再び家を見に行く

昨日、鶴ヶ島市内の中古物件を再び見に行った。6日に見た物件を再びだ。7年落ちの割りにずいぶんと綺麗に使っているという印象。4メートル道路に面した小規模開発された建売の一つだ。今住んでいる家が6メートル道路に面していて、その先は学校という開放的な場所だから、どうにも窮屈な感じがする。
でも、割安感がある。最寄駅まで7分という利便性もある。さらにだ、勤務先にも5分程度でいける。妻のこと、子どものことを考えるとこういうロケーションの家はなかなかないのではという思いを強くする。都内からさらに遠くなるのだから、駅からの距離という部分を除いて考えれば、もっと広い家をという選択肢もあるにはある。車通勤にしてしまえばいいだけのことだから。それこそ森林公園だの、さらにその先のつきのわとかまでを視野にいれれば、そこそこの広さ、日当たりの良い庭に芝生を張って、犬でも飼うような生活だって考えられないわけでもないなどと、馬鹿みたいな夢みたいなことも考えたこともある。
でもだ、今小学生の娘が中学生になり、高校生になりということになると、陸の孤島みたいなところでは通学が問題になってくるということもあるにはあるわけだ。まあ中学までは普通に公立校で徒歩とかで通学ということなんだろうが、高校になると確実に電車通学ということになる。そうなると最寄り駅までバス15分とかみたいなことはさすがにちょっとということになる。やっぱり駅近というのは大きな魅力なんだろうな。
それにしてもだ、勤め先まで徒歩5分というのは、どういうことになるのだろう。これまで通勤に1時間半近くかけるという生活をおよそ20年近く続けてきた。ふじみ野に住み、会社の移転で通勤時間が30分になって5年ほど。これまで通勤時間=読書タイムだったのが、ほとんど本読む時間もないまま最寄駅に着くというのにけっこう違和感感じていたものなのだが、それがだよ、徒歩5分みたいなことになったら。もう、それこそ世界が裏返ってしまうような感じじゃないか。
多分今まででは考えられないような時間的余裕が生まれるかもしれない。でも、無為な生活習慣に慣れきってきているから、きっと余った時間を有意義にすることもなく、だらだらとしているかもしれない。でも、本当に生活パターンが変わってくるかもしれない。
そしてだ、これがある意味では一番重要なことなのかもしれないけど、やはり障害をもってしまった妻ともっと接する機会をもってあげるべきなんだろうとも思う。忙しさにかまけているからという言い訳でしかないのだが、そういえばミラーセラピーもずいぶんやっていない。四十代半ばの若さだから、継続的に行えば良い結果を生む可能性だってあるはずなのになどとも思う。
さらにだ、もう少し娘と接する機会も増やすことができるかもしれないとも思う。まだまだ父親になついてきているとはいえ、もう四年生。もうあと少しで「ジジィ、臭い、あっちいけ」みたいなことになるだろうとの予感も。娘と仲良くできる時間だってけっこう限られているかもしれんのだよな。毎朝ずっと続けてきた、行ってきますのムギュー、ハグハグもだんだんと減ってきているし、人前ではけっこう距離置くような態度もとりつつあるし、などとまあそれも成長過程なんだろうとも思う。
でも、子どもが距離置いても基本的には大丈夫、だと思う。たぶん、きっと。いっちゃなんだが、ろくでもない趣味はいくらでもある。好きな本を読み、好きな音楽を聴き、好きな映画をDVDで観ていれば、たぶんそれだけでけっこう満足だと思うし。老後のためにとってあるドストエフスキー、数百枚は確実にあるジャズ、ロックのCD、映画のDVDも気がつけば100枚は軽く突破してる。みんないつか聴ける、いつか観れるで集めているものばかりなんだから。
毎日、家族の朝食を作り、子どもを送り出してから仕事へ向かう。夕刻、仕事を終えてから買い物をし夕食を作り。まあ今でもやっていることではあるけど、今は時間なさ過ぎるというのが率直なところだ。勤務先まで5分というのは、ひょっとするとひょっとして時間的余裕みたいなものが生まれるかもしれないな〜などと夢想する。
家を見るということは、そこに住むことによって生まれる生活を想像するというある種の快楽でもあるのだと思う。ポジティブにもなれる。とはいえ都落ちであることは否めず、さらにいえば今住んでいる家への愛着もかなりあるから、まあ残念無念の部分も多々あるわけだ。それでも妻の失職時期も近くなってきている以上、妻と二人でダブルローン組んでいるという現実もあるわけで、そろそろ次のステップへ踏み出すべき時ではないかと思いつつある。
そんなわけで、今回案内してくれている不動産屋にとりあえず買いの意思表示をしてみたところなのだ。