ここを訪れるのは2016年以来なので8年ぶりだ。月日の経つのは早い。
ビュフェは戦後のフランス美術の寵児として40年代から50年代にかけてある種のスター的存在だった。多分、当時的にはピカソに匹敵する、あるいはそれ以上に人気があった画家かもしれない。しかし70年代以降、その評価は急降下して、今ではなんとなく忘れられた存在になりつつある。現代美術的にいうと、例えばフランス絵画というとカシニョール、ブラジリエなどの名前が出てくる。どちらかといえばビュフェはそれ以前の画家という括りになってしまうだろうか。
ビュフェといえば、モノトーンの暗い色調、ひっかき傷のような直線的線描を多用し、やたらと細長い人物像などが想起される。友人と話をしてもたいてい「あの黒い線描の人」みたいな共通認識だ。
ビュフェは1928年生まれで、1943年、15歳でパリ国立高等芸術学校に入学、1948年にパリで権威のあるプリ・ド・ラ・クリティック<批評家賞>を受賞。若干20歳にしてスター画家となり、フランスだけでなく、世界各国で毎年のように個展が開かれるようになり、50年代にはフランスを代表する現代アーティストとなった。
静岡県長泉町にあるこのベルナール・ビュフェ美術館は、スルガ銀行の頭取であった岡野喜一郎のコレクション110点から出発し、1973年にビュフェの作品を収蔵・展示する美術館として設立され、現在は収蔵作品は油彩、水彩、デッサン等合わせて500点、ドライポイント、リトグラフ、ポスター、挿絵本などを加えると2000点以上と、世界一の規模を誇るものとなっている。
コレクター岡野喜一郎はどのようにしてビュフェの虜となったのか。彼のエッセイを引用する。
顧みればビュフェとの出会いは、かれこれ40年を遡る昔のこととなった。その最初の出会いは、戦後初めて彼の作品展が上野の旧都美術館で催されたときである。
数年にわたる戦争から復員したばかりの私は、感動して彼の絵の前に呆然と立ち尽くしたことを思い出す。
研ぎすまされた独特のフォルムと線描、白と黒と灰色を基調とした沈潜した色。その仮借なさ。匕首の鋭さ。悲哀の深さ。乾いた虚無。錆びた沈黙と詩情。そこに私は荒廃したフランスの戦後社会に対する告発と挑戦を感じた。当時のわれわれ青年を掩っていた敗戦による虚無感と無気力さの中に、一筋の光の光芒を与えてくれたのが彼の絵であった。国土を何回も戦場にし、占領され、同胞相殺伐し合ったフランス。その第二次世界大戦の激しい惨禍の中から、このような感受性と表現力をもった年若き鬼才が生まれでたことに畏怖の念を抱いた。その表現力はまさしく、私の心の鬱々としたものに燭光を与えたのである。以来、私はビュフェの虜となった。無宗教の私に、ひとつの光明と進路を与えてくれたのが、ほかならぬ彼のタブローそのものだった。これが私のビュフェへの傾倒の始まりである。
<中略>
彼は若干20歳でフランスで最も権威ある批評家賞を受賞し、パリ画壇に颯爽と登場したのは、何よりもその特異な線の示す独創性によってであった。オリジナリティーこそ美術の世界における第一才能であると私は思う。彼の1940年代の作品は、あの悲哀と絶望に満ちた線は彼そのものである。古代ギリシャやローマ、ルネサンスの時代にも全く表れなかった「絶望のオリジナリティー」とでも呼ぶべき独自のものである。そこにビュフェの生命があり、高い評価があり、現代との調和がある。
もうひとつ注目すべきことは、彼の線が構成する画面には思想があることである。マティスの装飾性、シャガールの夢想性などには時代の思想というものはない。それらは彼らの技術的昇華の結果であって、そこに時代の証人と言えるような哲学的な発想はないようだ。
——「ビュフェと私」、1978年 『ビュフェ美術館鑑賞ガイド』P12-13
まさにビュフェのコレクター第一人者の解題とでもいえるか。ビュフェの芸術性とその背景について見事に要約している。しいていえば、ビュフェの絵画は時代の雰囲気、時代の思想といった、まさに彼が生きた第二次世界大戦前後という時代に大きく影響を受けている。ビュフェは戦中・戦後派の青年だったのである。そしてもはや戦後ではない状況が現出するとともに、時代の象徴的存在であった彼の芸術性や作品は急速に色褪せていったと、そんなことがいえるかもしれない。
マティスの装飾性やシャガールの夢想性には、時代とは切り離されたまさに技術的昇華としての美の普遍性がある。でもビュフェの作品はどうだったか。鬱屈としたモノトーンの色調と、不吉な黒い直線的描線、そしてやけに細長く引き伸ばされ人体は、現代的には戦後の不安を現したものではあっても、人間が根源的に感じる不安の普遍性はあったのかどうか。
個人的にはビュフェはあの鬱々とした若者(おおむねが自身の自画像)であってもどこか老成した顔立ちをした引き伸ばされた人体は、まさに戦後のニヒリズムを象徴するような気もする。でも一方で同じように引き伸ばされて細長い針金のようなオブフェと多数創り上げたジャコメティに比べると、どこか皮相なものを感じてしまう。岡野の言葉を借りれば、時代の思想性は感じられるにしろ、根源的な思想性に辿り着いていないような印象。もっとも20かそこらの早熟した天才にそこまで求めても詮無いことかもしれない。
ビュフェの絵では静物や風景画が好きだ。特にアメリカ旅行した際に描いたマンハッタンのビル街やベネチアの大運河や大聖堂などの直線的な線描が気にっている。どこかよりソリッドにしたユトリロを想起させつつも、ユトリロが必ずそこにやや憎しみを込めて尻のでかい女性を描きそえたのとは異なり、ビュフェの風景画には徹底して人間が不在だ。彼の根底には徹底した人間不信があったのかもしれない。
ビュフェの時代の寵児を同時代的にちょっと考えてみる。彼の同時代人はだれか。
ビュフェ 1928-1999
アラン・ルネ 1922-2014
ゴダール 1930-2022
トリフォー 1932-1984
ルイ・マル 1932-1995
ジャック・ドゥミ 1931-1990
カシニョール 1935-
ブラジリエ 1929-
サガン 1935-2004
ジャン=ポール・ベルモンド 1933-2021
ジャン=ルイ・トランティニャン 1930-2022
アヌーク・エーメ 1932-2024
ブリジッド・バルドー 1934-
ビュフェは、ほぼほぼヌーベルヴァーグの映像作家たちと同世代である。しかし彼らの台頭は1950年代だとすると、ビュフェは先行して時代の寵児となった。戦後の若い才能の台頭というのが、なんとなくわかるような気もしてくる。おそらく10代のゴダールやトリフォーは、20歳で時代のスターとなった画家ビュフェの成功に、自分たちもいつかと思ったのではないか。
ビュフェは80年代に入るとカリカチュア化された人物画を描き、それは批判されたりもした。しかし時代の雰囲気にあったポップ化、イラスト的な要素と、彼のオリジナリティある直線的な線描はきちんとマッチしている。時代の変化にあってスタイル、様式を変えつつも、ベースとなるオリジナリティは確保されている。
ビュフェは最晩年にパーキンソン病に侵され絵筆もとることができなくなり、1999年に自死したと伝えられている。
今回、8年ぶりにビュフェ美術館を訪れて、改めて自分はビュフェが好きなんだということを再認識した。戦後の不安、それは直接的には冷戦の中で常に核戦争の恐怖に怯える現代人の深層なのかもしれない。そして21世紀の今も実は解消されていない。現代人はただただ享楽的にそれを忘れ去るように、マスメディアや権力構造によって仕向けられているだけなのではないか。
ビュフェの絵のもつ鬱々とした不安は時代の精神であったが、それはけっして過去の終わったコンテンツではないのかもしれない。
ビュフェ美術館は落ち着いた雰囲気で、ゆったりと作品を観て回ることができる場所。多分、これからも自分は何度も訪れるだろうと思う。そして多くの方に観ていただきたい秀逸な美術館だと思っている。