軽井沢にはほぼ毎年1度のペースで訪れている。健保の宿の利用頻度ではあまり多くない。なんとなく軽井沢という場所は敷居が高いような印象がある。またその逆にどこかミーハー的な部分も感じる。自分らが若い頃は、なんとなく猫も杓子も軽井沢みたいな部分もあったりして。
ここ2年くらいは毎年来ているけれど、それ以前はほとんど行ったことがない。大昔、家族で健保の宿を訪れたときには、自分が不覚にも風邪で熱を出し、ほとんど宿から出ることなく翌日ボロボロの状態で帰ったこともあり、なんとなく軽井沢は鬼門みたいな感じもあった。
雲場池
妻のどこかへ行きたいは、たいていテレビでやっている情報番組系のネタ元である。今回もなにかで見たのだろうか、当初から「雲場池、雲場池」と繰り返していた。でも、ここには駐車場もない。以前、何度か周辺をうろうろしたけれど、結局断念したところだ。なので今回は旧軽井沢銀座近くの駐車場に止めてから車いすを押して行くことにした。
駐車場は2年前は旧軽井沢銀座入口のすぐ前にある町営駐車場を利用していた。それが去年は取り壊されていた。今回行ってみると、もとあった場所のすぐ近くに少し広くなった感じの平置きタイプの整備された駐車場になっていた。
まあ他にもいくつか民営の駐車場があるのだが、できれば砂利の駐車場よりはアスファルトの整備されたところがいい。できればぎちぎちの狭い小規模なところより、広めのところがいい。ということで今回も町営の駐車場に止めた。
そこから雲場池にはもと来た道を歩いていけばいいくらい思っていたのだが、車だとほんの数分だが、当然のごとく徒歩だとまあまあ距離はある。当たり前といえば当たり前なんだが。
途中で店舗が並ぶ通り沿いから森の中みたいな道路を歩く。周囲には別荘とかなにか高そうなレストランとかカフェがまばらにあったりもする。

そして案内の看板等に導かれてようやくたどり着きました、雲場池。

なかなかの絶景。水も澄んでいて底の藻もきれいに映えている感じ。
池の周りは遊歩道で一周できる。途中で道が狭い部分と段差がきついところだけは、妻の手を引いて歩いてもらい、車いすは後で自分が持ってくるみたいなこともあったけど、なんとかなった。一周だいたい10分程度ととてもコンパクトなところだ。
ウィークデイとはいえ夏休み期間なので、若い人たちもいるし、我々同様に老年夫婦さんもそれなりにいる。そしてやはり多いのは外国の方々。これは欧米系もいるし、アジア系の人も。みんななんとなく余裕のある感じの人たちばかりで、車いすの脇を軽く会釈してすり抜ける、少し待っていてくれると、礼儀とか親切さが身についている人たちばかりという印象。
そういうのもあり、またとにかく景色も素晴らしく、雲場池の印象は自分の中ではマックスみたいな感じだった。土日とかだと人が多くて、狭い遊歩道を車いすを押してとなると、すこし嫌な思いをすることがあるかもしれない。ということでここは空いている時分でないとなかなか行けないだろうなとは思った。

この池の由来についてはまったく知識がないので少しだけおさらい。
大正時代、この周囲一帯を別荘地として開発した貿易商野澤組の野澤源次郎が、現在のホテル鹿島ノ森敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止めて造った人造湖である。
別荘地開発の一環として作られた人造湖か。外国人避暑客からはスワンレイクとも呼ばれたと。農業用水などの実用的用途のない、まったくの鑑賞用、景観のために作られたという点でいえばほとんど庭園のような趣かもしれない。しかも周囲を遊歩道で巡ることができるなど、ある意味池泉回遊式の庭園そのものだ。
この人工的な池とその周囲が開発等を逃れて、自然な景観(おそらく人工的な意匠による)のまま保存されているのは、おそらく別荘地として周辺の所有者たちが手放すことなくいたからかもしれない。そして景観的にも一定の維持管理が徹底されているということ。
雲場池とその周辺は自然豊かな景観が保持されているが、けっして「自然のまま」ではなく、「作られた自然のまま」の状態が保全されている。この雲場池の所有者は公表されていない。一説には隣接する別荘を所有するブリヂストンの石橋家が所有するとか、一部を所有するとかそういう話もあるのだが、真偽のほどは定かではない。
ブリジストンを創業した石橋家が所有する池を軽井沢が借受け、景勝地として開放しています。
軽井沢移住の利点や失敗例、人気エリアのまとめ 長野県・信州への移住・注文住宅なら工房信州の家 (閲覧:2025年8月30日)
軽井沢に別荘を設けた作家たちもこの池の周囲を散策したという。
池造設当時から散歩コースとして愛好され、堀辰雄、川端康成、正宗白鳥、室生犀星、吉屋信子、与謝野晶子らの随筆にもしばしば登場する。
軽井沢に避暑のために滞在した著名な作家たちばかりだ。それぞれの別荘地がすべて雲場池の近くということもないので、たまに寄ったりとかそういうことだったのだろうか。川端康成と室生犀星が池の畔で偶然顔を合わせてちょっと立ち話をする。
「最近はどうだい」
「さっぱりだね。そういえば堀君はどんな具合だろうか」
「だいぶいけないみたいだね」
などと語りあって、それでは失敬みたいにして別れる。そんなことを適当に想像してみる。
旧軽井沢銀座通りと教会巡り
雲場池を一周してから県道133号軽井沢本通りに出てそのまま戻る。Y字路になっていて左が三笠通りで右がそのまま県道133号で旧軽井沢銀座通りへとなる。車だと短い距離だけど、車いすを押しての徒歩だとけっこう歩くような印象だ。
旧軽井沢銀座通りに来るのは2年ぶりくらい。それ以前はというと勤めていた会社のオヤジ旅行でも一度行ったことがある。土産にジャムとかソーセージ買ったりとかしただろうか。これもどこかで書いたような気がする。
基本、高齢者夫婦なので特にこの商店街で食べ歩きとかそういうこともない。妻はミカド珈琲のモカソフトが食べたいとか、やれプリンが食べたいとかいろいろ目したものを口にする。こちらは黙々と車いす押してるだけ。
町営駐車場から雲場池まで行って、池を一周してから旧軽井沢銀座まで戻ってきているので、そこそこ疲れてきている。なのでオシャレなチャーチ・ストリートに入って、そこのベンチでちょこっと休憩。妻はトイレに行ったのだけど、ここは有料トイレ。まあ軽井沢だし、オシャレなチャーチストリートだしと、なんとなく納得。トイレもキレイだし、100円はチップだと思えばいい。
チャーチストリートでベンチに座っていると、風がなんとなく通り過ぎていきけっこう気持ち良い。やっぱり避暑地なんだな。けっこう日差しがきついけど、こうやって日陰に座っていると本当に気持ちがよい。ちなみにチャーチストリートは店舗や飲食店などが入っている小ぶりのショッピングモール。その抜けた先には聖パウロ教会がある。
聖パウロ教会


この教会は1935年にイギリスのワード牧師によって設立された。時代的には1931年に満州事変、1937年からは日中戦争がはじまるように、大日本帝国が植民地拡大のために中国への侵攻を進めていた時期。同時に欧米からそれを非難され、世界から孤立し始めた頃である。そんななかで在留外国人のために教会を新たに設立するというのも、なんだか時流に棹差すような気もしないでもない。とはいえ信仰とはそういうことなんだろうか。
設計を担ったのはアントニン・レーモンド。フランク・ロイド・ライトの弟子であり、ライトが帝国ホテル設計のため来日した時に助手として共に来日し、以後は日本にとどまりライトから独立して日本で建築事務所を開き、モダニズム建築作品を手掛けた。日本には18年滞在し、その間に前川國男、吉村順三らが事務所で学んだ。
レーモンドの作品というと、高崎市美術館に隣接する旧井上房一郎邸が公開されていて、一度中を見たことがある。井上房一郎は地元の建設会社井上工業の社長で、事業の傍ら地元の文化振興に勤め、オーケストラを設立したり、芸術作品のコレクターとしても知られていた。もともとフランスで絵の勉強をしたこともあり、アントニン・レーモンドとは親しい間柄だったという。群馬県立近代美術館の所蔵品は、井上のコレクションをもとにしているとは何かで読んだ記憶がある。
ちなみに弟子の前川国男といえば、横浜市西区紅葉坂にある神奈川県立図書館・音楽堂、神奈川県立青少年センターなどの作品がある。いずれも高校生の頃はよく行ったところであり、浪人生の頃は毎日のように図書館の学習室に籠っていた馴染みの場所だ。もっとも設計者が前川国男だと知ったのは、ずいぶんと後になってからのこと。
そして吉村順三はというと水戸の仙波湖の近くにある茨城県近代美術館の設計者だ。
美術館巡りをしていると、多くの建物が著名な建築家の設計によるものだと知る。そしてなんとなく設計者を意識するようになってくる。
話は大幅に脱線した。聖パウロ教会である。この教会の内部礼拝堂も基本的に自由に入ることができる。こじんまりとしているが、落ち着いた雰囲気だ。ここで吉田拓郎が、最初の妻である元六文銭ボーカリストの四角佳子と結婚したことは、以前にも書いたことだ。「結婚しようよ」の「僕の髪が肩までのびて~」の「町の教会で」は、この教会のことだ。

ユニオンチャーチ教会
聖パウロ教会とは逆側、旧軽井沢銀座通りから浅間神社方面に行くとショーストリートという小さな道路に出る。そこに面してテニスコートがある。そこでは中高年の男性、女性が一面、二面でテニスをしている。すると観光客の年配のご婦人がそれを写真にとっている。軽井沢のテニスコートか、なんだっけとちょっと考える。そうか、このテニスコートは上皇と正田美智子さんがテニスをしたところだったか。たしかこの軽井沢テニスコートのトーナメントで二人は知り合い交際を始めたと。当時「テニスコートの恋」と呼ばれ、大衆天皇制を定着させる大きなファクターとなったところだ。
そのテニスコートと小径をはさんでお隣にあるのがユニオンチャーチ。

こちらは1897年(明治30)に設立され、1918年(大正7)に、ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計によって建てられた。
宗派に関係なく礼拝ができる超教派教会堂で、主にプロテスタントの礼拝が行われるほか、集会や音楽会、日本語学校なども開かれてきたという。歴史学者の羽仁五郎は、のちにアカデミー賞女優賞を二度受賞した、『風と共に去りぬ』のメラニー役でも有名なオリヴィア・デ・ハヴィンドと同じく一度受賞しているジョーン・フォンティーンの姉妹が歌ったのを見ていると、著作に書いている。
羽仁五郎は桐生の織物仲買商として財を成した森家の子息で、ジャーナリスト羽仁吉一・もと子の長女説子と結婚したが、羽仁説子が独立の女性として成長することを期待して、森家に婿入りする形で森姓を捨てている。唯物史観に基づく歴史学者だったが、森家、羽仁家ともに今でいう富裕層だったため、彼らが軽井沢に避暑で訪れていたのは確かだろう。
オリヴィア・デ・ハヴィランド、ジョーン・フォンーティーンの姉妹の父親は、東京で特許弁護士をしていたという。オリヴィアは1917年生まれ、ジョーンは1918年生まれの年子で、Wikipediaの記述によれば、二人は病弱のため母親はイギリスへの帰国を決意したが、1919年にカリフォルニアに一時期滞在し、そのまま永住したという。
そうなると帰国したのはオリヴィアが2歳、ジョーンは1歳ということになる。ジョーンは16歳の時に日本に戻っていた父親の元に戻り、そのまましばらく日本で生活をしているという。
そうなると二人が揃って生活していた頃はまだ二歳とか一歳の赤ちゃんの頃であり、羽仁五郎の「二人が歌った」というのはちょっと違うのではないかと思えたりもする。
同じように芥川比呂志は、慶応の日吉に通学するときに、東横線内でオリヴィアとジョーンの姉妹とよく乗り合わせたと、著作に書いているらしい。
でも、これもいささか疑わしい。繰り返すが、二人が同時期に日本に滞在していたのは、二歳と一歳の赤ちゃんの頃のはず。一介の大学生が、東横線で見かけた外国人の赤ちゃんを、後になってからあれは有名な女優姉妹だったのではと思ったということなんだろうか。
なんの話だ。ユニオンチャーチ教会のことである。ここも2年前に一度訪れている。礼拝堂の雰囲気は聖パウロ教会に比して、なんとなく親しみやすい感じがする。聖パウロ教会はなんとなく荘厳な雰囲気だ。これは単にカトリックとプロテスタント系の違いだろうか。超教派教会ということや、どこか礼拝堂の雰囲気が、なんというか西部劇によく出てくる作られたばかりの町にできた教会みたいなアットホームな感じがする。ふだんは子どもたちの学校であり、日曜日には周辺からみんな礼拝に集まってくる。様々な宗派の信徒がいても、祈る場所はここだけみたいな、そういう感じだろうか。

この教会には備え付けの小型の聖書が数冊置いてある。国際ギデオン教会のもので和英対照の『新約聖書』である。これはおそらく訪れた人が持ち帰ってもいいのかもしれない。国際ギデオン教会は、聖書の無償配布による普及、キリスト教の布教を続けている団体だとは聞いたことがある。
聖書もいつかきちんと読んでみたいと思ったりもする。自分は基本無宗教だけど、もし信仰をもつながらキリスト教にみたいに思うこともたまにある。仏教の輪廻と生命の関係性という哲学にも興味はあるが、理屈ではなく無条件な神への帰依という点でいうとキリスト教だろうか、などとなんとなく思ったりもする。
軽井沢発地市庭
妻が行ってみたいというので立ち寄ってみた。市庭と書いて「いちば」と読ますのだそうな。とはいえここはちょっと大がかりな農産物直売所。午後2時過ぎに訪れたので、直売所の野菜も品数は少な目。たぶん午前中に来ないと盛況感はないかもしれない。
もっとも軽井沢に来て野菜を買うというのもなんだしということで、なんとなくここは観光だけで来るとちょっと場違いみたいになるかもしれない。せっかくなのでピザでも食べようかとウナギの寝床のように細長い直売所の一番奥にある、アトリエ・ド・フロマージュなるお店に行ってみたら、ウィークデイのせいかテイクアウトだけの営業。テイクアウトのピザを買って、店の前のデッキテラスで食べることができるようだ。
ただ宿の食事が6時からなので、今からがっつりピザもちょっとと思い直し、テイクアウトメニューの中にあったカルツォーネという小ぶりの包み焼ピザを買って食した。妻はトマトで、自分はブルーチーズ。まあこれはけっこう美味しかった。