府中市美術館~現代アート体験 (2月8日)

「芸術」から「アート」へ

 20世紀後半頃から、それまでの「美術」、「芸術」という言葉に代わり、「アート」という言葉がマスメディアで用いられるようになってきた。英語やフランス語における「art(アート/アール)」という言葉が、絵画や彫刻といった既存の芸術ジャンルを総体的に示す言葉から、広義での制作行為や創造的行為を含む抽象的な意味合いをもつようになった。それは「アート」という言葉よりも適切には「アートなるもの」といった方が正しいかもしれない。

 そして「アートなるもの」の需要者は、より広い意味での資本主義社会にあっては、消費者として「アートなるもの」を体験的に消費していく、多分そういうことなのかもしれない。

 「アート」してみるとか、美術館で「アート」を体験したとか、それは「アートなるもの」=コンセプチュアルな商品を消費したということになるのかもしれない。

 

 我々が美術館で鑑賞する伝統的な「絵画」や「彫刻」は、それが具象であれ、抽象であれ、これまでの芸術史の延長線上で展開されてきたものである。それとは異なるものとして、20世紀後半以降に生まれたコンセプチュアル性の高い創造物を受容するために、我々はある意味便宜的に「アートなるもの」という言葉を用いて、それを消費していると言い換えてもいいかもしれない。

 

 ニワカ、半可通なまま、芸術作品を受容してきた者は、理解のための多少の努力と、判ったフリをしていくために、必死に受容のための前提条件的なものを事前に、あるいは後付け的に用意していく必要があるのかもしれない。複雑で、もろもろとこんがらがった世の中である。コンプレックス、あるいはソフィスティケートされた社会に過ごすことの生きづらさみたいな部分でもある。

 

 多分、受容者が感じる居心地悪さと同じ文脈で、実は製作者はより困難なものを感じているのかもしれない。具象であれ、抽象であれ、コンセプトであれ、ミニマルであれ、ある意味先駆者によって蹂躙された荒野で、途方に暮れて立ち尽くす。多分そうした地点から新たなものを生み出すなくてはいけないのかもしれないから。

 新しいものが全てにおいて正しい。古きものへの反逆もまた正である。造反有利。20世紀の中庸以降において、そうしたスローガンがいくつも現れた。それはすぐに何かにとって代わられる皮相なものだったかもしれないし、今ではどちらかといえばメインストリームになってしまったものもるかもしれない。

 ただし一つだけいえることは、「新しいもの」を排除しては多分いけないのだろうし、それを受容する、あるいは理解不能だとしてもとりあえずその存在を認知する感受性を持ち続けることが必要かもしれない。

 老境にあって新しいもの、理解不能なものに接するのは辛い。でも排除することだけはしない。とりあえず、いつもとりあえずだけど、いったん保留、判断保留、永遠に保留であり続けるにせよ、スルーする程度のことは必要かもしれない。排除ではなく便宜的にスルーする。

 

 自分は何を言いたいのか。多分、特に言いたいこともないし、思考停止状態をダラダラと述べているだけのような気もする。ようは新しいもの、理解不能なものに接したとまどいをグダグダしているだけのことなのだろう。

 

白井美穂 森の空き地

 府中市美術館で行われている「白井美穂 森の空き地 Miho SHIRAI Clearing in Wood」なる企画展を観てきた。

白井美穂 森の空き地 東京都府中市ホームページ

  

 残念ながら年老いて錆びついた感受性には理解不能な「アート」かもしれない。多分、インスタレーションなのだろう。自分なりに了解可能領域に引き戻せばそういうことだろうか。インスタレーション、いろいろな意味合いが込められるが、まあ一言でいえば「設置・空間展示」みたいな理解になる。

インスタレーション

「設置」という意味。1970年頃から試みられるようになった現代芸術の形式で、屋外屋内を問わず、永続的な存在を前提としない造形作品を設置すること。美術館に通常美術作品と見なされないようなものが設置されたり、あるいは逆に通常作品を展示する空間ではない場所に作品が設置されることで、その場所の意味を変化させるのみならず、その場の時間や環境の中で新たな意味が生じることを目的としている。また展覧会のように一時的な場を前提とするものだけではなく、撤去をせず自然崩壊などの時間的変化そのものを視野に入れる場合もある。従って基本的には写真やヴィデオなどの映像としてのみ残ることになり、それ自体が市場において取引されることはない。(岩波西洋美術用語辞典)

 そして白井美穂の美術館入口に設置してあった作品。

 

 

 

 結局のところ、芸術作品の受容はまあひとことでいえば、それを「面白い」と思えるかどうか、多分にそこに尽きるのかもしれない。

 「考えるより、感じろ」

 ブルース・リーとフォースが教える普遍的なテーゼだ。

 理屈でいえば多分なんとでもなるだろう。空間の連続、延長、想像力的な広がり、あるいは断絶とか。まあニワカなのでこれ以上は何も言わない。面白いか面白くないかでいえば、多分面白い。

 2階の展示作品も概ね面白かった。「不思議な国のアリス」を翻案したようなビデオ作品もチープな作りながら、面白さは伝わった。かって大林宣彦が「HOUSE ハウス」でやってみせたようなチープな作りによる乾いた笑いに通じるような。

 ただし白井美穂を絶賛するかといえば、これもまた判断保留。多分、記憶にとどめるけど、容量の少ない老人の脳的ストレージには限界がある。どこかでまた作品を観たときに、これってどこかで観たなと思える程度かもしれない。

 そして繰り返しとなるけど、理解し得ないことを理由として拒絶はしない。どちらかといえば作品が理解を求めていないような気もしているので、とりあえず判断保留。

 

髙田安規子・政子

 

第88回公開制作 髙田安規子・政子 東京都府中市ホームページ

 

 公開制作としてガラス張りのスタジオの中でアーティストがなにかを作っていた。囚人もとい衆人環視の中で制作を行う。芸術家=アーティストも大変だ。

 高田安規子・政子・・・・・・、何か聞き覚えがある。どこかで聞いた、観た覚えがある。

 ポーラ美術館だっただろうか。

ポーラ美術館「部屋のみる夢」 (3月30日) - トムジィの日常雑記

 そのときのインスタレーション作品に独特の静謐感を感じて、けっこう印象的に覚えていた。そして偶然に作者のこうしたパフォーマンスに遭遇する。結局、美術館で作品に接するというのはこういうことなんだろうなと思ったりもする。

 なにやら芸術的な空間を構成し、その中の作品の一部をパフォーマンスしているような双子のアーティストさん。いったいどんな作品が創られていくのかどうか。多分、この公開制作は、その制作の過程、アーティスト自体が作品の一部を構成することになるのだろうか。興味深いものはあったが、閉館間際だったのであくまでチラ見的な感じだった。

 しかしこういう公開スタジオみたいなものって、観る者はどこか覗き見的な部分があり、ちょっとした罪悪感のようなものを思ったりもする。それもまたある種の計算された趣向なのかもしれないと思ったりもしたけど。