ある政治的苛立ちへの決別

一昨日書いたことの補足である。
もう小沢一郎や彼の主導する党派についてのもろもろに腹をたてるのをやめようと思う。彼や生活の党の動静は新聞の政治欄でも小さな囲み記事に週に1〜2回あるかないかだ。すでに議席数や政党支持率からすれば、泡沫政党に近い。それよりもなによりも選挙の度に名称が変わり、離合集散を繰り返すような政党なり政治家について、いちいち関心を寄せるのはどうかということだ。
といいつつなんとなく忸怩たるものがあるにはある。それは一昨日書いたとおりのことである。今日も銀行に行くために車を運転していると、落選した未来の党の候補者のポスターが目に入る。そのにこにことした顔を見るとむかつきが戻ってくる。もうこの道を通るのをやめようかとも思う。その度に腹をたてていては、たぶん健康によくない。ここのところずっと高値安定の血圧もさらにあがろうかというものだ。日本未来の党のポスターは体に良くない。
しかし旧日本未来の党から立候補した候補者たち、現生活の党の彼らは、たった一月足らずで政党名が変わったことについて、ろくに弁明もしていない。何人かの現職議員のHPとかをつらつら眺めたが、まったく説明もなく生活の党と表記しているだけ。何人かは暮に双方の方向性が異なり円満離婚したみたいなことをお気楽に書いているだけだった。小選挙区で当選したのは小沢と亀井だけで、残りはみな比例区である。彼らは未来の名で当選したのだが、そのことに対して何の痛痒もないようなのだ。そういう無神経さにまた腹がたつ。
ただしネットをいくつかググってみると、小沢一郎の賛同者や支持者の多くが、情勢に対して楽観的であり、小沢一郎の政治力に対して無条件の信頼を寄せていることなどがわかってくる。自分たちを顧みてどうのみたいな部分がおよそなさそうである。彼らの中には、暮の総選挙での大敗は不正選挙が行われていたと主張する人々までいるようだ。未来の党の投票が不当に遺棄されたり、集計されていないということらしい。ある種の謀略史観みたいなものなのかもしれないが、ここまでくるとほとんどカルト宗教のような感じである。
なんだかんだといっても、日本は民主主義国家ではあると思う。少なくとも政治的言動を元に投獄されるようなことはない。権力やマスコミ等による情報操作の類はもろもろあるにしろ、それは先進諸国のどこにでもあるような類のものだろう。もっともこの間の福島第一原発の事故とその情報開示についていえば、さらにいえば原発関連の情報操作等についていえば、日本の民主主義、自由主義を胸張って主張できるようなものとはけっしていえないだろう。
それでも戦後60年以上、いちおう政党政治が確立し、公平な選挙自体は行われているだろうということは、国民の間でも共通認識としてあるのではないかと思う。それがフィリピンやマレーシアあたりの、あるいはアフリカ諸国のごとくに選挙自体の公平性が問題視されるような国々と同等であるという主張は、いくらなんでもという気がしてならない。不正選挙を主張する人々は、日本にも国連の選挙監視団みたいなものが必要だというのか。
そういうことを読み散らかしていくとなんともアホらしくもなってくる。きっと小沢一郎を信奉し、未来の党が惨敗した理由を不正選挙などと主張する人々は、きっと面白がって、ネタ的な形で言っているのではないかとそんな風にも思う。
昔、出版社にいた頃に著者として少しだけお付き合いのあった景山民夫さんが、一時期幸福の科学に入れ込んでいたことがあった。やれ教祖に様々な偉人、英雄がのり移ってきて霊言を語られるとか、その手を面白がりつつ真面目に話していた。そのことをよく編集者と話題にして、「景山さんはあれ絶対に面白がってやっているんだよね。一種の知的遊戯みたいなんじゃない」みたいなことを話したことを覚えている。その割にはのめり込み度が半端じゃなかったので、ひょっとしたら最初はお遊びだったのが、途中からそうじゃなくなっちゃたのかもしれない。横浜アリーナの貴賓席に景山夫妻の招待で幸福の科学のなんとか祭みたいなイベント見に行ったことを今でもよく覚えている。凄かったね、20世紀少年なんて比じゃないような盛り上がりだったから。
話はそれたが、小沢支持者がのめり込み過ぎて不正選挙とまで言い出すのも、最初はお遊び的に小沢支持の熱烈さをエスカレートさせていったのも同じような心理なのかなとも思ったりもする。しかしよりにもよって、日本で不正選挙が大々的に行われていて、もしそうでなければ未来の党は100人からの当選者が出ていたなんて。
なんかそういうのを読んだりすると、もはや小沢一郎なり生活の党なりに腹をたてるのもどうかと、そんな気さえしてきた。なのでもうこのネタは個人的にはよしとします。もう生活の党のもろもろにも腹をたてない。未来の党の選挙ポスターもやり過ごす。どうせ参院選の結果いかんでは霧消してしまいそうな感じもするから。
たぶんね、今後小沢は民主党に対して様々なアプローチをしていくんだろうとは思う。海江田や輿石は小沢と近しい部分もあるからけっこう現実味を帯びるかもしれない。でもそうなったら本当に民主党は分裂どころじゃないとは思う。あとは三宅坂からおんでた社民党くらいだろうか。瑞穂さんも騙されちゃうのかな。おばさん転がしは得意技みたいだから。
なんにせよ日本に二大政党が現出して政権交代を繰り返して、徐々に政治を成熟化させていく。そういう形になるのには、これからどれだけの月日が必要になるのだろう。たぶん生きているうちにはもうないだろうなとは思う。民主党政権はあまりも稚拙で準備不足だった。どうしようもないまでに。でもその一つの要因が、小沢一郎の権力欲とその一派による党中党的な形での足の引っ張り、傍目から見てのゴタゴタにあったのは、間違いないことだとは思う。
最後小沢一郎の政治手法をうまいことまとめあげてくれたのがこのサイトである。
日常雑感 小沢一郎という名の政治家
ようは説明責任を負わないこと、忖度政治、無責任、駄々っ子、そういうものに収斂されてしまうのだろうね。みんなが自分のことを忖度して責任を負ってくれる、そういう自己中心主義ということなんだろうね。
例えば昨年、例の夫人の手紙やら離婚やらの話が文春に載った。あれの真偽がどうなのかはわからないが、小沢一郎はそれに反論をしていない。大物政治家だから三文マスコミを相手にしないということなのかもしれないが、もしあれがガセなら、野党の大物政治家に対してデマゴギーで中傷したのである。週刊文春は廃刊ものではないかと思う。ましてやもしまったくのデタラメであるとすれば、自分自身だけでなく奥方に対してまでの誹謗中傷なのである。妻の名誉のためにも全力をあげて反論すべきはずなのだ。それこそ橋下大阪市長週刊朝日の例の件以上に痛烈に反証すべきなのにそれすらしない。これも説明責任負わないということの一つの証明かもしれない。
ようはみんなが私の気持ちを忖度してあの週刊誌がデマを載せたと言い募ってくれればいいとそういうことなのだ。
昨年の未来の党のゴタゴタもそう。私自身はなにも党代表になるつもりはなかった。みなが推挙するから、それならしょうがない、私は大物だけど敵が多いから、私が全面に出ると迷惑がかかるかもしれない、それでもみながいいというなら受けてあげましょう。でもあくまでみなが推挙したからしょうがなくだよ、みたいな。
だいたいにおいてクリスマスのクーデターだっけ、両議院総会で小沢を党代表にという話のもってきかたにおいても、なぜその場に本人がいない。党代表にというのであれば、今後党をどうしていくのかについて自ら発信すべきではないか。政党政治ってそういうものだろうに。それを自分の配下に推挙させて、自らは雲隠れ。こういうやり方は民主主義的じゃないと。
なんか書いていて、また腹がたってくる。健康に悪い。とりあえずこの項は終了。たぶんもうこのネタは振りたくない。