アーティゾン美術館「マリー・ローランサン—時代をうつす眼」を観てきた。
個人的にはマリー・ローランサンはあまり興味がない。パステル色使いのいかにも乙女チックな雰囲気とかがなんとなくしっくりこない。さらにいえば、この人とココ・シャネルはパリがドイツ占領下にあった時に対独協力者だったとか、そういう話を聞いたことなどから。
今回はというと、友人がアーティゾンに行ったことがない、マリー・ローランサンが見たいとそういうことだったので、まあチケットを取ってやったりとか諸々。友人、同い年でまだ現役でバリバリ働いているのだが、オンラインチケットの取り方とかそのへんになると一気に情弱になってしまう。まあそういうものだ。
ちなみに自分は今回初めて知ったのだが、アーティゾン美術館は学生は無料だという。オンラインで予約をとり、入場口に学生証を提示すると無料で入れる。まあ一応通信教育とはいえ大学生なので、今回初めて利用させてもらった。しかしもう2年も高齢大学生しているのに、いわゆる学割とかそういうのを利用するのは初めてだったりする。まあいいか。
マリー・ローランサンについて
マリー・ローランサンは時代的には、エコール・ド・パリ派の画家として括られる。ピカソがいたアトリエ兼住居アパート、通称洗濯船に集った芸術家とその周辺の画家の一人。有名どころでは、モディリアニ、シャガール、キスリング、パスキン、キース・ヴァン・ドンゲン、ユトリロ、藤田嗣治あたりか。ローランサンはというと、このメンバーの中心にいた詩人、評論家のアポリネールと恋仲になった。若い芸術家たちのリーダーかつ理論的支柱ともいうべき人物の恋人にして、女流画家というある意味特別なポジションにいたということ。
アポリネールとの恋愛は4年で終わったという。それはアポリネールが当時、ルーブルの「モナリザ」盗難事件の容疑者として収攬されたことなどが理由(のちに無罪となる)。その後もアポリネールはローランサンを想い続けたとか。ローランサンはその数年後にドイツ人伯爵と結婚してドイツ国籍になる。第一次世界大戦が始まると敵性国民となったためスペインに亡命する。
1920年に離婚してパリに戻り、その後は死ぬまでパリで過ごした。エコール・ド・パリ派の画家としては、比較的早くから絵が売れた人で、この頃のパリの上流階級の婦人たちの間ではローランサンに自画像を注文するのが流行したこともあったという。
同時代的な部分で現在では絵や画家の評価はまったく違うのだろう。例えばモディリアニは当時はまったく売れなかった。それに対してキスリングなどは、当時から売れっ子画家だった訳だし。そして上流階級からの絵の注文という点でいえば、キース・ヴァン・ドンゲンやローランサンの絵もよく売れたということなのだろう。そういえば藤田嗣治もそこそこに売れっ子だったとも。
マリー・ローランサンはある意味では生涯パリジェンヌだったのかもしれない。また絵の他にも彫刻や詩も多くの残している。
第二次世界大戦中は、住んでいたアパートが接収されたり、戦後は対独協力を理由に一時期収容所に収攬されたこともあったとか。その後は家政婦だった女性を養女に迎え、1956年6月8日に亡くなったという。1983年、ユトリロと同じ年に生まれ、ユトリロは1年早い1955年に亡くなっている。ちなみにローランサンが亡くなった10日後に自分は生まれている。まあ本当にどうでもいい話だけど。
自分がマリー・ローランサンの名前を知ったのは実は絵よりも詩の方。それも落合恵子の歌に引用された詩の一文から。落合恵子は今では作家として、児童書専門店クレヨンハウスのオーナーとして知られているが、かっては文化放送のアナウンサーであり深夜放送のアイドルDJだった。彼女の人気から、エッセイ集が数冊出版され、レコードも出ていた。今の彼女にとっては黒歴史かもしれないが、その歌の中でローランサンの詩が引用されていた。
ググると割とすぐに出てきたりする。便利な世の中である。
「一番哀れな女は、忘れられた女」・・・・・・
引用されているのは「鎮静剤」という詩だ。今回の企画展で、フランス留学時代にマリー・ローランサンと交流があったという堀口大学の訳が有名だ。
鎮静剤
マリー・ローランサン/堀口大學 訳
退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。
悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。
不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。
病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。
捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。
よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。
追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。
死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。
マリー・ローランサン—時代をうつす眼
マリー・ローランサン ―時代をうつす眼 | アーティゾン美術館
マリー・ローランサンの大回顧展である。作品はほとんどが国内の収蔵品中心である。これは2019年に閉館したマリー・ローランサン美術館のコレクションが大きく寄与している。この美術館は個人コレクションから始めて、収蔵品は600点(油彩画98点)を超える規模となっている。現在は公開展示はなく、国内外への貸し出しを中心にしているという。
一般公開をせず、コレクションを他館に貸し出すのみで活動している美術館というと、スイス・プチ・パレ美術館を思い出すが、国内のマリー・ローランサン美術館もそうした道を選んだということか。
昨今は円安の影響で海外からの作品を借り受ける費用も高騰している。まあ単純にいってしまえば、例えば100万円で借りることができた作品を150万円ださないと借りることができない時代なのだ。そういう意味では、今は例えばルーブルやオルセーなどから多くの作品を借りて大がかりな企画展を開くということは難しい時代なのかもしれない。
今はキュレイションを駆使して、自館収蔵品や国内の収蔵作品を借り受けて企画展を行うというのが主流にならざるを得ないというところだろうか。それを思うと、マリー・ローランサン美術館のコレクションをメインにしたローランサンの回顧展は、地方に巡業してもいけるのではないかと思ったりもする。
今回の企画展では、マリー・ローランサンの作品及び同時代の作品(アーティゾン収蔵品)を中心に57点が展示されている。
展覧会構成
序章 :マリー・ローランサンと出会う
第1章:マリー・ローランサンとキュビスム
第2章:マリー・ローランサンと文学
第3章:マリー・ローランサンと人物画
第4章:マリー・ローランサンと舞台芸術
第5章:マリー・ローランサンと静物画
第6章:マリー・ローランサンと芸術
気になった作品
《自画像》
《自画像》
《帽子をかぶった自画像》
冒頭に自画像3連発である。実際はもう一枚正面から描いたものもあった。これを観ていると、彼女の絵のスタイルの変遷がよく判る。最初は習作的かつ写実風。美人だけど個性的かつある種の意思の強さがよく表れたポートレイト。次はちょっとモジリアニ風で、おそらくエコール・ド・パリの他の画家のスタイルを取り入れ、自分のスタイルを模索していた頃。そして最後の帽子のは、独自のスタイルを確立した頃ということになるのだろうか。
彼女のスタイルはパステル調で、水彩画のような淡い雰囲気を油絵で出すみたいなところに特色があったのかもしれない。ちょうど藤田嗣治が油彩画で日本画的な細かい線を描いたのと同じような。
《椿姫 第1図》
《椿姫 第9図》
デュマ(子)の書いた小説『椿姫』のために描かれた挿絵だ。彼女の淡いパステルーカラーのタッチのイラスト風な雰囲気が水彩で美しく描かれている。やっぱりこの人は水彩画のような油彩画を描いた人という感じがする。
《手鏡を持つ女》
実はこの作品が一番気に入ったかもしれない。淡いピンクを基調としたパステルカラーのローランサンからすると、かなりカラフルな色使いだ。一緒に行った友人は、こうした多色を使ったものよりも、色を少なくした感じの方が良いと言っていた。たしかにそっちがローランサンの本流かもしれないが、この鮮やかな色使いが妙に気に入っている。
《二人の少女》
《プリンセス達》
《三人の若い女》
おそらく今回の企画展でも一番の目玉的な大型の作品である。ある意味、マリー・ロラーンサンの集大成ともいうべき作品か。ただどちらかといえば、この人は大画面作品よりも小ぶりの小品のほうがなんとなくしっくりくるような気もしないでもない。やはり淡いパステルカラー、イラスト調の特色は大画面でインパクトを与えるのではない。なんていうのだろう、会場芸術よりも卓上芸術みたいな感じがしないでもない。
とはいえ、マリー・ローランサンはこれまでずっとなんとなく敬遠していたような部分もあるが、ちょっといいかもと思ったりもした。芸術性とか美術史における位置づけとかそういう部分は除いても、美的かつ詩情感の漂う美しい絵。そういう部分、もっと評価してもいいのかもしれないと思った。
個人的にはエコール・ド・パリ派の画家としては、絵が売れた人、上流階級の婦人たちに評価されるスノビズムとその背景に潜む、実は色彩感覚豊かでポップな部分、ほどよいデフォルメ感などで、マリー・ローランサンとキース・ヴァン・ドンゲンを同じような括りでとらえたいと思う。もちろんいい意味で。