大塚国際美術館③ (10月7日)

 今回、大塚国際美術館で興味を持ったこと、ちょっと思ったことなどを補遺として。

 

 館内で食事や軽食がとれるのは3カ所ある。

レストラン&カフェ ショップ|大塚国際美術館|徳島県鳴門市にある陶板名画美術館

地上1階 レストランガーデン

地下2階 カフェ・ド・ジベルニー

地下3階 カフェ フィンセント

 きちんとした食事をとれるのはレストランガーデン、あとの二つはカフェと銘打っているので基本はドリンクと軽食だ。いつもは昼食はだいたいレストランガーデンで食べているのだが、今はコロナの影響もあるのかレストランガーデンとカフェ フィンセントは休業中である。

 今回はホテルの朝食バイキングを大目にとったので、昼食らしきものとしてカフェ・ド・ジベルニーでとでコーヒーとケーキだけにした。まあ色気より食い気というやつだ。

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 カフェ・ド・ジベルニーは屋外に面してガラス張りになっていて、屋外にもテラス席がある。その脇には円形の池があり睡蓮が咲いている。さらにその先は円形上の壁があり中に入ると一面にモネの睡蓮の絵がある。オランジュリー美術館にあるモネの『大睡蓮』の複製画が屋外展示されているのだ。

 これは環境展示という壁画や絵画の環境空間をそのまま再現させるような試みで、ジベルニーのモネの庭を再現するかのような環境で、モネの大作を鑑賞できるようになっている。

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 この壁画の裏側に草木が植えられていて、さらに睡蓮の浮かぶ池が周囲をぐるりとしている。

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 ちょうど幾つかの睡蓮の花が咲いていた。まあ季節によるけれど、リアルな花を見つつモネの『睡蓮』を味わえるわけだ。モネの大作を屋外で味わうことができるというのも、陶板複製画の利点でもある。なにしろ屋外でも風説に耐えて数百年劣化しないということらしいのだから。

 

 最近、中公新書の『日本画の歴史 近代篇』を読み返しているのだが、その序文の中にこんな記述がある。

日本画の近代化とは西洋化、大雑把にいうと写実化だったのです。紙や絹という二次元の平面空間に三次元の立体空間を取り込もうともがき苦しむ道のりだったのです。

(序文Ⅱ)

何度もいうように、西洋化=写実というのは日本画家によって重大な課題でした。彼らは二次元的な絵画空間に三次元的空間を入れ込もうと苦心惨憺しました。日本画近代化とは、結局この写実という一語に尽きるのではないかと思うくらいです。

(序文Ⅳ)

 これは日本画だけにとどまらず、絵画表現にとって普遍的なテーマのように思える。紙、板、キャンバスという二次元の平面空間に三次元的立体空間を取り込む。結局、絵ってそういうことみたいなことを思い出させたのは、この聖母をテーマにした絵を観ていたとき。

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 これは『荘厳な聖母』というタイトルの作品で、左からチマブーエ、ドゥッチョ、ジョットの作品。

 チマブーエ:1240年頃 - 1302年頃

 ドゥッチョ:1255/1260年頃 - 1319年頃

 ジョット :1267年頃-1337年

 年代的には10ずつくらいしか違わない、ほぼ同時代の画家だがその絵を個別にみていくと、チマブーエとドゥッチョは平面的だが、ジョットになると奥行きがあり立体的な表現となっている。

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『6人の天使に囲まれた荘厳の聖母』(チマブーエ)

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『荘厳な聖母』(ドゥッチョ) 

 ドゥッチョは1255年頃~1319年頃に活躍した人。

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『荘厳な聖母(オニサンティの聖母)』(ジョット)

 13世紀から14世紀にかけての絵画表現がルネサンスを経た16世紀となると、ここまで進化する。そんなことを思いつつラファエロを観る。大塚国際美術館の系統展示ではこういう時代の変遷による絵画表現をトレースすることができる。

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『フォリーニョの聖母』(ラファエロ

 

 そして、多分一番観てみたい、でも多分かなわない絵がこれかもしれない。

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『ヘントの祭壇画』(ファン・エイク兄弟)

 そして実は一番気に入っているのはこの二枚。

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カーネーション、リリー、リリー、ローズ』(ジョン・シンガー・サージェント)

ジョン・シンガー・サージェント - Wikipedia

カーネーション、リリー、リリー、ローズ - Wikipedia

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エデンの園』(ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエール)

ヒュー・ゴールドウィン・リヴィエール - Wikipedia

大塚国際美術館② (10月7日)

 大塚国際美術館での個々の絵の感想をいくつか。

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『犬と水差しを持つ田舎娘』(トマス・ゲインズバラ)

 そう男の子っぽく見えるけれど女の子。みすぼらしい衣服に裸足で犬を抱えてさまよう少女。全体的に重苦しい雰囲気とか、少女の表情もふさぎこんでいるとか、この絵の解説とかではよく目にするけれど、なんかそういうのを自分は感じない。というのも、この絵はファンシー・ピクチャー(空想画)の一種らしい。当然、アトリエでモデルにこういうカッコさせているんでしょう。少女にボーイッシュなカッコさせて屋外をさまよわせるような画題にしたてたっていうところ。でも女の子には見えない。

 ゲインズバラは18世紀イギリスの風景画家、肖像画家。時代的にはロココなんだが、フランスの雅宴画みたいなフワフワした部分とは別に、なんとなく俗っぽい風俗画的な感じもする。

トマス・ゲインズバラ - Wikipedia

 

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『マスター・ヘア』(ジョシュア・レノルズ)

 こっちは可愛い女の子とおもいきや実は男の子。18世紀のイギリス上流社会では男児もドレスを着せるのが流行したのだとか。マスターはお坊ちゃんとかそういう意味なのだとか。

 レノルズもゲインズバラと同時代、18世紀イギリスの画家。やはりロココの人とくくられる。

ジョシュア・レノルズ - Wikipedia

 男の子っぽい女の子と女の子にしか見えない男の子、18世紀イギリスの上流社会って、けっこう倒錯的だったのかなとか思ってしまうのだけれど、まあ今の風俗や世の中の見方とは歴史的にも異なる部分多いから、簡単に決めつけることはできない。

 

 大塚国際美術館にはゴヤの部屋という一角がもうけられている。部屋数はたしか3室だったか。そこにゴヤの代表作が集められている。それこそ『着衣のマハ』『裸のマハ』が並列展示されていたり、黒い絵がまとめられていたり。

 ゴヤは1746年に生まれ1828年に82歳で没している。けっこう長命で18世紀から19世紀にかけて活躍したのだけど、どうしてかもっと前の人のイメージがあり、16世紀から17世紀にかけて、バロック期の人みたいに勘違いしてしまうことがある。同じスペインのベラスケスあたりと同時代とかそんな風に錯覚してしまうというか。

 ゴヤの生きた時代は上述したレノルズやゲインズバラとほぼ同時期、どちらかといえばゴヤのほうがやや後発になるようだ。ゴヤは長命だっただけに画風もいろいろと変化させていて、若い時期にはロココ調、円熟期にはロマン主義と、時代の流行にそった人だったのだと思う。

 

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『日傘』(ゴヤ) 1777年

 これなんかは典型的なロココ調だと思う。

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『1808年5月3日:プリンシペ・ビオの丘での銃殺』(ゴヤ) 1814年

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『1808年5月2日:エジプト人親衛隊との戦闘』(ゴヤ

 このへんはゴヤロマン主義時代の大作であるとともに報道絵画というジャンルでもあるのだとか。写真のない時代、絵画は事件を人々に伝えるという役割ももっていたようだ。エジプト人という題材はどことなくドラクロワを連想させる部分もある。

フランシスコ・デ・ゴヤ - Wikipedia

 ウィキペディアの記述によればゴヤは46歳の時に聴力を失ったという。そして1819年73歳の時に「聾者の家」と称される別荘を購入して隠遁生活を送る。この家に飾られているのが黒い絵といわれるおどろおどろした絵画群だ。その中でも有名なのはこれ。

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『我が子を食らうサトゥルヌス』(ゴヤ

 以前、この絵を観たときに思ったのは、『進撃の巨人』の作者は絶対この絵にインスパイアされてないかということ。そういえばゴヤには『巨人』という有名な絵があるが、ウィキペディアによればプラド美術館は様々な調査鑑定により、ゴヤの絵ではないという発表をしているのだとか。

 しかしこの絵にしろいわゆる「黒い絵」はロマン主義というよりもどことなく象徴性を帯びているような気もしないでもない。さらにこの2枚の絵にいたっては、ある種の超現実主義的な性格も帯びていそう。タイトルはメモしてくるのを忘れてしまったのだが、人物が宙に浮いているんだよね。

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 しかし聾者の家で、70代という老境にはいった耳の聴こえない画家は何を思っていたのだろう。その後、自由主義者への弾圧を恐れフランスに亡命し一度帰国したものの再びフランスに戻りそこで客死している。

 画家の人生もなかなか波乱に満ちたものだと思いつつも、いつかこの手の絵もオリジナルを観たいと思いつつも、スペインは遠くにありて思うもの。多分、見果てぬ夢みたいなものかもしれないけど。

大塚国際美術館① (10月7日)

 淡路には基本的に二泊している。翌日は鳴門大橋を渡って恒例の大塚国際美術館へ行く。これはもう恒例行事というか、ある種の巡礼みたくなっている。去年来た時に何度目になるかを改めて確認したところ14回だったので、今回は15回目となる。

14回目の大塚国際美術館 - トムジィの日常雑記

 まあ自分の記録ということなので訪館記録を更新しておこう。

 1.2008年5月 淡路・姫路旅行

 2.2009年1月 淡路・奈良・大阪旅行(新世界・通天閣

 3.2010年1月 淡路旅行

 4.2010年5月 淡路・倉敷旅行 (大原美術館

 5.2011年1月 淡路旅行

 6.2011年5月 淡路~神戸~京都旅行

 7.2013年5月 淡路旅行

 8.2015年1月 淡路旅行

 9.2015年5月 淡路旅行

10.2016年5月 淡路・名古屋旅行(名古屋ボストン美術館

11.2017年5月 淡路・京都・名古屋旅行

12.2018年4月 淡路・倉敷旅行(大原美術館

13.2018年11月  淡路・神戸旅行 

14.2020年11月  淡路旅行

大塚国際美術館|徳島県鳴門市にある陶板名画美術館

 まあ西洋名画の陶板複製画の美術館、オリジナルじゃないっていうことでいえば軽くみられるかもしれないが、その規模、複製画のクオリティの高さは半端ではない。自分はこの美術館に通うようになって、各地の美術館に通うようになった。ここ何年かは1年で平均して50回くらい美術館に行くし、行けば図録を買って目を通す、美術史の入門書や概説書も両手以上は読んでいるみたいに、一応の美術ファンみたいにはなっている。とはいえ、相変わらずヘボな審美眼、生涯一ニワカみたいなものだが、やっぱりこの美術館に巡りあったことは幸いだったと思う。

 以前にも書いたことだけど、この美術館を創った大塚グループの二代目トップの大塚正士氏はこの美術館の創ったエピソードを「一握りの砂」というエッセイで紹介している。

大型陶板の誕生「一握りの砂」|レポート|大塚オーミ陶業株式会社

 その中でこの陶板美術館の意義をこう語っている。

順調に工事も進み、展示作品も1,000点を超える数字となり、現在このように陳列を終えまして、無事開館できる運びとなりました。本館では、東京大学青柳正規副学長を長として、色々な大学生に美術を教える、ということを基本に考えて古今の西洋名画の中から選んだ作品を展示してあります。
これをよく見ていただいて、実際には大学生の時に此処の絵を鑑賞していただいて、将来新婚旅行先の海外で実物の絵を見ていただければ我々は幸いと思っております。

なにしろ、この絵は陶器ですから全然変化しません。本物の絵は次第に変化しますから、実物の色と、陶板名画の色とでは今から50年、100年経っていきますと、色や姿がおのずと違ってくると思います。しかし、どうしても真実の姿を永遠に伝えたい、後世への遺産として保存していきたい、ということで陶板名画美術館設立に至ったわけでございます。

「一握りの白砂」(大塚正士)

 新婚旅行先の海外という訳にはいかないが、日本にやってくる名画を様々な企画展で観ることによって、この大塚国際美術館で観た複製画のオリジナルを多分100点くらいはすでに観ていると思う。そのときにも大塚で観たあの名画が来るのかということで美術館に通ったこともあるし、これ大塚で観たなと記憶を新たにするようにして観た名画もある。そしてまた大塚国際美術館に戻って、この絵は西美で観た、東美で観たと記憶を蘇らせる。そんな風にしてここ10年の過ごしてきたように気がする。

 この美術館はとにかく広大で多分一日で全部回るのは難しい。まあ観光気分で陶板複製画だからと緩い気持ちでスルーしていっても5フロアーを全部回るのは至難。B3の古代・中世から行くといつも1F、2Fの現代絵画が駆け足になる。

 そこで今回はというと、B3はシスティーナとスクロヴェーニの二つだけに限定して後は全部捨てることにした。すぐに2Fまで移動して現代絵画を観てからB2ルネサンスバロック、最後にB1の近代みたいな順路で行くことにした。まあそれでも結果として近代も駆け足になってアングルとかドラクロワは見逃してきてしまった。

 

 まずこの美術館に来ると一番最初に行くのはやはりシスティーナ礼拝堂の原寸レプリカである。多分、オリジナルを観ることは多分ないだろうから、徳島で雰囲気に浸るだけなんだがそれでもその荘厳さは判る。

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 ミケランジェロの渾身の作品・・・のレプリカなんだがこの手の宗教画はよく見るとけっこうわけがわからない部分がある。

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 正面の壁画は最後の審判の場面なのだが、右下にはなんともへんな人物が描かれている。これは地獄に落とされた人々を描いている部分で、船に乗った渡し守カロンによって三途の川を渡され、地獄の入り口で冥官ミロスに引き渡される場面だ。ミロスは人々の罪状に応じて、地獄のどの場所に行かせしめるかを割り当てる。

 このミロスの身体にはヘビがまきつき、あらぬことかミロスのペニスにかみついている。このミロスにはモデルがあり、以前ミケランジェロの裸体像を批判したことがある法王庁儀典監督ビアージョ・ダ・チェゼーナだとされている。ミケランジェロは自分の作品にケチをつけたことへの意趣返しとして彼をモデルにミロスを描いたという。巨匠も意外と人間らしい。

 これにはさらに後日談があり、チェゼーナはこの絵をみてモデルが自分だと気づき、教皇パオロ3世に泣きついたところ、「地獄のことは自分の手には負えない」とあしらわれたとか。それにしてもヘビに急所をかまれながら地獄に落ちた人々を選別する冥官ミロスというのもなんとも痛ましい。自ら苦痛に耐えつつ、絶対地獄に落ちた罪人たちにより酷い苦痛を与えようとするにちがいない。

 隣でこの絵を観ていた老夫婦がいた。ご主人の方が何気に奥さんに向かって、「なんや、こりゃ。〇ン〇ン、ヘビにかまれとるわ」と話しかけている。自分は微妙に笑いを堪えた。

 

 そして荘厳な絵にも下ネタ部分に注目する自分は、そのまま隣のスクロヴェーニ礼拝堂レプリカで再び神聖な気分を取り戻すことにした。う~む、ジョット・ブルー。

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 結局閉館ギリギリまで回って最後に古代の部分をほとんど駆け足で回った。最後にどのくらい歩いたかをアプリで確認すると5キロちょっと歩いているみたいだった。

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淡路周遊④~伊弉諾神宮(10月6日)

 さらにブラタモリをトレース。

 伊弉諾イザナギ)神宮。

 国産みの伝説、記紀の言い伝えによればイザナギイザナミの国産みの中で最初に出来たのが淡路島。一通り国生み、神産みが終わりイザナギはアマテラスに国の統治を委譲したあとに余生を過ごした場所が淡路島のこの地、それを祀ったのがこの伊弉諾神宮なんだとか。

伊弉諾神宮 ★★★ 日本遺産認定 『国生みの島・淡路』

伊弉諾神宮 - Wikipedia

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 国産みとか、古事記についてというと、子どもの頃に読んだ福永武彦の『古事記物語』くらいしか知識がない。たしか女神のイザナミは日の神を産んだ後に落命する。妻に死なれ悲嘆にくれるイザナギは黄泉の国にイザナミに会いに行く。真っ暗な中で再開した二人だが、イザナミがけっして姿を見ないでと懇願したのにイザナギは姿を見てしまう。イザナミはウジがたかった醜い姿だったため、イザナギは恐ろしくなって逃げだす。後を追うイザナミ・・・・・・。そんな物語を子ども心に怖えもんだと思いながら読んだ記憶がある。多分、小学生くらいのことか。

 しかし神社の総本山というと、アマテラスを祀っている伊勢神宮内宮ということになるんだけど、言い伝えの通りとなるとその父親であるイザナギを余生を過ごし、そこを祀ったというこの伊弉諾神宮はさらに由緒正しいということになるか。まあ言い伝え、伝説の類だからどうでもけど、一応今の天皇家の祖先にあたるという話になっているということだ。

 ブラタモリでもやっていたけど、この神社には面白いモニュメント陽の道しるべというものがある。

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 この神社を中心にして太陽の運行を図にして直線を引いていくと各地の有名な神社が線状に結ばれるというのだ。このへんのことをブラタモリで説明していた元宮司だかなんだかのオジサンがちょうど観光客相手に説明をしていたので、一緒に拝聴した。

 けっこう面白い説明で、さらに日本各地にあるユダヤ六芒星の伝説とかウソかマコトか判らないような話を面白おかしく話してらした。

 一応、陽の道しるべについては以下のサイトに解説がある。

「伊弉諾神宮」陽の道しるべ

伊勢、出雲、諏訪、高千穂、熊野…神々つなぐ「陽のみちしるべ」のナゾ 淡路島の伊弉諾神宮(1/3ページ) - 産経ニュース

 いずれにしろ太陽の運行への知識から、このモニュメントで伝えられるようなことはアジアから渡来した海人たちの勢力によってこの地が治められてとか、ひょっとすると大和王朝にもそういう渡来人の流れがあったのかもしれない。まあ記紀神話天皇の系譜含めて全部言い伝えの類だと思っているので、とりあえず面白ければいいかなくらいに思っている。

 この伊弉諾神宮も神社本庁の傘下ようだけど、鳥居の近くに自民党の政治家山谷えり子のノボリがあったり、本殿脇に憲法改正のノボリがあったりで、ちょっとゲンナリする部分もあった。まあ山谷えり子神社本庁の関係団体である神道政治連盟の推薦候補だろうし、改憲派のある意味タカ派なんだろうけど、政治と宗教の絡みでいえば、少なくとも荘厳な神社という宗教空間に生臭い改憲を主張するノボリは不要だとは思ったりもした。

淡路周遊③~五斗長垣内遺跡(10月6日)

 次に向かったのは花さじきの駐車場でナビにいれた遺跡。ここもブラタモリでやっていたところ。

 五斗長垣内遺跡。

 「五斗長垣内」・・・・・・・。うう、読めない。

 「ごっさかいと」と言うらしい。意味はというと調べるとこんな感じか。

五斗長(ごっさ)

水不足に苦しむ山地のため、「米を五斗作っただけで長になれる」を意味する「五斗長(ごとおさ)」となり、短く「五斗長(ごっさ)」に変化した-など由来には諸説ある。

神戸新聞NEXT|連載・特集|新五国風土記 ひょうご彩祭

垣内(かいと)

《「かきつ」から転じた「かきと」の音変化》土地のある区画をいう語。もとは開墾を予定した一区画をさしたと推定されるが、樹木などで囲まれた屋敷地、区画された耕地、村の区画を小分けにした小集落なども意味する。

垣内(かいと)の意味 - goo国語辞書

 ざくっとまとめると「水不足な山地の小集落」という意味のようだ。この遺跡の特徴は鉄器製造炉があったこと。竪穴式住居内には地面で火を燃やし、ふいごで火の温度を高めて鉄器を製造したという。そのため住居に空気の入れ替えのため窓がついている。

五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)のご案内 - 淡路市ホームページ

五斗長垣内遺跡 - Wikipedia

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 丘陵地でとても気持ちの良いところにあるが遺跡としては小ぶりだ。弥生時代の遺跡では静岡の登呂遺跡や生まれ育った横浜の三殿台遺跡とかをよく覚えているけれど、それからすると規模感は小さい。これはテレビで紹介されていなかったら、まず足を運ぶことはなかったかなと思ったりもした。

 遺跡内の敷地は薄く草が生い茂っていて、車椅子を押して進むにはいささか難儀をする。全体的にゆるやかな傾斜のある高台という感じ。最初に入り口の資料館の女性から、いろいろと注意点も含めて説明があり、毒虫とかもいますので気をつけて下さいと言われた。すかさず「にょろにょろしたのもいますか」と聞くと、こういうところですからマムシとか出ますと簡単にいわれた。なので急にビクビクしながらの見学になってしまった。

 花さじきでもあちこちに「マムシ注意」の看板もあったが、この遺跡内にも同じような看板があった。いずれも埼玉でよく見るマンガチックなそれに比べると、若干リアルで怖めなイラストになっていて、苦手な自分などは看板見るだけでゲンナリする。

 まあそういうこともあり、早々に退散することにしたのだが、滞在時間はだいたい30分程度だっただろうか。まあ歴史好き、古代史マニアにはけっこう楽しめるところだし、とにかく気持ちの良い場所ではあった。

淡路周遊②~北淡震災記念公園(10月6日)

 次にブラタモリでやっていた遺跡に向かおうかと思ったが、同じブラタモリで紹介されていた野島断層が見れるという野島断層保存館が近くだというので行ってみることにした。

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北淡震災記念公園|阪神・淡路大震災で現れた野島断層保存

野島断層 - Wikipedia

 ここには阪神・淡路大震災で実際に起きた地震断層のずれをそのまま保存している他、地震の様々な記録や実際の震度を体感できる地震体験館もある。

 

 1995年1月17日(火)の阪神・淡路大震災。当時住んでいた横浜でも確か震度2くらいはあったのだろうか。揺れで目を覚ましテレビをつけると関西で大地震という。それからテレビ報道は震災一色となり、ヘリコプター映像で地震による高速道路の倒壊、大きな火災の映像が延々と続いていったのを今でもよく覚えている。あの高速道路の倒壊は東日本大震災津波の映像とともに目に焼き付いている。

 当時自分はというと最後に勤めた会社に入って1年目くらいだっただろうか。その年には3月20日にオウムのサリン事件があった。ちょうどその前日に知人の結婚式があり、今の妻と一緒に出席。自分らもそろそろ考えるかねみたいな話をしていた。そして翌年結婚、翌々年には子どもができてみたいなそんな頃だった。年齢的にもギリ三十代みたいだったか。

 ニュースの記憶とともに自分の中でもエポックメイキングみたいな感じで残っているのは、1995年の阪神・淡路大震災サリン事件、2011年の東日本大震災とそれに続く原発事故。多分多くの同時代人がそうかもしれない。

 

 まずエントランス付近にあるのが国道43号倒壊再現模型。ヘリコプターによる上空撮影で崩壊した長い高速道路の光景を思い出す。あの現場の至近がこんな風だったとは。

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 そしてずれた断層のリアル。地震のもの凄いエネルギーが地層にもたらせる凄まじい痕跡にはただただ驚嘆するのみだ。

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 さらに地震体験館では地震の揺れを体感できるシミュレーター的な一室がある。地震の揺れは当日の地震を再現してあり4分ほど。椅子に座って揺れを体感するのだが、それは判っていても、想像を超えるような揺れであり、なんとなく動揺していくのがわかる。

 東日本大震災の時は揺れを感じた後、他の社員をオフィスから外に出るように言い、自分もすぐに出た。後で戻ると自分の机の上にあったパソコンのモニターは床に落下していた。あの時の揺れ以上だということがシミュレーターからも体感した。

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 その日、ホテルに着いて夕食をとり、ちょうど露店風呂に入っていると上の方の部屋から「地震」という声があがった。自分はまったく揺れに気がつかなかったが、風呂を出てネットを出てみると関東で最大震度5強の地震発生とか。淡路での震度は1程度だった。慌てて自分の住んでいるところの震度を確認すると震度3とある。多分その程度であれば大丈夫かと思い安心するも、震源地は千葉で東京湾沿いは軒並み震度5弱という。今、子どもが住んでいるのが京葉線沿線のため電話してみると子どもは帰宅していて、けっこう揺れたという。

 地震国に住んでいるということを改めて実感するような一日だった。東日本大震災の揺れを会社の敷地内で他の社員と一緒に表に出て、周囲の建物の揺れとかを見ているとき、近隣の2棟建てのマンションの建物がぶつかり合うのを見ながら、一生のうちで多分こういう光景を目にするなんてと思った。そしてそれ以来、どこかでずっと思い続けている。願わくばもうあんな地震を経験することないことを。

淡路周遊①~花さじき(10月6日)

 朝5時頃に家を出て、ほぼノンストップで走りに走りして淡路島に12時過ぎくらいに入った。いつもだとついダラダラと家を出るのも7時過ぎ、高速道路でもPAに何度も寄ったり、食事をしたりとして、結局淡路島のホテルに6時くらいに入るなんてことが多いのだが、それからすると今回はえらく早い。

 いつも淡路島での観光はほとんどせず、二日目には鳴門にある大塚国際美術館に行くことが多い。これまで15回くらい淡路島に来ているのに、いわゆる淡路島観光をしたのは多分最初のときにオノコロという遊園地に行ったのと、多分2回目か3回目のときにイングランドの丘という公園に行きタマネギ味のソフトクリームを食べたくらいか。あとは観潮船に乗って渦潮を見たのが2~3回くらいだろうか。

 ということで15回も来ているのに驚くほど淡路島観光というか、名所巡りみたいなことをしていない。そんなことを旅行が近づくにつれ思っているときに、テレビの『ブラタモリ』で淡路島編をやっていたので、そこで紹介された場所を回ってみようかとも思った。淡路島編は2週に分けての放送で1回目は主に北淡の観光名所を回っている。

 そこで北淡の名所と位置を確認してみると、放送では紹介されないが明石海峡大橋を渡ってすぐの淡路SAから割と近いところに花の名所ともいうべき公園があるのでまずそこから行ってみることにした。

あわじ花さじきホームページ

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 ここは北淡の丘陵地の斜面に広大な花畑を作ったところ。季節によって様々な花を植え替えていて、春は菜の花、夏はバーベナ、秋はサルビアとコスモス、冬はストックが見れるという。まあこんな感じである。

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 青い花は一瞬ラベンダーかと思ったが、時期が違うもの。他の観光客が話しているのを小耳にはさんだところこれはブルーサルビアだとか。そしてちょうど見頃なのがこのサルビア

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 花畑と花畑の間の道はきちんと整備されているのだが、なにせ斜面なので車椅子を押して下っていくと戻るのがかなりシンドイ。しかも道は割と狭いので斜めに登ることも出来ない。もう少し道の幅を広くしてくれると助かるのだが、まあなんにしろここは車椅子を押して見学するにはかなりハードルが高いところではある。

 

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 10月中旬から見頃になるというコスモスだけど、現段階では1~2分咲きというところか。ちょうど一週間くらい前に埼玉吹上のコスモスが3分咲きくらいだったのだが、やっぱりこっちは南なので咲くのは遅いか。桜が南から北上するとしたら、コスモスのような秋に咲く花は南下していくんだと、なんか当たり前のことに妙に得心してしまった。
 この花畑にはいくつかの展望スペースみたいなところがある。そこで写真を撮ろうとしていたら、装具と杖をついたおじいさんに話かけられた。妻と一緒で脳梗塞片麻痺なのだが、見るからに妻よりもしっかりしている。10年前に脳梗塞発症するも手術はすることもなく、懸命なリハビリでかなり歩けるようになった。妻にももっと体を動かした方がいいとおっしゃっていた。こちらが訪ねるもなく年齢を自分で口にされたが、87歳になるとか。見た感じはいって75前後という風なので、お若いご老人だった。

 

 この花畑は広大なスペースで、全部見るにはかなり下の方まで下っていかなくてはいけない。そうなると帰りは地獄の坂道となるので、早々に引き上げることにした。