『百年の孤独』のよもやま

 Twitterのタイムラインを眺めていたら新潮社のツィート(ポスト)が。

 そうかいよいよ『百年の孤独』が文庫化されるのかと、ちょっとした感慨を。

 そして同じタイムラインに映画評論家の柳下毅一郎氏のツィートも。

  思わず反応してしまった。「みんなつくるんだ」と。

 自分もあの本を読みながら、錯綜する人登場人物のことがごちゃまぜになり、やはり家系図、人物相関図的なものを作った記憶があった。あの悪魔的リアリズムと称される独特な文体と人物の入りくり。たしかホセ・アルカディオ・ブエンディーアとその妻ウルスラ・イグアランが出てきて、その長男のホセ・アルカディオと次男のアウレリャーノ・ブエンディーア、次女のアマランタなどなど。途中で何度もページを戻ってを繰り返し、自分も家系図・人物相関図的なものを作った。そうしないとどうにも前に進まないような感じだった。

 こういうのはロシア文学ドストエフスキーなんかでもやった記憶がある。『カラマーゾフの兄弟』でも出てきた登場人物を書き出していった。ドミトリイがミーチャになったり、アレクセイがアリョーシャになったりと、まあ混乱していく。混沌する読書というのはドストエフスキーだなと思いながら、途中でメモを作った。

 『百年の孤独』もそんな感じで登場人物の図式化が必要だった。でも多分途中からそういうのをあまり意識しなくなったような気もする。なんていうか物語の流れにのると、こいつは誰だったっけとか、確かとっくに死んでなかったっけとか、まあそういうのどうでもよくなる。

 誰かが『百年の孤独』は『聖書』なんだみたいなことを語っていたような気がする。それはまんま『聖書』のような物語構造をさしているのか、中南米では『聖書』のように受容されているということをいっているのか、そのへんは定かではない。

 いまではもう物語の筋もあまり覚えていないが、読後感の不思議なインパクトは強烈だったと思う。なのでかれこれ、うん十年経っても、まだこうやってこの本に関してのなにがしかを書いてみようと思ったりする。

   数十年も前だと、およそ読んだことすら忘れてしまっている小説などたくさんある。逆に鮮明に読後感の記憶が残っているなんていう方が稀かもしれない。読書なんて多分そういうものだろう。

 それは別に歳のせいとかではないと思ったりもする。なんなら三十代の頃でも、小説を読んでいてなんとなく既視感を覚えだし、結局全部読んでからこれ自分読んでたわ、みたいなことを思い出すなんてことだっていくらでもあった。さすがに同じ本でそれを何度も繰り返すなんてことはなかったとは思うけど。

 そういうことからすれば『百年の孤独』の読書体験というのは、ある種特別だったのではないかと思う。今ではストーリーも覚束ない、登場人物もあらかた忘れている。それでも『百年の孤独』を読んだという強烈な感覚、強烈な読書的達成感はいまだに記憶されている。

 まだ現物があるかどうか、試しに本棚を漁ってみた。何度かの引っ越しの中でたいていの本は捨てたり、処分してしまっている。なので中南米文学なんてほとんど残っていない。ガルシア=マルケス、バルガス=リョサカルペンティエールマヌエル・プイグとか、けっこう読んだし、ずいぶんと買ったと思う。集英社から刊行された『ラテンアメリカの文学』も途中まで定期購読していたように記憶している。さすがに『族長の秋』のあの独特な文体にはついていけず、途中で投げ出したような気もしている。

 でもそれらはたいてい処分してしまったはずだ。本棚をみていくと、カート・ヴォネガットの本の後ろに『百年の孤独』があるではないか。まだ持っていたか。そしてなんとなく思い出したのは、たしか横浜から埼玉に引っ越してきてすぐに、本を大幅に処分した。判る人には判ると思うけど、トーハンの9号ダンボールで6~7箱くらいの本をブックオフに持ち込んだことがあった。そのときに、自分的にはこっちの3箱は価値あるもの、値がそこそこつくこと期待、こっちの3~4箱はベストセラーとか推理ものとかで、まあ二束三文かとそんな風に考えていた。

 でもブックオフの判断は真逆で、自分的に二束三文のものは定価の半分とか三分の一くらいで買い取ってくれた。そして自分的に価値あり本は、「これは買い取れません。処分するだけということであれば引き取ります」ということだった。そこでまあ持ち帰るのもなんなので、処分してくれということで置いてきた。ただしなんとなく未練がましく、その処分してもら本の中から10冊程度持ち帰ったものがあった。そしてその中に『百年の孤独』もあったのだ。

 久々、懐かしさで少しページをくくってみる。自分の持っているのは1986年8月、第23刷のものだ。すると本の中ほどにノートの切れ端を折りたたんだ紙片が挟み込まれていた。開いてみると当時メモした家系図・人物相関図だった。そうそう、こういうの作っていたんだと、改めてその稚拙なメモを見てみた。

 

 懐かしいというかなんというか。そして表3のカバーをめくったところには読了日も記入してあった。

 

 1987年、37年前だ。自分は何をしていた頃だろう。31歳かそこらでまだ出版取次に勤めていた。前年に父親がくも膜下出血で亡くなった。多分、面倒をみていた祖母はそろそろ寝たきりになりつつあった。思えば自分は今でいうヤングケアラーだったようだ。

 その年の出来事というと、天安門事件があり、ブラックマンデーがあった。まだまだ昭和といわれる時代だった。ソ連邦も存在していたし、ベルリンの壁が崩れるのは2年後のことだ。そういう時代に自分はラテン・アメリカ文学の最高峰といわれる小説を読んでいた。そういうことだ。

 本の間から出てきた紙片メモを見ていると、なんとなく遠い目をせざるを得ない。

 さてと、文庫になるのだしせっかくだから読み返してみるかとは、多分ならないような気もする。手持ちの本は二段組でポイントも小さい。これは老眼の身には辛すぎる。文庫のポイントはどうなっているのだろうか。多分、読みやすくはなっているだろうとは想像する。まあ読むか読まないか、それは判らないけれど、多分文庫版の『百年の孤独』、多分買うような気もする。