茨城県近代美術館「中村彝展」(1月5日)

 もうだいぶ日が経ってしまったが、茨城県近代美術館で開催されていた中村彝の回顧展について。

「没後100年 中村 彝 展―アトリエから世界へ」。

没後100年 中村 彝 展―アトリエから世界へ | 茨城県近代美術館 | The Museum of Modern Art, Ibaraki

 

 

 中村彝という画家どのくらい知られているのだろう。近代以降の洋画家で重要文化財に指定されている画家の一人なので、美術史上においても重要な作家であることは事実なのだが。

中村彝 - Wikipedia

洋画重要文化財指定

高橋由一(1828-1894)

《鮭》1867年指定、《美人(花魁)》1872年指定

山本芳翠(1850-1906)

《裸婦》2014年指定

浅井忠(1856-1907)

《収穫》1967年指定、《春畝》1970年指定

原田直次郎(1863-1899)

《騎龍観音》2007年指定、《靴屋の親父》2002年指定

黒田清輝(1866-1924)

《湖畔》1999年指定、《舞妓》1968年指定、《智・感・情》2000年指定

藤島武二(1867-1943)

天平の面影》2003年指定、《黒扇》1969年指定

青木繁(1882-1911) 

《わだつみのいろこの宮》1969年指定、《海の幸》1967年指定

和田三造(188/3-1967)

《南風》2018年指定

萬鉄五郎(1885-1927)

《裸体美人》2000年指定

岸田劉生(1891-1929)

《道路と土手と塀(切通之写生)》1971年指定、《麗子微笑》1971年指定

関根正二(1899-1919)

《信仰の悲しみ》2003年指定

小出楢重(1887-1931)

《Nの家族)2003年指定

中村彝(1887-1924)

エロシェンコ氏の像》1977年指定

 洋画で重要文化財指定されているのは全部で21作品のみである。そして明治から大正時代にかけての作品で昭和になってからの作品で指定になったものはない。日本画に関しては上村松園安田靫彦の昭和になってからの作品が指定になっている。ちなみに戦後の作品は日本画、洋画ともにないという現状だ。

 重要文化財に指定された洋画21作品のうちの一つが中村彝のものだということでも、近代日本洋画史において中村彝が重要な画家の一人であることは多分間違いではないとは思う。もっとも重要文化財指定がそれほどの権威なりをもっているか、指定されている作品、画家の価値が他の画家に比して秀でているのかというのは、たぶん別の話になるのかもしれない。

 そして今回も出品されており、目玉的作品でもあるのがこれだ。

 

 《エロシェンコ氏の像》 1920年(大正9) 油彩・キャンバス 45.0×43.0cm 
東京国立近代美術館

 重要文化財に指定された際は「ルノワールを思わせるような黄褐色の色調と柔軟な筆触によって詩人の内面まで描き出し」(『月刊文化財』164号、1977年5月)と評され、大正期洋画史における西洋絵画の受容作例とされたものである。

 モデルのワシリー・エロシェンコは盲目の詩人で、当時日本に亡命して中村屋に身を寄せていた。目白駅エロシェンコを見かけた画家鶴田吾郎がモデルを依頼し、鶴田と中村彝が競作したものだという。鶴田も中村彝も当時中村屋に援助を受ける画家だった。

 『月刊文化財』の批評にあるとおり、明らかにルノワール的な色使いと筆触である。ルノワールに強い影響を受けた中村彝はその作例、雰囲気を完全に受容していたといえる。まさに西洋絵画の新思潮であるルノワールの作例を自身のオリジナリティに取り込んだ作例といえるのかもしれない。

 彝は西洋絵画に憧れ、その技術、画風を学び、自らの画風に取り込むことに生涯をかけた画家だったといえるかもしれない。もともと旧水戸藩士の家に生まれ、軍人になることを志し、陸軍の幼年学校に進学する。しかし結核に罹患し軍人の道を閉ざされ、画家の道に進むことになる。

 その後は白馬会、太平洋画会などに参加しながら、独学で画業を進めていく。彝にとっての絵の習熟は主に高価な洋書の画集だった。彝は陸軍の幼年学校時代にフランス語を習熟していて原書を読めたのだとか。幼年学校に在学していたのは14歳から17歳までの3年間。早熟かつ語学に特別な才能があったのだろうか。

 

 中村彝は画集を通じて西洋絵画のさまざまな思潮に影響を受ける。もっとも影響を受けたのはレンブラントだという。レンブラントの影響を最も強く感じるのはこの自画像である。この絵を彝は生涯手元に置いていたという。

 

《自画像》 1909-10年(明治42-43) 油彩・キャンバス 80.5×61.0cm 
石橋財団アーティゾン美術館

 

 そして次に影響を受けたのはセザンヌのようだ。セザンヌから構図、特に構成美を学んだようである。

 

 《生物》 1911年(明治44) 油彩・キャンバス 43.0×53.3cm 愛知県美術館

 

 陰影のつけ方や色調はレンブラント、構図やモチーフの構成についてはセザンヌ。そして彝が最も影響を受けたのが、《エロシェンコ氏の肖像》などにもあるようにルノワールである。 

 

 中村屋のアトリエに寄宿していたが、モデルを勤めた中村屋の娘淑子との恋愛が破局し、失意のなか彝は伊豆大島に旅立つ。しかしルノワールの実作が太平洋画会展に出品されるという話を聞き、急遽その実作を観るために帰京する。彝は図版などでは伺えないその質感に驚嘆し、「これまで随分無駄をやって居たなァ」と述懐したという。

 

《泉による女》 ルノワール 1914年 油彩・キャンバス 92.5×73.7cm 大原美術館

 この絵は大原美術館の創設者であり実業家にして社会改良家であった大原孫三郎が、当時孫三郎の支援でフランスに留学していた洋画家・満谷国四郎を介してルノワールに購入の意思を伝えた作品で、戦前に日本にもたらされたルノワール作品のなかでは最大の作品だったという。

 彝はこの作品の前に半日も立ち、監視員の眼をぬすんで画面の一部に唾をつけてその色調を確かめようとしたというエピソードも残されている。とんでもない不届き者ではあるが、常軌を逸するほどにルノワールに傾倒していたのかもしれない。

 

 この絵を観る以前から彝はルノワールに傾倒し、ルノワールの描いたような膨くよかで健康的、かつ丸みを帯びた容貌の女性をモデルとした肖像画を多数描いている。中村屋の長女相馬俊子の自画像は9点描いているが、そのうちの8点が今回の企画展に出品されている。膨っくらとして健康的な肢体、丸顔の彼女はルノワールのモデル、アリーヌ・シャリゴやシュザンヌ・ヴァラドンのように彝には思えたのかもしれない。喜々として短期間に多くの自画像を描いたのには、そういう部分もあったのではないかと思ったりもした。

 中村屋裏のアトリエは、中村屋を経営する相馬愛蔵・黒光夫妻の支援のもとで萩原守衛が整備して作られたのだ。萩原の死後は柳敬助が使っていたが、柳が結婚してアトリエを出たことから彝が引き継いで移り住んだ。当時、中村屋には萩原守衛を中心にして彼を慕う戸張孤雁や高村光太郎らが集い中村屋サロンと称されるようになっていた。彝も鶴田吾郎らと萩原を訪れるようになっていた。

 中村屋のアトリエに住んだ彝は、相馬家の家族と親しくするようになり、子どもたちをモデルに作品を描くようになる。とくに結核に蝕まれた彝を親身になって看病した長女の淑子とは親密な関係になり、いつしか恋愛感情へと発展する。当時俊子は15歳、彝は11歳年長である。そして彝は淑子に求婚する。

 相馬夫妻からすれば、新進洋画家として注目されていたとはいえ、自ら支援してアトリエに住まわせた彝の前で、長女が裸体をさらしていることに当惑する。さらに彝の病気や娘の将来を心配した母親の相馬黒光は、結婚に反対して淑子を彝から遠ざける。彝が失意のうちに伊豆大島に転地したのはそういう理由があったとされている。

 

《少女》 1913年(大正2)頃 油彩・キャンバス 53.0×45.5cm 横須賀美術館

 

《婦人像》 1913年(大正2)頃 油彩・キャンバス 80.4×116.7cm メナード美術館

 

 《少女裸像》 1914年(大正3) 油彩・キャンバス 80.2×60.6cm 愛知県美術館

 この絵は東京大正博覧会に出品され、ルノワールを思わせると話題になる。当時、淑子が通っていた女子聖学院の校長が、教え子の裸体が展示されていることに驚いて出品撤回を申し出たとうエピソードも伝えられている。

 

《少女》 1914年(大正3) 油彩・キャンバス 69.5×65.5cm 中村屋所蔵

 こうやって観ていると、彝の肖像画ではなにか手が異様に大きく描かれている。遠近感を強調するためだろうか。こういう人物表現はどこかセザンヌ的なものを思わせる。セザンヌも人物を描くときに、身体の一部分を人体比率からすればあり得ないような長さ、大きさに描くことが少なからずあったように記憶している。《赤いベストの少年》や《カード遊びをする人々》の腕が妙に長いあれである。

 

 それにしても彝の作品の中の相馬俊子は、まったく恥じらいを感じさせることなく、食い入るように画家の眼に迫ってくる。ある種の信頼感とともにこの少女の強い意志の力を感じさせる。

 

 中村屋はその後、右翼の大物頭山満の依頼でイギリスから追われていたインドの革命家ラス・ビハリ・ボースを匿うことになる。ボースは17回も隠れ家を転々と移り住む。このとき隠れ家のボースとの連絡係となり、ボースの世話をしたのが淑子である。

 そして頭山のすすめもあって俊子はボースと結婚することになる。彼女が20歳のときだ。そしてボースは日本に帰化し、二人は一男一女をもうけるが、淑子は26歳のときに肺炎により死去する。

 このボースが中村屋に伝えたのが本格カリーであり、今も中村屋の看板メニューになっているあれである。芸術家を支援し、亡命革命家を匿うという中村屋の戦前の活動はただのパン屋、商店とははっきり違っている。そんな家に生まれ数奇な人生を歩んだ相馬俊子は中村彝の作品の中で永遠に生き続けることになる。

防須俊子

 

 今回の企画展は、中村彝の出身地茨城・水戸の美術館であり、別館として中村彝のアトリエを再現して展示する茨城県近代美術館として、かなり力の入った回顧展だったと思う。展示作品は国内の美術館や個人蔵などを網羅して118点、さらに大原美術館からルノワール作品の貸し出しも受けている。彝の生涯をその作品の変化も含めて系統的に展示してあり、まさに中村彝の画歴を俯瞰できるようになっている。

 今年もこれからいくつもの展覧会を観ることになるとは思うけど、この回顧展はすでに自分的には五指、あるいは三本の指に入るような優れた企画展だったように思えた。

 閉館ぎりぎりまで粘って館を後にした。正月明けの日曜日の閉館ということもあったからだろうか、関係者数名が入り口のドア横で観覧者に挨拶していた。思わずその人たちに声をかけてしまった。

「いい回顧展でした。埼玉から来たのですが、来た甲斐がありました。ありがとうございました」