奈良周遊① 東大寺~春日大社(10月30日)

 奈良観光である。

 奈良には遠い昔の修学旅行で一度、あとは2012年に家族で一度行っているはずと思っていた。でもこの雑記の記録を見るともう少し行ってるようだ。長くこの雑記を続けていると、こういうのが割と簡単に検索できる。ダラダラと続けてきたが、これだけはちょっとしたメリットかもしれない。なにはともあれ継続は力だ。

 だいたい訪れているのは1月だ。おそらく正月旅行を淡路で過ごすことが多かったので、往きに寄るとか帰りに寄るとかそういうことだったのだろう。記録にあるのは最初が2009年のことで多分帰りに寄った。車を止めたのは県庁の駐車場とあるので、おそらく今回も利用した登大路駐車場だと思う。このときは春日大社に初詣をしている。

 次は翌年の2010年だが、このときは駐車場が満杯で観光を断念している。というか当時は県庁駐車場はウィークデイは来庁者用という建て付けで、県庁に用事のある人以外は止めることができなかった。今はというともう観光メインになっているようで、平日一日1500円、休日は2000円になっている。

 その次は2012年で、この時は東大寺の大仏と春日大社に行っているみたいだ。たしか暮に妻の実家に寄ったときに親戚の子がノロウィルスにかかっていたみたいで、中学生だった子どもが罹患した。長野から淡路島に移動してから発症して、ホテルでずっと寝ていた。三が日が終わった直後だったので病院が空いていたので連れて行って診てもらった。すぐに快方に向かったので帰りに奈良に寄って観光した。たぶんそんなことだったのじゃないか。もっとも帰宅してからは、今度は親が寝込んだりもした。

 たまに子どもとその時のことを話すと、淡路で美味しいものが食べれなかったことへの恨みつらみを言い出す。そして淡路の病院の診察券はそれからしばらく意味もなく持っていたそうだ。

 ということで奈良はこれまで4回行ったことになる。最初に行ったのは中学生の修学旅行だったはず。京都、奈良を二泊三日くらいで回ったのではないか。一つ上の代は大阪万博にも行っているので、自分が行ったのは1971年のことになる。54年前のことである。これはもう常套句だけど、本当に遠い目になってしまう。あのときの自分はとても、もうすぐ古希を迎える今などとても想像することもできなかっただろう。そもそも60過ぎまで生きるということなんて思ってもいなかった。まあそういうものでしょう。

 修学旅行のときにどこを回ったのかはほとんど覚えていない。なんとなく東大寺の大仏と法隆寺は行ったような気がする。まあ多分行ったのでしょう。修学旅行の定番周遊コースとしては、東大寺大仏殿、奈良公園春日大社、そしてバスに乗って法隆寺と、そんな風だったのではないかと。

 とりあえず奈良といえば大仏と春日大社、そういうことになる。そして今回も初日はそういう定番コースになった。奈良に着いたのが昼過ぎだから、半日で回れるところは限られている。しかも車いすを押して回るとなると効率の良い周遊なんて端から無理な訳なので。

東大寺大仏殿

 登大路駐車場から歩いて5分くらい。まあ車いすを押してだともう少しかかる。そしてウィークデイながら人が多い。感覚的には4割が外国人観光客、3割が小中高の修学旅行生、残りのうち2割が高齢観光客、1割が若い観光客みたいな感じだろうか。これは京都や箱根、日光もそうだけど、本当に外国人観光客が多い。そして事前に相当な情報を得ているからか、けっこう効率よく回られる。さらにいうと皆さん御朱印帳を持っていて、並んで御朱印をいただいている。なんとなくスタンプがどうのと仰っているのが耳に入る。日本旅行の記念なんでしょうね。

 今回ちょっと驚いたのは鹿の多いこと。自分のこれまでの経験だと、鹿は奈良公園、鹿宛だけみたいな感じだったのだが、街中にもたくさんいるし、普通に鹿優先で道路を通行なさっている。そして東大寺の境内も鹿だらけだ。こんなにいたっけ鹿、みたいな感じがした。

 そして東大寺である。境内には大仏殿だけでなく、戒壇堂や東大寺ミュージアムなどもある。東大寺も国宝的な仏像を多数所有しているのだけど、これは全部パス。とりあえず大仏殿だけである。

 

 

 しかしウィークデイながらとにかく人が多い。ここも外国人観光客と修学旅行の学生さんたちが多数。南大門の金剛力士像はたしか運慶作の国宝だったのだが、車いす利用だと当然迂回することになる。近くに寄って写真を撮るのも断念するくらい人が多い。

今思うと久しぶりなのでちょっと残念だったけど。

 

 大仏殿に行くには普通は中門を左に行ってから入館料を払い、そこから改札を通って東回廊を行く。でも車いすやベビーカー利用者は、西回廊の脇にあるスロープを通っていく。スロープの前にある引手のドアは施錠されていて、インターホンで利用を告げると開錠されるようになっている。

 

 

 

 そして西回廊を進み大仏とご対面となる。そう13年ぶりの御対面である。そしていつ来てもこの大仏、盧舎那仏は壮観である。

 

 そして大仏の両脇にあるのは左が虚空菩薩で、右側が如意輪観音だったか。

 

 そして盧舎那仏の正面鑑賞性。ドドーンと迫力ある。

 

 

 

 

 東大寺大仏についておさらい。一応通信教育の日本美術史でやったんだが、4年も前なんでほとんど忘れている。

 東大人の本尊である盧舎那仏座像は、聖武天皇の発願により752年(天平勝宝4)に完成した。像高14.7mのすべて鋳造された銅造の大仏。現在の頭部は江戸時代、体部のほとんどは室町時代末期に作り替えられている。ただし右胸から腹部、両脚と台座蓮弁の一部に奈良時代の部材が残っている。

 大仏の鋳造は747年に開始され、仏師・国中連公麻呂(くになかののむらじきみまろ)が指揮とろ、大仏を下から順に八段に分けて鋳造し、完成までに3年を要した。使用した銅は約49,200㎏、錫は約8,500㎏に及んだとされている。さらに大仏像には鍍金が施された。

 752年(天平勝宝4)に盛大に開眼供養が行われたが、実際には大仏殿は完成されていなくて、すべての工事が完了したのは24年後の771年(宝亀2)。なぜ未完成の状態で開眼供養が行われたのかというと、仏教が伝来したとされる552年から200年後にあたるからとされている。

 その後、東大寺は1180年に平重衡による南都焼討ちで大きな被害を受けるが、その翌年から復興計画が進められ、大仏の鋳造も行われる。大仏は平氏がほろんだ直後の1185年に開眼供養が行われている。

 さらに戦国時代の1567年(永禄10)に三好・松永の戦火により、東大寺は大仏殿に大きな被害があり、大仏は頭部が焼け落ちる大損傷を被るが、翌年再建が開始され仮の頭部が製作され、大仏殿も仮堂が建てられる。しかし1610年に台風で仮堂が倒壊して、大仏は長く露坐のままとなった。

 1684年(貞享元年)に公慶(ごうけい)上人が幕府から許可を得て、各地を勧進して回り大仏の復興を進め、大仏の頭部や台坐など新たに鋳造して、1692年(元禄5)に開眼供養を行った。現在我々が目にする大仏はこのときのものである。

 さらに公慶上人は勧進を続け、大仏殿の再建に取りかかり、1705年(宝永2)に棟上げが行われ、落慶したのは1709年(宝永6年)となっている。これ以後世界最大級の木造建造物として明治時代を迎えたが、損傷が激しいため1906年(明治39)に解体修理が行われ1912年(明治45)に完成。その後も雨漏りなどもみられたため、1973年(昭和48)に大修理が行われている。

 ということで大仏自体は江戸時代に鋳造されたもの、大仏殿は実質的には明治時代に再建されたものということになる。といっても世界的にみても歴史的記念建造物のほとんど、修復、改修が行われているのであり、建てられたときのままで保存されているものなどないのだから、まあこれはそういうものと考えるのが普通かもしれない。

 

 そして定番の御朱印もいただく。

 

  最後に鏡池から大仏殿の写真など。もう秋なのである。

 

 

 

春日大社

 東大寺からは徒歩で25分くらい。途中で鹿宛を通るので鹿と親しむコースでもある。とはいえずっとなだらかな斜面が続くので、けっこう難儀するところではある。間隔的にはたぶん30分と少しかかっただろうか。

 最後の本社のとこに行くには石段が二か所にある。そこだけは車いすを降りて妻の手を引いて上る。それから一度戻って車いすを抱えて上る。まあこの手の手間は寺社仏閣見物の定番作業。

 

 

 春日大社も、子どもの頃の修学旅行をあわせて3度目か4度目になる。ここ10数年でいうと、たいてい正月に行っていたのでその時に比べると人は少ない。外国人観光客は多いけど、心持ち修学旅行生が見当たらない。午後の時間帯だったからだろうか。

 春日大社藤原氏の氏社で、たしか興福寺が氏寺。神仏習合だか本地垂迹だかで、神道と仏教が合体するという便利な仏教受容。たしか日本的神々は仏の仮の姿とかそういう解釈だっただろうか。ついでにいえば天照大神大日如来の化身とみなされていたとかなんとか。そうした神仏習合により、平安時代春日大社興福寺藤原氏の興隆とともに大いに栄えたという。まあ宗教は世俗的権力と結びつくことで発展してきたということで。

 そういう堅苦しい話は置いといて、とりあえず奈良といえば大仏さんと春日大社。なので観光としては外せない。今回の旅行でも天気がいいのはこの日までということで、大仏と春日大社見物に来たというわけ。

 そして今回は春日大社から少し上ったところにある若宮神社にも寄ってみた。