ディヴィッド・ホックニー展 (8月31日)

 午前中、年金事務所の手続きへ。終わったのは1時を回った頃。さてとどこへ行くかと思い都内の美術館でどこかと考える。上野の西洋美術館もしばらく行っていない。気軽に行けるのは竹橋の東近美かとしばし検討中。そういえば東京都現代美術館では「デイヴィッド・ホックニー展が7月から11月までのロングランでやっている。以前、調べたときには一応障害者用の駐車場も数台確保されいるとかHPに載っていた。まあ土日はすぐいっぱいになるだろうし、基本都内の美術館は車で行くところではない。とはいえこういうのは思いたったらなんとか。東京都現代美術館は一度も行ってないし、江東区はまったく土地勘もないけど、ままよと行ってみることにした。ナビの到着予想時間は2時半くらい。

 

デイヴィッド・ホックニー展 | 展覧会 | 東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO (閲覧:2023年9月2日)

 

 ディヴィッド・ホックニーはもちろん名前を知っているし、作品も幾つかは観たことはある。明るい色調のポップ・アートっぽい風景画やポートレイトとか。高騰するアート市場においてはもっとも高額で取引される画家でもある。なんとなくイメージとしては、存命アーティストの中では具象絵画のチャンピオンという感じ。まあ自分の偏った知識でいえば抽象画のチャンピンオンはゲルハルト・リヒターあたりかと。

 

 ホックニーはもともとイギリス出身で60年代頃から活躍を始める。ゲイだということだが、当時イギリスではゲイは公的に認められていず偏見に基づいた迫害も多かったとも。同じゲイの画家だったフランシス・ベーコンの影響もあり、歪んだ暗めの作品も多かったとも。

《イリュージョニズム風のティー・ペインティング》

 牛乳パックのように立体的に見えるトロンプ・ルイユ。一目みてなんとなくフランシス・ベーコン風と思ったのだが、そういう影響があったみたい。

デイヴィッド・ホックニー - Wikipedia (閲覧:2023年9月2日)

 ディヴィッド・ホックニーは、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートというまあ日本でいえば東京藝大を優秀な成績で卒業している。一説には首席で金賞を得たとも。1937年生まれなのでジョン・レノンリンゴ・スターよりも3つくらい上。ほぼ同世代のビート世代だけど、なんとなく荒々しいビート世代的な感じがない。どちらかというと内向的雰囲気はやはり性向かあそういう印象も抱いてしまうのかも。

 

 60年代半ばにアメリカのカリフォルニアに移住。そこからあの明るい作品が生まれる。

スプリンクラー》 1967年 東京都現代美術館

 

 その後ポートレイトや、写真とのコラージュやCG、遠近法を研究し、それを乗り越えるためにピカソキュビスムへの接近など、作風を様々に変化させていく。

 

《クラーク夫妻とパーシー》 1970-71年 アクリル テート 

 ダブル・ポートレイトの代表作らしいけれど、この作品は写実、リアリズムかというとそんな感じがしない。この書割のような静止画面は、時間も静止=凍り付いた票な風にも見えなくもない。というかそんな感じがして、自分にはこれは写実というよりもシュール・リアリズム風な印象がある。この絵を観て思ったのは、なんかデルヴォーみたいという感想。

 おかれた白百合、猫、電話などにも何かしらの予兆性、シンボライズがあるかもしれないのだろうし、窓は外的世界と異次元的な部屋空間の境界であるかもしれないし、普通にマティスのオマージュかもしれないとか。

 好きか嫌いかでいえば、好きな作品だがどこか胡乱な雰囲気を感じる作品でもある。

 

 2000年以降は、iPadによる絵画制作を開始し、光の効果を取り入れた風景画や、大画面へのプリントアウトとそれを並べて行き、超巨大画面の作品なども制作している。近年はフランスのノルマンディーに移住し、自然の移ろいをiPad挿画として次々に発表している。

 iPadによる絵画制作とはデジタル作品を生みだすということだし、それはデータ的に複製が容易。そしてデータヲコピーすれば、あとは機材さえあればどこでもプリントアウトが可能となる。そういうデジタル技術によるオリジナリティ性をどう担保し、確保できるのかどうか、そんなことを考えながら観ていた。

 一方で80歳を超える長命の大画家が、最新のデジタル技術をきちんと身につけ、それを駆使することで新たな表現を続けているのは凄いことだと思ったりもする。もっともディヴィッド・ホックニーという成功した大画家が、その長いキャリアの後半にこうしたデジタル技術を応用しているからこそ、この作品は多くの者に受容されるのかもしれないとも。

 例えば無名のIT技術に長けたアーティストがホックニーと同じことをしても、それを社会派受容するかどうか。あくまでホックニーの長いキャリアと、市場での作品価値が担保されていてということなのかもしれない。

 この企画展の最後には全長90メートルにも及ぶ大作が展示されている。

 

 よく見ていると、横長の紙にプリントされていてそれが繋ぎとめられている。高精度で大型用紙を印刷できるプリンターが用意されたのだろうかと勝手に想像。これでいいのだよと思いながら、この作品のオリジナリティはという漠然たる疑問も。

 同じことを陶板にプリントアウトすれば大塚国際美術館の陶板複製画となる。かなり高価になるが、おそらく永久に近い時間を保存可能だ。

 紙に印刷という点でいえば、例えば横山大観の《生々流転》をそのまま画像撮影して、プリントアウトすれば数年に一度、ガラスケース越しに見下ろす鑑賞方式ではなく鑑賞できるかもしれない。

 洋画であればオリジナルにはマチエール、筆触を確認しながら、みたいなこともあるかもしれない。でも作品全体を鑑賞するとなるとどうだろう、複製アートでも十分なのかもしれないし、そうでもないかもしれない。

 今のプリンター技術でいえば、3Dプリンターを駆使すれば画家のマチエールも再現できてしまうかもしれない。もう行われているかどうかは判らないが、多分彫像や塑像作品もデジタル的に複製再現することは可能だ。

 デジタル化が進んだときにオリジナリティ性や著作権とかは微妙になっていくかもしれない。作品のオリジナリティは作家のアイデアにだけ存在するとか、そのキャリアが担保になるとか。

 iPadで制作されたというホックニーの作品を観ていると、なんとも邪なことばかり考えている自分がいる。もっと作品を楽しみたまえと、どこか頭の中で誰かが語りかけてもいるのだけど。

 

 

 

 

 ディヴィッド・ホックニーは好きか嫌いかといえば、多分好きな方のタイプではある。ノルマンディーでの四季の移ろいを描いた作品などは、実は印象派やバルビゾン風だったり、どこかラファエル前派ぽかったりとか、様々なオマージュ性を感じられたりもする。

ちょっとピサロな感じがする

このロールはモネの積わら風

この小川にはオフェリアが流れてくるような

 ホックニーはなかなかに面白く、会期も11月までと長い。機会があればもう1度くらい足を運びたい。コレクション展の横尾忠則とサム・フランシスも興味深い。