小沢ルールに右往左往

http://www.asahi.com/politics/update/1031/TKY200910300496.html

民主党小沢一郎幹事長が国会対応や政策立案で掲げる「小沢ルール」に、党内が右往左往している。「口べた」と称する小沢氏の真意の読み解き方で「ルール」が変わり、人事などで影響が出ている。この読み解き競争が、鳩山由紀夫首相の求心力を低下させ、責任の所在をあいまいにしている。

小沢一郎の闇将軍ぶりがどうにも目についてきたというところか。しかしせっかく政権をとったばかりの民主党である。どうしてもっとうまいことやることができないのか。小沢一郎という人物、理念が先走りする部分や自らの権力基盤の構築や行使について、今ひとつ大人(というか大人物にというべきか)になりきれない部分がある。よくも悪くも書生っぽいというべきか。でも書生ならもっと理屈がたっていなければならないのだが、この人は。
そもそも小沢ルールとはなんだろう。朝日の記事ではこんな風になる。

1.国会改革
 「野党が与党とは別の国民の意見を代表し、政府と議論するのが議会制
  民主主義の基本だ」(21日の公演)
2.政策決定
 「政府に一元化。政治家の活動に直接かかわるもの以外は党の機関はノ
  ータッチ」(9日付けの党機関紙)
3.人事
 「政党は選挙が原点。国民が主権を行使するのは選挙だけだ」
  (7日の記者会見)

これに対して民主党は以下のような対応をとっているのだが、衆院参院でまったく対応が異なっている。

1.国会質問
 (衆院)
  首相の所信表明演説に対する代表質問を、衆院では「政府・与党は一
  体化しているので、質問するのはありえない。
 (参院)
  参院は修正の府として所信表明を補完するために代表質問を行う。
2.政策決定
  衆院議員は党政策調査会を廃止。参院参院独自の課題を扱うとして
  政策審議会を維持。
3.人事
  衆院の初当選組や比例復活組は政府の役職に就かせず、選挙と国会に
  専念。政府が行政刷新会議の「事業仕分け人」に内定した当選1、2回
  の衆院議員に参加を認めず。

政府と与党の一体化というが、今のように衆院過半数以上を与党が得ている状況でそれをいうと、ある意味国会軽視につながらないか。まして与党が300以上の議席を得た場合はどうか。建前的になるが民主主義の一大原則は三権分立であり、しかも立法府である国会に優先的権限が与えられているはずである。小沢の国会改革と称するものは、与党と野党が拮抗した中ではある程度の意義を持つかもしれない。しかし日本のように選挙を通じて政権挙交代が毎回のように行われる政治風土では、さらに前回の郵政選挙での自民党の大勝とその反対軸として今回の民主党の圧勝のように、振り子が大きく振幅する状況では、あまりにも理念先行型ではないか。
政策決定を政府に一元化というのはもっともらしく聞こえる。しかし政府=行政府である。それで脱官僚依存ができるのかどうか。政策決定を政府に一元化するというのは、まんま立法府国会を政府が一元化された政策を追認するだけの機関に堕することではないのか。
1、2回生議員に対して、最大の仕事は次の選挙に勝ちあがってくること。選挙が総てという選挙至上主義は、「国民が主権を行使するのは選挙だけだ」という説明とともにもっともらしく耳に入ってくる。しかしその選挙のための運動とはなんだろう。国会に出席しても発言や質問の機会も与えられなければ、さらに独自の政治活動としての議員立法も制限されてしまえば、ただの数合わせでしかないだろう。
それで選挙に勝つための活動といば、選挙区を回りドブ板を続け、利益誘導を目指すしかない。新人が利益誘導を目指すには有力議員に取りいって、その権力をバックに官僚から予算ぶんどってくるだけではないか。これってまんま昔の自民党の派閥政治そのままなのではないか。
小沢一郎は原則として理念型の政治家である。単なる利益誘導や様々な権限を武器にして自らの権力基盤を広大にすることを目指してはいないのではないかと思う。そうであるならば、もともと自民党の主流派にいた彼が自民党を飛び出すはずはないと私は思っている。自ら権力機構を飛び出し、二大政党政治を構築するために試行錯誤をしたりしまい。彼の自民党を飛び出してからここ15〜6年の政治活動をみていると、一面的には様々な迷走はありながら、首尾一貫して円滑な政権交代による政治を模索してきたともいえる。
しかし彼には政治家として致命的な問題を抱えている。政党政治家として、いや民主主義の政治にあって一番必要なこと、国民に対する説明責任意識が徹底的に欠けているということだ。国民にも説明がない、それどころではなく内部的にもきちんと説明をすることができない。ルールの指針ともいうべきものを打ち出しながら運営規則を明示しないから混乱がおきるのである。それでいて組織内に混乱が起きると「何でもかんでも全部僕のせいにする」とぼやくのだそうだ。なにか甘えん坊将軍みたいなもの連想してしまう。
 朝日の記事は書いている。

周囲が小沢氏の真意を確認しないまま自分流に解釈して動けば、責任の所在があいまいになる。それでも、小沢氏は真意を語ることが下手なだけに読み続けるしかない。もし真意と異なれば、不興を買って溝が生じるからだ。

権力者の真意を確認できない組織って、まともに機能しているのかどうか。別の記事とかで読んだ記憶があるが、行政刷新会議の人事を巡って仙石由人行政刷新相は小沢に会おうとしたが、小沢は雲隠れして2日くらい小沢の真意を聞くことができなかったという。この雲隠れもまた小沢の常套手段だ。かっての福田、小沢の党首会談から大連立構想をぶち上げ、党内の猛反対にあって頓挫したときも、この男は何日も雲隠れしたはずだ。
真意をきちんと伝えられないうえに、それを逆手にとって相手とのコミュニケーションを遮断して相手を不安にさせる。権力者がこういう手法をとればとるほど相手は権力者の顔色を伺い、権力者と常にコミュニケーションがとれるように懐に入り込もうとする。側近政治というのはこういうことじゃないのか。権力者とその側近に権力が集中するという図式だ。
朝日の記事はこうした民主党の側近政治を「ご推察政治」と説明する。言い得て妙である。しかし原則を断片的に一方的な記者会見でぶちあげておいて、「真意を語ることが下手」というだけで、責任の所在を曖昧にする権力者が存在しているということに民主党の国会議員は疑問一つもたないのだろうか。「真意を語ること」ができないのなら、原則などぶち上げる資格はない。それ以上に政治家の一番の義務は国民に対しての説明責任である。それを「口べた」の一言でかたずけられるか。「口べた」なら即刻政治家引退すべきだろう。
小沢一郎は確か心臓に爆弾抱えているという話だ。民主党のこれからの4年間が迷走に次ぐ迷走に終始するかどうか、小沢一郎の爆弾というか健康状態に左右されるのではないかと、なんかそんな気がする。民主党政治もいずれ政権交代で下野することになるだろう。その時に自民党がきちんと再生してその受け皿になっていることを期待する。それと同時に民主党が下野と同時に、今の自民党のように解党的危機に陥るのでは困る。
民主主義政治の成熟にはまだまだ時間がかかるのだろうと思う。現在の民主党小沢一郎を主役とする迷走も、結局のところ議会制民主主義の成熟のための過渡期の産物なのだろう。でも今小沢がやっていることは、かっての彼の師匠である田中角栄の闇将軍時代と同じである。権力の二重構造、政府や国会に対しての責任を持たない政党のトップあるいはその後ろ盾たる人物が最も権力を持っているのである。これで彼がワイロとって利益を斡旋しても、職務権限の点でおそらく訴追は不可能なはずだ。彼がいまやろうとしているのは、結果としてそう見られてもおかしくないようなことなんだ。
運命の神さま、政治の神さまがどこかにいるのだとしたら、いつか日本の民主主義のために彼の時限爆弾を早目に作動させたほうがいいのではないかと、そんな不謹慎なことさえ考えたくもなってしまう。それほど「小沢ルール」には怒ってしまいたくなる。