東京富士美術館(以下富士美)で11日から始まった「愛しのマン・レイ」展に行ってきた。
富士美は圏央道で一本で車で30分くらいで着く。いわば自宅からもっとも近い美術館の一つだ。なので行く頻度も多く年明けすぐによく行くところでもある。去年も1月11日に訪れている。そのときは何を観たとかよりも、1000円の福袋が盛り沢山な内容だったことを覚えている。今年はというと、早々に売り切れたそうだ。「去年はけっこう売れ残ったんですけど、今年はすぐ売れちゃいました」とはグッズ売り場のおねさんの弁でした。
「愛しのマン・レイ」
https://www.fujibi.or.jp/exhibitions/3202501111/
マン・レイ(1890-1976)のことはもちろん知っている。海外の著名な写真家といえば、とりあえずロバート・キャパかマン・レイ、あとはアンリ=カルティエ・ブレッソンにアンセル・アダムス、ドアノーあたりか。ということで多分、20代の頃からこのくらいの名前は覚えている。まあ書店員やってたから、写真集とかそのへんのタイトルで知ったのかもしれない。
とはいえ実はマン・レイがどんな写真撮っているのかというと、あまりよく知らなかったりもする。そういう意味じゃ写真家で作品まですぐに「ああ、あれ」みたいに出てくるのはキャパくらいだったりかもしれない。
美術館巡りをしていると、時々写真家の作品を観ることもある。それだけでなく写真以外の作品だったりとかも。そういう意味じゃマン・レイはシュルレアリズムの絵画を多数描いていたりして、「へ~、マン・レイ、絵も描くんだ」みたいなことを思ったりもする。今回も最初に開催概要を見ると、写真家、画家、オブジェ作家、映像作家など多様な顔を持ち合わせたマルチアーティストだということがわかる。そして何よりも盟友ともいうべきマルセル・デュシャンとの交友の中から、さらにシュルレアリストのメンバーとして、アンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラらとヨーロッパで交流していく。ある意味、シュルレアリストの中心メンバーの一人でもあったという。
今回の企画展では、富士美のコレクション、多くのシュルレアリズム作品をコレクションしている岡崎市美術館、さらにマン・レイ作品のコレクター、研究者として著名な石原輝雄氏のコレクションなどにより、マン・レイの足跡をたどるものだという。
しかし富士美は西洋美術の充実したコレクションだけでなく、日本絵画の名品も多数有している。さらに写真のコレクションも多数あり、今回も常設展示のミニコーナーで、アンドレ・ケルテスの作品展をやっていたりする。そういえば去年は、ロバート・キャパの回顧展をやっていたような。
マン・レイは1890年にフィラデルフィアで生まれ、7歳の時に家族でニューヨークn移住した。両親は父親がウクライナ出身、母親がベラルーシ出身で互いにユダヤの家系でラドニツキーという姓だったが、1912年にユダヤ人への差別を逃れるために、姓を「レイ」と改名した。マン・レイはエマニュエル・ラドツキーからマン・レイ改名した。
高校卒業後、独学で絵画を学び、1912年に画家ロバート・ヘンリに習い画家としてのキャリアをスタートし、当時先進芸術の博覧会アーモリー・ショー*1や前衛的な写真家アルフレッド・スティーグリッツが経営する画廊「291」*2などに出入りしてキュビスムなどに傾倒する。そして1913年に生涯の盟友となるマルセル・デュシャンと出合い、ダダやシュルレアリズムに傾倒していく。
1921年、マン・レイはパリに渡り、アンドレ・ブルトン、フランシス・ピカピア、マックス・エルンスト、エリック・サティ、ポール・ボワレ、アーネスト・ヘミングウェイなどの文化人と交友を重ねながら、新進気鋭の写真家として注目されるようになる。作品は前衛的な作品からポートレイト、ファッション写真など多岐にわたる。
第二次世界大戦の戦火を逃れるためアメリカに帰国し、ハリウッドで活動を始める。その頃からじょじょに写真から離れ、絵画、オブジェなどの造形作品に注力するようになる。そして1950年代、再びパリに渡り以後は自作のリメイク作品を量産、各地で回顧展が開かれるなか、1976年に86歳で亡くなった。
ゲイシャ・ガール

以前にも富士美で観たことがある作品。驚くことにこれマン・レイ16歳のときの作品。早熟な天才が浮世絵を見ながら習作したものだろうか。
《うずくまる裸体》

22歳の頃の作品、この頃のマン・レイは女性を描くことに執着してモデルを探していたという。表現、構図といい、観るものに強く訴求するものがある。マン・レイの構成美の天才性を感じさせる凄い作品だと思う。
スパニッシュ・ダンサー

これも常設展示でお馴染み、マン・レイ28歳の作品。じょじょに抽象性、記号化された画面構成。カンディンスキーではないが、画面から音楽が聞こえてくる。
《セルフ・ポートレイト》

《アングルのヴァイオリン》

モデルはモンパルナスの女王と呼ばれたキキことアリス・プラン。ブルゴーニュで私生児として生まれた彼女は、10代前半からパリで多くの画家のモデルとなり、自由奔放な性格から有名になった。マン・レイとは1921年の暮れにカフェで知り合い恋人となった。この作品はシュルレアリスムの象徴的作品といわれているが、この背中のすべすべ感はまさにアングルのそれだ。
《サルバドール・ダリ》

ダリは1904年生まれなので、このポートレイトが撮られた頃は25~27歳くらい。薄く口ひげをはやしているが当時のダリは映画俳優顔負けの超イケメンだった。
《ポール・ポワレのモード》

ポール・ポワレはファッション・デザイナーで当時パリのファッションを一新させた。ポワレはマン・レイにモード写真を依頼した。ファッション界における斬新なモード写真はポワレとマン・レイによって生まれたのかもしれない。そしてまマン・レイを売れっ子写真家にしたのは実はこうしたモード写真ではないかと、密かに思ってみたりする。
《モード、下着/メレット・オッペンハイム》

メレット・オッペンハイムはスイスの芸術家、画家、写真家。マン・レイのモデルを勤めた。
《オブリビア》
