久々、西洋美術館に行って来た。
この企画展のチラシを最初に見たとき、なんとなく素描=習作みたいな感じがしていて、今一つみたいな印象があった。素人的には素描は未完成みたいなイメージである。でも美術史的にも、美学的にも重要だということもなんとなくわかっている。もう一つ、これは実際に絵を描く人たちからすると、素描、スケッチの重要性がより確かなものなどと思う。そこで今回のようにルネサンスからバロック期にかけての大家の素描を観ること、その線描を確認することは得難い体験なのかもしれないとは、少しだけ思ってみたりもした。
改めて素描についてのおさらい。
素描とは、木炭やチョーク、ペンなどを用いて対象の輪郭、質感、明暗などを表現した、線描中心の平面作品のことを指し、デッサン、ドローイングとも言います。素描の制作目的は、絵画や彫刻などの構想を練ったり、下絵を作ったり、完成作品の記録をしたり…と、さまざまです。あらゆる造形の基本となるものであり、また素描自体が一つの完成した芸術作品として仕上げられることもあります。作者の手の跡がより直接的に感じられ、制作の試行錯誤の過程を垣間見ることができ、まるで作家の創造の場に立ち会っているような臨場感を味わえることこそが、素描の最も重要な魅力と言えるでしょう。
展覧会HPより
素描(英 drawing
英語のドローイング(原意は「線引き」)は、フランス語のデッサン、イタリア語のディセーニョ(disegno)、ドイツ語のツァイヒヌンク)などの訳語。各国語それぞれで微妙に概念が異なるが、基本的には線で対象の形態を捉える行為、あるいはそれによって制作された平面作品のこと。画材としてはチョーク、クレヨン、木炭、鉛筆、ペン、メタルポイントなどがあるが、水彩淡彩で着彩(ウォッシュ)されることもある。しばしば絵画、彫刻、デザイン作品の準備のために制作される。古代、中世には手本集としての性格が強く、作品はほとんど現存しない。元来は作品制作の過程で行われる習作や下絵であったが、安価な紙が普及したこと、画家の社会的地位が向上したことなどの要因が次第にそれ自体が作品としての評価・収集されるようになった。完成作にいたる前段階としての習作である場合には、スケッチ、エスキス、クロッキー、カルトン、シノピアなどとも呼ばれる。
『岩波西洋美術用語辞典』
もうひとつこちらは西洋美術のテキストからの引用。
ディセーニョ(素描・線素描)
デッサンを意味するイタリア語。手仕事を行う職人からの地位向上をめざしたルネサンスの芸術家にとっての「創造の力」「芸術的意匠」とされ、ヴァザーリは、絵画の基本要素である素描(ディセーニョ)、彩色(コロリート)、構図(コンポジツィオーネ)、創意(インヴェンツィオーネ)のうちの最上位に置いた。やがて、フェデリコ・ツゥカロ、パオロ・ロマッツォらが「観念」と同一視するようになり、心のなかに生じる心的素描(ディセーニョ・インテルノ)と実際に描く物理的な行為(ディーニョ・エステルノ)の2つをさす言葉となる。
『西洋の美術史 造形篇Ⅱ 盛期ルネサンスから十九世紀末まで』(藝術学舎)
素描はデッサンであり、ある意味一般的には下絵、習作という意味あいでとらえられる。しかし美術史や絵画論においてはより高位な意味性を帯びていると、そういう理解でいいのだろうか。特にイタリアでは素描=ディセーニョは、絵画を構成する要素の中で最高位と位置付けられていると。これは線描を重視したミケランジェロに心酔していたヴァザーリならではといえるかもしれない。
今回の企画展でも冒頭に、ヴァザーリの言葉がパネルで引用されている。

膨刻と絵画は実のところ、素描という一人の父から、ただ一度の出産で同時に生まれた姉妹なのである。
ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』(1550年)
しかしディセーニョ(素描)を観念と同一視するまでに高めてしまうとなると、それは単なる絵画論というよりも美学論的な範疇になってしまうかもしれない。
ここで想起するのは例えば中国絵画における謝赫の六法のうちの「気韻生動」「骨法用筆」だろうか。素描=線描という点でいえば、それは「骨法用筆」と対になるものだろう。でもそれを心的素描=観念と考えるならば、それは中国絵画における「気韻生動」に通じるものかもしれないと思えたりもする。
とりあえず素描についてのおさらいはここでおしまい。
夏休み、しかもお盆休みということもあり、ウィークデイながらかなりの込み具合。チケット売り場にも少し列ができていたけど、階下の企画展示室に入ってみるとずらっと人が連なっている。出品点数は約80点、素描ということで小品が多く、そこに人が列をなして、じっくり見ているので、列がちっとも進まない。素描なんだから、もっと肩の力を抜いて流すような見方でもいいのではと思わないでもない。
いつもだと音声ガイドのある作品のところで渋滞することが多いのだが、今回はそれだけでなくキャプションのあるところでも、じっくりと解説文書を読む人が多く、とにかく流れない。こういうときに監視員さんから、ゆっくり歩きながらの鑑賞を促してもいいのだけど、それもない。自分はこういうときに空いているところ、空いているところを見つけては観るみたいなことをして、流すことが多いのだけど、車いすの妻はずっと列に並び続けなくてはならない。
有名どころの絵が多く出品される鑑賞者が多い企画展だと、前列は歩きながらの鑑賞、立ち止まっての作品鑑賞は後ろからみたいなことを監視員が促したり、なんとなく鑑賞者同士でもルール化されることが多いけど、今回はそういうのが多い。そうなるとけっこうストレスの多い企画展という印象が強くなる。「素描なんだから、習作だし、下絵みたいなものなんだから、そんなに真剣に細部まで見なくてもいいのん、ぶつぶつ」と内心思いながら、一通り観ていきました。
その後、まだ半分も観ていない妻のところに戻り、車いすを押してもう一度回ったけど、とにかく列が進まない、進まない。
ということで、正直あまり面白いと感じることがない企画展でした。残念。まあこれは個人的に素描にあまり興味がないということもあるのかもしれない。アンドレア・デル・サントやグイド・レーニの素描をじっくり見るくらいながら、常設展に完成品の傑作があるのになどとも思ったりした。そんななかで、まだ油絵の実作をほとんど観たことがないカラッチ一族の中心人物アンニバーレ・カラッチの作品などは、やはり興味深く観た。

赤チョーク、白チョーク、紙
この不自然なほどに身体をそらした裸体は、極端な遠近感を強調している。こういうのはデッサンとていも相当な技量が要求されるのではないかと、ちょっとばかり思った。イタリア・バロック絵画が、極端なねじれや強調はマニエリスムの様式を取り入れているような感じもする。
その他気になった作品いくつか。

黒、赤、黄のチョーク、青と緑の淡彩、白チョーク、黒の枠線、紙


ペン、褐色のインク、赤、黄、褐色の淡彩、紙
やはり単なるデッサン、絵画制作のための下絵よりも彩色がなされたものの方がなんとなく完成度が高い、独立した作品というように思えるし、じっくりと鑑賞に堪えるような気もしないでもない。
今回の混み方だと、点数もおおいだけに進まないことでのストレスも多く、なんとなく次もう一度来たいという気がおきない。でももっと空いたときであれば、もう一度来てもいいかなと思えたりもする。ルネサンスからバロックにかけての巨匠の素描を観る機会などそう多くはないのだから、この企画展そこそこに得難いものがあるのかもしれない。
ただし最初にも少し触れたけど、この企画展は実作をする人には、巨匠の線描を確認できるということがあるのだろうが、自分のようなニワカの鑑賞者にはそこまでじっくりということもないかもしれない。凡人には巨匠の素描から気韻生動を感じるということはない。残念なことだけど。