「モネ 連作の情景」展 (12月14日)

 

「モネ 連作の情景」展を観て

 来場者が20万人を超えたという上野の森美術館で開催されている「モネ 連作の情景」展を観てきた。人気とはいえウィークデイなのでそれなりの混雑かなと思っていたのだけど、いやいやめちゃ混みでした。平日料金2800円、土日は3000円という入場料なのに。いや~、モネってやっぱりすごい人気なのですね。モネだけの作品による大回顧展、展示リストや図録によると作品総数は75点。とはいえよくよくリストを観てみると、ちょこちょこ抜けていてぜんぶで63点。

 開催は上野の森美術館と大阪中ノ島美術館の二か所。上野が2023年10/20~2024年1月28日、大阪が2024年2月10日~5月6日までという、けっこうロングランでもある。多分東京で見ることができない12点は大阪でということになるのでしょう。

 しかしウィークデイでもこの混雑は、最近だとトーハクの「やまと絵」に匹敵するかもしれない。さらにいえば画家単体でいえば、もはや若冲かモネみたいな感じなのだろうかなどと思ったり。さらに意地悪くいえば、モネだったら至近にある西洋美術館に行けば常時5~6点は観れるのになどと思わないわけでもない。まあいいか。

 

 会場内は本当に混んでいて各作品の前は長蛇の列。キャプションをじっくり見方々、さらに音声ガイドの印がついている作品の前での渋滞はなかなかなもの。自分はというと、途中から列に並ぶのやめて空いてそうなところに転々とし、あとは鑑賞者の列の後ろから観たりした。

 ただし妻は車いすなのでもうひたすら列に並ぶしかない。基本的に美術館では妻とは別行動とって妻は自走する。お互い自分のペースで観るというのでずっときている。ただし混んでいる展覧会だと妻はなかなか進まない。車いすの関係でとにかく一番前で観るしかないので。上野の森美術館は1階、2階が展示室になっているので、自分は1階をひととおり観てから妻のところに戻って、今度は妻の車いすを押しながらということにした。

 そして二階への移動だが、上野の森美術館には鑑賞者用のエレベーターがない。二階に上がる場合には監視員に言って、バックヤードに案内してもらい、作品や資材の搬入搬出用のエレベーターで上がる。こういう美術館は何度か経験しているし、上野の森美術館も初めてではない。記憶にあるのでは府中市美術館もエレベーターは作品搬入搬出を兼用している。

モネの連作について

 今回のモネ大回顧展のコンセプトはモネの連作にスポットをあてている。同じ主題、モチーフを異なる角度や視点から、異なる時間、異なる季節を通して何度も描く「連作」の効果を、モネが「連作」というアイデアを生み出すに至った経緯に主眼を置いた、日本で初めての展覧会というの売りらしい。

 モネの「連作」というと、一般的には<積みわら>、<ポプラ並木>、<ルーアン大聖堂>、<睡蓮>、<セーヌ川の朝>などが有名で、さらに<エトルタの断崖>などがある。「連作」に主眼を置いてということなので、どんな作品があるかと思ったのだが、例えば<積みわら>は3点のみ。それも自分には割とおなじみのポーラ美術館と大原美術館の2点とスコットランド・ナショナル・ギャラリーの《積みわら、雪の効果》だけである。図録にはこれもおなじみの埼玉県立近代美術館所蔵の《ジヴェルニーの積みわら、夕日》が掲載されているので、これは多分大阪会場での展示ということか。<睡蓮>は4点あるが、国内でも有名なポーラ美術館のものもない。アーティゾンの《睡蓮》は図録に掲載があるので大阪会場のみの展示のようだ。

 その他はというと<ルーアン大聖堂>は1点もない。モネがロンドンに旅行したときの連作では<チャリング・クロス橋>が1点、<ウォータールー橋>は3点。他に<エトルタ>は2点だった。

 そういう意味では「連作」に焦点をあてたというのはちょっと言い過ぎじゃないかなどと少しだけ思った。いや、期待値が大き過ぎて。とはいえモネ、こんな作品描いていたんだとか、こういうモティーフ、こんな構図、など新しい発見もたくさんある。さらにいえば基本印象派好き、モネ好きなので、これだけの作品を観ることができるのは眼福至極という感じで、展覧会としては大満足のものでした。

気になった作品

《昼食》

《昼食》 1868-69 油彩・カンヴァス 231.5×151.5cm 
シュテーデル美術館(フランクフルト)

 「連作」がテーマの企画展だけど、ある意味この作品が目玉のよう。印象派以前のモネの大作で渾身の自信作だったが、1870年のサロンに落選してしまう作品。この落選によりモネは新しい表現ー印象主義に向かうことになった転回点となった作品なのだとか。美術史のイフ的にいうと、もしもこの作品がサロンに入選して、モネが売れっ子作家となっていたら、印象派は違っていたものになっていたか。いや多分、遅かれ早かれモネは光に移ろう瞬間をキャンバスに閉じ込めるような表現に向かったのではないかと思ったりもする。

 この作品は中産階級の家庭生活の一コマを切り抜いたような作品で、ジャンル的には風俗画の類。黒の表現などには明らかにマネの影響がありそう。あとこういうテーマは当時、モネが親しくしていたフレデリック・バジールが描いていたような気がする。バジールはモネの画家としての友人だけでなく、経済的にも支援していた。その後、1870年に普仏戦争が起きるとモネは兵役から逃れるためロンドンに向かった。一方、バジールは兵役を志願し戦死する。もしもバジールが生き延びていたら、カイユボットと同じく画家でありながら、他の印象派の画家を支援し続けたのだろう。

《ザーンダムの港》

《ザーンダムの港》 1871年 油彩・カンヴァス 47.5×74.0cm 
ハッソ・プラットナー・コレクション

 普仏戦争によりロンドンに避難したモネは帰国の前にオランダのザーンダムに滞在した。そのとき描いた作品の一つで、すでに印象主義の萌芽がある。前景の大きな杭が協調されるのは浮世絵の近像型構図の影響かもしれない。

《モネのアトリエ舟》

《モネのアトリエ舟》 1874年 油彩・カンヴァス 50.2×65.5cm
クレラー=ミュラー美術館

 アトリエ舟はモネがボートの上に小屋を設置しアトリエとして使ったものだ。モネはこの船に乗り、水上から河岸の景色を描いたのだという。アトリエ舟で思い出したのは、清春芸術村で見たアトリエカーだ。あれはたしか画廊が足腰の弱った梅原龍三郎のために作ったものだったか。

《ヴェトイユ》

《ヴェトイユ》 1880年頃 油彩・カンヴァス 59.7×80.0cm 
グラスゴー・ライフ・ミュージアム

 

 まさに印象主義そのものというような風景画だ。前景には緑の草に補色的に小さな赤い花を模様のように描いている。ちょっと面白いと思ったのは右下のサインも赤い絵の具を使っているところ。

《ヴェトゥイユの教会》

《ヴェトゥイユの教会》 1880年 油彩・カンヴァス 50.5×61.0cm
サウサンプトン美術館 

 1878年、支援者だった百貨店経営者エルネスト・オシュデが破産する。モネの経済状況は厳しくなるなか、セーヌ川沿いの小さな村ヴェトゥイユに転居、モネと妻のカミーユ、そしてオシュデと妻アリス、その子どもたちの奇妙な同居生活が始まる。オシュデはその後事業の再起を図るためパリに戻る。オシュデの妻アリスはモネやモネの病弱の妻カミーユの世話をする。そして1879年カミーユが死去する。

 1880年はモネはサロンに復帰し、少しずつ絵が売れ始め生活にもゆとりが出始める。経済的困窮と妻の死、そういうどん底から少しずつ明るい兆しが見え始めた、そういうモネの心理状態を映すかのような明るい情景でもある。

 1881年にヴェトゥイユを去ったモネは、1901年から翌年にかけて再びヴェトゥイユを訪れてこの教会を15点の連作で描いている。

《ヴェルノンの教会の眺め》

《ヴェルノンの教会の眺め》 1883年 油彩・カンヴァス 64.8×80.0cm
 吉野石膏コレクション(山形美術館寄託)

 美しい印象主義的な風景画。こういう絵を観ていると、モネの画力がシスレーピサロよりはるかに優れていることがなんとなく判る。全体の雰囲気は表現はたしかにシスレーがよく描いていそうな構図ではあるのだけどどこか違う。シスレーピサロには凡庸さを感じてしまう。

 この絵は吉野石膏コレクションである。たしか三菱一号館で開かれた「印象派からその先へ—世界に誇る吉野石膏コレクション」展でこの作品は観ている。

モネの空気遠近法?

《ヴァランジュヴィルの漁師小屋》

《ヴァランジュヴィルの漁師小屋》 1882年 油彩・カンヴァス 58.0×71.5cm
 ボイマンス・ファン。ベーニング美術館(ロッテルダム
《ヴァランジュヴィルの教会とレ・ムーティエの渓谷》

《ヴァランジュヴィルの教会とレ・ムーティエの渓谷》 1882年 油彩・カンヴァス 59.7×81.3cm コロンバス美術館
《ヴェンティミーリアの眺め》

《ヴェンティミーリアの眺め》 1884年 油彩・カンヴァス 65.1×91.7cm
 グラスゴー・ライフ・ミュージアムグラスゴー市議会委託)

 この3点が今回の展覧会で一番気に入った作品かもしれない。いずれも近景、中景、後景という風に画面が三つに分かれている。面白いと思ったのは、近景は筆触分割による印象派的な表現で、日光による鮮やかな景色を演出している。そして中景には筆触分割が用いられていない。さらに後景の空は淡く薄い色彩でかすむように描かれている。これって空気遠近法?と思わせるものがある。

 至近の筆触分割、中景、後景はオーソドックスな自然主義的な風景画の様式に則っているような、そんな感じの絵だ。モネは風景画の革新を目指すうえで最適な解をもとめるために様々な表現、様式をひとつのカンヴァスの中で試みていたのかなどと、ちょっと思いつきっぽく考えたりした。もっともこれは当時にしろ、今にしろ、まあ普通の表現なのかもしれないけれど。

サヴォイ・ホテルのモネ

《チャリング・クロス橋、テムズ川

《チャリング・クロス橋、テムズ川》 1903年 油彩・カンヴァス 73.4×100.3cm
 リヨン美術館 
《ウォータールー橋、曇り》

《ウォータールー橋、曇り》 1900年 油彩・カンヴァス 65.0×100.0cm
 ヒュー・レイン・ギャラリー(ダブリン)

(ロンドン拡大図)

 1890年後半頃までには、モネの連作絵画は好調な売れ行きをみせていて、モネは裕福になっていった。1899年9月、大規模な絵画制作のため、再婚したアリス・オシュデとともにロンドンに旅行し、テムズ川沿いのサヴォイ・ホテルの6階にあるスイート・ホテルに6週間滞在した。今では五つ星ホテルとしてロンドン、いやヨーロッパを代表するサヴォイ・ホテルである。

 ホテルの部屋のバルコニーからモネは、ウォータールー橋やチャリング・クロス橋の景色を数点の絵に描いている。そうした連絡として上記二点が展示されている。図録にはロンドンの拡大図が掲載されていて、サヴォイ・ホテルから見たそれぞれの橋の位置関係がわかるようになっている。まさにホテルのバルコニーからみた橋の景色である。

 しかしあの高級ホテルのスィートに6週間にわたって滞在し、作品制作を行ったというのは、モネが当時まさに売れっ子中の売れっ子画家だったことを証明しているかもしれない。

 サヴォイ・ホテルは興行主だったリチャード・ドイリー・カートによって設計されたイギリス最初の高級ホテルだ。多くのセレブリティが定宿にしたことでも有名、特に当時の大スターたちが利用したり、そこに住んだことでも知られている。

サヴォイ・ホテル - Wikipedia (2023年12月19日)

サヴォイの有名人 | 歴史 | The Savoy (2023年12月19日)

ジヴェルニーのモネ邸

 図録の巻末の関連地図の中にジヴェルニーのモネ邸と庭の見取り図が掲載されていた。我々はモネがキャリアの後半をこの自邸で過ごしたこと、その庭で多数の作品を描いたことは知っている。しかしその庭がどのくらいの規模であるのかなどは知る由もない。この地図によってモネの自邸が思った以上に広大であることなどを知ることができる。

 モネの自邸は今は観光名所にもなっているようだが、この広さだと回るには数時間、あるいは半日くらいは要するかもしれない。川から水をひいて作った睡蓮の池の規模もなかなかなものだ。なにより驚くのは自邸やアトリエから薔薇の小径を通って睡蓮の池に行くには、鉄道の線路を横切るのである。モネの家には鉄道の線路が横切っているというのはちょっとした驚きでもある。

 モネは毎日のように自邸から睡蓮の池まで行き、そこで写生して、帰ってからアトリエで手を加える。場合によっては、日時で移ろう景色を描くために、別のキャンバスを義理の娘ブランシュに持ってこさせ、複数の絵を同時に描くということもあったのだという。こういう地図を見ると、モネの制作の日々がより具体的なものとして想像できるような気がする。