ついでに我が母校にもいってみる

神奈川区役所からの流れで、母校にもちょっとばかり行ってみた。妻がね、「おとうさんの出た大学って、見てみたいね」というから。そんでもって卒業以来、およそ25年強ぶりくらいになるのか行ってみた。東白楽から六角橋方向に車を走らせて六角橋の交差点を過ぎたところで右折、車でくるのはたぶん始めてなのかな。大昔徒歩でくねくねと上ったゆるい坂を一気に愛車で駆け上がると右側に見えてきましたね、我が母校が。しかし、ずいぶんと変わったな。きたねえプレハブの生協の店舗もなにやら新しい建物に変わってしまっているし。それとその建物の前にはなんとマックまでありやがる。
いっそ来客用駐車場に止めて学内散策でもしようかとも一瞬思ったがやめた。たぶんなんの感慨もおきそうになかったから。そんでもって車で学校の周囲を回ってそのまま帰った。私らが卒業してすぐにできた小奇麗な図書館を右手にみながらね。
しかしなんでこんな大学に行ったんだろうな、と今更ながら思う。答えは一つ学費が思い切り安かったから。それとまあいろいろ受験して受かったのが、ここと白金台にある大学の二つだったから。一応苦学生で四年間学費をせこせこアルバイトしてまかなっていたから、ある意味この大学以外に選択の余地なかったんだよな。
2年だか3年だったか、学費闘争やって学生運動史上初めての学費値上げ白紙撤回を勝ち取った時には、この大学、国立よりも学費安くなってしまった。あれは闘争やっている学生側も意外だったよ。まさか大学当局が白紙撤回するなんて、思いもよらなかったから。団交〜ストライキロックアウト、試験はレポートにという流れでいたから、よもや白紙撤回でストライキ解除は予想外の展開だった。お祭り的に学生運動かじっていた私やその仲間たちは、一応学費値上げ白紙撤回に勝利の雄たけびあげつつ、ひそかに「おい、どうすんだよ、試験じゃね〜か、なんも準備してね〜ぞ、おいおい」と頭抱えたもんだった。そんな悲喜劇の残滓なんてどこにも残っていそうにない綺麗なキャンパスにはあんまりノスタルジックな気分に浸ることもなさそうだし。
しかし、本当のところ実はどこかでいろいろ、様々なことをまだまだひきづっている部分も実はけっしてないわけでもないのだ。○号館屋上から飛び降りた先輩のこと、○○号館前で実際にあった内ゲバ殺人のことなどなど。あの当時の様々なことがらをとりあえず忘れた、あるいは忘れたふりをして、ある意味軽く若気の至りみたいな皮相な言葉で煙に巻いてきた。でも本当はあの時感じた様々な思いやいろいろな問題意識、人の生き方とか社会をどうしたらもっと良い方向に変えていくことができるか、そんな青臭い思いときちんと真正面から向き合うことを忌避してきてしまった。卒業以来ある意味、忌避しっぱなしの人生歩んできてしまったわけだ。
キャンパスにね、足を運べないのはね、実はね、そういう人生歩んでしまった自分には、やっぱり学内に入るのにいろいろと抵抗があるというか、まあそういう心的なものがあるからなんだろうなと、なんとなく後追い的に思うわけだ。