上昇し、その一部を、これまで以上に読者が負担しなければならなくなることを意味する。

 それから、書籍の刊行点数が減少する可能性がある。  

 しかし、日本でも「取次システム」がなくなれば、新刊を出すハードルは高くなり、自ずから新刊点数が減るに違いない。このことを安易な出版活動の抑制ととらえるか、出版の多様性を失わせると見るのか、今後評価は分かれそうだが、少なくとも大量の返品を生んできた流通の効率は改善されるだろう。 

  しかしこれらの施策についての根源的な問いとして、価格を上昇しても本は買ってもらえるのかどうか。それだけの市場がこの国にはあるのかどうかというところだ。

 若者だけではなく、社会全般の活字離れが顕著である。日本人は今や雑誌や本を読まず、情報はネットとテレビによって受容している。学生の知的レベルにおいても、基礎的な教養の欠如も甚だしく、高校や大学の教育水準は、世界的にも大きく地盤沈下している。先進国において普通にもつべき教養的知性が、この国の実利中心の教育によって失われている。

 先進国の大学教育を受けた人々が普通に持っている古典的素養、教養がこの国の同じ大学教育を受けた者にはまったくないということが普通なのである。例えば西洋のビジネスマンが普通にシェイクスピアシェリーの詩句をそらんじたりする部分が、もはや日本のインテリにはあり得ない状況になっている。戦前の日本にはあったインテリの間での教養が、戦後の大衆教育の中ですっかり失われてしまった。

 さらにいえば、学問を学ぶことによって問題意識を持ち、それが社会変革へと向かうという60年代から70年代にかけての学生運動のベースにあった教養主義の理想主義にこりたせいか、政治体制は学生から思考する力を徹底して奪っていった。大学に入るための受験勉強はある意味で受験技術であり、素養としての読書など必要ない、あるいは不要とされるようになった。

 かっての高校生、大学生が普通に教養として読んでいた例えば『ソクラテスの弁明』を今、どれだけの大学生が読んでいるか。

 同時に大学教育にあっても、欧米のように週に数冊の本を読み、レポートを書くというハードワークは今の日本ではほとんどあり得ない状況になりつつある。大学生の読書量、本の購入冊数は海外に比べて圧倒的に少ない状況にあるのだ。

 そうしたなかで、ドイツ的出版ビジネスを目指すとして、いきなり本の値段を倍にしても、それこそ誰が買うということにもなりかねない。

 もちろん本というものは、特に専門書の世界においては、確実にそれを必要とする読者が存在する。その読者にピンポイントで届くのであれば、本の価格は倍になっても大丈夫かもしれない。それは出版ビジネスはニッチかという根源的な問いにもつながっていく。

 出版ビジネスを新しい仕組みに変える取り組み。それが次の時代の「出版人」に求められると星野氏は言う。しかし出版ビジネスそのものが崩壊しつつあるなかで、既存の権益(出版社、二大取次、大書店それぞれ)が維持されながら新しい仕組みを編み出すことができるのかどうか。

 楽観的な見方はまったくもってできないだろうと思う。いやそれ以前にもうどんな取り組みもあまり効果がないかもしれない。なぜならマスとしての出版ビジネスはとっくに終わっているのかもしれないのだから。