伊勢神宮についてのメモ

 放送大学で再放送されていた稲賀繁美教授による「日本美術史の近代とその外部」は、全15回をすべて録画してあり時々見ている。近世以降の日本美術を海外からの評価をもとに検証するという建て付けで毎回興味深い。といっても通して見ているわけでもなく、適当に興味のある部分を見て、テキストに当たったりしているだけだが。ちなみにテキストはメルカリで購入した。

 その第9章「海外からの伊勢神宮の眼差し」もかなり面白く、明治以降に来日した外国人の研究者たちが、どのように伊勢神宮を見ていたのか、またそれが日本の美術研究者、建築家にどのような影響を与えたのかをトレースすることができる。

 多くの外国人にとって興味深いのは、伊勢神宮が20年ごとに取り壊しと立て直しを行う式年遷宮だ。それを1000年以上続けている。新築と消滅を繰り返す茅葺の掘立小屋、それが伊勢神宮である。

 西洋において記念建造物(monument)は石造りなど、建造された当時の材質のまま保存され、長い年月経てきたものである。そうした前提からすれば、スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す伊勢神宮の在り方は、歴史的建築物という範疇にいれることに抵抗感がある。

 19世紀末に伊勢神宮を訪れたある英語圏の観光客は、伊勢神宮についてこんな感想を述べたと伝えられている。

ここには彫像も絵画も図像の類もなにもない。

あそこには、何もみるものなどない。それどころか、日本人はそれを見せようとしない。

中身も空虚な聖域であり、空っぽであることを、外国人の目から隠し、あたかもそこが神聖であるかのような幻想を与えようとし、それを自らも信じようとしている。

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 そうした評価を一変させたのは、ドイツの建築家ブルーノ・タウトである。タウトは1933年に伊勢神宮外宮を訪れ、その質素な納屋様式に驚嘆した。

伊勢神宮の納屋様式は、まったく古典的であり、これこをが純粋な日本である。材料は常に新しく、またこのうえなく浄潔である。

伊勢神宮は古代のままの詩と形が今なお保存されている。それは古くて新しいばかりではなく、日本の思想、形、趣味など日本的なものの開明する鍵となっている。

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 またブルーノ・タウトモダニスト的見地から、東大寺大仏殿や日光東照宮の豪華絢爛な意匠に虚飾をみて、これを「キッチュ」(※まがいもの)と称した。これに対して伊勢神宮は無駄を排した「モダン」的、機能的な構築の美と高く評価した。

 これに対してさらに稲賀繁美教授は、伊勢神宮ポストモダン的な意味性を付加させる。その理由は「自らに先行する祖型の複製と全面的な引用だけからなる構造物」だから。*3

 稲賀教授はこれをジャン・ボードリヤールの論説を引用し、「伊勢神宮はまさに『オリジナルなきシミュラークル』の具現とし、休みなく自己複製を繰り返す典型とした。

 

 それでは伊勢神宮の本質とはどこにあるのか。稲賀教授はそれを式年遷宮の制度による人為的刷新が、過去の物質的痕跡を抹消するという、西欧世界的な「記念建造物」の全否定にあることとしている。物質性を抹消することにより、「非物質的な連続性」、いわばきわめて抽象的な精神性の連続性と継承にあるということのようだ。

 過去の遺物、記念的建造物を残さないという、物質性の否定により、伊勢神宮の起源なるもの、それは日本的神話、あるいは連綿と続く天皇制の精神性の継承を可能とし続けてきている。でもそれは歴史的にはどこにも存在しない過去、神話的な過去へと続いている。

 過去の遺物を残さない、抹消することで、考古学的な同定などが関与することを許さないことによる神話性の継承。それが伊勢神宮なのかもしれない。

 さらに稲賀教授は伊勢神宮式年遷宮を、遺伝子の二重螺旋になぞらえてみせる。

伊勢神宮は、20年を周期として、新旧両方の建築が隣り合い、あたかもの二重螺旋のDNAが転写による自己複製を追行するのにそっくりな仕組みで、前世代と次世代とが、合わせ鏡のように対面し、遺伝子情報の授受を司っていく。*4

 西欧世界で発展してきた文化遺産保存政策は、物質的な継続性を重視し、過去の遺物、建造物という物質性の保存を第一義にしている。そうした世界遺産の定義が物質性だけでなく、民族や文化の精神性や感性にまで拡大されたのは、1999年に採択された「奈良ドキュメント」によるものだったという。そこには伊勢神宮遷宮の事例が影響しているとされている。

 しかし現時点で、伊勢神宮世界遺産に登録されていない。建造物としての本宮は20年ごとに建造される。物質的にみれば高々築20年の物件なのであるから、当然といえば当然だ。その精神性や感性部分の継承に重きをおいても、それを民族的継承とするには、神道という宗教的な問題も影響するかもしれない。神道は国家宗教でもなく、民族的文化のすべてを体現しているとするのは少々無理がある。

 日本の正史ともいうべき『日本書記』に由来する天皇家の家系も、応神天皇以前はすべて神話的記述であるとするのが、津田左右吉の研究以来の定説とされている。それは中国の『宋書』の記述にある倭の五王の「讃」に比定されるのが応神天皇とされているからだ。いわば中国の正史に記録があるから、それに比定された人物は実在だっただろう程度のことのようでもある。

 そのためそれ以前の歴史に起源をもつ伊勢神宮は、まさに神話に基づくものといえる。そして何らの歴史的遺物も有さず、ある意味なんの歴史的証拠性を残さないまま20年ごとに造替を繰り返すことで、精神性のみを継承し続けている。ブルーノ・タウトはそれを「つねに古くて新しい」と評価したという。

 スクラップ・アンド・ビルドによる精神性の継承。刷新性、進化とは無縁のただただ自己複製だけを続ける20年ごとのアップデート。いやそれをアップデートと呼ぶことができるのかどうか。「非永続の永続」という新陳代謝、いやそれもただただ1000年以上コピーするだけの新陳代謝などありえるのか。

 20年ごとに建て直される茅葺の掘立小屋。そこには目に見えない神性、精神性のみが宿替えを続けている。たぶん最長築20年の歴史的建造物は、将来的にも世界遺産となることはないのかもしれない。

 

 

*1:日本旅行者のためのハンドブック』(バジル・ホール・チェンバレン

*2:『日本 タウトの日記』(ブルーノ・タウト

*3:『日本美術史の近代とその外部』(放送大学テキスト)

*4:『日本美術史の近代とその外部』 稲賀繁美 放送大学テキスト