退院

午後休をとって国リハへ行く。当初、2時頃ということにしておいたのだが、思いのほか仕事に手間取り会社を出たのは1時半頃。それから車でふじみ野に戻り、銀行で入院費用をおろしたりしてから国リハへ向かったので、結局着いたのは3時少し前になった。
最初に一階の会計窓口で支払いをすませる。16万強の最後の入院費。それから三階病棟へ向かう。妻は例によって車椅子で病棟廊下を周回中のようだった。後で聞くと各病室に最後の挨拶をしにいっていたという。それで病室へいき最後の荷物整理を行う。
担当看護師は夜勤明けで退勤していると妻が言っていた。それでも本来9時までの勤務なのに1時まで頑張っていたらしい。若いけれどそこそこ経験も豊富で熱心な看護師さんだったなと思う。最後にお礼を言えなかったのが残念。
ナースステーションで看護師長に最後に挨拶をする。持ってきたケーキを渡そうとしたけど、固持される。「それ受け取っちゃうと、私首になっちゃうから」
エレベーターに乗り込む時は当直の看護師、準看護師が総出で見送ってくれた。一階に降りると、偶然主治医が外来診察室から出てきたので最後の挨拶ができた。とにかくここまで回復できたことについてお礼をいった。医師からはやけどのこと、ある程度治ってきているけれど、とにかく一度皮膚科にかかるようにとか、近々に障害者年金の申請をするようなら、診断書を書くのでとのことだった。ぶっきらぼうで必要最低限のことしきゃ話さない人だったけど、本当に患者のことを親身になってくれるいいお医者さんだったと思う。
それからPT、OTにも最後の挨拶にいく。PTの先生、OTの先生、みんな良くしていただいた。けっこう妻は先生方に可愛がられていたんだなとも思った。年齢的には妻と同じくらいの人もいるが、たいていは年下。場合によっては二十近く下の先生もいる。みんな妻に向かって退院おめでとうと口々に言っていた。療法士の先生からしても、妻の回復の度合いは、治療・訓練がうまくいった成功例といえたのではないかとも思う。
すべての挨拶が終わってからもなんとなく売店のあたりをうろうろしたり、中庭を散歩したり、競技場のほうまで足を伸ばしたりした。なんとなく去りがたいような気分というところか。それほどここで過ごした日々は長く、印象的なことでもあった。妻にとっては12月12日にここ国リハに転院してきてから、途中二月に二週間、医療センターに戻って手術を受けた期間があったとはいえ、ほぼ六ヶ月入院生活を過ごした。最初は重度の片麻痺、注意障害という現実に打ちひしがれて、絶望の淵にあった。それからリハビリ訓練を続けるうちに、少しづつ機能回復が進んできて、小さな希望が生まれた。自立歩行という希望だ。それがちょっとづつ形を成してきたんだなと思う。
そして家族にとってもこの六ヶ月は本当に長かった。週二〜三回、仕事を終えてから娘と二人、病院へ向かう日々。土日は毎週足を運び、病院の広い庭内を車椅子を押して歩いた。それから外出でのドライブなど。最もこれまでは病院という一番安心な場所に妻を預けておくことができた。でも、これからは自宅で彼女の世話をしていかなくてはならないわけだ。ある意味、これからが介護生活のスタート。多分に苦難の日々が始まるのだろう。とはいえ入院生活という一里塚を越えたという意味ではやっぱり感慨深いものがある。
なんだかんだで四時過ぎにようやく病院を後にして、娘を迎えにいった。