お盆休暇の初日は宇都宮美術館に行くことにした。ここに足を運ぶのはもう通算で5回目くらいになるのだろうか。日光の保養所に泊まることが多いので、必然的にここに行く機会が増える。何度も行く美術館の中では五本の指の次くらいにはなってきているかもしれない。
そして今回やっていたのが「水木しげる魂の漫画展」だ。
このサイトと図録で確認すると2017年の鳥取展、岡山展、2018年の京都展、そして今年は6月から7月に横浜そごう美術館、そして今回の栃木展ということになっている。制作協力NHKプロモーション、企画協力水木プロダクションということで、この企画展はまだまだ続くのかもしれない
企画展の章立ては以下のようになっていて、水木しげるのキャリア、作風、モチーフや主題を年代とともに、作品とともに理解できるようになっている。
第1章 武良茂アートギャラリー
第2章 水木しげるの仕事場
第4章 総員玉砕せよ!
第5章 あふれる好奇心・人物伝
第6章 短編に宿る時代へのまなざし
第7章 妖怪世界
第8章 人生の達人・水木しげる
子ども時代から画力があり、地元では絵の天才少年といわれていた水木しげるが、絵の世界で生きていくことを決める。戦争に招集されラバウルで片腕を失い復員後、絵の勉強を再開。紙芝居作家、貸本漫画家としてキャリアを積むも食えない状況が続く。
昭和40年代、40代の後半になってから『悪魔くん』、『ゲゲゲの鬼太郎』がテレビ化されることでブレイクし、国民的漫画として大成する。そんな水木のキャリアが実によくわかるような展示となっている。
思えば、彼が少年マガジンに『悪魔くん』『ゲゲゲの鬼太郎』が連載された1965年〜1966年、自分がもっとも漫画を読んでいた頃でもある。たぶん10歳前後、小学3〜4年生の頃だ。同時に実写ドラマ化された『悪魔くん』やアニメ化された『鬼太郎』も毎週かかさず見ていた記憶がある。
いわば人気がで始めた水木しげるの作品をほぼ同時代的に享受してきた最初の世代なのかもしれない。それを思いながら水木しげるの年表を見やっていると彼が1922年、大正11年の生まれであることに気づく。
私の父は関東大震災の年、大正12年生まれだ。水木とは1歳違いである。そうなのだ水木はほぼ私の父と同じ世代なのである。父も水木と同様に招集され、海南島や上海、台湾を転戦した。乗っていた貨物船が潜水艦の襲撃でやられ、半日海の上を漂流し生死の境を経験した。隣にいた戦友が戦闘機の機銃掃射でやられたという話も聞いたことがある。
20代前半で戦地に赴き、戦後の復興を生きてきた世代なのである。父と同世代ということで、何かより水木しげるが身近な存在として感じられ、なんとなく不思議な思いを抱いた。
さらにいうと水木作品のテレビ化は『鬼太郎』よりも『悪魔くん』の方が先である。30分の風変わりな実写ドラマは、円谷プロの怪獣モノとも「赤影」シリーズのような忍者モノとも異なり、少年たちの心を虜にしたともいえる。私もその一人で毎週欠かさず観ていた。
この利発な感じの子役は確か金子伸光君といったように記憶している。確か「ジャイアントロボ」シリーズでも主役をやっていた子役のスターだった。調べてみると子役のまま引退し、成人になってからは再び役者を目指そうとしたが果たせず、30代の後半に亡くなっているという。なんというかあの人は今ということもなく、人知れず亡くなってしまったということか。
話は脱線した。水木しげるのあの細密で雰囲気のある背景画は、水木が様々な場所で取材した時に撮りためた写真を元に、普段から背景画だけのストックを作っていたということだ。水木の漫画はそうした膨大なストックから選んだ背景に人物やネームを入れることによって成立していたのだという。だからこそ、週刊誌という限られたスケジュールの中で、あの細密な絵が可能だったのだろう。
それにしても彼の描いた作品の緻密な画風は今でも、見るものをワクワクとさせる。