周回遅れの図書館書籍購入ルールと書店支援

 よほど記事ネタがないのか、いやイチエフの汚染水海洋放出など、問題記事はいくらでもあるのだが、なんとなく埋草的な記事として、自民党議員連盟が出した図書館の書籍購入ルールと書店支援についての記事が朝日新聞に載っていた。

(閲覧:2023年8月29日)

 図書館がベストセラー本を複数購入するので、本が売れない、本を書店で買ってくれない。いわゆる一つの図書館の副本問題だ。もうこの話、何十年やっているんだろうと思ったりもする。

 ある意味では、出版業界、特に出版社にとって図書館は利害を対立するようなところでもあった。図書館は蔵書して貸し出せば、当然それを利用することで本の販売機会が減少する。図書館の本来的な役割でもある資料の収集、整理、保存と情報の提供を無視して、貸本屋扱いをずっとしてきたのである。

 70年代、80年代くらいまでは、大手出版社、中堅出版社などからは、普通に図書館が蔵書すると本が売れなくなるという声があった。自分のよく知る老舗出版社の管理職の人などもそんなことをよく口にしていた。

 一方で専門書版元、美術書版元、児童書版元にとっては、図書館はお得意様であり、図書館への巡回営業はかかせないものでもあった。こまめに図書館巡回したり、書店と一緒に営業する出版社はけっこう数字を伸ばしていた。

 図書館は敵でもあり、お客さまでもである。まあそんな認識が普通だったのではないのか。

 まあそれでも本が売れていた時代はとりあえず諸々のことがスルーされていた。諸問題先送りは出版業界の常だったから。それが崩れ始めたのはやはり21世紀に入ったころ、本格的に出版物が売れなくなった頃からだろうか。まず本が売れなくなり、アマゾンという黒船がやってきて書店に壊滅的な打撃を与えた。出版不況はまず流通業や物流に打撃を与え、中堅取次が相次いで倒産、破綻、廃業した。

 その頃から図書館は有力な本の顧客として重要視され始めた。でも一方で図書館も効率化の波にさらされ、購入予算が年々減少していった。前述した老舗版元の管理職の人とはよく酒を飲んだが、ある時彼はこんなことを言った。

「全国に公共図書館は3000以上あるのに、なんぜ初刷り1000部の本が半分も売れ残っているんだ」

 いまとなっては噴飯物の発言だが、そのときはけっこう真面目な話でもあった。多分、自分はこんなことを返答したのではないだろうか。

「今は、どこの図書館も購入予算限られているし、貸出率とかそういう回転が重視されているから、貸し出しが期待できないような本を買うくらいなら、ベストセラーを副本するんじゃないですか」

 そう、図書館がリクエストの多いベストセラーを副本としてもつようになったのは、多分世紀の変わり目あたりだっただろうか。どこも箱物には予算がつくが、内容、コンテンツ的なものには予算がつかない。箱物なら土建屋が儲かるからいいが、図書購入予算を増やしても、せいぜい書店や出版社が少し潤うだけのことだ。政治はキックバックが期待できない業界を歯牙にもかけない。

 さらに新自由主義的な政策が罷り通るようになると、図書館は購入予算や運営費を削られたうえで、やれ図書館経営だの、利用率をあげるだのという要求がつきつけられるようになった。そうなると安直に利用率をあげる、蔵書回転率をあげるとなれば、ベストセラーを複数もつということに走らざるを得ないなる。図書館利用者も話題のベストセラーをタダで読みたいから、図書館にリクエストを出す。利用者のニーズに応えるためにさらなる副本を増やす。ベストセラー本を単館で50冊とか購入するのも、利用率至上主義のための最大効果実現ということだった。

 地方の公共図書館がベストセラーだけでなく、文庫や新書、さらにはコミック本も置き始めたのはこうした利用率至上の成れの果てでもある。タダでライトノベルや読み捨てられる安直なミステリーやコミックが読めるのであれば、図書館も悪くないかもしれないと。いや、それでももはや図書館を利用とする人は限られているのかもしれない。

 さらにいえば図書館の運営費用の低減化が何をもたらしたか。本来レファレンス業務を行う図書館司書の正規職員を減らし、非正規化をすすめた。今、多分多くの公立図書館の司書は非正規職員、例の会計年度職員となっているはずだ。そして図書館運営自体をTRCや紀伊國屋丸善などに委託したり、例のTSUTAYAとスタバによる貸本、カフェ併設のオシャレ図書館になっている。

 あるとき図書館司書の募集をサイトでみたことがあるが、時給800〜900円で有資格(図書館司書)みたいな募集が多くてびっくりしたことがある。四年制大学できちん教育を受けた専門職の図書館司書が時給1000円以下なのである。日本は文化に金を書けない国と痛感した。

 そうした図書館のおかれた状況やこれまでの歴史を無視して、またぞろ図書館の副本、ベストセラー購入を槍玉にあげる。もう周回遅れどころか、何周も遅れた提言じゃないかと思ったりもした。

 急減する書店の支援のために図書館の副本購入に制限をかける。いや問題はそこではないはずだ。タダだから図書館でベストセラーを借りて読む。図書館になければ書店で正規の定価で買うか。いや多分、買わない。図書館で二、三ヶ月待つような人は、多分もう少し待てばブックオフで半額くらいで買えるはずだから、それを待つ。もしくはそもそもタダで読めないなら別に読まなくてもいい。他に消費するコンテンツはたくさんあるのだからと。

 書店の急減はとにかく出版売上が下がったことにある。その要因は何かといえば、もう出版物が情報コンテンツとしての商品価値をもっていないということだ。情報ツールとしての雑誌や実用書、簡単な娯楽としての読み物などは、もはやネット、スマホのコンテンツによって取って代わられたのだ。それは図書館が副本を購入しなくてもなにも変わらない。

 もともと出版業界のビジネス構造はというと、売れる雑誌の利益で儲からない書籍の赤字を補填するということでやってきた。雑誌は大量に売れるし、正味も安いので書店にとっても身入りがいい。出版社は広告収益もあり多少正味を下げても問題はなかった。なにせ売れる雑誌は毎号100万部単位で売れた。週刊マンガ誌『少年ジャンプ』や『少年マガジン』、『少年サンデー』が毎号数100万単位で売れた時代だ。

 それに対して書籍はあまり売れない。基本的に出版物は委託販売で売れ残りは返品できるが、もしも買い切りだったら、10冊仕入れても2〜3冊売れ残りが出たら利益がとぶみたいなことだった。しかも書籍の正味は高く、書店の身入りはせいぜい2割くらいだった。

 それでも雑誌が売れていれば、儲からない書籍のことなど大目につぶる。そういうことでこの業界はやってきた。雑誌をもっていない専門書などの出版社は、単価の高い本を出す。昔から売上を上げるには、冊単価を下げて客数稼ぐか(数売るか)、単価を上げるか、そのどちらかしかない。

 そういう雑高書低でずっとやってきた業界は、ネットとスマホで情報が簡単に手に入るようになり(それもおおむね無料で入手できる)、雑誌の売れ行きが激減したことによって大きな激震を経験する。たしか最初に雑誌売上が書籍売上を下回ったのは2016年のことだった。

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 2016年に雑誌が書籍の売上を下回った時に感じた危機感、それはそのままそれからの4~5年の間に感じ続け、また業界の変動を見続けてきたも者としての絶望感でもあった。自分は大学を卒業して24歳の時にこの業界に入った。最初は書店、それから取次、出版社を数社、最後は出版物流倉庫の経営に携わった。そして2020年にリタイアして業界を去った。その時に感じたのは、自分が仕事をしてきた業界が自分のキャリアとほぼ同時期に収縮し消え去ろうとしているような姿だ。

 もう出版業界はかってのようなビジネスモデルでは成立しない。大手の出版社は早々に業態をシフトさせ、コンテンツ産業として利益が出るように転換してしまった。書店や取次が苦境に喘ぐなかで、小学館集英社講談社という業界最大手の出版社が過去最高益を出したのもここ数年の間の出来事だ。

 業態を、ビジネスモデルを転換できない取次や書店という出版物流業種のみが、ほぼ死滅寸前の状態を続けている。聞くところによれば、大手取次も生き残りをかけて出版物流からの脱却の道を模索しているという。不動産業、福祉施設などのスペース産業などをじょじょに手がけているなんて話も聞こえてくる。

 そういう状況の中での書店救済策が、図書館の副本対策だという。お話にならないというのが実感だ。

 どうでもいいが、提言を行う自民党議員連盟の正式名は「街の本屋さんを元気にして、日本の文化を守る議員連盟」だという。自民党のいう「日本の文化を守る」にはなにかきな臭い意図でもあるのではないかと何か勘ぐりたくなったりもする。権力側の救済には何か裏がある。

 これも以前書いたことだが、あのお堅い専門書を出している岩波書店が最高に儲かったのは実は戦時中だったという説がある。「慰問袋に岩波文庫を」というコピーのもと、主要岩波文庫は1点あたり数万冊も軍部によって一括購入されたのだとか。当然、用紙などが制限されるなかでも優先的に供給されたとも。軍国主義と出版文化は意外と親和性が高いのである。