黒田清輝〜「野辺」

昨日、箱根ポーラ美術館再訪。7月に行った時に開催していたモディリアニ展がちょうど終わったばかりで、常設展のみ。なんでも明日から「紙片の宇宙」と題してシャガールマティス、ミロ、ダリ等の出版物の挿絵を特集した企画展示があるのだとか。有名なマティスの「ジャズ」とかも展示されるという。来るの1日遅らせれば良かったかとも思ったが、まあしょうがない。
ただし常設展示と企画展示室が隣り合わせているので、立ち入りはできないのだが遠目に何が展示してあるのかは一目瞭然。ミロやダリの小品を幾つも飾られているのを視認できた。
という訳で今回は常設展のみ。しかもずいぶんとこじんまりとしている。いつものモネ、ルノワールピカソははあるのだが、キスリングもないし、セザンヌもない。フジタもなければローランサンもない。ピサロシニャックドガロートレックもない。同じように日本画も浅井忠も岡田三郎助もない。若干、淋しいものも感じるが、モネが10点近く、ルノワールも4〜5点、ゴッホゴーギャンもある。お気に入りのスーラ「グランカンの干潮」がある。そして何よりもピカソがある。もはやそれで十分なようにも思った。
今回、一番気に入ったのは、いやこの美術館に何度も来るのはこの絵を観たいからでもあるのだが、ずっと見入っていたのは黒田清輝の「野辺」。

ツィッターではこんなことつぶやいてる。

黒田清輝の「野辺」。この絵は素晴らしい。清楚で仄かに清純な存在だけが漂わせるエロティシズムのような何かが。

ありてぃにいえば仄かでややもすれば通俗的なエロティシズムみたいなものに収斂してしまうのかもしれない。黒田が留学中に師事したというラファエル・コランの影響がありありとする絵でもある。自然の中の裸婦、仄かなエロティシズムというのにコランのこの絵がある。「フロレアル花月

以前大塚国際美術館でこの絵の陶板複製を観た時に、この絵はちょっとやばいなとは思った。芸術とポルノのぎりぎりの境目のような微妙な危うさを持っている。なによりもその写実性がその境目でぶれているようにも思えた。これは芸術ではあるが、同時にポルノとして受けとめられる可能性を有している。キーワードは通俗性だと、そんなことを感じていた。
そして黒田清輝のこの作品である。明らかにコランの影響がある。しかしこの絵にはモデルとなった少女の美しさ、清純、はじらい、そういった純なるものへの確かな憧憬があるようにも思える。それらはたぶん冒しがたい何かでもあるが、いずれ経年と共にきっと消え失せてしまうような類のものだ。
まだ大人になりきっていない少女だけがもつ普遍的な美、たぶん、たぶん男性が一方的に感じるに違いないそういったものへの憧憬が投影された絵のようにも思う。
同時にこの絵にはモデルとなった少女の恥じらい、激しい羞恥とともに、何かそれらをも凌駕するようなある種の諦め、諦観の念のような表情が感じられる。
この絵が世に出たのは明治40年のことだ。この時代にあって裸婦画はたぶん浮世絵のそれがそうであったの同じようにポルノとして受け止められたのではないか。だとすればそういうものの題材、モデルとなることがこの少女にとってはある種限定された将来像と重なっていくのではないか。
何のために画家のために裸身を晒すのか。画家への尊敬のため、いやそんなことは多分ありえない。おそらくに生活のため、直裁にいえば金のためなのであろう。だとすればこの少女の明治40年代にあっての将来は限定されたものでしかありえない。そういう近い将来を前にして、一瞬のきらめきのように、たぶんこの年代でしか醸し出せないような清純な美のようなもの、画家の確かな目がそれを写し取ったのではないかと、たぶんそんなことを思っただけだ。
ひょっとしたらこの少女は画家の将来妻となるべき金子種子だったかもしれない。そうだとすれば、前述したことはほぼ私の妄想の類となる。まあいい。私はこの「野辺」という絵が好きなだけであるのだから。